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TIMELINE | 地理・自然・資料 ── 治水事業を一覧する

天竜川の治水年表
── 金原明善から第三次改修まで

「天竜川の地形と歴史」(r024)では、金原明善に始まる治水の歩みを本文の流れの中で紹介した。ここでは、その治水事業を年表・資料として独立させ、明治期の金原明善の事業から、内務省直轄の第一次・第二次・第三次改修まで、工費・区間・主要工事を含めて一覧できる形に整理する。竜洋・掛塚の土地は、この一連の改修によって守られてきた下流域にあたる。
本ページはr024の底本である提供資料「三、天竜川の変遷」(原本44〜59頁相当、治水に関する記述は主に56〜59頁)をもとに、r023「竜洋地区年表・参考資料」の形式を参考にして表形式で再構成したものである。工費・区間などの数値は提供資料の記載に従っており、出典の書誌(書名・編者・発行年)は未確認のため、確認でき次第この欄を更新する。

年表の見方。 天竜川下流部の近代治水は、大きく4つの段階に分けられる。明治初年の金原明善による私財を投じた事業、明治18年(1885年)からの内務省直轄・第一次改修、大正12年(1923年)からの第二次改修、昭和38年(1963年)以降の第三次改修である。このうち第二次改修で、今日私たちが見る天竜川の姿がほぼできあがった。以下の年表・表は、この4段階に沿って、年、出来事、工費や区間などの数値をあわせて示す。金原明善という人物そのものの詳しい歩みは「金原明善」(r026)を、地形・地質の全体像は「天竜川の地形と歴史」(r024)をあわせて読んでいただきたい。

前提としての洪水 ── 被害の記録年表。 治水事業の年表を読む前提として、この川がどれだけ暴れてきたかを押さえておきたい。古くは奈良時代、天平宝字5年(761年)に遠江国の麁玉河(天竜川にあたるとされる)で堤防三百余丈が決壊し、延べ30万人を超える労力を投じて修築したことが『続日本紀』に記される。以下、竜洋周辺に関わる主な洪水記録を、資料が示す出典とともに整理する。江戸時代だけでも寛永2年(1625年)から幕末までの間に20回を超える洪水が数えられ、明治に入っても収まらなかった。

くり返された洪水 ── 治水以前の長い前提 天平宝字5年(761) 麁玉河の堤防 三百余丈が決壊 延べ30万余人で修築 江戸期だけで20回超 寛永2年(1625)〜幕末 明治以降 なお収まらず 明治43・44年の大水害へ この長い被害の積み重ねが、明治以降の本格的な治水事業の前提だった
洪水記録の広がりを示す図(本文の表0および資料所引の各誌の記載をもとに、磐田物語が作成)。個々の洪水を網羅したものではなく、記録が奈良時代から近代まで途切れずに続くことを示す概念図である。
表0 竜洋周辺の主な洪水記録(資料所引の各誌による)
被害の概要出典(資料所引)
天平宝字5年(761年)麁玉河の堤防三百余丈決壊。延べ30万余人で修築続日本紀
文化13年(1816年)天竜川洪水、家屋流失おびただし磐田郡誌
文政10年(1827年)井通村森本で約300間(約540m)破堤。十束村高木・宮本間でも破堤十束村誌
文政11年(1828年)森本で再び破堤。十束村赤池・中島間に大池を生じ、住民は食に窮した十束村誌
嘉永3年(1850年)洪水により耕地・家屋の被害多く、十束村で堤防決壊磐田郡誌
安政2年(1855年)掛塚・敷地で破堤、田畑の荒廃甚大磐田郡誌
万延元年(1860年)掛塚町江口で100間(約180m)余破堤、田園数十町歩に被害。長森・堀之内・平間・岡境でも破堤掛塚町誌・十束村誌
慶応元年(1865年)袖浦村岡の堤防破壊、田畑ことごとく荒れ各地に池を生ず袖浦村誌
明治元年(1868年)天竜川堤塘、各所で大破壊掛塚町誌ほか
明治9年(1876年)大塚・西堀の家屋流失、掛塚で50戸流失、敷地でも破堤掛塚町誌
明治22年(1889年)敷地で百余間破堤、金洗付近でも破堤。数分で一面の泥海となり浸水は床上3尺から1丈に及ぶ掛塚町沿革誌
明治24年(1891年)前新田付近の堤塘2か所破壊、家屋全潰4戸、稲作・畑作に大きな欠損掛塚町沿革誌
明治25年(1892年)河口の激浪により汐堤2か所破壊掛塚町沿革誌
明治44年(1911年)流域未曽有の大洪水(下記参照)磐田郡誌ほか

年により被害箇所・数値の記載は資料間で異同があり、本表は資料が明瞭に示すものに限って掲げた。判読の難しい数値は採らず、今後資料の書誌確定とあわせて補訂する。

明治44年の大洪水。 明治44年(1911年)8月、強風暴雨により天竜川流域は未曽有の大洪水に見舞われた。池田村の水量標は1丈6尺4寸(約4.8m)、袖浦村岡の水量標は1丈8尺(約5.4m)余に達し、広瀬村一貫地内では改修堤約600間(約1,080m)が破壊された。鉄道線路も2か所で破壊され、各村に浸水が広がったため、平松の海岸地を幅60間・長さ200間にわたり切り開いて排水したという。資料はこれを、寛永2年(1625年)以来の大洪水と位置づけている。前年の明治43年とあわせたこの連続水害が、下段の第二次改修の直接の契機となった。

明治期 ── 金原明善から第一次改修まで

表1 第一次改修の概要(提供資料による)
項目内容
期間明治18年(1885年)11月〜明治27年(1894年)4月
区間二俣町鹿島以南
工費約80万円
主要工事護岸の石張とその補強、水衝部へのケレップ水制の設置、神田口締切堤の延長、合代島・一貫地から三ツ家・下神増・松ノ木島にかけての連続堤の築造、河口付近の砂丘・十郎島飛地の除去
特徴洪水被害のもっとも多い区間に絞った部分的な改修

第一次改修で用いられたケレップ水制は、明治初年に来日したオランダ人技術者の考案によるもので、岸から川へ突き出す構造物で水の勢いを弱め、流れの向きを整える働きを持つ。この技術は、その後の改修でも各所に応用されていく。

大正期 ── 第二次改修の開始。 明治43年(1910年)・44年(1911年)の連続した大水害は、第一次改修だけでは天竜川の氾濫を防ぎきれないことを浮き彫りにした。この水害を契機に、大正12年(1923年)から10か年の継続事業として、内務省直轄の第二次改修が始まる。中ノ町(現在の浜松市天竜区)に天竜川改修事務所が設置され、より広範囲かつ本格的な改修に着手した。

表2 明治43・44年水害と第二次改修の骨格(提供資料による)
項目内容
契機明治43年(1910年)・44年(1911年)の大水害。明治44年の被害の詳細は本ページ上段「明治44年の大洪水」を参照
開始大正12年(1923年)
期間当初計画は10か年の継続事業
事務所中ノ町に天竜川改修事務所を設置
投資額大正12年(1923年)以降、改修費・維持費・災害費を合わせて約71億円(後年までの累計)

昭和前期 ── 派川締切の進展。 第二次改修は、昭和期に入って派川(本流から分かれた川筋)の締切という形で具体化していく。次々と分流を締め切ることで、天竜川の水を一本の本流に集約し、氾濫の危険を減らす狙いがあった。

表3 昭和前期の主要工事(提供資料による)
工事備考
昭和4年(1929年)河輪築堤 
昭和10年(1935年)着手東派川締切昭和19年(1944年)竣功
昭和12年(1937年)着手大平川締切昭和14年(1939年)竣功
昭和25年(1950年)着手西派川締切昭和26年(1951年)竣功
昭和37年(1962年)井通堤締切 

昭和37年(1962年)頃までに、これらの派川締切がほぼ完了し、今日私たちが見る天竜川の一本化された姿がほぼできあがった。r024で触れた「川筋の西遷」が中世から近世にかけての大きな流路変化だったのに対し、この昭和前期の派川締切は、明治以来の治水事業が最終的な形に到達する段階だったといえる。

派川締切 ── 分流を閉じ、一本の本流へ 本流 東派川締切(昭和10年着手 → 19年竣功) 大平川締切(昭和12年着手 → 14年竣功) 西派川締切(昭和25年着手 → 26年竣功) 井通堤締切(昭和37年) 昭和4年 河輪築堤 赤い印が締切箇所。昭和37年頃までにほぼ完了し、今日の一本化された姿ができあがった
派川締切の進展を示す模式図(本文の表3および資料の記述をもとに磐田物語が作成)。分流を順に締め切って水を本流へ集約する考え方を示すもので、実際の川筋の位置や形状を表したものではない。

水防組織のあゆみ ── 輪中を守るしくみ

堤防工事とならんで竜洋の土地を守ってきたのが、水防の組織である。資料によれば、そのおこりは天保2年(1831年)3月、二俣町鹿島以南から遠州灘河口に至る天竜川流域の全域を網羅し、水防上の一大団結を成すために組織されたもので、本川流域を上・中・下の三つに分けていた。明治14年(1881年)11月には豊田・山名・長上・敷知4郡のうち237か村を統合し、内部を甲・乙・丙・丁の四つの水防組に分ける再編が行われている。

掛塚輪中は、一時は輪内独立の水防組となったこともあった。しかし明治43年(1910年)・44年の大洪水を経て、東派川締切の断行と改修促進を貫徹し、輪中の永続的な安泰をはかるには強力な本組合への加入が得策であるとして、議員を選出して東縁水防組合へ加入した。堤防と組織の両輪で水に向き合うという判断であり、その先に、上で見た東派川締切(昭和10年着手)が実現していく。

水防組織のあゆみ ── 堤防と組織の両輪 天保2年(1831) 鹿島以南〜河口の全域 を網羅して結成 上・中・下 の三分 明治14年(1881) 豊田・山名・長上・敷知 4郡 237か村を統合 甲・乙・丙・丁 の四組 明治43・44年の大洪水後 一時は輪内独立だった 掛塚輪中が 東縁水防組合へ加入 強力な本組合に加わることが、東派川締切の断行と輪中の安泰につながると判断された 堤防(工事)と組織(人の備え)の両輪で、水に向き合ってきた
水防組織の再編を示す図(資料の記述をもとに磐田物語が作成)。掛塚輪中が独立を離れて本組合へ加入した判断が、のちの東派川締切の実現につながった。

戦後も水との闘いは続いた。昭和28年(1953年)9月の台風13号では防潮堤が決壊して駒場の三軒屋地区に高潮が押し寄せ、多数の家屋が浸水し塩害に苦しめられた。昭和34年(1959年)9月の伊勢湾台風でも灯台前の堤防が潰れて海水が侵入し、灯台付近一帯の白砂青松の美観は失われたと記される。天竜川の堤防によって洪水がおさまったのちも、竜洋の水防の相手は海へと移っていったのである。

昭和38年以降 ── 第三次改修と現在の課題。 昭和38年(1963年)以降は、水衝部(水流が強く当たる部分)の根固水制の補修・増設に重点を置く第三次の改修が続けられてきた。第二次改修までで堤防の骨格が完成した後は、局所的な補強や維持管理が中心となっている。

提供資料の末尾は、当時の課題にも触れている。洪水防御はいちおう概成したものの、骨材需要の増大による河川砂利の採取や、上流部のダム開発の影響が下流部へ及びつつあり、河道計画を再検討して、治水・利水の恒久的な改修計画を立て直す必要がある、というものである。この記述がいつの時点のものかは提供資料からは明確でないが、天竜川との付き合いが、堤防の完成をもって終わるものではなく、継続的な課題であり続けてきたことを示している。

用語解説

派川(はせん)
本流から分かれて流れる川筋。天竜川下流部には東派川・西派川・大平川など複数の派川があり、締切によって順次、本流に集約された。
締切(しめきり)
派川や旧流路の入口を堤防でふさぎ、水の流れをそこへ入れないようにする工事。天竜川を一本の流路にまとめる過程で繰り返し行われた。
根固水制(ねがためすいせい)
川岸や堤防の基礎部分を石やコンクリートブロックで固め、流水による洗掘(土砂が削り取られること)を防ぐ構造物。第三次改修で重点的に補修・増設された。
内務省直轄(ないむしょうちょっかつ)
明治期から昭和前期にかけて、河川行政を管轄した内務省が直接施工・管理した公共事業の形態。天竜川の第一次・第二次改修はこの直轄事業として行われた。
  • 提供資料「三、天竜川の変遷」(原本44〜59頁相当、治水事業に関する記述は主に56〜59頁。出典:提供資料〈書誌未確認〉)。
  • 磐田物語「天竜川の地形と歴史」(r024)── 本ページの底本となる基礎資料。
  • 磐田物語「竜洋地区年表・参考資料」(r023)── 年表形式の参考。
  • 竜洋地区の郷土誌「八、郷土を襲った災害」(書名確認中)。『続日本紀』『磐田郡誌』『十束村誌』『袖浦村誌』『掛塚町誌』『掛塚町沿革誌』(いずれも上記資料所引)。

r024本文と重複する記述は要約にとどめ、本記事では工費・区間・主要工事を一覧できる形に重心を置いた。数値は提供資料の記載に従い、出典の書誌が未確認のため確認でき次第この欄を更新する。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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  • 「前提としての洪水 ── 被害の記録年表」「水防組織のあゆみ」の2節を追加し、明治44年大洪水の詳細を補記。竜洋地区郷土誌(書名確認中)に基づく。