失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語竜洋地区 / 天竜川の橋と渡船

竜洋・天竜川の交通史 | 鎌倉〜昭和

天竜川の橋と渡船 ── 池田の渡しから掛塚橋・長豊橋へ

橋のなかった天竜川を、人はどう渡ったのか。鎌倉時代の紀行文が伝える舟渡しから、家康と池田の渡し、明治の板橋と賃銭表、そして鉄筋の掛塚橋まで。竜洋側の視点で、渡ることの歴史をたどる。

橋のなかった天竜川を、人はどう渡ったのか。鎌倉時代の紀行文が伝える舟渡しから、家康と池田の渡し、明治の板橋と賃銭表、そして鉄筋の掛塚橋まで。「あばれ天竜」と呼ばれた大河を渡るために竜洋の人びとが重ねてきた工夫を、料金表の数字とともにたどる。

橋のない大河 ── 舟渡と徒渡の時代

天竜川の本流がほぼ現在の位置に落ち着いたのは、室町中期の1500年ごろではなかったかと、地形や古記録から推定されている。それ以前も以後も、この川を渡ることは容易ではなかった。仁治3年(1242年)の紀行文(資料は「東国紀行」と記すが、同年の紀行文として知られる『東関紀行』を指すとみられる)には、天竜川を渡る方法として舟渡と徒渡(かちわたり)があったことが記され、「この川の早き流れも世の中の人の心のたぐひとは見ず」という感慨が添えられている。渡ることが、歌に詠むほどの体験だったのである。

家康と池田の渡し

江戸時代、幕府は防衛上の政策から主要河川に橋を架けなかった。天竜川もその一つで、東海道の旅人は池田(現在の磐田市豊田地区)の渡船で川を越えた。長雨が続けば川止めとなり、宿々は滞留の旅人であふれたという。

池田の渡船権の由来として、次の話が伝えられている。天正元年(1573年)、武田氏との戦いのさなかに危機に陥った徳川家康を、池田の里人が協力して川の対岸へ渡した。家康はその恩に報い、渡船権を与える証文を自ら書いたと言われ、「遠州天竜川池田渡船の事」と題する天正元年11月1日付の文書が伝わる。この経緯は松板の証文の伝承をともなうもので、史実として細部まで確認できるわけではないが、池田の渡しが特別な由緒を持つ渡船場として扱われてきたことは確かである。

渡船には規則があった。資料によれば、増水4尺8、9寸(約1.5m)までは渡船を出すが、5尺以上の増水では差し留めとなり、ただし幕府の急用の御状箱は大風の節を除いて渡すこととされていた。川越しの運賃も水量などによって変わったとみられる。

四方を水に囲まれた町 ── 掛塚の渡船場

河口の掛塚にとって、渡船はさらに切実だった。『掛塚町地誌』は、この町が四方を水に囲まれ、他所との交通は渡船か橋梁によるほかなかったこと、渡船の始まりは古く、その創設時期はもはや明らかでないことを記している。

江戸時代の渡船場は10か所を数えたようである。江口から平間へ、西堀から堀之内へ、東大塚から西大塚へ、川袋、老間の間など輪中の内側を結ぶものに加え、浜松方面へは十郎島、中町、大当町から対岸へ2か所、東町から駒場へ、金洗と、天竜川本流を渡る渡船が並んでいた。

明治6年(1873年)の江口渡船の許可願には、賃銭が次のように定められている。東岸は豊田郡十束村平間、西岸は長上郡掛塚村豊岡字江口を結ぶ渡船である。

江口渡船の賃銭(明治6年・渡船御許可願による)
対象賃銭
歩行1人4厘
人力車1輛1銭
人力車空車1輛6厘
荷積牛馬1頭1銭6厘
牛馬空荷1頭1銭
荷車1輛1銭2厘
空荷車1輛6厘

ただし書きには、夜間の越立は船頭2人で賃金2割5分増、3尺以上の増水のときは船頭2人で賃金倍額とある。夜と増水は、それだけ命がけの仕事だったということである。

明治の架橋 ── 十郎島橋と橋銭

明治に入ると、渡船場にあいついで橋が架けられていく。明治7年(1874年)に十郎島の渡船場に橋梁(東橋)が設けられたのを皮切りに、金洗、江口、中町、大当町、川袋などにも橋が架かった。当時の橋といっても、現在見られるような橋ではなく、舟橋や、瀬から瀬へ渡る簡単な板橋であったと考えられている。その前年の明治6年(1873年)10月3日には、明治天皇が天竜川の舟橋を渡御し、池田村で小憩したことが記録されている。

明治7年の十郎島橋(東橋)の免許出願書によれば、橋は長さ110間(約198m)、巾1丈(約3m)、高さは常水面から9尺(約2.7m)の板橋で、年間収入180円を見込み、橋銭として年々1円32銭を県へ納めることとされた。橋銭は次の通りである。

十郎島橋(東橋)の橋銭(明治7年・免許出願書による)
対象橋銭
歩行1人7厘
小荷物分3厘5毛
牛馬2銭
人力車1銭5厘

ただし警部巡査が制服着用で巡視する際はこの限りにあらず、と付記されている。渡船も橋も当時は民営で、料金を取って人を渡す事業だった。

村有化から掛塚橋へ

明治22年(1889年)の洪水で十郎島西橋(栄橋)や共栄橋が流失したのを機に、掛塚村は橋梁を村有とし、その収益を水害対策、すなわち堤防構築の費用にまわそうと考え、村議会で議決した。橋は湊町の生命線であると同時に、治水の財源でもあったのである。

その後、無賃橋としての許可、東橋所有者との調整、関係町村との利害の違いなど多くの曲折を経て、明治39年(1906年)、公債を募集して有料橋としての架設が許可され、同年12月20日に開通した。長さ480間(約864m)、巾9尺(約2.7m)、車よけ9か所を備えた板橋で、工費は13,600円。位置は十郎島橋と共栄橋の間、現在の橋より約150m北にあたる。折しも横須賀(現在の大須賀方面)から掛塚を経て浜松に至る道路も改良され、交通量は大きく増えていった。

この橋も洪水のたびに一部流失をくりかえし、町で維持することが困難になったため、大正14年(1925年)に県へ献納されて無賃橋となった。昭和30年(1955年)、国道150号線の開通にともない現在の位置へ移して鉄筋の有料橋として竣工し、昭和45年(1970年)からは無料開放された。長さ877m。これが現在の掛塚橋である。

長豊橋と敷地橋 ── 東派川に架かった橋

天竜川がまだ東派川を分けて流れていた時代、輪中の東側にも橋があった。横須賀から福島(現在の福田地区)を経て掛塚に至る道路が天竜東川を渡る地点には、明治7年(1874年)架橋の金洗渡船・金洗橋があり、その後を受けた長豊橋(金洗橋)は、町の無賃橋として維持された。板橋で長さ170間(約306m)、巾7尺(約2.1m)、車除け1か所、費用2,129円66銭9厘をかけ、明治35年(1902年)に許可、明治36年(1903年)に落成している。度重なる流失と修理ののち、これも後に県へ献納された。また明治42年(1909年)には、掛塚から中泉への道路改良にともない、江口から堀之内の間に敷地橋(仮称)が竣工した。

長豊橋と敷地橋の二つの橋は、昭和10年(1935年)ごろに始まり戦中に完成した天竜川東派川締切工事によって川そのものが陸続きとなり、不必要となって取り除かれた。橋の一生が、流れを変え続けた天竜川の歴史とそのまま重なっている。

橋をめぐる年表

できごと
仁治3年(1242年)紀行文に天竜川の舟渡・徒渡の記述
天正元年(1573年)家康が池田の里人に渡船権を与えたと伝えられる
明治6年(1873年)明治天皇が舟橋で天竜川を渡御。江口渡船の賃銭が定められる
明治7年(1874年)十郎島に東橋が架かる。金洗・江口などにも架橋が続く
明治22年(1889年)洪水で栄橋・共栄橋流失。掛塚村が橋梁の村有化を議決
明治36年(1903年)長豊橋落成
明治39年(1906年)有料の板橋(掛塚橋の前身)が開通。長さ約864m
大正14年(1925年)橋を県へ献納、無賃橋に
昭和10年代東派川締切により長豊橋・敷地橋は撤去
昭和30年(1955年)国道150号開通、現在位置に鉄筋の掛塚橋が竣工(昭和45年から無料開放)

渡ることの記憶

4厘の渡し賃も、7厘の橋銭も、いまの感覚ではささやかな数字に見える。しかしその背後には、増水すれば船を出せず、橋は流され、それでも対岸と行き来しなければ暮らしが成り立たなかった川べりの町の日常がある。掛塚湊の繁栄も、豊田側の天竜橋の記憶も、この「渡る」ことの積み重ねの上にあった。橋の名と料金表の数字を、天竜川とともに生きた人びとの記録として、次の世代へ手渡しておきたい。

増水すれば船は出せず、橋は流された。それでも対岸へ行き来しなければ、川べりの暮らしは成り立たなかった。渡し賃と橋銭の数字は、天竜川とともに生きた町の日常の記録である。

参考資料

更新履歴

橋も渡しも、川べりの暮らしを対岸とつなぐための工夫でした。土地は目に見える姿を変えても、その下に積み重なった歴史を持ち続けています。相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

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