木材の集散地、葦葺きの家並み、そして遠州のからっ風。湊町・掛塚は、繁栄の条件がそのまま火災の条件でもある町だった。くりかえされた大火の記録と、秋葉信仰や五人組の掟に刻まれた備え、明治に生まれた消防組のあゆみをたどる。
燃えやすい町 ── 湊町の宿命
『掛塚町沿革誌』などの記録によれば、掛塚では明治13年(1880年)から大正5年(1916年)までの37年間だけで大小23回の火災が起き、焼失戸数は延べ1,146戸、損害額は当時の金額で10万円を超えたとされる。資料はその惨状を、当時の人びとの予想をはるかに超えるものだったと評している。
なぜこれほど燃えたのか。資料は理由をいくつか挙げる。当時の家屋の屋根は瓦葺きではなく葦葺きが多かったこと。天竜材の集散地であり、町中に木材が積まれていたこと。遠州特有の強い西風、いわゆるからっ風が吹くこと。そして十束や袖浦の農村と違い、湊町ゆえに家並みが密集していたこと。ひとたび火が出れば、飛び火が次の火元をつくる条件がそろっていた。
江戸時代の備え ── 五人組の掟と秋葉信仰
江戸時代の火への備えは、まず村の掟のなかにあった。五人組の連判手形には、村中の火の用心を第一とし、火事が起きれば家ごとに手桶と火消道具を持って駆けつけること、隣村の火事にも道具と村名を記した纏を持って出動すること、郷蔵を大切に囲うことなどが誓われている。消火は、村ぐるみの義務だったのである。
もうひとつの備えが、火伏せの神への信仰だった。村々の中央には秋葉灯籠が設けられ、村内の各戸が交代で毎夕灯をともした。犬居(現在の浜松市天竜区)の秋葉本社へは村の代表が参詣し、家を新築すれば、なるべく早くその神符を受けるのが習いだったという。この慣習を伝える常夜燈は、現在も竜洋に6基が残る。もっとも古いのは高木にあるもので、明治元年(1868年)9月28日、十郎島村の大工頭梁・曽布川藤次郎によって建造されたと記される。祈りと当番の灯が、消防組以前の町を守っていた。
大火の記録
それでも火災は起きた。記録に残る主な火災を整理する。
| 年月日 | 出火場所・状況 | 被害 |
|---|---|---|
| 寛政9年(1797年)2月14日 | 国清寺付近より出火、西風 | 約90軒類焼 |
| 天保3年(1832年)8月21日 | 大当町堤外より出火 | 大当町59軒・中宿6軒、計65軒 |
| 天保5年(1834年)2月17日 | 横町より夜間に出火、伊勢流の風 | 横町から砂町まで60軒余と寺2か寺・堂1か所 |
| 明治16年(1883年)12月5日 | 堤外の木挽小屋より未明に発火、強い西風。原因は煙草の火の不始末 | 百余戸延焼 |
| 明治18年(1885年)10月7日 | 十郎島の民家より出火。原因はかまどの火 | 53戸延焼 |
| 明治28年(1895年)5月12日 | 白羽の民家より出火。原因は火の不始末 | 57戸延焼 |
| 明治32年(1899年)3月20日 | 河輪村芋瀬の製板工場煙突より発火、西風烈しく本町・大当町へ飛び火 | 約700戸延焼 |
| 明治33年(1900年)12月3日 | 字十郎島の旧橋番小屋より発火 | 98戸(全焼91・半焼7)。役場・巡査駐在所・貴船神社等も類焼 |
| 昭和2年(1927年)2月9日 | 本町の製材小屋より未明に失火、烈風 | 全焼33戸・破壊家屋3戸 |
| 昭和14年(1939年)2月10日 | 砂町の民家より出火(炬燵の失火)、西北の烈風 | 全焼7戸。近隣町村を含む消防組員279名が出場 |
被害への手当ての記録も残る。明治32年の大火では罹災救助費と町内外からの義捐金をあわせて2千円を超える救援が行われ、明治33年の火災でも貧困者53戸へ救助金が下付され、義捐金が寄せられたことが『掛塚町沿革誌』に記されている。
明治32年の大火 ──『一代咄』が伝える飛び火
約700戸を焼いた明治32年(1899年)の大火については、駒場村の石川多喜蔵が『一代咄』に生々しい経緯を書き残している。それによれば、川西の製板工場から出た火は掛塚町へ飛び火し、駒場の消防隊が掛塚の消火にかけつけている留守のあいだに、こんどは駒場へ飛び火した。消し手のいない集落に火が入り、悪条件が重なって被害を大きくしたという。木材とからっ風の町における飛び火の恐ろしさと、村を越えて助け合うがゆえの隙。この記録は、当時の消防の限界を具体的に伝えている。
消防組の成立 ── 明治17年から少年消防隊まで
組織的な消防が生まれるのは明治に入ってからである。掛塚消防組の沿革によれば、明治の初期には消防の方法がまだ備わらず、火事のたびに多くの人家を焼いて損害がおびただしかったため、明治17年(1884年)に初めて消防組が設立された。明治27年(1894年)2月10日の勅令第15号で消防組規則が公布され、県の細則により掛塚消防組の規則が整えられると、東町・川袋・豊岡の三部を加えて編成が拡充され、その後の再編を経て体制が固まっていく。大正10年(1921年)には、学校教育の一環として小学校高等科の生徒による少年消防隊も組織され、消防訓練が行われた。
農村部にも組織化は及んだ。十束村では明治24年(1891年)ごろ中島区とその近隣で火災が多かったため、翌25年に木の杷手一本で運搬する当時のポンプを購入したのがはじまりとされ、明治28年(1895年)には村内を四部に分けた消防組を組織し、毎年正月に各部の演習を行った。袖浦でも私設の消防組が各集落に生まれ、のちに公設の部制へ移行していった。そして昭和30年(1955年)の合併にともない、これらを引き継ぐ竜洋町消防団が同年5月16日に誕生する。
燃えた町と燃えなかった村
対照的に、十束や袖浦の農村部には掛塚のような大火の記録がほとんどない。資料に残るのは、昭和3年(1928年)の神社からの失火や、昭和30年(1955年)の農協作業所の火災など回数の少ない事例、落雷による火災、そして戦時中に中平松・小中瀬へ焼夷弾が投下され数軒が焼けた記録などである。家々の間隔が広く、木材の集積がなく、屋根の条件も異なる農村では、火は町場のようには走らなかった。掛塚の大火の歴史は、裏返せば、湊町という暮らしの形そのものの歴史だったのである。
灯をともし続けた町
高木の常夜燈は、いまも竜洋の道端に立っている。毎夕交代で灯をともした村の当番、纏を持って隣村へ駆けた五人組、留守の村へ飛び火を許した消防隊の悔しさ。火災の記録は被害の一覧であると同時に、町を守ろうとした人びとの記録でもある。海の安全を灯した掛塚灯台とならんで、火伏せの灯もまた、この町の記憶として次の世代へ手渡しておきたい。
毎夕交代で灯をともした村の当番、纏を持って隣村へ駆けた五人組、留守の村へ飛び火を許した消防隊の悔しさ。火災の記録は、町を守ろうとした人びとの記録でもある。
参考資料
更新履歴
- 新規公開。竜洋地区郷土誌(書名確認中)に基づく。