失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

見付に残る幻の城 | 子4・対武田戦

磐田が戦場になった時代――一言坂・三ケ野・社山城・匂坂城

城之崎城が背負っていた懸念は、数年後に現実のものとなる。1572年(元亀3年)の武田信玄による遠江侵攻で、磐田市域は徳川軍と武田軍の抗争の舞台となった。一言坂、三ケ野、社山城、匂坂城という地名から、見付に本拠を置くことの危うさを読む。

1572年、武田信玄の遠江侵攻

1572年(元亀3年)、武田信玄は大軍を率いて遠江への侵攻を開始したとされる。磐田周辺は、徳川軍と武田軍の激しい抗争の舞台となった。この時、匂坂氏によって築かれ、掛川と浜松を分断する役割を担っていたとされる匂坂城(さぎさかじょう)や、社山城も、武田軍の攻撃を受けて落城したと伝わる。匂坂城と匂坂氏の詳しい経緯は既存の 匂坂城跡と匂坂氏 に、社山城の砦としての記憶は 社山と古代・中世の山岳信仰・砦の記憶 にそれぞれ整理されているため、本稿ではこの二つの城が武田軍によって落とされたという事実に絞り、対武田戦の一局面として位置づける。

三ケ野坂の物見と、一言坂の殿

三ケ野の大日堂にあるとされる「物見の松」からは、本多忠勝が武田方の先鋒隊を偵察したと伝わり、そこから三ケ野坂での激戦へ発展したとされる。さらに一言坂の戦いでは、敗走する徳川軍の殿(しんがり)を務めた本多平八郎忠勝が活躍し、家康を無事に浜松城まで逃がしたことが広く語られている。一言坂の戦いと本多忠勝の殿の詳しい経緯は、既存の 一言坂の戦いと、本多忠勝の殿 に譲り、本稿では、この退却戦が見付・磐田を舞台に起きた出来事であるという地理的な位置づけに重点を置く。

上万能の提灯野、伝承の中の機転

この退却戦の際、家康は上万能の沼地に無数の提灯を掲げ、深田に橋を架けるなどして武田軍を迎え撃つ機転を見せたと伝わる。のちに村人たちが戦死者を弔ったとされる場所は「旧蹟挑燈野(ちょうちんの)」として碑が残る。これらの逸話は史実として全てを裏づけるのが難しい部分もあるため、本稿では「伝わる」逸話として扱う。

見付に本拠を置くことの危うさを、現実の戦場が示した

武田軍の圧倒的な軍事力を前にして、天竜川を背にした見付での防衛が容易ではなかったことは、こうした対武田戦の実際の展開からも読み取れる。城之崎城が未完に終わった際に懸念された「東からの武田信玄、西の天竜川」という位置関係は、絵空事ではなく、数年後に磐田の各地で実際の戦場として現れたことになる。

見付 城之崎城 一言坂(東) 三ケ野坂 社山城 匂坂城 ※ 見付を中心にした位置関係を理解するための模式図。正確な方位・距離ではない。

見付・一言坂・三ケ野・社山城・匂坂城の位置関係(模式図)

地名対武田戦での位置づけ
一言坂敗走する徳川軍の殿を本多忠勝が務めたと伝わる古戦場。
三ケ野坂物見の松からの偵察を端緒に、激戦に発展したとされる。
社山城浜松・二俣方面の監視拠点であったが、武田軍の攻撃を受けて落城したとされる。
匂坂城掛川と浜松を分断する役割を担ったとされるが、武田軍に攻められ落城したとされる。
上万能家康が提灯を用いて武田軍を迎え撃ったと伝わる逸話の舞台。

参考資料

  • アップロード資料「家康の磐田築城伝説」
  • 磐田市立図書館所蔵資料(磐田の戦国武将物語)
  • 磐田市文化財だより関連資料
  • 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)

合戦の詳細な経過は、伝わる資料によって記述に幅がある。本文は断定を避け、既存の関連ページとあわせて読むことを想定している。

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