磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第278号(中泉統治史研究 総合)
中泉代官と天領支配を総合する
御殿・陣屋・代官所が治めた土地 ── 既刊各論を横断する史料批判の試み
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
本稿は、磐田市中泉の天領支配を主題とする既刊の各論を横断し、一本の総合論考として整理・史料批判するレビュー論文である。中泉には、徳川家康が休泊と鷹狩りの拠点として営んだ中泉御殿と、幕府直轄領を治めた行政機構である中泉代官所(中泉陣屋)とが前後して置かれ、この二つはしばしば一つのものとして語られてきた。本稿はまず御殿と代官所の混同を、機能・存続期間・主体の面から峻別することを起点に据える。そのうえで、御殿を預かった在地の秋鹿家、名代官・林鶴梁、維新期の中泉奉行・前島密という人を整理し、薬師堂再興や災害救済に見える代官の地域的役割を検討する。さらに、なぜ中泉が天領支配の中心地となり、その中心性が近代の磐田市へと引き継がれたのかを、地形・水・交通・在地基盤の重なりから論じる。各論の記録は史実として扱い、動機や規模といった実態は推定に腑分けし、「未確認」と「記載なし」を一貫して区別する。
キーワード:中泉御殿/中泉代官所/天領/秋鹿家/林鶴梁/前島密/史料批判
1. 問題設定 ── 中泉の天領支配を総合するとは何か
JR磐田駅の南に広がる中泉は、江戸時代を通じて徳川幕府の統治が及んだ土地であり、遠江の天領を差配する機構がこの地に置かれていた。本論考シリーズはこれまで、その中泉の天領支配を、いくつかの角度から個別に扱ってきた。代官所という機構そのもの、家康ゆかりの御殿の史実、代官による寺院再興という一事例、そして陣屋・御殿から磐田市へと続く地区の行政沿革である。それぞれの稿は主題を絞って深く掘り下げたが、その分、中泉の天領支配を一枚の地図として見渡す視点は、これまで正面から立てられてこなかった。
本稿の課題は、この個別の各論を横断し、一本の総合論考として束ね直すことにある。個々の事実を新たに発掘するのではなく、既に論じられた事柄を先行研究として整理し、相互の関係を見取り図のなかに置き直す。いわばレビュー論文の位置づけであり、中泉の天領支配という主題について、これまでの検討が何を明らかにし、どこに確度の限界を残したのかを、一望のもとに整理することを目指す。個別の稿では前提として素通りされた論点も、複数の稿を突き合わせることで、あらためて像を結ぶことがある。
総合の作業には、一つの明確な障害がある。中泉の記憶を語るとき、絶えず立ちはだかってきた混同、すなわち「中泉御殿」と「中泉代官所」を一つのものとして語ってしまう誤解である。御殿は将軍の旅の宿であり鷹狩りの拠点であった。代官所は民を治める役所であった。片や近世初頭に機能を集中させた政治的拠点、片や幕末・維新まで続いた統治機構であり、機能も存続期間も主体も異なる。にもかかわらず両者が一体視されるのは、いずれもごく狭い一帯に前後して置かれ、しかも御殿の廃止と代官所の展開とが地続きに語られてきたからである。天領支配を総合しようとすれば、まずこの二つを分ける作業から始めなければならない。本稿が御殿と代官所の峻別を総合の起点に据えるのは、この理由による。
総合にあたって本稿がとる方法上の姿勢を、あらかじめ述べておく。第一に、各論が依拠した記録に含まれる事柄のうち、編纂物・古文書・発掘成果によって確認できるものを史実として扱い、動機・規模・頻度といった実態にわたる部分を推定に腑分けする。記録が「そう書いている」ことと、実態が「そうであった」こととは別であり、この二つを混同しないことを一貫した規律とする。第二に、「未確認」──管見の限り一次史料に突き当たっていない状態と、「記載なし」──史料に記述そのものが存在しない状態とを区別する。中泉の天領支配には、御殿の造営年や代官所の管轄石高など、一点に確定しがたい論点が少なくないが、その不確定が未確認によるのか記載なしによるのかを、そのつど腑分けする。
この総合が郷土史にとってもつ意義は、単なる要約の便宜にとどまらない。個別の主題を深掘りする稿は、その主題の内部では精緻でも、隣の主題との境界では曖昧になりやすい。御殿を論じる稿は代官所を背景に退け、代官所を論じる稿は御殿を前史として素描する。総合の視座は、この境界にこそ光を当てる。御殿と代官所の境目、人と機構の関係、近世の中心性と近代の中枢化のつながり──個別の稿の縁辺で曖昧になっていた接続を、あらためて確度とともに描き直すことが、本稿の実質的な貢献である。以下ではまず四つの各論の守備範囲を整理し、続いて御殿と代官所を峻別し、人・役割・中心性の順に総合を進めて結論に至る。
2. 先行研究の整理 ── 四つの各論とその守備範囲
総合に先立って、本稿が先行研究とみなす四つの各論の守備範囲を整理しておく。いずれも本論考シリーズのなかで、中泉の天領支配を異なる角度から扱った稿である。それぞれが何を明らかにし、どこを主題の外に置いたのかを確認することが、総合の見取り図を描く前提となる。
第一に、第162号「中泉代官所と天領の統治」である。この稿は、御殿と代官所の峻別を明示的な課題に据え、休泊施設としての御殿と天領統治の行政機構としての代官所を、機能・存続期間・主体の面から対比した。あわせて名代官・林鶴梁の恵済倉、維新後の初代中泉奉行・前島密の中泉救院を取り上げ、人物の事績と在任年次を史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けした。統治機構そのものを主題とした点で、本稿の総合の骨格を与える稿である1。
第二に、第197号「中泉御殿の史実」である。この稿は、磐田市歴史文書館の企画展資料・絵図・公図・発掘成果・古文書をもとに、御殿を城とは異なる別邸的施設として読み直した。御殿を預かった在地の秋鹿家、屋敷の南に広がった大池、そこに集まる鳥を追う鷹狩りという三つの要素から、なぜ家康が中泉へ繰り返し通ったのかを地形・水・交通の面で論じている。御殿の造営年・規模・存続期間を一点で記す一次史料は未確認とし、これを史実と分けて推定として提示する慎重さは、本稿の腑分けの手本となる。
第三に、第132号「中泉代官と薬師堂の再興」である。この稿は、遠江国分寺薬師堂の江戸初期再建を担った中泉代官に光を当て、本堂再建に着手した中野七蔵、諸尊を寄進した高室昌重、そして初代住職となった憲能和尚の三者の事績を読み直した。城を持たない天領において、幕府の代官が年貢や治水と並んで寺院の再興に関わった構図を、代官所を介した宗教政策の実例として位置づけている。代官所という機構が地域社会に対して具体的に何をしたのかを示す、貴重な一事例研究である。
第四に、第202号「中泉の成り立ち」である。この稿は、陣屋・御殿の時代から明治の町村制、昭和の磐田市成立、平成の新設合併までの行政沿革を一つの総論として整理し、なぜ中泉が近代磐田の中枢となったのかを、天領支配の拠点という近世的位置から説明した。個別の史実の当否よりも沿革の全体像に重心を置いた点で、本稿の総合と方法上の親近性をもつ稿である。
これら四稿を並べると、中泉の天領支配という一つの主題が、機構(第162号)・施設(第197号)・地域的役割(第132号)・沿革(第202号)という四つの断面に切り分けられてきたことがわかる。本稿の総合は、この四つの断面を貼り合わせ、一つの立体として見渡すことに等しい。ただし、貼り合わせの継ぎ目には、各稿が個別には踏み込まなかった論点が潜む。御殿と代官所はどこで機能を分け、どこで記憶を融け合わせたのか。人と機構はどう結びついたのか。近世の中心性はどのような回路で近代へ引き継がれたのか。以下の各章は、この継ぎ目を一つずつ検討していく。なお、本稿が事実の骨格として依拠するのは、あくまで以上の四稿およびそれらが典拠とした資料であり、本稿が新たな一次史料を提示するものではないことを、総合論文の性格として明記しておく。
3. 御殿と代官所の峻別 ── 休泊施設と統治機構
総合の起点は、御殿と代官所の峻別である。第197号は御殿を、将軍などが旅行や外出の際に休んだり泊まったりするために城とは別に建てられた邸宅と定義したうえで、中泉御殿を家康の休泊と鷹狩りの拠点として描いた。一方、第162号は代官所を、天領の年貢徴収・治水普請・訴訟裁許・街道管理を担う幕府の行政役所として位置づけた。二つの各論の定義を並べれば、両者の性格の違いは明瞭である。御殿は人が休み狩る場であり、代官所は民を治める場であった。
存続期間の違いは、この峻別をいっそう際立たせる。御殿は、第197号が推定するとおり近世前期に一定期間機能し、寛文10年〔1670年〕ごろにその役割を終えたとされる。廃止の直前とされる寛文年間の絵図に御殿の建物が描かれていないことは、この時期に施設が既に機能を終えつつあったことを推定させる手がかりであった。これに対し代官所は、第162号が示すとおり御殿の廃止後も存続し、幕末・維新に至るまで天領を治め続けた。御殿が近世初頭に機能を集中させた一時期の拠点であったのに対し、代官所は二百年を超える長きにわたって日常の統治を担った機構である。同じ中泉の一帯に、時期を違えて二つの統治の位相が積み重なっているのである2。
両者の峻別を一望するために、二つの各論が提示した機能対比を、本稿の観点から統合して示す。次の表は、御殿と代官所を対等の粒度で並べ、混同されがちな両者がいかに異なる存在であるかを可視化することを目的とする。特定の施設を主に据える書式を避け、各項目の情報量をそろえることで、読者が両者を明確に区別できる状態をつくることを心がけた。
| 観点 | 中泉御殿 | 中泉代官所(中泉陣屋) |
|---|---|---|
| 性格 | 将軍家の休泊・鷹狩りの拠点(城とは別の別邸) | 天領を治める幕府の行政役所 |
| 主な機能 | 休泊・鷹狩り・領地視察・打ち合わせ | 年貢徴収・治水普請・訴訟裁許・街道管理 |
| 存続期間 | 近世前期〜1670年ごろ(寛文年間に廃止) | 江戸期を通じて維新まで存続 |
| 担い手 | 将軍・幕府(造営は伊奈忠次と伝わる/秋鹿家が預かる) | 代官・手代・書役と在地の名主・組頭 |
| 今に残る手がかり | 移築と伝わる寺門、絵図・公図、御殿・二之宮遺跡の発掘 | 建物は現存せず。制度・人物・救済の記憶が残る |
| 確度上の留意 | 造営年・規模は推定と未確認。門の帰属は伝承 | 支配石高「6万石余」は通説の概数 |
この対比から見えてくるのは、御殿と代官所が競合する二つの説明なのではなく、それぞれ性格を異にする別個の機構だという事実である。御殿は近世初頭に将軍権力がこの地を政治的に押さえるための拠点であり、その役割は幕藩体制の確立とともに終わった。代官所は、体制が安定したのちの日常の統治を長く担い続けた。前者は権力の確立期に、後者は体制の維持期に対応する。総合の視座から見れば、両者は同じ土地の上に置かれた時間軸の異なる二層であって、その順序と重なりを取り違えることが、混同の根にある。
混同がなぜ根強いのかも、あらためて考えておきたい。御殿と代官所は、いずれも「中泉に置かれた徳川の施設」という一点で共通し、しかも御殿の廃止から代官所の展開までが、同じ一帯を舞台に地続きに語られてきた。地域の記憶のなかでは、時期の異なる二つの機構が「お上の御役所」という一つの像へ融け合いやすい。第162号が指摘したこの融合のしやすさは、遺構の残り方にも表れている。御殿が門という物として記憶されたのに対し、代官所は制度と人の営みという形で記憶された。物として残る御殿、記憶として残る代官所──この残り方の違いもまた、両者が異なる性格の機構であったことを、遺構の側から照らし返している。総合とは、この融け合った像をあえて解きほぐし、二つの機構をそれぞれの時期と機能のなかへ置き直す作業にほかならない。
4. 天領を治めた人々 ── 秋鹿家・林鶴梁・前島密
機構を分けたうえで、次に人へ目を移す。中泉の天領支配は、御殿や代官所という器だけでは成り立たない。器を預かり、あるいは器を用いて土地を治めた人がいた。各論に登場する人物のうち、性格の異なる三者を取り上げ、機構と人の結びつきを総合しておきたい。在地の一族、幕末の代官、維新期の統治者という三者は、時期も立場も異なるが、いずれも中泉の統治を具体的に担った点で共通する。
御殿を預かった秋鹿家
第197号が中泉御殿を読むうえで外せないとしたのが、秋鹿(あいか)家である。出雲国秋鹿郡に由来する姓とされ、中世以来この土地に根を張った在地領主で、府八幡宮の神官を兼ねた一族と伝えられる。同稿は、後に御殿と呼ばれる土地がもともと秋鹿家の屋敷地であり、天正元年〔1573年〕に当主の直朝がこの一帯を家康に献上したという由緒を紹介する。御殿の立地は、空白の地に突然選ばれたのではなく、在地の屋敷地が家康の手に渡り、そこに休泊と狩りの拠点が整えられていったという経緯にあった。ただし第197号自身が留保したとおり、先祖書や由緒は家康との関係を後世に語り伝えるための資料でもあり、献上譚の年紀や献上品の記述をそのまま同時代の事実として確定することには慎重を要する。秋鹿家は、御殿が孤立した徳川の出先ではなく、在地の社会構造の上に築かれた施設であったことを示す存在として、総合のなかに位置づけられる。
儒者にして代官の林鶴梁
第162号が代官所の性格を体現する人物として挙げたのが、幕末の中泉代官・林鶴梁(はやしかくりょう、1806年〜1878年)である。嘉永6年〔1853年〕に着任した儒学者で、佐藤一斎・松崎慊堂ら当代一流の儒者に学び、後世「幕府代官のうちの三大儒者」の一人に数えられた。嘉永7年〔1854年、この年に安政と改元〕11月の大地震で中泉代官所の建物の多くが倒壊するなか、鶴梁は被災地を巡視し救済に乗り出したと伝わる。とりわけ第162号が重視するのは、たび重なる災害の経験から、備蓄米だけに頼るその場しのぎの救済ではせいぜい1か月ほどしか持たないことを見抜き、恒久的に困窮者を支える仕組みとして恵済倉(けいさいぐら)を考案したと伝えられる点である。学識をもって民を治める代官という像は、天領統治が単なる収奪ではなく、儒教的な民政の理念と結びついて理解されていたことを示す。もっとも同稿は、鶴梁の実在と大枠の事績を史実としつつ、恵済倉の運用の細目や救済の逸話には後世の顕彰的な語りが含まれると腑分けしており、本稿もこの区別を引き継ぐ3。
近代へ橋を架けた前島密
第162号が扱ったいま一人が、維新期の中泉奉行・前島密(まえじまひそか)である。明治2年〔1869年〕1月に初代の中泉奉行に任じられた前島は、のちに日本の近代郵便制度を築く人物である。着任前年の慶応4年〔1868年〕秋には天竜川が氾濫し、沿岸の村々が甚大な被害を受けていた。前島は、こうした水害で困窮した人々を救うため、近くの寺と協力して中泉救院を開設したと伝えられる。ここで総合の観点から注目したいのは、幕末の林鶴梁の恵済倉と、維新期の前島密の中泉救院とが、体制の断絶を越えて災害救済という同じ課題に応えている点である。統治の主体と名称が代官から奉行へと変わっても、天竜川と向き合いながら民の暮らしを支え直すという役所の実務は連続していた。ただし第162号は、「昼夜を分かたず奔走した」といった献身の描写や、中泉での経験が近代郵便構想へ直結したとする因果を、後年の顕彰と回顧のなかで整えられた通説として区別しており、本稿もその慎重さを保つ。
5. 代官が地域に果たした役割 ── 薬師堂再興と災害救済
人を整理したうえで、代官所という機構が地域社会に対して具体的に何をしたのかを総合したい。天領における代官は、単なる年貢の徴収官ではなかった。第132号が示した薬師堂再興は、その職掌の広がりを示す好個の一事例である。城主が寺社を庇護するのではなく、幕府から派遣された行政官が、年貢の徴収や治水と並んで一つの堂の再興を差配した──この統治のかたちを、同稿は素材に即して読み解いた。
第132号によれば、遠江国分寺薬師堂は元亀3年〔1572年〕の兵火によって焼失したと伝えられ、半世紀近い空白を経て、江戸初期に本堂を再建したのが中泉代官であった。元和5年〔1619年〕に「本堂御造営奉行」として再建に着手した中野七蔵、その事業を継いで日光・月光菩薩と十二神将を寄進した高室昌重、そして森町の蓮華寺から迎えられ朱印地を得た初代住職・憲能和尚という三者が、器・中身・法灯という三つの局面を役割を分けて担った。ここで第132号が示した史料批判の姿勢は、本稿の総合にとっても示唆に富む。焼失の経緯について、公的な編纂史料である『磐田市誌』上巻と、寺に伝わる由来書『参慶山国分寺由来』とが異なる語りを残しており、同稿はいずれか一方を史実と断ぜず、性格の異なる二つの記録を対等に併記した4。
この薬師堂再興を、第162号が描いた災害救済の系譜と重ねると、代官の地域的役割の輪郭がいっそう明瞭になる。薬師堂の再建は、焼けたまま放置された堂を建て直し、住職を置いて朱印地を安堵することで、その寺を幕藩体制の秩序のなかに位置づけ直す営みであった。一方、林鶴梁の恵済倉と前島密の中泉救院は、災害で困窮した民の暮らしを支え直す営みであった。寺院の再興と災害救済は、対象こそ異なるが、いずれも代官所という機構が地域の安定に向けて発揮した機能である点で通じ合う。天領の統治とは、年貢を江戸へ上らせる財政の末端であると同時に、地域の秩序と民心の安定に責任を負う統治の現場でもあった。
ここで確度の腑分けを一つ加えておく。代官が薬師堂の再興に関わったこと、林鶴梁や前島密が救済に取り組んだことは、各論が依拠した記録に基づく事実の骨格として扱ってよい。しかし、代官がなぜ数ある寺社のなかで国分寺薬師堂を選んだのか、救済がどの範囲にどれほどの規模で及んだのかという動機や実態の細部は、多くが推定の領域にとどまる。第132号が、代官が国分寺を選んだ動機を直接記す史料は確認できていないとして断定を避けたことは、この腑分けの好例である。記録が伝えるのは「代官が再興に関わった」という事実であって、「なぜ・どこまで関わったか」は、なお史料の博捜を要する未確認の部分を含む。総合にあたっても、この確度の落差を平板化しないことが肝要である。
もう一点、総合の視座から見えてくることがある。薬師堂再興も災害救済も、単独の代官の一存で完結した事業ではなかった。薬師堂は2代の代官と1人の住職が役割を分担して建て直し、災害救済は幕末の代官から維新期の奉行へと体制を越えて引き継がれた。中泉の統治史を、個々の代官の事績の羅列としてではなく、機構を通じて課題への応答が継続していく過程として読むとき、代官所という器のもつ持続性が浮かび上がる。人は交代したが、その下に連なる在地の統治網と、蓄積された対応の作法は、代官の交代を越えて土地に根を張っていた。
6. なぜ中泉が天領の中心となったか ── 地形・水・交通・在地
ここまで機構・人・役割を総合してきた。残る問いは、そもそもなぜ中泉が天領支配の中心地となったのか、である。この問いには、第197号が御殿の立地選定として、第202号が近世的中心性として、それぞれ別の角度から答えている。二つの各論の説明を突き合わせると、中泉の中心性が単一の要因ではなく、複数の条件の重なりから生まれたことが見えてくる。
第197号は、家康がなぜ遠江国府の置かれた古い町・見付ではなく中泉に休泊と鷹狩りの拠点を営んだのかを、地形・水・在地・交通の面から整理した。第一に地形と水である。中泉の南には大池の湿地が広がり、鶴や鴨が集まった。鷹狩りを好んだ家康にとって、獲物の集う水辺を至近に控えることは、他に代えがたい条件であった。見付は台地上の宿場町であり格式ある地であったが、鷹狩りの舞台としての水辺を屋敷の間近に備えていたわけではない。第二に、在地の人間関係である。前述のとおり中泉には秋鹿家という中世以来の在地領主が根を張り、その屋敷地が御殿へと転じた。空白の地に城を築くのではなく、在地の基盤の上に別邸を整えるという選択には、統治の実際に即した合理があった。第三に交通である。中泉は東海道に近く、天竜川の渡しや周辺の水運とも結びつく位置にあった。第197号は、家康が求めたのは宿場そのものの賑わいよりも、街道に近く、かつ狩りの水辺と在地の基盤を併せもつ場であったと読む。
第202号は、この立地上の利点を、天領支配の拠点という行政的な中心性へと接続する。中泉には幕府直轄領を治める中泉陣屋、すなわち中泉代官所が置かれ、周辺に散在する天領の村々から年貢を徴収し、訴訟を裁許し、触書を伝達する結節点として機能した。同稿が示した見付との対比は示唆に富む。宿場町として人と物の往来を担った見付が交通の要であったとすれば、中泉は支配と徴税の要であった。交通の中心と支配の中心とが、わずかな距離を隔てて隣り合っていたことが、この一帯を近世を通じて遠江の要地たらしめた。総合の観点から言えば、家康の御殿を引き寄せた地形・水・在地・交通という条件は、そのまま代官所が置かれるにふさわしい土地の条件とも重なっていた。御殿の立地と代官所の立地は、別々に選ばれたのではなく、中泉という一つの土地がもともと備えていた要地性の上に、時期を違えて重なったのである。
ただし、二つの各論が共通して留保した点を、総合においても保持しておかねばならない。第202号は、中泉に代官所が置かれ天領支配の拠点であったことを史実としつつ、その管轄がどの村々にどこまで及んだか、石高がいかほどであったかという細部には、なお未確認の部分があるとした。第162号が「6万石余」を通説の概数として扱い、年ごとに変動する対象を一つの数字で固定することの限界を指摘したことも、これと通じる。天領の規模を語る数字は、新田開発や他領との編入・除封、災害による荒地化によって動く性格のものであり、一時点の確定値として扱うことはできない。中泉が要地であったことは史実として動かないが、その要地性を石高という数字で厳密に量ることは、現時点では推定と未確認の領域にとどまる。
7. 近世の中心から近代磐田の中枢へ
天領支配の中心地であった中泉は、なぜ近代においても磐田の中枢であり続けたのか。第202号は、この問いを行政沿革の通観によって説明した。総合の締めくくりとして、近世の中心性が近代の中枢化へと引き継がれる回路を確認しておきたい。
第202号が確定した沿革の骨格は次のとおりである。江戸期に中泉陣屋・御殿が置かれた中泉は、1889年〔明治22年〕の町村制施行で、豊田郡中泉村と山名郡二ノ宮村が合併して中泉町となった。1896年〔明治29年〕の郡制施行で所属が磐田郡へ移り、1929年〔昭和4年〕に梅原村を編入、1940年〔昭和15年〕には見付町ほかと合併して磐田町を発足させ、1948年〔昭和23年〕に磐田町が市制を施行して磐田市が成立した。そして2005年〔平成17年〕の新設合併により、現在の磐田市が発足する。これらの年紀と合併の関係は、いずれも自治体史で確認できる史実である5。
この骨格の上に、第202号は「なぜ中泉が中枢になったのか」という説明の層を重ねた。その眼目は、中泉が「役所のある町」であったという近世以来の性格が、明治以降も慣性をもって働いた可能性にある。天領を治める役所が置かれた土地には、それに付随して人と情報が集まり、周辺村々との連絡網が形づくられる。そうした集積は、制度が幕藩体制から近代の町村制へと切り替わっても、一夜にして消えるものではない。役所を中心に人が動くという構造そのものが、土地に刻まれた下地として残る。同稿は、中泉が近代に磐田の中枢となった背景に、この近世以来の下地が働いていたと見る立場をとった。総合の観点から言えば、本稿がこれまで整理してきた御殿・代官所・人・役割のすべてが、この「役所のある町」という性格を中泉に刻みつけた要素であった。
ここで、見付と中泉の関係を近代までたどっておくことは、総合の締めくくりにふさわしい。近世において、見付は東海道の宿場として交通の要をなし、中泉は天領を治める役所の町として支配の要をなした。この二つの機能が近接して並び立っていたことが、後の磐田という枠組みを準備した。1940年に両者が同じ磐田町の枠へ束ねられたとき、宿場の記憶を担う見付と、役所の記憶を担う中泉とが、一つの近代都市の別々の核として結びついた。市名の「磐田」は見付に近い地形に発する呼称とされる一方、行政の中枢が中泉に置かれたという一見ねじれた事実は、この機能分担の歴史を踏まえてはじめて理解できる。交通の見付と支配の中泉という近世の役割分担が、名は見付系・中枢は中泉という近代磐田の姿へと形を変えて受け継がれたのである。
もっとも、第202号自身が慎重に断ったとおり、近世の中心性と近代の中枢化とを直接に結ぶ一次史料を提示できるわけではない。これはあくまで構造的な推定であって、史実の骨格とは層を分けて述べるべき事柄である。総合の視座は、複数の各論を貼り合わせることで、御殿・代官所・人・役割・沿革を一本の線に見せる。だがその線のうち、どこまでが史料で確認できる骨格であり、どこからが構造から導かれる推定であるかを、見失ってはならない。総合は確度を平板化する誘惑を絶えず孕む。本稿がここまで各章で確度の腑分けを繰り返してきたのは、この誘惑に抗うためである。
8. 結論 ── 総合の視座から中泉を読む
本稿は、中泉の天領支配を扱った四つの各論を横断し、御殿と代官所の峻別を起点に、人・役割・中心性を一本の総合として整理してきた。得られた見取り図は次のとおりである。中泉には、家康の休泊と鷹狩りの拠点である御殿と、天領を治める行政機構である代官所とが、時期を違えて同じ土地の上に重なった。この二つを分けて読むことが、天領支配を総合するうえでの第一歩であり、混同を解きほぐさないかぎり、統治の歴史は奥行きを失う。器を預かり用いた人としては、在地の秋鹿家、幕末の名代官・林鶴梁、維新期の中泉奉行・前島密がいた。機構が地域に果たした役割としては、薬師堂再興と災害救済という、対象を異にしながら地域の安定に通じる二つの営みがあった。そして中泉の要地性は、地形・水・在地・交通の重なりから生まれ、その中心性は近代の磐田市へと引き継がれた。
この総合を通じて浮かび上がるのは、中泉の天領支配が、単一の起点や単一の主体に還元できない重層的な現象だという事実である。御殿と代官所、人と機構、近世の中心性と近代の中枢化──これらは長い時間のなかで折り重なり、現在の磐田市中心部の姿を形づくってきた。個別の各論はそれぞれの主題を深く掘り下げたが、総合の視座は、その掘り下げの成果を貼り合わせ、一つの土地の統治史として見渡すことを可能にする。中泉を「御殿の町」とだけ、あるいは「代官所の町」とだけ呼ぶことは、この重層性を切り捨てることにほかならない。
したがって本稿の立場は明確である。中泉の天領支配は、御殿と代官所を峻別し、記録が伝える事実の骨格を史実として押さえ、動機・規模・頻度といった実態を推定に腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別しながら、重層的な現象として記述されるべきである。総合は、複数の各論を一本の線に見せる作業であるがゆえに、確度を平板化する誘惑を絶えず孕む。本稿が各章で確度の腑分けを繰り返したのは、総合の便宜が史料批判の緊張を緩めることのないよう、自らに課した規律であった。
最後に、本稿が総合の過程で見いだした残された課題を記しておく。第一に、御殿の造営年と存続期間、代官所の管轄石高といった数値的な骨格は、なお未確認の部分を多く残しており、近世・近代の地方文書の博捜によって一歩前進させられる余地がある。第二に、御殿を預かった秋鹿家の由緒と同時代史料との照合、中泉代官の歴代の在任と事績の系統的な整理は、人と機構の結びつきをより精確に描く作業として残る。第三に、近世の中心性が近代の中枢化へと引き継がれた回路については、町村制期の行政文書や地籍資料を突き合わせることで、構造的推定を史実の骨格へと押し上げていく道が開かれている。これらはいずれも、本稿が敷いた総合の見取り図の上に、個別の各論をさらに積み重ね、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。御殿・陣屋・代官所が治めた中泉という土地の統治史は、こうした地道な手続きの先で、少しずつその全体像を結んでいくはずである。
注
- 本稿は新たな一次史料を提示するものではなく、本論考シリーズの既刊各論(第162号・第197号・第132号・第202号)およびそれらが典拠とした資料を先行研究として整理・史料批判するレビュー論文である。したがって以下に述べる事実の骨格は、各論の記述に依拠する。↩
- 中泉御殿の廃止時期については、第197号が寛文年間の絵図に御殿の建物が描かれないことなどから近世前期に役割を終えたと推定する。寛文10年〔1670年〕という年紀は伝えられる廃止年であり、造営から廃止までの正確な年代は同稿においても未確認とされる。↩
- 林鶴梁および恵済倉に関する記述は第162号による。同稿は鶴梁の実在と大枠の事績を史実としつつ、恵済倉の運用の細目や救済の逸話には後世の顕彰的な語りが含まれると腑分けしている。↩
- 薬師堂再興および焼失をめぐる二つの記録に関する記述は第132号による。同稿は『磐田市誌』上巻と『参慶山国分寺由来』が「元亀3年焼失」という結論を共有しつつ経緯の語りを異にする点を指摘し、両論を対等に併記する。↩
- 中泉地区の行政沿革の年紀は第202号による。町村制施行以降の合併・編入の関係は自治体史で確認できる史実として扱い、旧町村と現大字の対応の細部や地名由来は推定・未確認の領域にとどまる。↩
付記:本稿は既刊各論を横断する総合論考(レビュー論文)である。各論の記録は史実として扱い、動機・規模・頻度といった実態は推定に腑分けした。「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に記述が存在しない)を、総合においても一貫して区別している。
参考文献・参考資料
- 大石浩之「中泉代官所と天領の統治 ── 御殿と代官所を分けて読む」『大石浩之の磐田論考』第162号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/162/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「中泉御殿の史実 ── 家康の鷹狩り・秋鹿家・大池を資料で読む」『大石浩之の磐田論考』第197号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/197/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「中泉代官と薬師堂の再興 ── 中野七蔵・高室昌重と憲能和尚」『大石浩之の磐田論考』第132号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/132/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「中泉の成り立ち ── 陣屋・御殿から磐田市への沿革」『大石浩之の磐田論考』第202号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/202/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市歴史文書館 企画展「中泉御殿にて家康、泰平の世づくりを練る」配布資料。
- 磐田市歴史文書館 企画展「徳川家康と磐田」配布資料。
- 小杉達『国分寺ものがたり』遠江国分寺奉賛会、令和4年(2022年)。
- 磐田市『磐田市誌』上巻(磐田市、該当章)。
- 『参慶山国分寺由来』(遠江国分寺所蔵)。
- 羽倉用九(簡堂)撰『遠州中泉古城記』文政6年(1823年)。
- 林羅山『丙申紀行』中泉の項。
- 郵政博物館 研究紀要(前島密の中泉奉行就任に関する諸研究)。
- 磐田物語 n020「中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち」 https://iwata-monogatari.net/n020.html (最終閲覧:2026年7月26日)。