磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第296号(通史総合・横断レビュー)
磐田の通史を総合する
古代の国府から平成の合併まで ── 時代別総論を横断する史料批判の試み
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田物語「大石浩之の磐田論考」では、古代・中世・近世・近代の各時代を総合する論考を個別に積み重ねてきた。本稿は、それら四つの時代別総論——第281号(古代)・第285号(中世)・第278号(近世=中泉天領)・第274号(近代行政と合併)——を先行研究として整理し、あわせて通史という叙述の方法を論じた第173号を方法的な下敷きとして、磐田の歴史を時代の切れ目を越えて一本の線で描くレビュー論考である。遠江国府と国分寺が置かれた古代の中心性が、荘園と湊の中世、天領と宿場の近世、合併と鉄道の近代へと、交通の要衝という位置を保ちながら組み替えられていく過程を追う。同時に、各時代で依拠しうる史料の性格——国史と発掘、断片と伝承、文書、告示と沿革史——が大きく異なり、「何がわかり何がわからないか」の形が時代ごとに変わることを史料批判的に示す。本稿の立場は、通史を一本に束ねる誘惑を戒めつつ、確度の層と「未確認」「記載なし」の区別を保ったまま、磐田の位置の連続と変容を記述する点にある。
キーワード:磐田通史/遠江国府/中泉代官/町村合併/交通の要衝/史料批判/確度の層
1. 問題設定 ── 通史を「総合の総合」として書き直す
磐田物語「大石浩之の磐田論考」では、これまで時代ごとに磐田の歴史を総合する論考を重ねてきた。古代を扱った第281号「古代の磐田を総合する」、中世を扱った第285号「中世の磐田を総合する」、近世の天領支配を扱った第278号「中泉代官と天領支配を総合する」、近代の行政再編を扱った第274号「磐田の近代行政と合併を総合する」がそれである。いずれも、個別の遺跡・人物・事件を論じた先行の各論を横断し、一つの時代を一枚の見取り図へまとめ直す試みであった。
本稿の課題は、これらの時代別総合論考を、さらにもう一段高いところから束ね直すことにある。すなわち、古代・中世・近世・近代の四つの総論を先行研究として整理し、磐田という土地の歴史を、時代の切れ目を越えて一本の線で描くことを目指す。これは各時代の内部を精しく論じ直す作業ではなく、時代と時代のつなぎ目に立って、磐田の位置がどう受け継がれ、どう組み替えられてきたかを見わたす作業である。既刊の各総論が縦糸だとすれば、本稿はそれらを横に貫く横糸を通す試みだといってよい1。
その際、本稿には二つの問いが並走する。第一の問いは、磐田の歴史に一本の線が引けるとして、その線は何を貫いているのか、である。結論を先取りすれば、それは天竜川の東岸に開けた台地と、東海道が横断する交通の要という立地に根ざした、遠江の中心という位置である。古代には国府・国分寺という国家の装置がここに集中し、中世には荘園と湊がひらけ、近世には天領支配の拠点と東海道の宿場が置かれ、近代には鉄道の駅を得て周辺町村を束ねる中枢となった。中心の中身は時代ごとに姿を変えるが、要衝であるという位置そのものは長く保たれた。
第二の問いは、その線を引く手つきに関わる。磐田の各時代は、じつは依拠しうる史料の性格が大きく異なる。古代は国家が編んだ正史と発掘調査が輪郭を与え、中世は断片的な記録と後世の伝承が混ざり合い、近世は膨大な文書が実務の細部まで残し、近代は告示と自治体沿革史が期日と区域を確定する。同じ「わかる/わからない」でも、その形は時代ごとに違う。したがって通史を一本の線で描くとき、どの時代についても同じ確度で語れると錯覚してはならない。史料の性格の違いを踏まえずに線を引けば、確度の低い時代を高い時代に合わせて過剰に語り、あるいは逆に、豊かに残る時代の細部を薄い時代に合わせて切り縮めることになる。
この二つの問い——貫かれる位置の連続と、史料の性格の断絶——を同時に扱うために、本稿は通史という叙述の方法そのものを一度立ち止まって検討した第173号「磐田を時代で歩く」を方法的な下敷きに据える。同号は、通史が地域の記憶に見通しを与える効用を認めつつ、断絶を連続と誤認させ、担い手の交替を無視して因果を捏造する危うさを指摘していた。本稿はその警告を引き受け、線を引く手つきを可視化しながら、四つの時代別総論を接続する。以下ではまず先行研究として各総論の到達点を整理し(第2節)、続いて古代から近代までを時代順に通観したうえで(第3〜6節)、時代を貫く位置と史料の性格を比較し(第7節)、結論に至る。
2. 先行研究の整理 ── 四つの時代別総論と一つの方法論
本稿が接続する先行研究は、いずれも既刊の論考である。ここでは各号の守備範囲と到達点を確認し、本稿がそれらのどこに立つかを明らかにしておく。横断のためには、まず縦糸それぞれの太さと材質を知らねばならない。
第281号「古代の磐田を総合する」は、遠江の国府・国分寺・総社という国家装置がこの地に集中した事実を、地理と交通、空間の配置、制度と人、史料の性格という四つの軸から論じた。同号は、国分寺跡の伽藍が発掘調査で確かめられた史実である一方、国府そのものの所在は複数の説が併存し一点に確定していないことを、遺跡の存在という史実と所在の比定という推定とに腑分けして示していた。古代についての本稿の記述は、この腑分けを引き継ぐ。
第285号「中世の磐田を総合する」は、古代や近世に比べて依拠しうる史料が乏しいという中世の特性を正面から引き受けた総論である。池田荘と掛塚湊の中世的展開、村と石高という近世的枠組みの起源、今川・武田・徳川が交錯した戦国期の支配の変遷、そして城之崎城をめぐる史実と伝承を、四層に腑分けして接合していた。とりわけ、乏しい史料を無理に一つの物語へ束ねることを避けるという同号の立場は、本稿が中世を扱う際の指針となる。
第278号「中泉代官と天領支配を総合する」は、近世の磐田を代表する主題として、中泉に置かれた徳川家康の中泉御殿と、幕府直轄領を治めた中泉代官所(中泉陣屋)とを扱った。同号の要は、しばしば一つのものとして語られてきた御殿と代官所を、機能・存続期間・主体の面から峻別した点にある。あわせて秋鹿家・林鶴梁・前島密という人を整理し、なぜ中泉が天領支配の中心地となり、その中心性が近代の磐田市へ引き継がれたのかを論じていた。本稿の近世節は、この峻別と中心性の継承という論点を受け取る。
第274号「磐田の近代行政と合併を総合する」は、性格の異なる旧町村が三度の再編を経て現在の磐田市へ束ねられていく過程を、1889年の町村制施行、昭和の大合併、2005年の新設合併という三つの波として通観した。同号は、合併の期日・対象町村・行政区域の変遷を自治体沿革史や告示によって確認できる史実として扱い、統合を促した力学を推定として腑分けし、あわせて旧村名や氏神が大字・地名として残る度合いから「何が統合され何が残ったか」を検討していた。本稿の近代節は、この三つの波の枠組みを踏襲する。
これら四つの時代別総論に対し、第173号「磐田を時代で歩く」は、時代を異にする痕跡を一本の線で結ぶ通史という叙述の方法それ自体を史料批判的に問うた論考であった。同号は通史の効用と危うさを両論し、線を引く手つきを可視化することを説いた。本稿にとって同号は対象であると同時に方法である。すなわち本稿は、四つの時代別総論を素材として通史を実際に一本引いてみせると同時に、その線の引き方を第173号の警告に照らして絶えず点検する。
本稿の立場。以上を踏まえ、本稿の立場を一文で示す。磐田の通史は、遠江の中心・交通の要衝という位置の連続として描きうるが、その線は各時代で性格を異にする史料の上に引かれるのだから、連続の強調が史料の性格の断絶を覆い隠すことのないよう、確度の層と「未確認」「記載なし」の区別を保ったまま記述されねばならない。連続と断絶のいずれか一方に寄せず、両者を同時に見晴らすことが本稿の目標である。
3. 古代 ── 国家の中心という始点
通史の線は、古代の磐田から引き始めるのが自然である。この地には、遠江国の国府・国分寺・総社という国家の装置が集中して置かれた。矢奈比賣神への神階授与を記す『続日本後紀』承和7年(840年)条、『日本三代実録』貞観2年(860年)条、そして『延喜式』神名帳に遠江国の式内社が列する記載は、いずれも国家が編んだ正史・格式に基づく史実として扱ってよい。古代の磐田は、律令国家の視野のなかに明確に位置を占めていた。
ここで古代の史料の性格を確認しておきたい。古代についてわれわれが持つのは、第一に国家的な編纂物、第二に発掘調査の成果である。国分寺跡の伽藍配置は、第281号が整理したとおり発掘によって地割が確かめられた史実であり、これは推定ではなく物として確認された事柄である。一方、国府そのものの所在は複数の説が併存し、一点に確定していない2。同じ古代でも、遺跡の存在という確度の高い層と、所在の比定という推定の層とが混在しているのであり、この二つを同じ確からしさで語ることはできない。
なぜこの地が遠江の中心となったのか。第281号は、天竜川の東岸に開けた磐田原台地の縁と、東海道が横断する交通の要という立地を、国府がここに置かれる現実的な条件として挙げていた。台地は水害を避けうる安定した地盤を、街道は都と国とを結ぶ交通を用意する。地形と交通の重なりが、国家装置を引き寄せた。この立地の利は古代に固有のものではなく、後の時代にも繰り返し中心性を呼び込む条件として働く。通史の線が貫くのは、まさにこの立地の持続性である。
ただし、古代についても「わかること」の外には広い「わからないこと」が広がる。国府の正確な位置、国司の日常的な統治の実態、国分寺が地域社会に果たした具体的な役割の多くは、史料の沈黙のなかにある。ここで区別すべきは、一次史料に突き当たっていない「未確認」と、そもそも史料に記載のない「記載なし」である。国府の所在は、手がかりとなる史料や遺構がなお探索されうるという意味で未確認に近く、国司個々の内面のごときは、そもそも記録される性質のものではないという意味で記載なしに近い。古代を語るとは、この確度の濃淡を一つずつ腑分けしながら、確かめられた点を線でつなぐ作業にほかならない。
4. 中世 ── 史料の乏しい時代の輪郭
古代から線を延ばすと、通史はただちに史料の薄い区間に入る。中世の磐田を扱った第285号が正面から引き受けたのは、この乏しさそのものであった。古代の国史や近世の文書に比べ、中世は依拠しうる記録が断片的で、しかもそこに後世の伝承が混じり込む。通史の線は、この区間で最も細く、切れやすい。
それでも輪郭は描ける。第285号は、天竜川河口の池田荘と掛塚湊にひらけた荘園と湊の中世的展開、掛塚・袖浦・十束といった村域と石高の起源、今川・武田・徳川が交錯した戦国期の支配の変遷、そして城之崎城をめぐる史実と伝承を接合していた。ここで注目すべきは、古代に国家装置を引き寄せた同じ立地の利が、中世には別の中心性を生んでいる点である。天竜川の水運と河口の湊は、国府という政治的中心とは異なる、交易と物流の結節をこの地にもたらした。中心の中身が政治から交易へと姿を変えながら、要衝という位置は保たれている。
中世の史料の性格は、古代とも近世とも異なる。古代が国家の編纂物という「上から」の史料に支えられ、近世が実務文書という「細部まで」の史料に恵まれるのに対し、中世の記録は断片的で、しばしば時代を下って書かれた由緒や軍記のなかに、後世の潤色を伴って現れる。城之崎城の築城伝説は、その典型である。第285号はこれを、記録は史実として、伝承は伝承として腑分けし、一次史料に突き当たっていない「未確認」と、史料に記載のない「記載なし」とを厳密に区別する姿勢で扱っていた。中世を語る難しさは、事実が少ないことよりも、事実と伝承の境目が曖昧になりやすいことにある3。
通史の観点から中世を見ると、この時代は二重の意味で「つなぎ目」である。第一に、古代の国家的秩序が解け、近世の村と石高という枠組みが準備される移行の時代であること。第285号が、村と石高を「近世につながる枠組みの起源」として中世に位置づけたのは、この連続性を捉えたものである。第二に、史料の性格が「上から」の記録から「細部まで」の文書へと切り替わる、記録様式の移行期でもあること。中世を薄い一本の線で急いで通り抜けてしまえば、この二重の移行が見えなくなる。通史の危うさが最も現れやすいのが、この史料の乏しい区間なのである。
ここで史料批判の観点から一つ補っておく。中世の記録がしばしば時代を下って書かれた由緒や軍記に依存する以上、そこに記された年紀や事績を、そのまま同時代の史実として受け取ることはできない。たとえば城之崎城の築城年を一年まで断定する語りに出会っても、それが後世の由緒に由来するのであれば、確度の層としては伝承にとどめるべきである。逆に、伝承であることを理由にその記録を捨て去るのも誤りである。伝承は、地域が何を記憶として選び取ってきたかを語る一次的な資料でもあるからだ。中世を通史へ織り込むとは、乏しい記録の一点一点について、それがどの層に属するかを判定しながら、確かめられた点だけを実線で結び、伝承の区間は破線のまま残しておく作業にほかならない。
5. 近世 ── 文書が語る天領・宿場・渡船・新田
近世に入ると、通史の線は一転して太く、確かになる。理由は単純で、史料が豊かになるからである。幕藩体制のもとで作成された膨大な行政文書、宗門帳、村方文書、宿場の記録が、実務の細部までを今日に伝える。中世に薄かった線が、近世では実務のひとつひとつまで追える太い帯になる。この史料量の落差そのものが、通史を読むうえで直視すべき事実である。
近世の磐田を代表する主題として、第278号は中泉の天領支配を扱った。徳川家康が休泊と鷹狩りの拠点として営んだ中泉御殿と、幕府直轄領を治めた行政機構である中泉代官所とが、この地に前後して置かれた。同号の要点は、しばしば一つのものとして混同されてきたこの二つを、機能・存続期間・主体の面から峻別したことにある4。御殿は将軍の休泊施設であり、代官所は年貢の収取と民政を担う統治機構であって、両者は性格を異にする。文書が豊かに残る近世だからこそ、こうした峻別が史料に即して可能になる。史料が乏しければ、そもそも御殿と代官所を分けて論じることすらおぼつかない。
中泉が天領支配の中心となった条件も、古代以来の立地の利の延長線上にある。第278号は、地形・水・交通・在地基盤の重なりを挙げていた。天竜川の水、東海道の交通、そして在地の秋鹿家のような支えが、代官所をこの地に定着させた。ここでも、古代に国府を引き寄せ、中世に湊をひらいた同じ立地が、近世には天領支配の拠点を呼び込んでいる。中心の担い手は国司から代官へと替わり、統治の様式も律令から幕藩へと替わるが、要衝という位置は連続している。
もっとも、近世についても史料が語りうる範囲には限りがある。第278号は、林鶴梁のような名代官による薬師堂再興や災害救済といった地域的役割を史実として整理する一方、代官の統治の動機や、施策の規模の実態については推定に腑分けしていた。文書が豊かに残るとは、あらゆる問いに答えが出るという意味ではない。何が行われたかは記録に残っても、なぜそれが行われたか、それがどれほどの効果を持ったかは、しばしば文書の外にある。近世は「文書の時代」であるがゆえに、かえって、文書が語ることと語らないことの境目を意識する史料批判が要る。維新期には中泉奉行として前島密が着任しており、近世の天領支配が近代へと接続していく結節が、ここにも見てとれる。
近世を通史へ織り込むうえで銘記すべきは、この時代の史料の豊かさが、かえって後続の時代の記述に影を落としうる、という点である。文書が細部まで残る近世を基準に据えると、断片しか残らない中世が不当に貧しく、告示に骨格を絞る近代が不当に無味乾燥に見えてしまう。だが史料の量と、その時代の実際の豊かさとは別物である。中世に文書が乏しいのは、その時代が空疎だったからではなく、記録の様式と保存の条件が異なっていたからにすぎない。通史の線を近世の解像度に合わせて全時代へ引き延ばそうとすれば、他の時代を歪めて描くことになる。各時代は、それぞれの史料の解像度に応じた筆致で描かれねばならない。近世の宿場・渡船・新田の細部が豊かに語れることは幸運であるが、その幸運を通史全体の基準にしてはならない。
6. 近代 ── 再編の時代と合併の三つの波
通史の線は、近代に入って性格をもう一度変える。近代は、それまでの村や領を、近代的な自治体という単位へ組み替えていく再編の時代である。第274号は、この過程を三つの波として通観していた。第一の波は1889年の町村制施行による近世的支配区分から近代的自治体への再編、第二の波は昭和の大合併における磐田町・磐田市の成立と周辺町村の形成、第三の波は2005年の新設合併による現在の磐田市の発足である5。
近代の史料の性格は、古代・中世・近世のいずれとも異なる。合併の期日、対象となった町村、行政区域の変遷は、自治体沿革史や告示によって確認できる。これらは制度が自らを記録する性質の史料であり、「いつ、どこが、どのように統合されたか」という骨格については、極めて高い確度で確定できる。中世の断片や近世の実務文書とは対照的に、近代は制度的な記録が期日と区域を一点に画定する。通史の線は、近代においては日付まで確かめられる硬い線になる。
だが、ここでも史料が語る範囲には注意が要る。第274号は、合併の骨格を史実として扱う一方、統合を促した力学——なぜその町村が、その時期に、その相手と結ばれたのか——を推定として腑分けしていた。告示は結果を記すが、動機や交渉の機微までは記さない。近代は記録の豊かな時代であるにもかかわらず、いや、むしろ記録が制度の外形に集中するがゆえに、統合の内実については「未確認」の領域が残る。硬い線に見えるからこそ、その硬さがどこまで及ぶのかを見極めねばならない。
近代は、通史の観点から見て示唆に富む時代でもある。第274号が、村が町となり市となる過程で何が単一の行政単位として統合され、逆に旧村名や氏神・生活圏として何が残ったかを、大字・地名の残存という指標から検討していたことは重要である。合併は上から一枚の行政区域を描くが、その下には旧村の記憶が地名や祭りとして残り続ける。この「統合されたもの」と「残ったもの」の二重性は、じつは通史そのものの構造でもある。一本の線でまとめられた磐田の下には、束ねきれない個別の村々の時間が横たわっている。近代の合併史は、通史という叙述が何を束ね何を取りこぼすかを、縮図のように示している。
この二重性は、確度の観点からも見のがせない。合併の骨格が告示によって史実として確定できる一方で、統合の下に残った旧村の記憶——地名・氏神・祭り・生活圏——は、告示には現れず、口碑や慣行のなかに伝承として生き続ける。すなわち近代においてすら、史実の層と伝承の層は同居している。制度の記録が硬い線を引く時代だからといって、その線の下の柔らかな記憶を見落としてよいわけではない。通史を書く者は、告示が確定する骨格と、地名が伝える記憶とを、それぞれの確度の層に置いたまま併記しなければならない。近代を「もっとも確かな時代」と一括りにする油断こそ、この時代に固有の史料批判上の落とし穴である。
7. 時代を貫く位置と史料の性格 ── 比較と史料批判
四つの時代を通観したところで、本稿の二つの問いに立ち返る。第一に、時代を貫く位置。古代の国府、中世の湊、近世の代官所、近代の市役所——中心の担い手と様式は時代ごとに替わりながら、天竜川の東岸の台地と東海道が交わる要衝という位置は、繰り返し中心を引き寄せてきた。これは各時代別総論が個別に指摘していた立地の利を、横断して並べたときに初めて一本の線として浮かび上がる連続である。磐田を通史として描く意義は、この位置の持続を可視化する点にある。
第二に、史料の性格の違い。ここが本稿の中核である。同じ磐田の歴史でありながら、各時代で「何がわかり何がわからないか」の形はまったく異なる。古代は国家の編纂物と発掘が点として輪郭を与え、中世は断片と伝承が薄く混ざり、近世は実務文書が細部まで連続的に残り、近代は告示と沿革史が骨格を一点に画定する。この史料の性格の落差を無視して通史を語れば、確度の異なる時代を同じ調子で叙述する誤りに陥る。以下の比較表は、各時代の史料と確度を対等の粒度で並べ、この落差を可視化することを目的とする。
| 時代 | 主な史料 | 史料の性格 | 確度の中心 | わかりやすいこと | わかりにくいこと(未確認) |
|---|---|---|---|---|---|
| 古代 | 国史(続日本後紀・三代実録)、延喜式、発掘調査 | 「上から」の編纂物+物としての遺構 | 史実(遺構)/推定(所在比定) | 国家装置の存在、神階、伽藍配置 | 国府の正確な所在、統治の日常 |
| 中世 | 断片的記録、由緒、軍記、後世の伝承 | 断片的・伝承混在 | 推定・伝承が厚い | 荘園・湊・城の存在、支配の交錯 | 築城年、事件の細部、伝承の史実性 |
| 近世 | 行政文書、村方文書、宿場記録 | 「細部まで」連続する実務文書 | 史実(外形)/推定(動機・規模) | 御殿と代官所の別、代官の施策 | 統治の動機、施策の実効の程度 |
| 近代 | 告示、自治体沿革史、統計 | 制度が自らを記す記録 | 史実(期日・区域) | 合併の期日・対象・行政区域 | 統合の力学、交渉の機微 |
この表から読み取れるのは、確度の高さが時代の新しさに単純に比例するわけではない、という事実である。近代がもっとも硬く確定でき、中世がもっとも薄いのは確かだが、古代もまた発掘という物的証拠によって、ある部分では中世より確度が高い。つまり通史の線の太さは、時代順に一様に太くなるのではなく、史料の残り方に応じて伸縮する。この伸縮を均して一様な太さの線に描いてしまうことこそ、第173号が警告した通史の危うさの一つの現れである。線を引く者は、自分がいま史料の厚い区間を通っているのか、薄い区間を通っているのかを、常に自覚していなければならない。
ここで第173号が両論した通史の効用と危うさを、本稿の四時代に即して確認しておく。効用は明白である。古代の国府から近代の合併までを一本の線で結ぶことで、磐田という土地に見通しと連続の感覚が生まれる。ばらばらに見えていた国府・湊・代官所・市役所が、要衝という位置を軸に一つの物語として立ち上がる。この見通しは、地域の歴史を初めて学ぶ者にとって確かな導きとなる。
だが危うさも同じところに宿る。第一に、線は断絶を連続と誤認させる。古代の国家的中心と近代の行政的中枢のあいだには、担い手も制度も断絶があるにもかかわらず、一本の線はそれを滑らかな連続として見せてしまう。第二に、線は担い手の交替を無視して因果を捏造しかねない。国府があったから代官所が置かれ、代官所があったから市役所が置かれた、という因果は、じつは立地の利が別々の時代に別々の理由で働いた結果を、後から一本に結び直したものにすぎない。位置の連続は事実だが、その連続が意図された継承であったかのように語るのは、推定を史実に格上げする誤りである。本稿が「位置は連続するが、担い手と様式は断絶する」と繰り返し書き分けてきたのは、この誤りを避けるためである。
したがって史料批判の観点から本稿が守るべき規律は、四つの時代のいずれについても共通する。すなわち、確認できたことは史実として、地域が語り継いだことは伝承として、根拠はあるが未確定のことは推定として、それぞれの層に置いたまま線でつなぐこと。そして一次史料に突き当たっていない「未確認」と、史料に記載のない「記載なし」とを混同しないこと。この規律を守るかぎり、通史は危ういどころか、むしろ各時代の確度の違いを浮き彫りにする有効な道具となる。
付言すれば、位置の連続を語るときにも、同じ史料批判が働く。古代の国府と近世の代官所が同じ要衝に置かれたことは、地理の条件から説明できる推定として妥当だが、両者を結ぶ具体的な連続の史料——たとえば国府の故地であることが代官所の設置を直接に導いたと記す文書——は、本稿の範囲では確認できていない。これは、そのような連続が存在しなかったという「記載なし」の断定ではなく、連続を証する一次史料に突き当たっていないという「未確認」の状態である。位置の連続は、各時代の立地条件が独立に同じ土地を選んだ結果としても十分に説明でき、その説明のほうがむしろ史料に忠実である。通史の線が示すのは、意図された継承ではなく、立地の利がもたらした反復なのだと理解しておきたい。
8. 結論 ── 一本の線を引く効用と禁欲
本稿は、古代・中世・近世・近代の四つの時代別総論を先行研究として横断し、通史の方法を論じた第173号を下敷きに、磐田の歴史を一本の線で描くことを試みた。得られた見取り図は次のとおりである。磐田には、天竜川の東岸の台地と東海道が交わる交通の要衝という立地があり、その位置が、古代の国府、中世の湊、近世の代官所、近代の市役所と、時代ごとに姿を変える中心を繰り返し引き寄せてきた。中心の担い手と統治の様式は断絶しながら、要衝であるという位置は連続している。これが本稿の描いた一本の線である。
しかし本稿の力点は、線を引けたことよりも、その線がどのような史料の上に引かれているかを腑分けした点にある。古代は国史と発掘、中世は断片と伝承、近世は実務文書、近代は告示と沿革史——各時代で「何がわかり何がわからないか」の形は根本的に異なり、通史の線の太さは史料の残り方に応じて伸縮する。この史料の性格の違いを均して一様な線に描くことは、断絶を連続と誤認させ、立地の利が別々に働いた結果を意図された継承へと捏造する危うさを孕む。第173号の警告は、四つの時代を実際につないでみて、いっそう具体的な重みをもって確かめられた。
したがって本稿の立場は、次の禁欲として要約できる。通史は、磐田の位置の連続を可視化する有効な道具である。しかしその線は、各時代の確度の層を保ったまま、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承を史実の劣位に落とさず、推定を確定説と偽らず、位置の連続を担い手の継承とすり替えないという規律のもとでのみ、引かれてよい。連続を語る筆と、断絶を書き留める筆とを、同じ手で持ち替え続けること——それが通史を書く者の引き受けるべき責任である。
最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、中世という史料の薄い区間については、断片的記録の博捜と近隣地域との比較によって、未確認の領域を史実へ押し上げる余地がなお大きい。第二に、古代の国府所在論は、本稿が前提として引き受けた未確定の問いであり、発掘の進展によって通史の始点そのものが書き替わりうる。第三に、各時代別総論が個別に扱った祭礼・信仰・生活の細部を、本稿の通史の線にどう織り込むかは、なお手つかずである。これらはいずれも、四つの縦糸と一本の横糸のあいだに残された結び目であり、確度の層を保ったまま一つずつ結び直していく作業に属する。磐田の通史は、一度描いて完成する絵ではなく、史料が加わるたびに引き直される線である。その引き直しの手つきを可視化し続けることこそ、本シリーズが積み重ねてきた総合の作法にほかならない。
注
- 本稿でいう「総合」「通史」の含意、および通史という叙述の効用と危うさについては、大石浩之「磐田を時代で歩く ── 古墳・国府・宿場・祭りをつなぐ通史の試み」(大石浩之の磐田論考 第173号)に詳しい。本稿はその方法的検討を前提として横断を行う。↩
- 国分寺跡の伽藍配置は発掘調査によって確かめられた史実であり、国府の所在は複数の説が併存し一点に確定していない。両者の腑分けは大石浩之「古代の磐田を総合する」(第281号)による。↩
- 中世の史料の乏しさと、記録・伝承の腑分けの方法については、大石浩之「中世の磐田を総合する」(第285号)に拠る。池田荘・掛塚湊・城之崎城をめぐる叙述も同号による。↩
- 中泉御殿と中泉代官所(中泉陣屋)の峻別、および秋鹿家・林鶴梁・前島密に関する整理は、大石浩之「中泉代官と天領支配を総合する」(第278号)による。↩
- 1889年の町村制施行、昭和の大合併、2005年の新設合併という三つの波、および合併の骨格を史実、統合の力学を推定として腑分けする方法は、大石浩之「磐田の近代行政と合併を総合する」(第274号)による。↩
付記:本稿は既刊の時代別総合論考(第281号・第285号・第278号・第274号)を先行研究として整理・史料批判し、第173号の方法的検討を下敷きとする横断的レビュー論考である。各時代の事実は各号の到達点に依拠し、確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別した。840年・860年および延喜式の記載を史実、国府所在の比定を推定として扱っている。
参考文献・参考資料
- 大石浩之「古代の磐田を総合する ── 国府・国分寺・国司が結ぶ遠江の中心」大石浩之の磐田論考 第281号、磐田物語、2026年。https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/281/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「中世の磐田を総合する ── 荘園・湊・城と支配の変遷」大石浩之の磐田論考 第285号、磐田物語、2026年。https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/285/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「中泉代官と天領支配を総合する ── 御殿・陣屋・代官所が治めた土地」大石浩之の磐田論考 第278号、磐田物語、2026年。https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/278/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「磐田の近代行政と合併を総合する ── 町村制から平成の大合併まで」大石浩之の磐田論考 第274号、磐田物語、2026年。https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/274/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「磐田を時代で歩く ── 古墳・国府・宿場・祭りをつなぐ通史の試み」大石浩之の磐田論考 第173号、磐田物語、2026年。https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/173/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 『続日本後紀』承和7年(840年)条。
- 『日本三代実録』貞観2年(860年)条。
- 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市)。
- 静岡県『静岡県史』通史編(静岡県)。
- 磐田市教育委員会・文化庁ほか『遠江国分寺跡』発掘調査報告書(該当年次)。
- 磐田市 市町村合併・自治体沿革に関する告示および沿革資料。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。