天竜川の低地に開けた竜洋の集落は、洪水だけでなく、くりかえし大地震にも襲われてきた。宝永、安政、そして昭和の東南海。なかでも安政の地震については、駒場村に生きた石川多喜蔵という人物が『一代咄』と題する体験記を残している。地面が泥水を吹き、津波が川を逆巻いたその日を、体験者の目線から読み直す。
竜洋の地盤と地震 ── なぜ被害が集中するのか
静岡県西部の遠江地域は、東海道沖から南海道沖にかけての海域を震源とする巨大地震に、有史以来くりかえし襲われてきた。資料が整理する震史によれば、奈良時代の715年の地震で天竜川の山崩れと下流の浸水が起きて以来、明応7年(1498年)、宝永4年(1707年)、安政元年(1854年)、昭和19年(1944年)と、この地域に大きな被害を与えた地震が連なっている。
被害のあらわれ方には、地盤による明瞭な差があった。天竜川がつくった沿岸低地は、旧河道や湿地に厚い軟弱地盤が発達しており、家屋の倒壊率が高い。一方、磐田原台地などの丘陵は比較的良好な地盤で、被害は相対的に小さい。竜洋の集落の多くは前者の上にある。地震のたびに竜洋で被害が大きくなるのは、天竜川がつくった土地の成り立ちそのものに理由があった。
宝永地震 ── 湊を隆起させた巨大地震
宝永4年(1707年)10月28日の14時すぎに発生した宝永地震は、M8.4と推定される、わが国最大級の地震のひとつである。この地震の約1か月後には富士山が噴火し、宝永火口を残した。遠州灘沿岸ではこの地震によって地盤の隆起が起き、資料によれば横須賀では、それまで湊として利用されていた入江が干上がり、湊としての機能を失ったという。地震が海岸線そのものを描き変え、湊町の運命を左右した例である。
安政東海地震 ── 潰れた家、泥を吹く地面
安政元年(1854年)11月4日の午前9時ごろ、M8.4と推定される安政東海地震が発生した。『浜松市史』は、掛塚湊で家屋の潰れが二百軒にのぼり、天竜川沿いの池田や、福田・駒場の近辺ではことに全壊家屋が多かったと記す。袖浦の郷土誌には、人家がことごとく潰れて圧死者を出し、地面が所々で陥没して泥水を吹き出したことが記録されている。地面が泥水を吹くという記述は、今日でいう液状化現象にあたるとみられ、軟弱地盤の土地の被害の性格をよく示している。
『一代咄』を読む ── 駒場村・石川多喜蔵の見た地震
この地震について、竜洋には得がたい記録が残っている。旧駒場村で郵便取扱所を開設した石川多喜蔵が、自らの生涯を書き残した『一代咄』(石川伸也氏蔵)である。安政の地震の場面は、体験者の記録として具体的で生々しい。
『一代咄』によれば、地震のとき多喜蔵は昼前の家で祖父らと過ごしていた。揺れとともに家々が倒れ、村中95軒が潰れ家となり、残った家はわずかだったという。座敷の火鉢の火を案じる祖父、倒れた家の屋根を切り抜いて人を助け出す人びと、泣き叫ぶ声。人びとは高台の天神山へと逃れたが、そこから見えたのは、川を逆巻いて遡ってくる津波だった。舟で見付方面へ逃れようとする者もあったと記される。余震を恐れて野宿し、その後もひと月ちかく小屋掛けの暮らしが続いたことも書き留められている。
この記録を扱うには、史料としての性格に注意がいる。『一代咄』は地震の直後に書かれた日記ではなく、後年に生涯をふりかえって記された回想録であり、体験と伝聞が混じっている可能性がある。また多喜蔵は明治25年(1892年)、県知事へ提出する安政地震の被害報告にも関わったとみられ、そこでは津波の高さが平水より一丈四、五尺(約4.2〜4.5m)に達したことなどが報告されている。回想録と公的報告という性格の異なる二つの記録が同じ人物の周辺から残されていること自体が、竜洋の災害史にとって貴重である。
被害の数字をどう読むか
安政地震の被害数値は、資料によって幅がある。『浜松市史』の「掛塚湊で潰れ二百軒」は掛塚の町場を、『一代咄』の「村中九十五軒潰れ」は駒場村ひとつを数えたものであり、両者は矛盾ではなく対象範囲の違いと読むべきである。一方で、津波の高さや浸水範囲については記録ごとの差が大きく、現時点でひとつの数字に確定することはできない。本稿では、それぞれの数字を出典とともに示すにとどめ、確定的な被害像を描くことは今後の研究に委ねたい。
東南海地震 ── 戦時下の震災
昭和19年(1944年)12月7日13時36分、熊野灘から遠州灘西部の沖合を震源とするM8.3の東南海地震が発生した。わが国に近代的な地震観測網が整備されて以来はじめて経験する規模の海溝型地震で、静岡県西部の太田川・菊川流域を中心に大きな被害を出した。資料によれば、竜洋でも軟弱地盤の低地で住家の倒壊が生じ、掛塚地区では死者1名を出したが、十束地区では死者はなかった。津波は地震の約40分後から5回ほど沿岸に押し寄せたものの、波高は1〜2mにとどまり、大きな被害はなかったという。また戦時下の防火訓練が行き届いていたためか、地震にともなう火災がほとんど起こらなかったことは、不幸中の幸いだったと資料は述べている。
このときも、被害の分布は地盤の分布と重なった。天竜川沿いの旧河道や低湿地の上にある集落で全壊率が高く、砂礫や台地の上では低い。宝永から290年、安政から90年。土地の条件は変わらず、同じ場所が同じように揺れたのである。
竜洋を襲った主な地震
| 地震 | 発生 | 規模 | 竜洋周辺の主な被害(資料による) |
|---|---|---|---|
| 宝永地震 | 宝永4年(1707年)10月28日 | M8.4 | 遠州灘沿岸が隆起。横須賀では湊の機能喪失。約1か月後に富士山噴火 |
| 安政東海地震 | 安政元年(1854年)11月4日 | M8.4 | 掛塚で家屋の潰れ約二百軒。駒場村で95軒潰れ。液状化とみられる泥水の噴出、津波の川への遡上 |
| 東南海地震 | 昭和19年(1944年)12月7日 | M8.3 | 低地の集落で住家倒壊。掛塚地区で死者1名。津波は波高1〜2mで被害小 |
記録が残ったということ
『一代咄』が伝えるのは、被害の数字だけではない。火鉢の火を気にする祖父、屋根を切り抜く隣人、川を遡る波を高台から見つめる人びと。災害の記憶は、こうした個人の目線で残されたとき、はじめて次の世代の備えにつながる。同じ低地で暮らしが続く以上、天竜川の洪水と同じく、地震もまたこの土地の条件である。竜洋に体験記が残されていたという事実そのものを、地域の財産として手渡していきたい。
火鉢の火を気にする祖父、屋根を切り抜く隣人、川を遡る波を高台から見つめる人びと。災害の記憶は、個人の目線で残されたとき、はじめて次の世代の備えにつながる。
参考資料
- 竜洋地区の郷土誌「八、郷土を襲った災害 (五)地震が村に与えた影響」(書名確認中)
- 石川多喜蔵『一代咄』(石川伸也氏蔵、上記資料所引)
- 『浜松市史』(上記資料所引)
- 磐田物語「流れを変え続けた天竜川」「天竜川がつくった土地」「天竜川の治水年表」「掛塚の火災と消防」
更新履歴
- 新規公開。竜洋地区郷土誌(書名確認中)に基づく。