失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 中世の磐田を総合する

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第285号(中世磐田 総合論)

中世の磐田を総合する

荘園・湊・城と支配の変遷 ── 既刊各論の史料批判的レビュー

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市(竜洋ほか)

要旨

中世の磐田を扱った郷土史の記述は、古代や近世に比べて依拠しうる史料が乏しく、断片的な記録と後世の伝承とが混在しがちである。本稿は、筆者がこれまで個別に論じてきた各論──池田荘と掛塚湊を扱った室町以降の竜洋論、掛塚・袖浦・十束の村域と石高論、鎌倉時代の遠江国分寺の本尊交代論、城之崎城の築城伝説論、竜洋になるまでの町村沿革論──を先行研究として整理し、中世磐田の輪郭を横断的に総合するレビュー論考である。荘園と湊の中世的展開、村と石高という近世的枠組みの起源、今川・武田・徳川と交錯した戦国期の支配の変遷、そして城をめぐる史実と伝承を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして接合する。その際、記録は史実として、伝承は伝承として腑分けし、一次史料に突き当たっていない「未確認」と、史料に記載のない「記載なし」とを厳密に区別する。本稿の立場は、乏しい史料を無理に一つの物語へ束ねることを避け、確度の層を保ったまま、わかること/わからないことを分けて中世磐田を記述する点にある。

キーワード:中世磐田/池田荘/掛塚湊/石高/戦国期の支配/城之崎城/史料批判

1. 問題設定 ── 史料の乏しい中世をなぜ総合するのか

磐田の歴史を通してみると、古代と近世のあいだに横たわる中世は、記述のもっとも難しい時代である。古代には『続日本後紀』『日本三代実録』『延喜式』といった国家的編纂物があり、近世には検地帳・郷帳・村明細帳をはじめとする文書が層をなして残る。ところが中世の磐田については、まとまった一次史料に恵まれず、断片的な記録と、後世に語り継がれた伝承とが同じ平面で混在してしまう。この史料の乏しさそのものを主題として引き受けることが、本稿の第一の課題である。

筆者はこれまで、中世の磐田にかかわる主題を、いくつかの各論として個別に論じてきた。天竜川河口の池田荘と掛塚湊、旧竜洋町域の村域と石高、遠江国分寺の本尊交代、見付の城之崎城の築城伝説、そして竜洋になるまでの町村沿革である。これらは扱う場所も時代の重点も異なるが、いずれも「史料の乏しい中世を、確度の層を保ったままどう記述するか」という同じ方法意識のもとに書かれてきた。本稿は、これら各論を先行研究として一つの卓上に並べ、相互の関係を見取り図として描き直すレビュー論考である。

横断的に総合する意義は、個別の各論では見えにくい連関を可視化できる点にある。荘園と湊は別々の制度に見えて、天竜川の水運という一つの条件のうえに立っている。村と石高という近世の枠組みは、中世以来の在地の生業と地形を土台としている。戦国期の支配の変遷と、城をめぐる伝承とは、同じ武家の時代を別の角度から照らしている。各論を並べることで、これらが「中世の磐田」という一つの時間のなかでどう噛み合うのかを、あらためて問うことができる。

ただし総合には危うさも伴う。断片をつなぎ合わせて一つのなめらかな物語に仕立てようとすれば、史料の裏づけを欠いた飛躍を、あたかも史実のように語ってしまいかねない。本稿がとる立場は、その逆である。すなわち、各論が確認した史実を史実として、伝承を伝承として、それぞれの確度の層に置いたまま接合し、層と層のあいだに残る空隙を無理に埋めないことを、総合の作法とする。総合とは、空白を消すことではなく、わかることとわからないことの境界を、より広い視野のなかで正確に引き直す作業である。

以下ではまず、依拠する五つの各論を先行研究として整理し、次いで荘園と湊、村と石高、戦国期の支配、城をめぐる伝承を順に横断する。そのうえで、国分寺の本尊交代を手がかりに中世という時間の性格に触れ、最後に史料批判の観点から全体を総合して結論に至る。用いる確度の四層──史料で確認できる史実、学界で広く支持される通説、根拠はあるが未確定の推定、地域で語り継がれてきた伝承──を、あらかじめ本稿の基準として掲げておく。

中世の磐田 水運と支配 荘園 池田荘 掛塚 村・石高 近世の起源 城之崎城 寺院 国分寺 中世磐田の主題連関 ── 各論を一枚に束ねる
図1 中世磐田の主題連関。荘園・湊・村と石高・城・寺院という各論の主題は、水運と支配という共通の条件を介して結び合う。本稿はこれらを一つの卓上に並べ、相互の関係を描き直す。

2. 先行研究の整理 ── 五つの各論という土台

総合に先立ち、依拠する五つの各論を先行研究として整理しておく。これらはいずれも本論考シリーズの既刊であり、本稿はその成果を前提としつつ、横断の視点から接合し直す。各論の要旨と、本稿がそこから引き継ぐ論点を、順に確認する。

第一に、室町以降の竜洋 ── 池田荘・掛塚湊から天領支配までである。この論考は、天竜川河口の低地を、京都・松尾神社の社領であった荘園「池田荘」の一部として位置づけ、中世から近世初頭までを、荘園と湊という二つの水辺の制度に即して読み解いた1。池田荘の記録を史実の層で確認し、天竜川の流路移動に伴って成立した掛塚湊の起源を海上流通のなかに置き、今川・武田・徳川の支配交替を記録と推定に腑分けした点が、本稿の荘園論・湊論・支配論の直接の土台となる。

第二に、掛塚・袖浦・十束の村域と石高 ── 江戸期の村組織史である。この論考は、旧竜洋町域を構成した三地区を「村」という近世の組織の輪郭から捉え直し、寛政元年(1789年)の石高調に記された掛塚の村高617石余などの数値を、近世村落史の観点から読んだ。石高が土地の生産力を示す指標であると同時に年貢賦課の基準でもあるという二重の性格を検討した点は、村と石高という枠組みの起源を問う本稿第4節に受け継がれる。

第三に、鎌倉時代の遠江国分寺 ── 釈迦から薬師へである。奈良時代に創建された国分寺が、平安中期には阿弥陀如来へ、鎌倉時代には薬師如来へと信仰の中心を移していったとみられる過程を、建久2年(1191年)の源頼朝による国分二寺修造令と、承元3年(1209年)の「薬師堂」という記録を軸に検討した論考である。中世という時間が古代の枠組みをどう組み替えたかを示す事例として、本稿第7節で参照する。

第四に、見付に残る幻の城 ── 城之崎城と徳川家康の築城伝説である。徳川家康が築こうとしたとされる城郭の記憶を、秀吉配慮説・対武田戦の地政学説・中泉御殿との混同説という三説に腑分けし、地名から城の実在を直接には導けないことを論じた。城をめぐる史実と伝承の腑分けという本稿第6節の主題は、この論考に多くを負う。

第五に、竜洋になるまでの町村沿革 ── 江戸の支配錯綜から昭和の合併までである。江戸期の錯綜した支配区分を出発点に、明治22年(1889年)の町村制、明治29年(1896年)の郡再編、昭和30年(1955年)の竜洋町誕生までを跡づけ、支配の分断と生活の連続という二層を分けて記述した。中世から近世への接続と、支配の連続・断絶という論点で、本稿を補強する。これら五つの各論は主題を異にするが、確度の層を混同しないという共通の方法で結ばれており、本稿はその方法を横断の水準へ引き上げることを企図する。

古代中世近世近代 198 池田荘・掛塚湊〜天領 223 村域と石高 135 国分寺 釈迦〜薬師 196 城之崎城 158 町村沿革〜昭和 五つの各論が扱う時代範囲
図2 先行研究の時代分布。各論はいずれも中世を含みつつ、古代から近代へと重なりながら広がる。破線は中世と近世のおおよその境界を示す。本稿はこの重なりの帯を横断する。

3. 荘園と湊 ── 池田荘と掛塚の中世的展開

中世磐田の骨格をなす第一の主題は、荘園と湊である。天竜川河口の低地は、太古の汽水湖が湿田へと姿を変える過程を経て、中世には京都・松尾神社の社領であった荘園「池田荘」の一部を構成したと考えられている。池田荘の存在は、荘園領主の側に残る記録によって史実の層で確認できる範囲があり、これが中世の当地を語る数少ない確かな足がかりとなる。荘園は、都の権門が地方の土地から収益を得る中世的な支配の仕組みであり、遠江の低地がその収取の網のなかに組み込まれていたことを、池田荘は示している。

もっとも、荘園としての池田荘の内実──その四至(範囲)、内部の名主や下地の構成、収取の実態──を細かく復元できるほどの史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。ここで注意すべきは、この「確認できていない」が、そうした史料が存在しないという「記載なし」の断定ではなく、一次史料に突き当たっていない「未確認」の状態だという点である。荘園の名は史実として押さえられても、その運営の細部は未確認のまま残る。この二つの水準を混同しないことが、荘園論を語るうえでの前提となる。

荘園と対をなすもう一つの制度が、掛塚湊である。天竜川の流路は中世を通じて移動を繰り返し、その河口に、海上流通の結節点として掛塚湊が形成された。港町の起源を一年一月に確定することはできないが、流路の移動という自然条件と、遠州灘の海上流通という経済条件のなかに、湊の成立を位置づけることはできる。掛塚は、内陸の産物を海へ送り出し、他国の物資を受け入れる窓口として、中世後期から近世にかけて成長していった。荘園が「土地からの収取」の制度であるとすれば、湊は「物の流れ」の制度であり、両者は水辺という同じ舞台の上で、異なる論理をもって併存した。

荘園と湊を一つの視野に収めると、中世の当地が、都の権門による土地支配と、在地に根ざした流通という二つの力のあいだに置かれていたことが見えてくる。荘園の収取は都へ向かう垂直の流れであり、湊の交易は海岸沿いに広がる水平の流れである。この垂直と水平の交差点として、天竜川河口の低地を捉えることができる。ただし、荘園の収取がどこまで実効的であったのか、湊の交易が中世のどの段階でどれほどの規模に達したのかは、いずれも確たる数値を欠く。本稿は、荘園と湊を中世磐田の二つの制度的軸として提示しつつ、その内実の多くが推定と未確認の層にとどまることを、あわせて明記する。

都の権門 松尾神社 天竜川河口の低地 池田荘の一部 掛塚湊 海上流通の結節 遠州灘・他国 物資の往来 収取(垂直) 流通(水平) 荘園(垂直の収取)と湊(水平の流通)の交差
図3 荘園と湊の交差。都へ向かう垂直の収取と、海岸沿いに広がる水平の流通が、天竜川河口の低地で交わる。荘園名は史実、収取や交易の規模は推定・未確認の層にある。

4. 村と石高 ── 近世につながる枠組みの起源

中世から近世への橋渡しをなす第二の主題が、村と石高である。近世の磐田を語る枠組みは「村」と「石高」であるが、この枠組みは近世に突如現れたのではなく、中世以来の在地の生業と地形を土台として立ち上がってきた。旧竜洋町域を構成した掛塚・袖浦・十束の三地区は、廻船の湊、砂丘の農村、新田の開拓地という異なる生業を背負って近世を迎えた。この生業の違いこそ、中世の在地社会の多様性が近世の村の輪郭へ引き継がれた痕跡である。

石高は、近世村落を測る基本の尺度である。手がかりとなるのは、提供資料に転写された寛政元年(1789年)の石高調であり、そこには掛塚の村高617石余が記される2。一方、袖浦・十束の個別村高は、判読の限界と記載の偏りのために確定しがたい。この数値の不均等そのものを史料批判の対象とすることが、村域と石高論の要諦であった。石高は土地の生産力を示す指標であると同時に、年貢賦課の基準でもあるという二重の性格をもつ。したがって石高帳の数値は、自然のままの生産力ではなく、支配の側が把握し課税の根拠とした「制度化された生産力」として読まれねばならない。

ここで中世との連関が問題になる。近世の村が、中世のどの段階で、どのような単位から形成されたのかは、史料の乏しさゆえに一直線には辿れない。村名の初見年紀や、新田村が複数の集落の集合として成立していく過程は、多くが伝承・推定の層に置かれる。たとえば、ある村の名が近世の史料に初めて現れることは確認できても、その村落共同体が中世のいつから存在したのかは未確認のまま残る。ここでも「未確認」と「記載なし」の区別が要となる。史料に村名が現れないことは、その村が存在しなかったことを意味しない。

村と石高という近世的枠組みの起源を中世に求めるとき、本稿がとりうる姿勢は限定的である。中世の在地社会が近世の村へと編成されていったことは、生業の連続性から推測できるが、その具体的な過程を一次史料で跡づけることは、現状では難しい。したがって本稿は、村と石高を「近世の完成した枠組み」として静的に扱うのではなく、中世以来の生業・地形・入会といった実態が、近世の支配のもとで数値と境界へと整えられていく動的な過程として捉える。数値に還元されない村の自治・入会・年貢の実態を、記載の背後から読もうとする姿勢は、中世と近世を分断せずに接続するための方法でもある。

5. 戦国期の支配の変遷 ── 今川・武田・徳川

中世磐田の第三の主題は、戦国期の支配の変遷である。遠江は、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、三河から興った徳川氏という三つの勢力がせめぎ合う境界の地であった。当地の支配も、この大きな力の交錯のなかで移り変わった。今川氏の支配下にあった遠江は、桶狭間の戦い(1560年)以後の今川氏の衰退とともに動揺し、徳川家康の遠江進出と、武田信玄・勝頼の遠江侵攻とがぶつかり合う舞台となる。三方ヶ原の戦い(1573年)に象徴される武田と徳川の抗争を経て、遠江はやがて徳川の支配下に固まっていった。

この支配の変遷を記述するにあたり、史料批判の観点から二つの水準を分けねばならない。一つは、今川・武田・徳川という大勢力の遠江支配そのものの推移であり、これは戦国史全体の記録によって、おおむね史実として辿ることができる。もう一つは、天竜川河口の掛塚や竜洋の低地といった、個別の在地がそれぞれの時点で誰の支配下にあったのかという、より細かい水準である。後者については、当地を名指しで記す一次史料が乏しく、多くが推定にとどまる。大勢力の動向という骨格は確認できても、末端の在地における支配の実態は、なお霞のなかにある。

戦国期の支配を語るとき、しばしば地名や伝承が手がかりとして持ち出される。徳川家康の鷹狩りにまつわる「御殿」の地名や、家康の当地との関わりを伝える言い伝えは、その一例である。こうした伝承は、家康の時代の記憶が地域に刻まれていることを示すが、それ自体を家康の具体的な行動の史実とみなすことはできない。伝承は、支配者の交替が在地の記憶にどう受けとめられたかを語る資料として貴重であるが、その記憶と、実際の政治的支配の推移とは、別の層として扱う必要がある。

戦国期の支配の変遷は、次節で扱う城の問題と密接に結びつく。武田との抗争を抱えた徳川にとって、遠江の要地に城を構えることは軍事上の課題であり、城之崎城の築城伝説も、この対武田戦の地政学のなかで語られてきた。支配の変遷は、荘園や湊のような制度の問題であると同時に、城という軍事施設の配置の問題でもある。本稿は、戦国期の支配を、大勢力の動向という史実の骨格と、在地における実態という推定の層とに腑分けし、両者を接続する結び目として城を位置づける。

〜1560今川支配 1568〜今川衰退 1573武田・徳川抗争 1580年代徳川支配 近世初頭天領へ 骨格(大勢力の推移)=史実の層 / 在地の実態=推定の層 戦国期の支配の変遷 ── 今川から徳川へ
図4 戦国期の支配の変遷。今川の衰退から武田・徳川の抗争を経て徳川支配、そして近世の天領へと至る。大勢力の推移は史実として辿れるが、在地の支配実態は推定の層にとどまる。

6. 城をめぐる史実と伝承 ── 城之崎城という試金石

戦国期の支配と地域の記憶が交わる結節点が、城である。磐田市見付、城山球場と城山中学校が並ぶ丘陵には、徳川家康が築こうとしたとされる城郭「城之崎城」の記憶が伝わる。この幻の城は、中世磐田において史実と伝承をどう腑分けするかを問う、格好の試金石である。

伝承の層

秀吉配慮説とその時期矛盾

地域には「家康は立派な城を築きたかったが、豊臣秀吉に配慮して完成させなかった」という言い伝えがある。しかし、築城が進められたとされる時期に秀吉はまだ天下人ではなく、この伝承をそのまま史実とみることはできない3。時系列の齟齬は、この説が後世に整えられた物語であることを強く示唆する。伝承としての価値を認めつつ、史実の年代決定に用いることはできない、という腑分けが必要となる。

推定の層

対武田戦の地政学説と混同説

これに対し、築城の理由を対武田戦の地政学に求める説は、前節でみた戦国期の支配の変遷と整合し、推定として一定の説得力をもつ。天竜川を控えた要地に城を構える軍事的合理性は、武田との抗争を抱えた徳川の立場から理解できる。もう一つ、城之崎城と中泉御殿という別個の史実が一つの物語に重なったとみる混同説は、地域の記憶がしばしば複数の事実を融合させる性質をもつことを踏まえた解釈である。いずれも一次史料による裏づけを欠くが、伝承の生成過程を説明する枠組みとして対等に併記されるべきである。

本稿の評価:城之崎城をめぐる三説は、優劣を競う仮説ではなく、史実・推定・伝承の異なる層に属する説明である。地名「城之崎」「城山」は城の実在を示唆するが、地名から実在を直接に導くことはできない。「あった/なかった」を断定せず、絵図・遺構・文献と伝承に腑分けして記述するのが妥当である。

城之崎城の事例が中世磐田の総合にとって重要なのは、それが史実と伝承の腑分けの方法を、もっとも鮮明に示すからである。城という具体的で目に見える対象をめぐってすら、その実在の確度は一様ではない。地名は残り、伝承は語られ、しかし築城を明示する一次史料は未確認のままである。この状態を前に、性急に「城はあった」とも「城はなかった」とも断ぜず、確度の層を保ったまま記述することが、中世を扱う郷土史の作法となる。城之崎城は、その作法を試す試金石として、本稿の総合のなかに位置づけられる。

7. 中世という時間 ── 国分寺の本尊交代が示すもの

ここまで荘園・湊・村・支配・城を横断してきたが、中世という時間そのものの性格を照らす事例として、遠江国分寺の本尊交代を加えておきたい。国分寺は古代国家が造営した官寺であるが、中世を通じてその性格を大きく組み替えていった。奈良時代に釈迦如来を本尊として創建されたと考えられる遠江国分寺は、平安中期には浄土信仰の広がりのなかで阿弥陀如来へ、さらに鎌倉時代には薬師如来へと、信仰の中心を移していったとみられる。

この過程を語る手がかりは、建久2年(1191年)の源頼朝による国分二寺修造令と、承元3年(1209年)の「遠江国府中薬師堂敷地」という記録である。1209年の記録で「国分寺」ではなく「薬師堂」の呼称が用いられていることは、記録上の事実として確認できる4。一方、釈迦から阿弥陀、薬師へという本尊そのものの移り変わりは、記録の断片と後代まで続いた薬師信仰の継続とを重ねて導かれる推定を含み、一つの史料が明示的に宣言するものではない。ここでも、記録で確認できる「呼称の変化」という事実と、そこから導かれる「本尊交代」という推定とを、慎重に分けねばならない。

国分寺の本尊交代が中世磐田の総合にとって示唆的なのは、それが中世という時間の働きを凝縮しているからである。古代国家が造営した巨大な官寺が、中世には現世利益を担う一堂の薬師堂へと機能を組み替えられ、しかも同じ敷地で信仰が続いていく。この「古代の枠組みが中世的に再編される」という運動は、荘園にも、村にも、支配にも、形を変えて働いている。荘園は古代の公地公民の枠組みが崩れたのちの中世的な土地支配であり、近世の村は中世の在地社会が再編されたものであり、戦国期の支配は古代・中世の国郡制の枠が武家の領国へ置き換わっていく過程である。国分寺の本尊交代は、この再編の運動を、寺院という一点で目に見える形にしてくれる。

したがって本稿は、国分寺の事例を、荘園・湊・村・城とは別系統の主題としてではなく、中世磐田を貫く「再編」という主題の一つの現れとして読む。中世とは、古代の遺産を受け継ぎながら、それを新しい社会の論理へと組み替えていく時間であった。史料が乏しいのは、この再編が文書によってではなく、多くは慣行と実態のなかで進んだからでもある。国分寺の巨大伽藍から一堂への縮小は、その再編の縮図であり、中世磐田の全体像を考えるうえでの鍵の一つとなる。

この「再編」という視座は、これまで横断してきた各主題を一つの運動として結び直す手がかりになる。荘園は古代の律令的な土地制度が崩れたあとに現れた中世固有の収取の仕組みであり、掛塚湊は古代の官道・官津の枠組みとは別に、在地の水運の必要から自生した結節点であった。近世の村と石高は、中世の在地社会が抱えていた生業と入会の実態を、支配の側が数値と境界へと整え直したものである。戦国期の支配は、古代以来の国郡の枠が武家の領国へと置き換えられていく過程にほかならない。これらはいずれも、古い枠組みを土台としつつ、それを新しい論理へと組み替えていくという同じ運動の異なる現れである。国分寺の本尊交代は、その運動を寺院という一点に凝縮して見せてくれる点で、中世磐田を総合するうえでの結び目となる。史料の乏しさは、この組み替えの多くが記録に残らない実態の水準で進んだことの、いわば裏面でもある。

古代 巨大伽藍 釈迦如来 中世 一堂の薬師堂 機能の組み替え(再編) 同じ敷地で信仰は継続 古代の枠組みの中世的再編 ── 伽藍から一堂へ
図5 古代の枠組みの中世的再編。巨大伽藍が一堂の薬師堂へと機能を組み替えられながら、同じ敷地で信仰が続く。呼称変化は史実、本尊交代は推定の層にある。この再編の運動が荘園・村・支配にも共通して働く。

8. 総合と史料批判 ── わかること/わからないことの腑分け

以上の横断を踏まえ、中世磐田について「わかること」と「わからないこと」を、主題ごとに腑分けして総合する。この作業の目的は、空白を消して一つのなめらかな物語を作ることではない。逆に、各主題がどの確度の層に立ち、どこから先が未確認・推定の領域なのかを、一望のもとに可視化することにある。以下の比較表は、荘園・湊・村と石高・戦国期の支配・城・寺院という六つの主題について、確認できる史実、推定にとどまる事柄、そして未確認・記載なしの区別を並べたものである。

表1 中世磐田の主題別 わかること・わからないこと ── 確度の層による総合
主題確認できる史実推定にとどまる事柄未確認・記載なしの区別典拠となる各論
荘園(池田荘)松尾神社社領としての荘園名の存在。四至・名主構成・収取の実効性。運営細部は「未確認」。荘園消滅の時期は記録を欠く。198
湊(掛塚)河口への港町形成という趨勢。成立の具体的年代、中世の交易規模。起源年は「未確認」。一年一月への確定は不可。198
村と石高寛政元年(1789年)掛塚村高617石余。中世の集落から近世村への編成過程。村名初見と村落の実在年代は別。判読不能は「記載なし」ではない。223 / 158
戦国期の支配今川・武田・徳川の遠江支配の推移。掛塚・竜洋の在地における帰属の実態。在地を名指す一次史料は「未確認」。198 / 158
城(城之崎城)地名「城之崎」「城山」の存在。築城の主体・時期・中止理由。築城を明示する一次史料は「未確認」。実在の断定は保留。196
寺院(国分寺)1209年記録の「薬師堂」呼称。釈迦→阿弥陀→薬師の本尊交代。交代の各段階を明示する単一史料は存在しない。135

この総合から浮かび上がるのは、中世磐田においては、どの主題をとっても「確認できる史実」が骨組みのようにわずかに残り、その周囲を「推定」の肉づけが取り巻き、さらにその外側に「未確認」の空白が広がっているという、共通の構造である。荘園の名は残るが運営は未確認、湊の形成は辿れるが年代は未確認、村高は一部確認できるが編成過程は推定、支配の骨格は史実だが在地の帰属は未確認、城の地名は残るが実在は保留、寺院の呼称変化は確認できるが本尊交代は推定──いずれも同じ形をしている。

ここで強調しておきたいのは、「未確認」と「記載なし」の区別が、総合の全体を貫く方法だという点である。一次史料に突き当たっていないこと(未確認)を、史料に記載がないこと(記載なし)へと滑らせてしまえば、「史料がないのだから、そのような事実はなかった」という誤った推論に陥る。中世磐田の史料の乏しさは、多くの場合、事実の不在を意味するのではなく、記録の不在、あるいは筆者の探索の限界を意味するにすぎない。この区別を保つことが、乏しい史料を扱う際の最低限の禁欲である。

本稿の立場を、あらためて一文で示す。中世磐田の総合とは、断片的な史料を無理に一つの物語へ束ねることではなく、荘園・湊・村・支配・城・寺院という各主題を、それぞれの確度の層に置いたまま接合し、わかること/わからないことの境界を、より広い視野のなかで正確に引き直す作業である。この立場に立てば、史料の乏しさは克服すべき欠陥ではなく、記述の作法によって誠実に受けとめるべき条件となる。空白は空白として書き留めることが、後世の調べものに耐える記録を残す道である。

史料の乏しさと確度の三層 古代 国史・式 中世 断片的 近世 検地帳・郷帳 史実(わずか) 推定(周囲) 未確認(外側) 中世は史実の骨組みが小さく、推定と未確認が大きく取り巻く。空白を空白として書き留める。
図6 史料の乏しさと確度の三層。古代・近世に比べ中世の残存史料は乏しく、わずかな史実の骨組みを推定が取り巻き、その外に未確認の空白が広がる。この構造を消さずに記述するのが本稿の立場である。

9. 結論 ── 確度の層を保ったまま中世を束ねる

本稿は、中世の磐田を扱った五つの各論──池田荘と掛塚湊、掛塚・袖浦・十束の村域と石高、遠江国分寺の本尊交代、城之崎城の築城伝説、竜洋の町村沿革──を先行研究として整理し、横断的に総合するレビュー論考として、荘園・湊・村と石高・戦国期の支配・城・寺院という六つの主題を史料批判の観点から接合してきた。得られた見取り図は明快である。中世磐田は、どの主題をとっても、わずかな史実の骨組みを推定が取り巻き、その外側に未確認の空白が広がるという、共通の構造をもつ5

この構造を前にして、二つの誘惑を退けねばならない。第一は、空白を埋めて一つのなめらかな物語を作ろうとする誘惑である。断片を無理につなげば、史料の裏づけを欠いた飛躍を史実と偽ることになる。第二は、史料が乏しいことを理由に、中世の記述そのものを諦める誘惑である。史料が乏しくとも、確認できる史実は史実として、伝承は伝承として腑分けし、確度の層を保ったまま書き留めることはできる。本稿がとった立場は、この二つの誘惑のあいだを歩む、禁欲的な総合であった。

横断してみて明らかになったのは、荘園・湊・村・支配・城・寺院という一見ばらばらな主題が、天竜川の水運、都と在地のあいだの支配、そして古代の枠組みの中世的再編という、いくつかの共通の条件によって結ばれているという事実である。池田荘の収取と掛塚湊の交易は水辺の制度として対をなし、村と石高は中世の生業を近世の枠組みへと整え、戦国期の支配と城之崎城は武家の時代を制度と軍事の両面から照らし、国分寺の本尊交代は再編という中世の運動を一点に凝縮する。個別の各論では見えにくかったこの連関を可視化できたことが、総合の成果である。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、池田荘の内実や掛塚湊の中世の交易については、荘園領主側の記録や海運史料を博捜することで、未確認を史実へ一歩進めうる余地がある。第二に、中世の集落から近世の村への編成過程は、検地帳の系譜的な検討によって、推定を通説へ押し上げられる可能性がある。第三に、城之崎城の実在をめぐる問いは、絵図・遺構・発掘の成果を待って、なお慎重に検討されるべきである。これらはいずれも、本稿が掲げた四層の枠組みのなかで、確度の層を一段ずつ引き上げていく作業に属する。中世磐田の全体像は、そうした地道な手続きの積み重ねの先に、少しずつ像を結んでいくはずである。わかることとわからないことを分け、空白を空白のまま誠実に書き留めること──それが、史料の乏しい中世を後世へ手渡すための、確かな一歩であると考える。

本稿が扱った掛塚や竜洋、見付の一帯には、荘園や湊の時代から数えて幾世代もの暮らしを重ねてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 池田荘を京都・松尾神社の社領とみる点、および掛塚湊の起源を天竜川の流路移動と海上流通のなかに位置づける点は、大石浩之「室町以降の竜洋 ── 池田荘・掛塚湊から天領支配まで」(本論考第198号)による。
  2. 寛政元年(1789年)の石高調に記された掛塚の村高617石余、および袖浦・十束の村高が判読・記載の偏りにより確定しがたい点は、大石浩之「掛塚・袖浦・十束の村域と石高 ── 江戸期の村組織史」(本論考第223号)による。数値は提供資料に転写された記載にもとづく。
  3. 城之崎城の「秀吉配慮」伝承が、築城時期と秀吉の天下人化の時系列に齟齬をきたす点は、大石浩之「見付に残る幻の城 ── 城之崎城と徳川家康の築城伝説を検証する」(本論考第196号)による。
  4. 建久2年(1191年)の源頼朝による国分二寺修造令、および承元3年(1209年)の「遠江国府中薬師堂敷地」の記録で「薬師堂」の呼称が用いられている点は、大石浩之「鎌倉時代の遠江国分寺 ── 釈迦から薬師へ」(本論考第135号)による。
  5. 「未確認」(一次史料に突き当たっていない状態)と「記載なし」(史料に記載がないこと)を区別する方法は、大石浩之「竜洋になるまでの町村沿革 ── 江戸の支配錯綜から昭和の合併まで」(本論考第158号)ほか本シリーズ各論で一貫して用いてきた作法にもとづく。

付記:本稿は既刊各論(第135・158・196・198・223号)を先行研究として整理・史料批判した横断的総合論考(レビュー論文)である。各論が確認した史実を史実として、伝承を伝承として腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別する方法を、横断の水準へ引き上げることを企図した。

参考文献・参考資料

  • 大石浩之「室町以降の竜洋 ── 池田荘・掛塚湊から天領支配まで」大石浩之の磐田論考 第198号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/198/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「掛塚・袖浦・十束の村域と石高 ── 江戸期の村組織史」大石浩之の磐田論考 第223号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/223/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「鎌倉時代の遠江国分寺 ── 釈迦から薬師へ」大石浩之の磐田論考 第135号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/135/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「見付に残る幻の城 ── 城之崎城と徳川家康の築城伝説を検証する」大石浩之の磐田論考 第196号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/196/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「竜洋になるまでの町村沿革 ── 江戸の支配錯綜から昭和の合併まで」大石浩之の磐田論考 第158号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/158/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(中世・近世の章)、磐田市。
  • 竜洋町『竜洋町史』通史編、竜洋町。
  • 静岡県『静岡県史』通史編2・中世、静岡県。
  • 『吾妻鏡』建久2年(1191年)条(国分二寺修造関連記事)。
  • 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条(松尾神社社領の背景として)。
  • 吉田東伍『大日本地名辞書』遠江国の部、冨山房。
  • 寛政元年(1789年)石高調(提供資料に転写された記載による)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 佐口行正氏所蔵史料(磐田物語 佐口史料室)。