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磐田物語豊岡地区 / 社山城跡

豊岡・戦国史 | 磐田市指定史跡

社山城跡 ── 磐田市指定史跡に残る、遠江争奪の山城

磐田原台地の北端、標高136メートルの丘陵に築かれた社山城跡。斯波氏・今川氏の抗争にはじまり、元亀年間には武田信玄・徳川家康による二俣城をめぐる争奪戦の最前線となった。磐田市教育委員会文化財課の現地資料をもとに、城の歴史と、今も残る曲輪・堀切・土塁の姿を整理する。

社山(やしろやま)は、磐田原台地の北方、豊岡地区の敷地・合代島にまたがる独立丘陵である。天竜川によって西側斜面が急峻に削られたこの丘の頂に、磐田市指定史跡「社山城跡」がある。本曲輪からは浜松方面や二俣方面を一望でき、南には天竜川平野部と森・袋井・掛川を結ぶ街道が、西には二俣と遠江国府(見付)を結ぶ南北の道が通っていた。交通の要衝を押さえる山城として、戦国期の遠江争奪戦のたびに、その帰属が幾度も入れ替わった場所である。

本稿の要点

磐田原台地の北に築かれた山城

社山城跡は、磐田原台地の北方、標高136メートルの丘陵上に築かれた山城である。天竜川によって西側の斜面部が急峻な地形をつくり、本曲輪からは浜松方面や二俣方面を見渡すことができる。社山城の南側には、天竜川の平野部と森・袋井・掛川を結ぶ東西の街道が、西側には二俣から平野部の村々を経て遠江国府(見付)へと続く南北の街道が通じており、磐田原台地上にも国府と社山を結ぶ道があったと伝わる。街道が交差し、周辺を見渡せる場所に立地する社山城は、交通の要衝を押さえる重要な役割を担っていた。

社山(やしろやま)

磐田市豊岡地区、敷地・合代島にまたがる台地(丘陵)。台地の東西の縁辺はやや高く、中央は低地になっている。3万年以上前は、一雲済川がこの台地を流れて太田川に合流していたが、下野部(大楽地)付近での浸食によって天竜川に流れるようになり、台地の北方は湿地となった。この台地の東西の縁辺部には、社山城跡のほか、新平山遺跡・古墳群など多くの古墳が築かれている。

築城の時期と伝承

社山城の初見は、文亀年間(1501〜1503年)にさかのぼるとされる。遠江守護の斯波氏と、駿河守護の今川氏が抗争していたこの時期、斯波義雄(しばよしかつ)が今川氏によって二俣城へ追われたという出来事が、社山城に関する最初の記録である。築城者については、匂坂氏によるものとする伝承もあるが、確実な史料による裏づけは、現時点では確認できない。過去に発見された炭化米や遺物からは、15世紀中頃にはすでに社山城が利用されていたと考えられている。

その後、社山城は斯波氏、今川氏の後を受け、元亀年間から天正年間にかけて武田氏や徳川氏の手によって大改修を受けたと伝わる。誰が城主・重臣として居城したかは、時代・支配者によって異なるため、本稿でも一つの時代像に断定することは避け、時期ごとに整理して記す。

元亀・天正の争奪戦

社山城が緊迫した軍事の最前線となったのは、元亀3年(1572年)である。遠江に侵攻した武田信玄が合代島に陣を置いたことが知られており、社山を含めた周辺一帯は、二俣城攻めの拠点となった。二俣城は、天竜川に大量の筏を流して水の手櫓を破壊するという武田方の戦法によって、翌年にかけて開城したと伝わる。二俣城が武田方の手に落ちた後の天正元年(1573年)、徳川家康は社山城に砦を構え、武田方となった二俣城に備えたとされる。

社山城は、斯波氏・今川氏の時代を経て、元亀年間から天正年間にかけて武田氏・徳川氏の手による大改修を受けた。土塁や堀切などの遺構が良好に残っていることは、この時期の大がかりな改修を裏づけるものと考えられている。

社山城をめぐる主なできごと(伝承を含む)
時期できごと
文亀年間(1501〜1503年)斯波義雄が今川氏に二俣城へ追われる。社山城の初見とされる。
15世紀中頃出土した炭化米などから、この頃には社山城が使われていたと考えられている。
元亀3年(1572年)武田信玄が合代島に陣を置き、二俣城攻めの拠点とする。二俣城が開城する。
天正元年(1573年)徳川家康が社山城に砦を構え、武田方となった二俣城に備える。
元亀〜天正年間武田氏・徳川氏の手によって城が大改修を受けたと伝わる。

本曲輪・二の曲輪と、今も残る土塁・堀切

社山城は、南北方向の尾根と、丘陵頂上部から派生する東西方向の尾根の上に築かれている。丘陵頂上部に造られた南北約70メートル×東西約25メートルの平場が本曲輪で、幅10メートルほどの堀切を挟んだ東側に二の曲輪が造られた。本曲輪と二の曲輪の周囲には帯曲輪(おびぐるわ)が、尾根筋や斜面部の要所には小曲輪が配置されている。本曲輪の北・西には横堀が巡り、堀切によって分けられた二の曲輪の西側には大土塁が設けられている。

本曲輪から北に延びる南北方向の尾根には北の曲輪が構えられ、堀切とともに北からの進入に備えている。また、二の曲輪東側に延びる東西方向の尾根にも二重の堀切が設けられ、この尾根筋から社山城を遮断している。主要な尾根筋のほか、本曲輪・二の曲輪から派生する南・西の尾根筋にも堀切が設けられており、遺構の保存状態は良好である。

本曲輪は南北に長い曲輪で、北側には社山の氏神である八幡神社が祀られている。社殿の裏手には土塁が残されており、八幡神社はもとは城外に鎮座していたが、寛永3年(1626年)に現在の場所へ移されたと伝わる。二の曲輪は本曲輪を補完する曲輪で、武器や食料の倉庫が建てられていたと考えられている。なお、城主や重臣が居た曲輪(本曲輪)は時代・支配者によって呼び名が異なる場合があるため、本稿でも磐田市教育委員会文化財課の資料に従い、西側の曲輪を本曲輪、東側の曲輪を二の曲輪として記す。

本曲輪の北と西を守る横堀、二の曲輪を隔てる堀切と大土塁、北の曲輪を守る堀切と土橋——社山城には、山城としての防御の工夫が幾重にも刻まれている。

史跡指定の経緯

社山城跡は、昭和57年(1982年)に旧豊岡村の史跡に指定された。平成17年(2005年)、旧磐田市・豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村の合併により現在の磐田市が発足すると、社山城跡は磐田市の史跡として指定を受け継いでいる。現在の史跡・遺跡を「社山城跡」、戦国時代の城館そのものを「社山城」と呼び分ける表記が、磐田市教育委員会文化財課の資料でも用いられている。

周辺に残る文化財と伝承

社山・合代島の台地の縁には、社山城跡のほかにも、古代から近代にかけての記憶が点在している。いずれも磐田市教育委員会文化財課の同じ資料に整理されているものであり、社山城跡とあわせて周辺を歩く手がかりとして、ここに要点のみを記す。

敷地銅鐸(西の谷遺跡)

明治23年(1890年)、敷地村西之谷の丘陵(西の谷遺跡)で2基の銅鐸が掘り出された。平成12年(2000年)、新東名高速道路の建設計画にともなう発掘調査で、さらに1基の銅鐸が発見されている。銅鐸は弥生時代を代表する青銅器で、まつりに使われたものと考えられている。

岩室廃寺(敷地川上流)

敷地駅の北東方向、敷地川東岸の丘陵に、平安時代末から室町時代にかけて岩室寺が営まれたと伝わる。鎌倉時代の紀行文『吾妻鏡』にも記載された遠江最大級の寺院で、塔や御堂の礎石が残る。獅子ヶ鼻の岩場は、修行の場とされた。

秋葉道と道しるべ、秋葉灯籠

東海道から北遠・秋葉山へつながる秋葉道沿いには、道しるべや石仏が点在する。西之谷南の辻には、馬の健康と安全を祈願した馬頭観音の道標が、社山の入口には六地蔵が立てられている。敷地川東岸の秋葉灯籠(大当所)は、江戸時代後半、大当所村の名主・山下政彦が寄進したものと伝わる。

新平山工業団地と新平山遺跡・古墳群

合代島の北方の丘陵には、縄文・弥生時代の集落が営まれた新平山遺跡が、これと重なるように新平山古墳群が所在した。この丘陵は発掘調査ののち造成され、新平山工業団地となっている。

弘法井戸(合代島上)

飲み水に苦労した合代島台地上にある井戸。弘法大師が老婆に水を分けてもらったお礼に、この場所を教えてくれたという伝説が伝わる。

アクセスの手がかり

社山城跡へは、敷地側と上神増側の双方からたどることができる。敷地側からは、敷地川西岸の敷地駅から線路の西側の道を南に下り、社山の集落を抜け、二の曲輪に鎮座する八幡神社の参道を登る。上神増側からは、遠州鉄道バス「慈眼寺入口」バス停で下車し、丘陵裾の慈眼寺側の坂道を登り、茶畑が広がる丘陵平坦部を目指す。慈眼寺は臨済宗の寺院で、天正14年(1586年)の創建と伝わり、8月には遠州大念仏の上神増組による供養(大念仏)が行われる。いずれの道も丘陵地の坂道となるため、歩きやすい服装での来訪が望ましい。

社山城跡は、磐田市・豊岡地区が北遠(遠州の北部・山間部)と南遠(遠州の南部・平野部)の接点にあたる要衝であったことを、今にそのまま伝える遺構である。古墳、道しるべ、廃寺、そして山城。社山・合代島の台地に折り重なる記憶を、社山城跡はその中心でつないでいる。

参考資料

本文は上記パンフレットの記載内容を転載せず、事実関係を整理したうえで独自に再構成したものです。断定できない事項(築城者の伝承など)は「伝わる」「考えられている」と明記しています。

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