失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語御厨地区 / 田原の地震と戦争の記憶
御厨・田原の史話 | 災害・戦時の記憶

田原の地震と戦争の記憶 ──
東南海地震・艦砲射撃・機銃掃射

地域の災害史や戦争史は、被害の数字だけでは伝わらない。教室で揺れを感じたこと、校舎が軋む音、空襲警報、海の方から聞こえる砲声、低く飛ぶ機体。『田原の史話』に残された回想は、子どもの身体に刻まれた記憶として、その時代を今に伝えている。

災害と戦争が重なった時代

昭和19年(1944年)から20年にかけての時期は、この地方に暮らす人々にとって、二重の困難が重なった時代だった。一つは戦争である。物資は乏しくなり、働き手は戦地へ送られ、やがて空からの攻撃が日常を脅かすようになる。もう一つが、自然災害である。昭和19年12月には東南海地震が起こり、さらに翌年には三河地震も発生した。戦時下という異常な状況のなかで、大地までもが揺れたのである。

この二つは、当時の人々にとって、別々の出来事ではなかった。同じ数か月のあいだに、次々と身に迫ってきた恐ろしさとして、まとめて記憶されている。『田原の史話』が「地震の思い出」「地震と艦砲射撃」「機銃掃射」という表題を続けて並べているのも、そのあらわれだろう。ここでは、田原小学校に通っていた子どもたちの回想を通して、この地区が経験した災害と戦争を、地域の側から読み直してみたい。

東南海地震を学校で経験する。 昭和19年12月7日に発生した東南海地震は、静岡県西部にも大きな被害をもたらした。『田原の史話』の回想では、田原小学校にいた児童が、授業中に大きな揺れを経験した様子が記されている。校舎、教室、運動場、避難という具体的な場面を通じて、地震が学校生活の真ん中に割り込んだことがわかる。

子どもにとって、学校は安心して過ごせる場所である。その安心な場所が、突然に激しく揺れる ── その衝撃の大きさは、想像に難くない。回想が、教室や運動場といった具体的な場所とともに語られているのは、その体験が、場所の記憶と分かちがたく結びついているからだろう。何十年たっても、あの日の教室の様子がありありとよみがえる。それほど強く、体に刻まれた記憶だったのである。

戦時下の学校で起きた地震は、通常の災害とは異なる重さを持っていた。空襲への備え、物資不足、家族の不安、兵士や軍需工場の存在が日常に入り込むなかで、地震はさらに生活を揺さぶった。子どもたちにとって、自然災害と戦争は別々の出来事ではなく、同じ時期に連続して迫ってくる恐ろしさだった。加えて、戦時下では被害の報道が厳しく制限されたため、この地震の実態が広く知られるようになったのは戦後のことである。地域の回想は、公の記録が乏しいこの災害を知るうえでも、貴重な手がかりとなっている。磐田市域では、東南海地震と戦時下の岩田村にも、同じ地震をめぐる記録が残されている。同じ日に同じ大地の揺れを受けながら、村ごとに少しずつ異なる記憶が語り継がれていること ── そこにも、地域史を丁寧にたどる意味がある。

重なった数か月(昭和19〜20年) 昭和19年12月7日東南海地震 昭和20年艦砲射撃・空襲警報 同年機銃掃射 8月終戦 災害と戦争が、わずかな期間に続けて押し寄せた
図1 重なった数か月。東南海地震から終戦までの短い期間に、災害と戦時下の脅威が続けて田原の暮らしに迫った。

艦砲射撃と機銃掃射の音

田原地区は遠州灘に近く、戦争末期には海と空からの脅威を感じる地域だった。冊子の「地震と艦砲射撃」「機銃掃射」には、遠くから聞こえる砲声、空襲警報、飛行機の接近、身を隠す行動などが語られている。これは、都市部の大空襲とは別の形で、地方の村が戦争に巻き込まれた記録である。

戦争の被害というと、大都市への大規模な空襲が語られることが多い。しかし、海に面した地方の村もまた、別のかたちで戦争の前線に置かれていた。沖合の艦船からの砲撃、低空で飛来する機体 ── 田原のような遠州灘沿岸の集落は、そうした脅威を、遠い戦地の話としてではなく、日々の暮らしのすぐそばに感じながら過ごしていたのである。海に面しているということが、平時には豊かな恵みであり、戦時には逃れがたい危うさとなったのである。田畑に出るにも、学校へ通うにも、空と海の様子をうかがわねばならない。そんな緊張が、暮らしの隅々にまで及んでいた。

また、この一帯には軍需に関わる施設や、戦争に動員された人々の存在もあった。銃後を守る ── 疎開・勤労動員・女性たちの戦時生活で扱ったように、遠州の各地では、工場が軍需生産に切り替えられ、多くの人が動員されていった。田原のような農村もまた、食糧の供出や労働力の提供を通じて、戦争と深く結びつけられていく。前線から遠く離れた土地であっても、戦争は暮らしのすべてに入り込んでいたのである。そうした日々のなかで、砲声や機影は、その現実を最も直接的な形で突きつけるものだった。

機銃掃射の記憶は、とくに身体的である。音が近づく、姿勢を低くする、物陰に入る、空を見上げる。こうした動きは、戦後の年表には残りにくいが、体験者の文章には鮮明に残る。田原の戦時記憶は、遠州灘沿岸の地域がどのように戦争を受け止めたかを考えるうえで、重要な手がかりになる。

海と空に面した村 ── 田原の位置 遠州灘(南) 砂地・田畑 田原の集落・学校 海から(艦砲) 空から(機銃)
図2 海と空に面した村。遠州灘に近い田原は、海からも空からも戦争の脅威を身近に感じる位置にあった。

子どもたちが背負ったもの。 この回想を読んでいて胸を突かれるのは、それを体験したのが、まだ小学生の子どもたちだったという事実である。本来なら、机に向かって学び、友と存分に遊び、季節ごとの行事を楽しんでいるはずの年齢である。その子どもたちが、授業の最中に大地震に遭い、警報が鳴れば身を伏せ、空を仰いで機体の影を探さねばならなかった。戦時下の学校では、勤労奉仕や防空訓練も日常の一部となり、本来あるべき子どもらしい時間は、次第に削り取られていった。学びの場が、身を守る術を教える場に変わっていく ── それが、あの時代の学校の現実だった。

それでも、回想の文章からは、悲惨さを声高に訴える調子はあまり感じられない。淡々と、しかし細部まで正確に、その日の出来事が綴られている。そこには、体験を語り継がねばならないという静かな意志と、同時に、あまりに強烈な記憶をあらためて言葉にすることの難しさとが、行間ににじんでいるように思える。書き手たちは、自らの子ども時代に起きたことを、次の世代へ伝えるべき地域の記録として、慎重に、そして誠実に書きとめようとしたのだろう。

戦後、田原の子どもたちは大人になり、村を支え、次の世代を育てていった。その人たちが、年月を経てから、あえて筆をとって当時のことを書き残した。なぜ書いたのか ── おそらくは、自分たちが体験したことを、このまま忘れ去られるままにしてはいけないという思いがあったからだろう。地域の記録集というものは、そうした一人ひとりの決意によって編まれていく。『田原の史話』もまた、そのようにして生まれた一冊である。

『田原の史話』が残した記憶

項目地域史としての意味
地震の思い出東南海地震を、学校生活の場面から伝える
地震と艦砲射撃自然災害と戦時下の恐怖が同時期に重なったことを示す
機銃掃射地方の村が、空からの攻撃を身近に感じた記憶を残す
確認できること・できないこと
昭和19年12月7日に東南海地震が発生し、静岡県西部にも被害が及んだことは、公的な災害記録で確認できる。一方、本稿が扱う田原地区での具体的な被害の規模や、艦砲射撃・機銃掃射の日時・回数については、『田原の史話』の回想以外に確認できていない。ここでは個々の事実を断定せず、体験として語られた記憶を、そのまま地域の記録として受けとめる立場をとる。

学校の記録が地域の記録になる。 災害と戦争の記録は、行政資料や新聞だけでなく、学校の記憶からも読み取れる。学校は子どもが集まる場所であり、避難や訓練が行われる場所であり、地域の大人たちが情報を共有する場所でもあった。だから学校の回想は、個人の思い出であると同時に、地域全体の記憶でもある。

田原地区の回想を残す意義は、出来事を大きな歴史に吸収してしまわないところにある。東南海地震、艦砲射撃、機銃掃射という大きな言葉の下に、田原小学校の教室、校庭、児童の声がある。その具体性が、地域史を次の世代へ渡す力になる。

語り継ぐということ。 戦争と災害を体験した世代は、年々少なくなっていく。やがて、あの日の揺れを教室で感じた人も、空を見上げて身をすくめた人も、いなくなる日が来る。そのとき残るのは、こうして紙に書きとめられた文章と、それを読み継ぐ人々の営みだけである。『田原の史話』に収められた回想は、まさにその備えとして残された、貴重な証言だといえる。

地震も戦争も、田原では教室と校庭の記憶として残った。地域史は、こうした小さな場所から読み直すことができる。そして、小さな場所から見た歴史だからこそ、それは読む人にとって、遠い出来事ではなく、自分の暮らす土地で実際に起きたこととして迫ってくる。田原の子どもたちが体験したことを知ることは、この土地に生きた人々の時間を、静かに受け取ることでもあるのだ。

磐田物語には、磐田市民39人の戦争体験空襲の記憶など、この地域の戦争の記憶を集めた記事がいくつもある。田原の回想は、そうした証言の集積のなかの一編である。一つ一つは、ある村の、ある学校の、限られた範囲の記憶にすぎない。しかし、それらが積み重なることで、磐田という土地が経験した時代の全体像が、少しずつ形をなしてくる。地域史とは、そうした無数の小さな記憶を、丁寧に集め、つなぎ合わせていく営みにほかならない。『田原の史話』に残された一編一編もまた、その全体像を形づくる、欠かすことのできない大切な一片なのである。

主な参考資料

被害の規模・日時などは回想以外に確認できていない。その旨を本文中に明示している。

あわせて読みたい

← 御厨地区の入口ページへ 関連記事 ── 旧田原小学校の記憶 →

この地域の家・土地・空き家について

古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。