五人組といえば、江戸幕府がつくった制度だと思われがちだが、その源流をさかのぼると、遠く中国の古代にまで行き着くという。福田村に伝わる五人組帳の解説部分から、制度の遠い起源と、福田村ならではの組の編成をたどる。
- 五人組の源流は、中国古代の「五保」制度と、大化改新(645年)にさかのぼるとされる。
- 戦国時代の混乱を経て、秀吉の時代に「五人組十人組」として整備された。
- 福田村の五人組帳は、天和4年(1684年)43ヶ条、宝永3年(1706年)34ヶ条、宝永5年(1708年)17ヶ条、延享2年(1745年)30ヶ条と、時代によって条文の数が変化している。
- 福田村の五人組は、六軒組4組・五軒組24組・四軒組1組の合計29組、家数148軒で構成されていた(宝永5年当時)。
- 五人組帳は庄屋によって、福田村では正月と2月の年2回、村人へ読み聞かせられることが多かった。
公式情報の整理
- 資料名
- 「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」内「五人組の組織について」「福田村五人組帳」
- 編集・発行
- 寺田勝彦(福田町)、印刷 亀泉崖堂印刷社
- 発行日
- 昭和62年(1987年)12月20日印刷・同月25日発行
- 福田村の五人組帳の変遷
- 天和4年(1684年)43ヶ条/宝永3年(1706年)34ヶ条/宝永5年(1708年)17ヶ条/延享2年(1745年)30ヶ条
五保の制度 ── 中国から日本へ
五人組の組織について、編者は「五保」という中国古代の制度から解説を始めている。五保とは「五軒が相保つ」の意味で、良きにつけ悪しきにつけ五軒に共同責任を負わせた行政上の最少単位であったという。里・郷・国という行政区分の中に「里」を置き、里は五十戸を単位として「五保」の各項目の規定に大変似ており、参考に次に記す「日本書紀」の中にも次の様な義務があったと考えられている。五人組の犯罪については、組合員は互いに検察しあって違反のない様にさせる義務、五人組内に強盗や殺人などが入り、人を殺すおそれがあった場合には、組合員はこれを助ける義務があった、などの規定が定められていたという。
この五保の制度は、日本では大化改新(645年)の際、中国にならって取り入れられた行政の末端組織のひとつであったとされる。編者によれば、この制度がその後の日本で切れ目なく続いたわけではなく、いったんは廃れた時期もあったとみられている。
秀吉の五人組十人組
五人組十人組は、戦国時代の混乱を経て、秀吉の時代にあらためて整えられたと編者は述べている。入れ替わる支配者の搾取に耐え、戦火を逃れて生き抜いてきた農民達の知恵として、互いに助け合い監視し合う組織が求められた時代背景があったとみられる。この時代の五人組が、後の江戸幕府による五人組制度に大きな影響を与えたと考えられているが、当時どの程度の効果をあげたのかについては、はっきりとした記録が乏しいと編者は記している。
福田村五人組帳の条文数の変遷
福田村に伝わる五人組帳は、時代によって条文の数を変えながら受け継がれてきた。天和4年(1684年)の五人組帳は43ヶ条、宝永3年(1706年)には34ヶ条、宝永5年(1708年)には17ヶ条、延享2年(1745年)には30ヶ条と、その数は一定ではない。編者は、幕府の法令や藩の定めのもとに営まれていた村の暮らしが、時代とともに複雑化し、条文の中には不要となるものが生じたり、当時の農民生活の禁令や制限の内容が時代が進むにつれて変化し、その村に合った内容に従って、その村その村に合った条文が加除されていったためと考えている。
五人組帳の前書きは、当時の幕府が農民に対し布告した法令や掟を集めたものであり、その条文の中心が何であったかを知る手がかりになる。村の立地や生業によっても条文の重点は異なり、山手の村なら助郷のこと、街道沿いの村なら木材の扱いのことなど、その村の事情に合った条文が加えられていったと編者は述べている。
| 組合の種類 | 組数 | 家数 |
|---|---|---|
| 六軒の組合 | 4組 | 24軒 |
| 五軒の組合 | 24組 | 120軒 |
| 四軒の組合 | 1組 | 4軒 |
| 合計 | 29組 | 148軒 |
五軒を基本としながら、四軒や六軒の組合もあったのは、家が断絶したり他村へ移ったりして人数が減ったり、逆に分家が増えたりしたことによるものと考えられている。組合は近くの家の並びに従って編成するのが基本であったが、実際には仲のよい者や親類縁者どうしで組み合わされる例もあり、本家と分家が同じ組に入っている場合も見られたと編者は指摘している。
年2回の読み聞かせ
五人組帳の作成が義務付けられたのは、承応4年(1655年)からとされる。前書き・後書きにあたる部分は、農民に法令や掟を徹底させるため、庄屋によって繰り返し読み聞かせられた。村によっては正月・五月・九月・十一月の年4回にわたって読み聞かせが行われた例もあったというが、福田村の五人組帳の日付を見る限り、正月と2月の年2回、読み聞かせが行われることが多かったようである。福田村の五人組寄合は、庄屋宅か寺の境内で開かれたと考えられている。
五保、五人組十人組、そして福田村の六軒組・五軒組。千年以上の時をこえて受け継がれてきた「互いに支え合い、監視し合う」という発想が、江戸時代の福田村にも確かに息づいていた。
参考資料
- 寺田勝彦編「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」(昭和62年/1987年12月25日発行、亀泉崖堂印刷社)
五保制度・秀吉の五人組十人組に関する記述は編者による解説にもとづく。判読の難しい古文書由来の部分は要旨にとどめている。