福田町の家々の名字をさかのぼると、江戸幕府が開かれる直前、慶長9年(1604年)の検地帳にたどりつく。徳川家康は伊奈備前守忠次に命じて全国的な検地を進めさせたが、福田村の検地帳もこの時期に作成されたと考えられている。現在に伝わる検地帳は、本田分四冊・新田分一冊の計五冊のうち一冊が江戸時代のある時期に紛失し、複製によって補われているものの、当時の田畑の広さと名請人の名を、今日まで伝えている。
- 慶長9年(1604年)の福田村検地帳は、本田分四冊・新田分一冊の計五冊からなり、総面積は五町九反七畝七歩。
- 検地帳に記された名請人の名は、太郎馬・太郎右衛門・四郎右衛門など50を超え、現在の福田の家々と対照が試みられている。
- 福田村の中心部には「福田の二十五苗」と呼ばれる旧家28軒が、ほぼ東から西へと軒を連ねていたと伝わる。
- 現在の家並みは、旧福田小学校・幼稚園周辺にあった当時の家々の位置から、道の付け替えにともなって少しずつ移動してきたと考えられている。
公式情報の整理
- 資料名
- 「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」内「参考資料」
- 編集・発行
- 寺田勝彦(福田町)、印刷 亀泉崖堂印刷社
- 発行日
- 昭和62年(1987年)12月20日印刷・同月25日発行
- 検地年
- 慶長9年(1604年)、徳川家康が伊奈備前守忠次に命じて実施
- 検地帳の構成
- 本田分四冊・新田分一冊の計五冊(うち一冊は複製で補われている)
慶長9年、家康の検地
慶長9年(1604年)は、徳川家康が江戸に幕府を開いてまだ日の浅い時期にあたる。全国の土地を把握するための検地が各地で進められ、福田村もその対象となった。編者によれば、検地帳を受けた福田町の検地の総面積は五町九反七畝七歩で、これは福田町の慶長9年の検地地区での総面積とされる。この面積が「相当早い時期に紛失してしまったもの」とされる本田分の一冊「巻の四」を除いた数字であることから、実際の福田村の検地地区はもう少し広かったと推測されている。
検地帳の原本は徳川家康が伊奈備前守忠次に命じて行わせたものとされ、福田村の土地所有者にとっては、自分の田畑の広さと年貢負担の根拠となる、きわめて重要な文書であった。江戸時代を通じて、この検地帳を元に集計・訂正された記録が複製・保管されてきたことが、今日まで名請人の名を伝える結果となっている。
名請人から今日の家々へ
検地帳に記された名請人の名は、太郎馬・太郎右衛門・四郎右衛門・五郎兵衛・又七郎・彦七郎・四郎馬・作ノ七・彦市・彦八郎・六郎作・作五郎・彦太郎・太郎兵衛・彦五郎・八郎二郎・孫市・孫七郎・甚左衛門・彦右衛門・彦九郎・与七郎・二郎左衛門・七郎左衛門・五郎太郎・甚七・助右衛門など、50名を超える。編者はこれらの名請人と、今日の福田町に住む家々との対照を地道に試み、次のような系譜をたどっている。
| 慶長9年検地帳の名 | 現在の家 |
|---|---|
| 太郎馬 | 寺田節雄 |
| 太郎右衛門 | 寺田正一 |
| 四郎右衛門 | 寺田均之 |
| 五郎兵衛 | 渡辺錠太郎 |
| 又七郎 | 落合秀夫 |
| 彦七郎 | 寺田善作 |
| 四郎馬 | 寺田憲司 |
| 作ノ七 | 大石包福 |
| 彦市 | 鈴木健司 |
| 彦八郎 | 寺田四郎 |
| 六郎作 | 百鬼淳一 |
| 作五郎 | 寺田みさ子 |
| 彦太郎 | 眞田康成 |
| 太郎兵衛 | 大庭一重 |
| 彦五郎 | 寺田輝彦 |
| 八郎二郎 | 大沢太吉 |
| 孫市・孫七郎 | 杉浦嘉苗 |
| 甚左衛門 | (山中和行) |
| 彦右衛門 | 百鬼邦武 |
| 彦九郎 | 寺田義雄 |
| 与七郎 | 鵜野眞市 |
| 二郎左衛門 | 山下幸一 |
| 七郎左衛門 | 寺田善一 |
| 五郎太郎 | 寺田初雄 |
| 甚七 | 山下京一 |
| 助右衛門 | 寺田昭男 |
| 彦作・形部五郎・三郎四郎・弥左衛門・九郎右衛門ほか | 白井英次 |
| 与左衛門・助二郎・孫太夫 | 落合綾太郎 |
| 金五郎・善五郎・甚右衛門・又助 | 百鬼悦郎 |
寺田姓が名請人の系譜のなかで際立って多いことは、福田町における寺田一族の広がりを物語っている。編者自身も「福田の郷土史探訪」第一集で「福田の寺田一族」を単独のテーマとして取り上げており、この検地帳の対照作業とも重なり合う調査であったと考えられる。落合・大庭・百鬼・杉浦・大沢・山下・鵜野・眞田・白井といった名字も、いずれも今日の福田町に実在する家々である。
「福田の二十五苗」と家並み
福田村の中心部には、「福田の二十五苗」と呼ばれる旧家28軒が、慶長9年の検地帳に土地台帳として記され、ほぼ東から西へと軒を連ねて並んでいたと伝わる。編者は、現在の本通りに沿って並ぶ家々の位置図を作成し、白井家・寺田家・渡辺家・眞田家・鵜野家・大石家・山下家・大沢家・百鬼家・山中家・三ッ谷家・杉浦家・鈴木家など、今日の福田町に実在する家々が、旧二十五苗の並びをほぼ受け継ぐ形で、通りの東から西へと連なっている様子を再現している。
現在住んでいる場所が、慶長9年に検地を受けた場所と明らかに移動しているお宅も少なくない、と編者は注意を促している。旧福田小学校・幼稚園の周辺や、寺田書店本宅の付近には、検地帳に記された当時の屋敷地の名残があったと伝えられ、道の付け替えにともなって、二十五苗の家々の位置も少しずつ移動してきたと考えられている。
太郎馬、太郎右衛門、彦七郎――400年前、検地帳に記された一つの名前が、今日の一つの家につながっている。福田町の家々は、慶長の昔から、この土地に根を張り続けてきた。
参考資料
- 寺田勝彦編「福田の郷土史探訪」別冊第五集「遠江国福田村五人組帳」(昭和62年/1987年12月25日発行、亀泉崖堂印刷社)
名請人と現在の家との対照は、編者による調査にもとづく。判読・比定が難しい箇所については、編者も断りを入れている。