磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第281号(古代磐田総合研究)
古代の磐田を総合する
国府・国分寺・国司が結ぶ遠江の中心 ── 既刊各論を先行研究として整理する横断的総合論考
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
古代の磐田には、遠江国の国府・国分寺・総社という国家装置が集中して置かれた。本稿は、これらを個別に論じてきた既刊各論——国分寺、府八幡宮と国府、国府所在論、国司、国分寺の千年——を先行研究として整理し、古代の磐田がなぜ遠江国の中心となったのかを、地理と交通、空間の配置、制度と人、史料の性格という四つの軸から総合する。天竜川の東岸に開けた磐田原台地の縁と、東海道が横断する交通の要という立地は、国府がこの地に置かれる現実的な条件を用意した。国分寺跡の伽藍は1951年以降の発掘調査で地割が確かめられた史実であるが、国府そのものの所在は複数の説が併存し、一点に確定していない。本稿は遺跡の存在という史実と、所在の比定という推定とを一貫して腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別しながら、中心という現象を確度の層として記述する立場をとる。
キーワード:遠江国府/遠江国分寺/総社/国司/中泉/古代の交通/史料批判
1. 問題設定 ── 古代の磐田を「総合する」とは何か
古代の磐田は、遠江国の中心であった。国司が政務を執る国府が置かれ、鎮護国家の祈りを担う国分寺が建ち、国内の神々をまとめてまつる総社が営まれた。律令国家が地方を治めるために用いた装置が、いずれもこの狭い範囲に集中していた。現在の磐田市中泉から見付にかけての一帯は、こうした古代の国家機構が折り重なった土地である。
本論考シリーズは、これまでこの土地の古代を、対象ごとに書き分けてきた。遠江国分寺を論じ、府八幡宮と国府の記憶を論じ、国府の所在を論じ、国司という官人を論じてきた。それぞれの論考は、一つの対象を深く掘り下げることで成り立っている。しかし対象を分けて論じるかぎり、それらがなぜ同じ土地に集まったのか、互いにどう結びついていたのかという、より大きな問いは視野の外に残される。本稿はこの残された問いに向き合い、個別の各論を横断して古代の磐田を一つの像として結び直すことを課題とする。
「総合する」とはどういう作業か。ここで意味するのは、各論の結論を足し合わせて一つの物語に均すことではない。むしろ、それぞれの論考が到達した確度の水準を保ったまま、対象どうしの関係を描き出すことである。国分寺の伽藍が発掘で確認できる史実であることと、国府の所在が推定にとどまることとは、確度の層が異なる。この差を消さずに、しかし両者を同じ空間のなかに位置づける——それが本稿のいう総合である。層を均せば、確かなことと確かでないことが同じ濃さで語られ、読者は何が史実で何が推定かを見分けられなくなる。それは総合ではなく混同である。
この作業には、あらかじめ腑分けしておくべき区別が二つある。第一に、遺跡の存在と、その遺跡が何であったかの比定とを分けることである。国分寺跡や周辺の遺構が地中に存在することは、発掘によって確認できる史実である。だがある遺構を「国府の政庁」と比定することは、史料と考古資料からの推論であり、確定ではない。遺跡があること自体は動かないが、それが国府であるかどうかは別の問いである。第二に、「未確認」と「記載なし」を区別することである。ある事柄について一次史料に突き当たっていない状態(未確認)と、史料を博捜したうえで記載が無いと確かめた状態(記載なし)とは、意味がまったく異なる。前者は今後の調査で解消しうる暫定的な空白であり、後者は史料の側の沈黙そのものである。本稿はこの二つの区別を、以下の全編を通じて保つ。
以下ではまず、依拠する既刊各論を先行研究として整理し、本稿の立場と方法を明示する。続いて、なぜ磐田が中心になったのかを地理と交通から論じ、国府・国分寺・総社という装置の空間配置を描き、そこに赴任した国司という人の制度を検討する。そのうえで古代史料と発掘の性格を腑分けし、中泉という結節点に議論を収斂させて結論に至る。個別の各論では立てられなかった「なぜここに、これらがともに集まったのか」という問いを、確度の層を保ちながら一枚の見取り図へまとめることが、本稿の目指すところである。
2. 先行研究の整理 ── 既刊各論と本稿の方法
総合に先立ち、依拠する先行研究を整理しておく。本稿が横断する既刊各論は五編である。第一に、遠江国分寺を「跡」ではなく古代の中心空間として読み、伽藍配置と造営の論理を論じた第152号1。第二に、中泉の府八幡宮を手がかりに、国府・国分寺・総社という要素が重なる空間の結節点を論じた第157号。第三に、国府の所在をめぐる諸説——御殿・二之宮遺跡説、国分寺跡北側説、移転説——を対等に並べて史料批判した第187号。第四に、四等官制という制度と、そこに赴任した官人の千年をたどった第236号。第五に、これらのうち国分寺について創建から現代の移築までを通史として総合した、レビュー論考としての第272号である。
これらの各論は、対象も時間の幅も異なるが、方法において一つの共通した姿勢を分かちもっている。すなわち、史実・通説・推定・伝承を語の水準で書き分け、遺跡の存在と比定とを分け、「未確認」と「記載なし」を区別するという禁欲的な手続きである。第272号が国分寺について実践したこの横断的総合の方法を、本稿は国分寺だけでなく国府・総社・国司を含む古代の磐田全体へと押し広げる。対象の範囲が広がるぶん、確度の腑分けはいっそう慎重を要する。国分寺のように発掘で伽藍が確認できる対象と、国府のように所在すら定まらない対象とを、同じ紙面で扱わねばならないからである。
ここで本稿の立場を一文で示しておく。本稿は、古代の磐田が遠江国の中心であったことを史実として認めつつ、その中心を構成した個々の装置の所在や成立年代の多くが推定にとどまることを明記し、確度の異なる要素を層として区別したまま一つの空間像に統合する立場をとる。言い換えれば、「磐田は遠江の中心だった」という結論は堅く支えられるが、「その中心のどこに何があったか」の細部は確度の低い部分を多く含む、という二重の構えである。この構えを崩して細部まで断定すれば通説を超えた誇張になり、逆に細部の不確かさを理由に中心性そのものを疑えば史料の裏づけを軽んじることになる。
方法上、三つの区別を全編で保持する。第一に、遺跡の存在(史実)と、遺跡の性格の比定(推定)の区別。第二に、「未確認」(一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(博捜のうえ記載が無い)の区別。第三に、装置が置かれた地であること(場所の史実)と、その装置が具体的にどの位置にあったか(位置の推定)の区別である。これらはいずれも、確かなことを土台に置き、不確かなことをその上に慎重に積むための足場である。以下の各章は、この足場の上で組み立てられる。
3. なぜ磐田が遠江の中心になったのか ── 地理と交通
国府・国分寺・総社がこの地に集まった理由を問うとき、最初に立てるべきは地理の問いである。律令国家が国府や国分寺を置く場所は、自然に決まったのではなく、統治の都合に照らして選ばれた。したがって、なぜ磐田が選ばれたのかは、この土地がどのような地理的条件を備えていたかから逆に読み解くことができる。
第一の条件は、天竜川である。遠江国を東西に分ける大河・天竜川は、暴れ川として洪水を繰り返す一方、その東岸には磐田原台地が広がる。台地の縁は水はけがよく、洪水の直接の被害を受けにくい微高地であり、大規模な官衙や寺院を営むのに適した地盤を提供した。国分寺跡が台地の縁辺に位置することは、この地形的な合理性と整合する。大河の近くでありながら、その氾濫原を外れた安定した土地を選ぶという立地の論理は、古代の官衙一般に広く見られるものである。
第二の条件は、交通である。都と東国を結ぶ官道・東海道は、遠江国を横断してこの一帯を通った。国府は国内統治の拠点であると同時に、中央と地方を結ぶ情報と物資の結節点でもあり、幹線道路に近接して置かれることが望ましい。都から赴任する国司が到達し、税や貢納の物資が運ばれ、駅制による情報伝達が機能するためには、東海道への近接が不可欠であった。天竜川という東西交通の難所を控えたこの地は、川を渡る前後の拠点としても重みをもった。渡河点の近くに統治の中心が置かれることは、河川と官道が交差する要衝の一般的な性格である。
第三の条件は、水と平野である。台地の周縁には太田川水系などの中小河川が流れ、灌漑と水運の便を与えた。国府や国分寺を維持するには、周辺に一定の生産力をもつ農地と、それを担う人々の集住が要る。磐田原台地とその周辺の沖積地は、こうした経済的な後背地を用意した。統治の中心は、単に交通が便利なだけでなく、それを支える人と富を周囲に抱えていなければ成り立たない。
これら三つの条件——氾濫を避けた安定した地盤、東海道という幹線への近接、後背地となる平野の生産力——が重なった結果として、遠江国の中心はこの地に定まったと考えられる。ここで注意すべきは、これらの地理的条件が「なぜ磐田が中心になれたか」を説明する枠組みではあっても、「中心のどこに国府があったか」を決める根拠にはならない点である。地理は場所の選択(遠江国のなかで磐田が選ばれたこと)を説明するが、その内部での位置(磐田のどこに政庁が建ったか)までは決定しない。この区別は、次章以下で装置の空間配置を論じる際に、繰り返し立ち返るべき前提となる。
4. 国家装置の空間配置 ── 国府・国分寺・総社
地理が中心の場所を用意したとして、そこに置かれた装置は互いにどう配置されていたのか。律令国家が地方に展開した機構は、政治の国府、宗教の国分寺、神祇の総社という三つの核をもつ。これらは機能を分けながら、一つの空間のなかで連関していた。
国分寺は、天平13年(741年)の聖武天皇による国分寺建立の詔にもとづき、諸国に一つずつ建てられた官寺である2。遠江国分寺の跡は、金堂・講堂・七重塔・南大門・回廊などの伽藍配置が、1951年以降の発掘調査によって地割として確かめられ、国の特別史跡に指定されている3。これは古代の磐田について、位置まで含めて確認できる数少ない史実の一つである。鎮護国家の祈りを担う巨大な伽藍がこの地に営まれた事実は、磐田が遠江国の宗教的中心でもあったことを、地中の遺構によって裏づける。ただし、伽藍の細部の復元や造営の開始・完成の年を直接記す一次史料は、本稿の調査範囲では未確認である。建立の詔という国家の方針は史実として確認できるが、この地の国分寺がいつ完成したかという個別の年代は、なお推定の域にある。
総社は、国内の主要な神々を一社にまとめてまつるために設けられた社である。国司は本来、赴任した国の主要な神社を巡拝する義務を負ったが、その負担を軽減するために、国府の近くに神々を合わせまつる総社が営まれるようになったと考えられている。遠江の総社は淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)とされ、その存在は総社という制度が国府と不可分であったことを示す。総社が国府の近くに置かれるのは制度の論理からして自然であり、総社の位置は、国府の所在を推し量るうえでの一つの手がかりともなる。もっとも、これは手がかりであって決定的な証拠ではない。総社と国府の距離や向きが制度上どれほど厳密に定められていたかは一様でなく、総社の位置から国府の位置を一点に逆算することはできない。
そして国府である。国府は国司が政務を執る政庁とその関連施設の総体であり、古代の磐田における統治の中心であった。ところが、この最も中心的な装置の所在こそが、いまなお確定していない。国府の所在をめぐっては、御殿・二之宮遺跡説、国分寺跡北側説、駒場から見付への移転説など複数の説が併存し、それぞれに根拠と弱点がある。国府が磐田周辺に置かれたこと自体は、国分寺・総社の配置や「府」を負う地名から強く支持される史実に近い通説であるが、その具体的な位置は推定の段階にとどまる。この「場所は確か、位置は未確定」という二重性が、古代の磐田を論じるうえでの核心的な難しさである。
三つの装置の関係を整理すると、次のようになる。国府が統治の中枢として存在し、その近傍に鎮護国家の国分寺と神祇統轄の総社が配され、これらが一体となって遠江国の中心を構成した。国分寺と総社は位置が確かめられ、あるいは比定に近い一方、その要となる国府だけが空間のなかに定位できていない。地図でいえば、周囲の目印は打てるのに、中心の一点だけが空白のまま残されている状態である。この空白を、確度の低い推定で埋めてしまわないことが、史料批判の要請するところである。
5. 国司という人 ── 都から赴任した制度
これまで論じてきた国府・国分寺・総社は、いずれも施設であり空間である。だが古代の磐田を総合するには、その空間を実際に動かした人を欠かすことができない。国府に赴任し、政務を執り、税を集め、裁きを行い、軍事に備えた官人——国司である。
国司は、律令の官制にもとづき、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官から構成された4。守が長官として国務を統轄し、介が次官として補佐し、掾が判官として実務を担い、目が主典として文書と会計を扱う。この四段の職掌は全国の国府に共通する制度であり、遠江国府もその例外ではない。重要なのは、これらの官人が在地の有力者ではなく、原則として都から派遣され、任期を終えれば都へ帰る中央派遣官人であったという点である。すなわち古代の磐田の統治は、この地に土着した人々ではなく、都との人的な往還のうえに成り立っていた。
名の残る遠江の国司としては、奈良時代の文人官僚・淡海三船(おうみのみふね)が遠江守を務めたと伝えられる。三船は『懐風藻』の撰者とも目される学識の人であり、そうした中央の知識人がこの地に赴任した事実は、古代の磐田が都の文化と直結する統治拠点であったことを物語る。また『万葉集』巻20には、遠江国からも防人が徴発され、その別れを詠んだ歌が収められている。防人の徴発と部領は国司の職務の一つであり、防人歌の背後には、都の命を受けて人を集め送り出す国府の機構が存在した。歌に詠まれた個々の別れの情は、制度としての国司の職務が、生身の人々の暮らしに及んだ痕跡でもある。
時代が下ると、この中央派遣の仕組みは変質する。平安時代の後半以降、国司が任国に赴かず都にとどまる遥任や、現地の実務を在庁官人が担う体制が広がり、やがて国府を通じた直接統治は形骸化していく。国府という空間はしばらく機能を保つが、それを動かす人のあり方は、律令の理念から大きく離れていった。古代の磐田を「中心」たらしめた国司という人の制度は、こうして数百年をかけて姿を変え、中世の在地社会へと溶けていったのである。
ここでも確度の腑分けが要る。四等官制という制度の骨格は、律令の条文と正史によって確認できる史実である。淡海三船が遠江守であったこと、遠江から防人が徴発されたことも、文献に根拠をもつ。しかし、個々の国司が実際に遠江へ下向したかどうか、任地でどのような政務を執ったかの具体は、多くの場合、史料で追いきれない。制度は確かでも、その制度を生きた個々人の事績は未確認の部分を多く残す。人を論じる際にも、制度の史実と個人の事績の推定とを混同しないことが、記述の節度である。
6. 古代史料と発掘の性格 ── 比定の確度を腑分けする
ここまでの各章で繰り返し確度の層に触れてきたが、本章ではその根拠となる史料と発掘の性格そのものを検討する。古代の磐田を語る材料は、大きく分けて二種類ある。文字による史料と、地中から出る考古資料である。両者はそれぞれ得意とすることと語りえないことをもち、その限界を知ることが、比定の確度を見きわめる前提となる。
文字史料の中心は、いわゆる六国史と『延喜式』である。『続日本紀』は国分寺建立の詔を伝え、『続日本後紀』『日本三代実録』は矢奈比賣神への神階授与を記し、『延喜式』神名帳は遠江国の式内社を列挙する5。これらは国家が編んだ編纂物であり、記載された事柄は史実として扱ってよい。だが注意すべきは、これらの史料が国家の視点から書かれているという性格である。神階の授与や官社の一覧は、律令国家が神祇や地方をどう把握したかを示すが、その神社が地上のどこに建ち、その祭礼がどのような姿であったかまでは語らない。国史は「格」を記すが「位置」や「形」を記さない。この史料の沈黙を、記述が無いこと(記載なし)と読むか、たまたま伝わらないこと(未確認)と読むかは、慎重に区別されねばならない。
もう一方の考古資料は、文字史料の沈黙を補う。国分寺跡の伽藍配置が発掘で確かめられたことは、文献が語らない「位置」と「規模」を地中から引き出した好例である。発掘は、そこに何があったかを物質として示す点で、文字史料にない確度をもつ。しかし考古資料もまた万能ではない。遺構は「そこに建物があった」ことを示すが、「その建物が国府の政庁であった」という比定は、遺構の性格や規模、出土遺物、文献との照合を経た推論である。ある大規模な遺構が見つかっても、それを国府と断ずるには、なお解釈の飛躍を要する。国府所在論が複数の説に分かれるのは、まさにこの比定の困難による。遺跡の存在は史実だが、遺跡の性格の比定は推定である——この区別は、考古資料を扱ううえで一貫して保たれねばならない。
ここで、確度の四つの層をあらためて定義しておく。第一に史実、すなわち史料や発掘によって確認できる事柄。国分寺建立の詔、伽藍の地割、神階の授与がこれにあたる。第二に通説、学界で広く支持されるが一点で確定はできない事柄。磐田周辺に国府が置かれたという理解はこの層に近い。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。国府の具体的な所在の各説がこれである。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄。府八幡宮の創建をめぐる社伝などが含まれる。古代の磐田を論じる材料は、この四層に散らばっている。総合とは、これらを一つに均すことではなく、各要素をそれが属する層に正しく置き、層をまたいだ断定を避けながら空間像を組み立てることにほかならない。
この腑分けの実践的な意味は、二つの誤りを同時に避けることにある。一つは、推定を史実のように語る誤りである。国府の所在を特定の一説に断定して地図に一点を打てば、確度の低い推論が確定した知識のように流通してしまう。もう一つは、確度が低いことを理由に、価値ある推論や伝承を切り捨てる誤りである。所在が未確定だからといって、国府がこの地にあったという中心性そのものを疑うのは、史実に近い通説を過度に軽んじることになる。四層の腑分けは、この両極の過ちのあいだに、記述の適正な位置を定めるための座標軸である。
| 要素 | 確度の層 | 確認できること(史実) | 未確定・推定にとどまること | 主な資料 |
|---|---|---|---|---|
| 遠江国分寺 | 史実(位置まで) | 伽藍配置の地割。特別史跡。建立の詔(741年)。 | 造営の開始・完成年、伽藍細部の復元。 | 続日本紀、発掘調査、特別史跡指定。 |
| 総社(淡海國玉神社) | 通説・比定 | 遠江総社とされる社の存在。総社制度の一般像。 | 成立年、国府との厳密な距離・方位。 | 由緒書、総社制度の研究。 |
| 遠江国府 | 場所=通説/位置=推定 | 磐田周辺に置かれたこと(配置・地名から)。 | 政庁の具体的所在。諸説が併存し未確定。 | 国府所在論の諸説、周辺遺構。 |
| 国司(四等官) | 制度=史実/個人=推定 | 守・介・掾・目の制度。淡海三船・防人歌。 | 個々の国司の下向・任地での事績。 | 律令、六国史、万葉集巻20。 |
| 矢奈比賣神社 | 史実(神社の古さ) | 神階授与(840年・860年)、式内社。 | 現行祭礼形式の成立年代。 | 続日本後紀、三代実録、延喜式。 |
7. 中泉という結節点 ── 空間の総合
これまで要素ごとに論じてきた国府・国分寺・総社・国司を、最後に一つの空間へ収斂させる手がかりとなるのが、中泉という土地である。現在の磐田市中泉には、社名そのものに「府」を負う府八幡宮が鎮座する。「府」とは国府を指す語であり、この社名は、この地が遠江国府と深く関わる場であったことを、地名として今に伝えている。
府八幡宮の創建については、遠江守として赴任した国司がその邸内に八幡神を勧請したことに始まると社伝は伝える。これは社伝すなわち伝承の層に属する説明であり、創建の年や事情を直接記す一次史料は本稿の範囲では未確認である。だが、社伝の内容そのものの真偽とは別に、「国府と結びついた社」という自己理解が中泉の地に長く伝えられてきた事実は、それ自体が一つの手がかりとなる。地名や社名、社伝といった地域の記憶は、一次史料が沈黙する古代の空間について、間接的な証言を与える。むろん、それは証拠ではなく手がかりであり、記憶が事実をそのまま保存しているとは限らない。しかし、複数の手がかりが同じ方向を指すとき、そこには一定の蓋然性が生まれる。
中泉に「府」の地名と府八幡宮があり、その周辺に国分寺跡が確かめられ、遠江総社たる淡海國玉神社が営まれ、そして見付には矢奈比賣神社が古代以来の格を保つ——これらの要素が狭い範囲に集中していることは、この一帯が古代遠江の国家的中心であったことを、複数の独立した手がかりから支える。国分寺跡という発掘の史実、総社という制度の比定、「府」という地名の記憶、式内社という文献の裏づけ。層の異なる証言が同じ土地の中心性を指し示すとき、その中心性そのものは高い確度で認めてよい。ただし、繰り返し確認してきたように、中心のなかの一点——国府の政庁がどこに建っていたか——だけは、なお空白のまま残る。
この空間を実際に支えたのは、古代のみならず、後の時代にこの地に暮らした人々であった。中泉は近世には天領として代官所が置かれ、東海道の見付宿とともに、地域の政治と交通の要であり続けた。古代に国府が置かれた土地が、時代を超えて統治と交通の結節点であり続けたことは、第3章で論じた地理の条件が、一時のものではなく持続的にこの地に働いていたことを示す。安定した地盤、幹線への近接、後背地の生産力という条件は、律令国家が去った後も変わらずこの地にあり、それが中泉を繰り返し中心へと押し上げた。古代の磐田を総合するとは、この持続する地理の力の上に、時代ごとに異なる統治の装置が積み重なってきた過程を読むことでもある。
こうして中泉を結節点として見ると、これまで別々の各論で論じてきた要素が、一つの空間像のなかに位置を得る。国分寺は台地の縁に伽藍を構え、総社は神々を合わせまつり、国府はその近傍のいずこかに政庁を置き、都から下った国司がこれらを動かした。「府」の地名がその記憶を今に伝え、東海道と天竜川が全体を交通の網目のなかに繋ぎとめる。個々の各論が掘り下げた確度の層を保ったまま、これらを一枚の見取り図へと重ね合わせること——それが本稿の試みた総合の到達点である。
8. 結論 ── 中心という現象を確度の層として記述する
本稿は、古代の磐田を扱った既刊各論——国分寺、府八幡宮と国府、国府所在論、国司、国分寺の千年——を先行研究として整理し、地理と交通、空間の配置、制度と人、史料の性格という四つの軸から、この地が遠江国の中心となった過程を総合した。得られた見取り図は次のとおりである。天竜川東岸の安定した地盤、東海道という幹線への近接、後背地の生産力という三つの地理的条件が、この地を中心の場所として選ばせた。そこに国分寺・総社・国府という国家装置が集中し、都から赴任した国司がこれを動かした。国分寺の伽藍は発掘で確認できる史実であり、矢奈比賣神社の古さは国史に確認できる史実である。一方で、要となる国府の具体的な所在は複数の説が併存し、なお推定の域にとどまる。
この総合から浮かび上がるのは、「中心」という現象が単一の確度で語れるものではない、という認識である。磐田が遠江の中心であったことは高い確度で認められる。しかし、その中心を構成した個々の装置の位置や年代の多くは、確度の低い部分を含む。中心性という大きな史実と、その細部の未確定とが、同じ土地の上に共存している。古代の磐田を記述するとは、この二重性を消さずに書き留めることであり、確かなことを確かとして、不確かなことを不確かとして、それぞれの層に正しく置き分けることである。
したがって本稿の立場は、次の一文に集約される。古代の磐田の総合とは、各論の結論を足し合わせて一つの滑らかな物語を作ることではなく、確度の異なる要素を層として区別したまま、それらの空間的な関係を描き出すことである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、遺跡の存在と比定とを分ける。この禁欲的な手続きを守るかぎりにおいて、総合は誇張にも懐疑にも陥らずに、古代の磐田の像を後世の調べものに耐える形で残すことができる。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、国府の所在は、今後の発掘によって未確認を史実へと押し上げうる最大の主題である。周辺遺構の調査が進めば、現在は推定にとどまる諸説のいずれかが、確度を大きく変えるかもしれない。第二に、総社と国府の位置関係、府八幡宮の創建をめぐる社伝の史料的検討は、地名・社伝という記憶の層を、より確かな手がかりへと精錬する作業を要する。第三に、国司という人の制度が中世の在地社会へ移り変わっていく過程は、古代の中心が解体し、近世の中泉・見付という新たな結節点へと再編されていく長い時間の記述として、稿を改めて論じるに値する。古代の磐田は、確かな史実と未確定の推定とが折り重なった土地である。その重なりを均さず、層のまま丁寧に積み上げていくこと——その先にこそ、遠江の中心であったこの地の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 本稿が横断する既刊各論は、大石浩之の磐田論考 第152号「遠江国分寺とは何か」、第157号「府八幡宮と遠江国府の記憶」、第187号「遠江国府はどこにあったのか」、第236号「遠江国司の人々」、第272号「遠江国分寺の千年」である。いずれも磐田物語 /oishi-ronko/ に収録。↩
- 天平13年(741年)の国分寺建立の詔は『続日本紀』に記載がある。諸国に国分寺・国分尼寺を建立させた国家の方針を示す史実である。↩
- 遠江国分寺跡の伽藍配置は1951年以降の発掘調査によって確かめられ、国の特別史跡に指定されている。指定内容は文化庁「国指定文化財等データベース」を参照。ただし造営の開始・完成年を直接記す一次史料は本稿の調査範囲では未確認である。↩
- 守・介・掾・目の四等官制は律令の官制にもとづく。遠江守として淡海三船が務めたと伝えられ、『万葉集』巻20には遠江国の防人歌が収められている。↩
- 『続日本後紀』承和7年(840年)条、『日本三代実録』貞観2年(860年)条、および『延喜式』神名帳による。いずれも国家的編纂物であり、神社の古さや神階を示す史実として扱う。↩
付記:本稿は既刊各論(第152・157・187・236・272号)を先行研究として整理・史料批判し、古代の磐田を横断的に総合する立場から再構成した論考である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、遺跡の存在と比定、「未確認」と「記載なし」を一貫して分けた。
参考文献・参考資料
- 『続日本紀』天平13年(741年)条(国分寺建立の詔)。
- 『続日本後紀』承和7年(840年)条。
- 『日本三代実録』貞観2年(860年)条。
- 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
- 『万葉集』巻20(防人歌)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、古代の章)。
- 遠江国分寺跡 発掘調査関連資料(磐田市教育委員会)。
- 淡海國玉神社(遠江総社)由緒書。
- 府八幡宮(磐田市中泉)由緒書。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」特別史跡 遠江国分寺跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第152号「遠江国分寺とは何か」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/152/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第157号「府八幡宮と遠江国府の記憶」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/157/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第187号「遠江国府はどこにあったのか」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/187/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第236号「遠江国司の人々」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/236/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第272号「遠江国分寺の千年」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/272/ (最終閲覧:2026年7月26日)。