失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

竜洋地区の歴史

太古の竜洋と大の浦|海と砂地がつくった土地の記憶

遠江国の地理的枠組みを伝える古い書物には、太古、三方原と磐田原の台地の間に「磐田海」と呼ばれる巨大な入り江があったと記されている。その波打つ入り江が、天竜川や太田川の土砂流出、そして地殻の隆起運動によって徐々に閉塞され、やがて広大な海跡湖(かいせきこ)として取り残された。それこそが、後世に「大の浦」と呼ばれた巨大な湖である。

貝塚が語る半塩半淡の汽水湖

今から二、三千年前、あるいはそれ以上古い時代において、磐田原台地の南縁は激しく寄せる太平洋の荒波によって直接削られていた。その後、天竜川から搬出される膨大な土砂が台地南側に堆積して天然の砂州を形成し、外海から隔てられた広大な湖沼群が誕生した。この太古の「大の浦」は、現在の浜名湖のように太平野を前にして海とつながる汽水湖(半塩半淡の湖)であったと考えられている。

この仮説を強く裏付けるのが、磐田原台地の南縁に沿って点在する縄文時代から古墳時代初期にかけての貝塚である。これらの貝塚から出土する貝殻の圧倒的多数はヤマトシジミであり、しかもそれらは汽水域でしか育たない特異な大型のもので占められている。その他に海水産のアサリやハマグリなども見つかっており、大の浦が川の真水と海の潮が混ざり合う、生命力豊かな水域であったことを証明している。

低湿地の形成と集落・耕地の広がり

有史時代に入ると、大の浦は流入する太田川や原野谷川の運ぶ土砂によって、東側から順次埋め立てられていった。これにより水域は次第に縮小し、かつて巨大だった湖沼は「大池」など少数の池や浅い沼沢地へと姿を変えた。水が引いた後の低湿地は、古代から中世にかけて精力的に干拓され、葦や菰(こも)が群生する野鳥の楽園を経て、やがて広大な水田地帯(のちの浅羽平野や竜洋平野)へと変貌を遂げていく。

水没を免れた自然堤防や、湖の中に点在していた砂州の跡(わずかに周囲より高い土地)は、人々にとって安全な足がかりとなった。大之郷、大原、大和田といった、大の浦の「大」の字を共有する古い地名や、岡、原、島などがつく多くの集落名は、かつての水と砂地の複雑な境界に人々が定住し、土地に名前を与えていった時代の記憶を今に伝えている。

現代の景観への連続性

大の浦の歴史的痕跡は、今日の竜洋地区の景観にも息づいている。かつて太平洋の荒波を防いだ砂丘地帯は、現在では「竜洋海洋公園」や、明治期に建てられた白亜の「掛塚灯台」がたたずむ海岸景観として親しまれている。海岸線沿いに長く伸びる防風林・防潮の黒松林は、かつて飛砂と塩害から田畑を守るために幾世代にもわたり植え継がれてきたものであり、太古から続く海と人間の向き合いの歴史を今も体現しているのである。

この記事で扱う範囲

本項では、有史以前の磐田海・大の浦の形成から、貝塚などの考古学的知見をもとにした汽水環境の検証、そして歴史時代における干拓と集落立地への影響、現代の海岸砂丘景観とのつながりについて論じました。

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参考資料

  • 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)3月発行相当資料
  • 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料
  • 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺

本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに磐田物語用に再構成したものです。