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竜洋地区の歴史

竜洋地区年表|天竜川・掛塚・袖浦・十束の歩み

旧竜洋町域の太古の地形発達から、中世の港湾成立、近世の天領支配と開拓、近代の町村再編、そして昭和30年(1955年)の3町村合併から現代にいたるまでの主要な史実を系統的に整理した歴史年表である。

竜洋地区 歴史年表

年代 年紀 主要事項・史実 関連テーマ
太古 有史以前 「磐田海」と呼ばれる巨大な入り江が形成され、のちに「大の浦」と呼ばれる海跡湖が残る。周辺台地にヤマトシジミ主体の貝塚が形成される。 大の浦の形成
奈良時代 天平宝字5年(761年) 遠江国麁玉川の堤防が300余丈決壊。のべ30万人の役夫を投じて大規模な堤防修築工事が行われる。 天竜川の変遷
平安時代 承暦4年(1080年)頃 菅原孝標女が遠江国を通過した際、更級日記に「天竜川のほとりに療養する」との旨の記述が残る。文献上の天竜川の初出とされる。 天竜川の歴史
鎌倉・室町 承安元年(1171年) 「池田荘」の名称が松尾神社文書に見られ、この周辺が京都松尾神社の社領(神領)として位置づけられる。天竜川河口部に商業集落の原型が成立。 池田荘と水利
安土桃山 慶長年間 徳川家康が大の浦周辺でたびたび鷹狩りを催す。太田川の大改修が行われ、大の浦の湿地化・干拓が本格化する。 大の浦の干拓
江戸時代 宝暦9年(1759年) 領主が井上河内守となり、大名領としての支配が文化13年(1816年)まで続く。のちに再び幕府直轄地(天領)に戻り、中泉代官所が管轄。 天領支配
江戸後期 嘉永6年(1853年) 林伊太郎が中泉代官に就任。安政5年(1858年)まで、天竜川治水や民政の適正化に尽力し、地域秩序を安定させる。 近世のリーダー
明治時代 明治6年(1873年) 浜松県令・林厚徳により大区小区制が敷かれ、中泉代官所の旧体制が廃止。明治22年(1889年)に掛塚町、袖浦村、十束村の町村制が確立。 近代行政区画
昭和時代 昭和30年(1955年) 4月1日に掛塚町、袖浦村、十束村が合併し、「竜洋町」が発足。初代町長に竹内善平が就任。同年、天竜川に掛塚橋が竣工。 竜洋町の誕生
昭和中期 昭和52年(1977年) 3月、竜洋町教育委員会等により町民向け郷土資料『ふるさと竜洋』が発行され、地域の歴史の系統的な保存が行われる。 文化の継承

参考資料

  • 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)3月発行相当資料
  • 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料
  • 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺

本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに磐田物語用に再構成したものです。

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