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磐田物語豊田地区 / 社山と古代・中世の山岳信仰・砦の記憶

豊田地区の記憶 第二十四回 | 土地の記憶

社山と古代・中世の山岳信仰・砦の記憶 ── 豊田地区北端の霊峰と戦国乱世の砦跡

豊田地区の北端に聳え、古くから修験道や山岳信仰の対象とされてきた「社山(やしろやま)」。戦国時代には武田信玄と徳川家康が攻防を繰り広げた砦としても使われた、この歴史的な山の重層的な魅力を浮き彫りにします。

豊田地区の北辺、天竜川が山あいから遠州平野へと流れ出る左岸の丘陵地に、ひときわ目立つ独立した高まりとして横たわるのが「社山(やしろやま)」です。標高はおよそ百三十メートル、麓からの比高(ひこう)は九十メートルほどに過ぎませんが、まわりが一面の水田と集落の広がる低平地であるだけに、その姿はことのほか大きく見えます。天竜川の渡河点を間近に見下ろすこの小山は、田畑を潤す「水の山」としての顔と、戦国の世に武田・徳川の両雄が奪い合った「戦さの山」としての顔とを併せ持つ、土地の記憶が幾重にも積み重なった場所です。

本稿の要点

「社のある山」── その名に宿る祈りの記憶

社山(やしろやま)という呼び名は、文字どおり「社(やしろ)のある山」を意味します。低平な遠州平野のなかにぽつんと盛り上がった独立丘は、まわりを見渡せる目印であると同時に、人智を超えた何かが宿ると感じられる場所でもあったのでしょう。現在も、山頂の主郭にあたる一帯には八幡(はちまん)神社が、麓には諏訪(すわ)神社が祀られており、この山が古くから人々の祈りと結びついてきた気配を今に伝えています。山名の由来そのものを記した確かな史料は乏しいものの、「社山」という地名は、ここが単なる地形ではなく、信仰の対象として意識されてきた山であったことを静かに物語っています。

天竜川が山間部の谷を抜けて平野へと躍り出る、まさにその出口にこの山は位置しています。暴れ川と恐れられた天竜川を間近に望むこの地で、人々が水の恵みと水の脅威の双方をもたらす流れに、畏れと祈りの心を向けたであろうことは想像に難くありません。山岳に身を置いて修行する山伏や修験者の足跡を直接に裏づける記録は確かめられませんが、川と山が交わるこの境目の地が、古来より人の心の中で特別な位置を占めてきたことは、社という一字を冠した山の名そのものが何より雄弁に示しているといえます。

比高ひこう

ふもとの平地から山頂までの高さの差をいう。社山は海抜では約百三十メートルだが、周囲が天竜川の沖積平野で標高が低いため、麓からの比高は九十メートルほどになる。平野のただ中に立つ独立丘であることが、見晴らしと防御の両面でこの山の値打ちを高めていた。

武田と徳川が奪い合った「社山城」

社山の頂には、戦国の世に「社山城(やしろやまじょう)」と呼ばれる山城が構えられていました。築城の年代を記した確かな史料は残されていませんが、十五世紀末にはすでにこの城が存在していたと伝えられます。十六世紀の初めには、遠江守護の斯波(しば)氏と、駿河から勢力を伸ばす今川(いまがわ)氏とがこの地で覇を争い、城はやがて今川氏の支配下に置かれました。永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、その勢いが衰えると、遠江は徳川家康の手に移っていきます。

この山が一躍、緊迫した軍事の最前線となったのが、元亀三年(一五七二)でした。甲斐の武田信玄が大軍を率いて遠江へ侵攻すると、天竜川の渡河点を間近に押さえる社山城は、にわかに戦略上の要として浮かび上がります。信玄はこの城を、宿将・馬場美濃守信房(ばば みののかみ のぶふさ)に守らせ、対岸へと続く要衝・二俣(ふたまた)城の攻略を支える足がかりとしたと伝えられます。翌元亀四年(一五七三)に二俣城が武田方の手に落ちると、攻守は目まぐるしく入れ替わり、家康もまたこの社山城を前線基地として改修し、用いたとされています。

山肌に刻まれた戦さの痕

社山城は、磐田市域では数少ない本格的な山城として知られ、その遺構の保存状態は良好です。主郭を中心に、敵の侵入を阻むために尾根を断ち切った堀切(ほりきり)、斜面に縦に掘り下げた竪堀(たてぼり)、そして土を盛り上げた土塁(どるい)や平坦に削り出した曲輪(くるわ)が、今もはっきりと地形に残されています。とりわけ二の丸付近には二重に切られた堀切や土塁がよく残り、武田方による大がかりな改修の跡とみる見方もあります。木々の合間にうねる空堀の底に立つと、この小山をめぐって繰り広げられた攻防の張りつめた気配が、四百年余りを隔てた今もなお肌に伝わってくるようです。

社山城をめぐる主な勢力の移り変わり(伝承を含む)
時期勢力・人物動き
十五世紀末すでに山城が存在したと伝わる
十六世紀初斯波氏・今川氏抗争ののち今川氏の支配下に入る
桶狭間以後徳川氏今川氏の衰退にともない徳川方へ
元亀三年(1572)武田信玄/馬場信房遠州侵攻に際し武田方が城を確保したと伝わる
元亀四年(1573)以降徳川家康前線基地として改修し用いたとされる

山を貫いて水を呼ぶ ── 「社山疏水」という悲願

社山の名は、戦さの記憶だけでなく、水を待ち望んだ村々の苦闘とも分かちがたく結びついています。天竜川左岸の平野は、すぐ脇を大河が流れているにもかかわらず、川面が低く土地が高いために水を引きにくく、日照りのたびに田が干上がる「水なし地」を多く抱えていました。この乾いた大地に水を導こうとする壮大な構想こそ、後に「社山疏水(やしろやまそすい)」と呼ばれる大事業でした。

その発端は、天保のころ(一八三〇年代)に中泉(なかいずみ)の代官所へ赴任した手代・犬塚祐一郎(いぬづか ゆういちろう)が、「山を越えて天竜川の水を引く」という当時としては破天荒な着想を示したことにあったと伝えられます。構想はすぐには実らず、幕末から明治へと時代がうつるなかで有志たちに受け継がれ、明治十六年(一八八三)には足立孫六(あだち まごろく)らによって全区域がとりまとめられ、内務省の許可を得るに至りました。

計画の核心は、天竜川上流の神田(じんでん、現在の磐田市上野部〈かみのべ〉)に水門を築いて取水し、その水を社山の山体に穿った長いトンネルでくぐらせて平野へ落とすという、気の遠くなるような土木の挑戦でした。約一・三キロメートルにおよぶ社山隧道(ずいどう)の工事は、軟弱な地質に阻まれて難航し、明治二十年(一八八七)には出口の高さが数メートル高すぎるという設計上の致命的な誤りまで発覚して、翌年いったん中止に追い込まれます。それでも疏水への悲願は絶えることなく、大正期に再び息を吹き返し、昭和初期の県営磐田用水改良事業によって、ようやく天竜川の水が社山を抜けて平野の田を潤すことになりました。

戦さの世には敵を阻む盾となり、平和の世には水を待つ村々の願いを背に負う——社山は、土地に生きた人々の祈りと労苦を、今もその静かな稜線に刻みつづけています。

古代から続く祈りの気配、武田と徳川が奪い合った城の記憶、そして山を貫いてまで水を呼ぼうとした人々の執念。低平な遠州平野にぽつんと盛り上がったこの小さな山には、土地の歴史が幾重にも折り重なっています。豊田の北の空に静かに横たわる社山は、過ぎ去った時代の記憶を抱きながら、今も変わらずこの地を見守る道標として聳えています。

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主な参考資料

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