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磐田物語 / 掛塚湊の成立と廻船問屋
暮らしの記憶 | 港町・廻船

掛塚湊の成立と廻船問屋 ──
材木輸送から御用米輸送、
「遠州の小江戸」の最盛期へ

天竜川が長い旅を終えて海にそそぐ河口、その左岸にひろがる掛塚。今は静かな住宅地だが、かつてここは江戸と結ばれた湊町だった。どのようにして湊として成立し、どのような商いで栄え、なぜ役目を終えたのか。成立・商人・廻船という三つの切り口から、掛塚湊の歴史を出典とともに読み直す。
信州・天竜上流の山 天竜川を筏で下る 掛塚湊 河口 江戸へ 材木→御用米、廻船で海路 帰り荷は伊豆石
信州の山から伐り出された材木は、筏で天竜川を下り、河口の掛塚湊で大型の廻船に積みかえられ、海路で江戸へ運ばれた。材木の枯渇後は御用米輸送へと商いの中心が移った。(流れをもとにした模式図)

磐田市の南のはずれ、天竜川の河口にあたる竜洋・掛塚のあたりは、今は静かな町だ。だが町を歩くと、ところどころに黒っぽい石を積んだ古い蔵や塀が目につく。この何気ない風景の一つひとつが、かつてここが「湊町」だった時代の名残である。

成立 ── 川と海が出会う場所として

掛塚という地名は、室町時代の文明17年(1485年)、禅僧・万里集九が記した漢詩文集『梅花無尽蔵』に「懸塚」という名で現れるのが早い記録とされる。万里集九はこの地に立ち寄り、船主の家に宿をとったと伝わる。五百年以上前から、ここには船と、それを商う家があったということになる。

ただし、この地が本格的な湊町として発展するのは近世に入ってからである。天竜川の河口は、川が運ぶ土砂で水深が浅く、大きな船の出入りには適さない場所だった。掛塚は恵まれた天然の良港ではなく、川と海という条件の厳しい境界を、人の手で使いこなして湊として成立させた町だと理解したほうがよい。中世の荘園(池田荘)との関わりなど、より古い時代の土地の記憶については、池田荘と掛塚湊の起源で別途たどっている。

商人 ── 廻船問屋という業態

近世に入り、天竜川上流(信州・伊那谷方面)の森林資源が江戸の町普請・城郭建築などの需要に応じて本格的に切り出されるようになると、掛塚は材木輸送の拠点として急速に発展した。山で伐り出された材木は筏に組まれて天竜川を下り、河口の掛塚で大型の廻船に積みかえられ、海路で江戸へ運ばれた。

廻船問屋は、現代でいえば物流会社・商社・倉庫業・金融の役割を少しずつ兼ねた存在だった。荷主と船主を結び、船を仕立て、荷を預かり、代金をやり取りし、嵐や座礁、相場の変化といった海運のリスクを引き受けながら商いを成立させていた。掛塚を代表する廻船問屋・吉岡家の具体的な商いぶりについては、掛塚の豪商・吉岡家と廻船問屋の繁栄で深掘りしている。

廻船 ── 材木から御用米へ、そして最盛期の統計

江戸時代も中ごろになると、天竜川上流の木材はさすがに伐り尽くされてきた。すると掛塚の廻船問屋たちは、御用米の運搬という新たな商いに乗り出す。伊勢国や美濃国で集められた幕府直轄領の年貢米を、江戸まで船で運ぶ仕事である。この転換によって、掛塚の廻船問屋はさらに大きな財をなし、湊のまわりには廻船問屋の屋敷が建ち並んだ。そのにぎわいから、掛塚はいつしか「遠州の小江戸」とよばれるようになった。

繁栄ぶりは数字にも残っている。もっとも栄えた明治25年(1892年)ごろには、三十六軒もの廻船問屋が、あわせて五十九隻もの大型船を所有していたという。小さな河口の町に、これだけの船と商家が集まっていたことになる。なお、静岡県立中央図書館の教材資料には、掛塚湊の廻船問屋が株仲間(独占的な仲間組織)を形成していたことを示す史料が紹介されており、掛塚が個々の商家の集合というより、組織立った商業拠点であったことがうかがえる。

この繁栄が残した、もう一つの痕跡が「伊豆石」である。江戸へ材木や米を運んだ船は、帰り道は荷が軽い。そのままでは船が安定しないため、重しとして伊豆あたりの石を積んで帰ってきた。その石が、掛塚の蔵や塀の材料になった。町に残る伊豆石は、帰り荷という海運経済の合理性が、そのまま形になったものである。

成立文明17年(1485年)『梅花無尽蔵』に「懸塚」の名。近世に入り材木輸送の拠点として湊が発展。
商人廻船問屋。荷主と船主を結び、船・荷・代金・リスクを引き受けた業態。株仲間の存在も示唆される。
廻船材木輸送(近世前期)→御用米輸送(近世中期以降、伊勢・美濃の年貢米)。帰り荷は伊豆石。
最盛期明治25年(1892年)ごろ、廻船問屋36軒・大型船59隻。

村から町、そして竜洋町へ ── 行政沿革

湊としての繁栄の裏側で、掛塚は行政区画としても変遷を重ねている。明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行により掛塚村など5村が合併し「長上郡掛塚村」が発足した。明治29年(1896年)4月1日には郡制施行にともない所属郡が磐田郡へ変更され、同年6月29日には町制を施行して「磐田郡掛塚町」となる。昭和25年(1950年)の国勢調査時点で、掛塚町の人口は6,847人を数えた。

そして昭和30年(1955年)4月1日、掛塚町は十束村・袖浦村と合併して竜洋町が発足し、掛塚町としての歴史に幕を下ろした。平成17年(2005年)には竜洋町が磐田市へ合併し、現在に至る。掛塚は旧竜洋町の中心であり、川袋、白羽、十郎島、平松、駒場、岡、中島など天竜川河口の集落とともに、いまの竜洋地区の生活圏を形づくってきた。

鉄道の時代へ ── 湊の衰退

湊町の繁栄は、思わぬ方向から終わりを迎える。鉄道である。明治22年(1889年)、東海道線が開通した。重い荷を船でゆっくり運ぶ時代から、汽車で速く運ぶ時代へ。物の流れが根こそぎ変わり、掛塚の湊が担っていた輸送は、しだいに鉄道へ取って代わられていった。明治40年代には輸送機能はさらに縮小し、大正の初めには湊としての役目はほぼ失われている。五百年にわたって川と海をつないできた湊が、時代の転換のなかで静かに幕を下ろしたのである。

湊としての経済活動は鉄道の時代に役割を終えたが、その富と技術と誇りは、貴船神社の例祭「掛塚まつり」の絢爛な屋台という形で今も受け継がれている。祭礼と屋台文化の詳細は、貴船神社と海の安全を祈る水神信仰で扱っている。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、旧記事「掛塚湊と、遠州の小江戸とよばれたまち」(r001)の内容を引き継ぎ、新たな調査で得た行政沿革・株仲間に関する情報を加えて再構成したものです。資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。