磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第173号(総論・方法論 一)
磐田を時代で歩く ── 古墳・国府・宿場・祭りをつなぐ通史の試み
異なる時代と場所を一本の線で結ぶ「通史」という叙述の効用と危うさ
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市には、御厨古墳群・遠江国分寺跡・遠江国府・府八幡宮・見付宿・旧見付学校・見付天神裸祭・掛塚祭など、時代を異にする歴史の痕跡が濃密に残る。これらを一枚の地図に置き、古墳時代から近代へと時間の順に結んで語る叙述を、本稿は「磐田通史」の試みと呼ぶ。本稿の目的は各要素の紹介ではなく、異なる時代・場所の要素を一本の線で結ぶ通史という叙述の方法それ自体を史料批判的に検討することにある。まず諸要素の年代と存在を、発掘や指定で確認できる史実と、地形や伝承から導かれる推定とに腑分けする。そのうえで、通史が地域の記憶に見通しと連続の感覚を与える効用を認めつつ、断絶を連続と誤認させ、担い手の交替を無視して因果を捏造する危うさを指摘する。本稿の立場は、通史を禁じるのではなく、線を引く手つきを可視化し、確度の層と「未確認」「記載なし」の区別を保ったまま磐田を時代で歩くことにある。
キーワード:磐田通史/御厨古墳群/遠江国府/見付宿/見付天神裸祭/掛塚祭/史料批判
1. 問題設定 ── 「通史」という枠組みを問う
磐田市の歴史を一望しようとするとき、私たちはしばしば一枚の地図を広げ、そこに点在する史跡を古い順にたどっていく。御厨古墳群から始め、遠江国分寺跡と遠江国府を経て、見付宿と旧見付学校へ、さらに見付天神裸祭や掛塚祭へと歩を進める。このように、異なる時代に属し、場所も離れた諸要素を、時間の順序に沿って一本の線で結んでいく叙述を、本稿では「通史」と呼ぶ。磐田物語自身も、こうした通史的な入口として「磐田タイムトラベル地図」を公開しており1、本稿はその枠組みを主題化して問い直す試みである。
本稿の出発点は、この通史という叙述の方法それ自体を検討対象に据える点にある。ふつう磐田の歴史を語る文章は、個々の史跡の由来や価値を説明することに紙幅を割く。それは必要な作業だが、諸要素をどの順序で、どのような線で結ぶかという叙述の手つきそのものは、ほとんど意識されないまま用いられている。しかし、どの点とどの点を結ぶか、その線に因果や連続をどこまで読み込むかは、書き手が選び取る操作であって、対象の側にあらかじめ備わった性質ではない。本稿が問うのは、まさにこの選び取りの妥当性である。
あらかじめ本稿の立場を一文で述べておく。通史は磐田の記憶に見通しを与える有効な枠組みだが、線を引く操作を無自覚に行えば、断絶を連続と取り違え、無関係な要素のあいだに因果を捏造する危険を伴う。したがって本稿は、通史を退けるのではなく、線を引く手つきを可視化し、確度の層を保ったまま磐田を時代で歩く作法を提案する。以下ではまず対象となる諸要素を確認し、それを時代軸と空間軸の二つの軸で並べ、通史の効用と危うさを順に検討したうえで、比較と結論に至る。
なぜこの問いが磐田において切実かといえば、この地には時代を異にする痕跡がきわめて濃密に重なっているからである。古墳時代の権力の記憶、古代律令国家の地方拠点、近世東海道の宿場、近代教育の校舎、そして今なお続く祭礼が、半径数キロの範囲に折り重なっている。要素が濃く近いほど、それらを一本の線で結びたいという誘惑は強くなり、同時に、異なる時代の痕跡をあたかも一続きの物語であるかのように語ってしまう危うさも増す。磐田は、通史という方法の効用と危うさが最も先鋭に現れる土地の一つなのである。
ここで用いる語の水準を先に定めておきたい。本稿は事柄の確からしさを、発掘や史料・文化財指定によって確認できる史実、地形や配置・伝承から根拠をもって導かれるが未確定の推定、そして地域が語り継いできた伝承に区別して用いる。あわせて、一次史料に突き当たっていないだけの「未確認」と、史料に存在しない「記載なし」とを厳密に区別する。この二つを混同すると、資料が沈黙している事柄を「なかったこと」として語ってしまい、通史の線はしばしばこの混同のうえに滑らかさを装う。以下の検討では、この語の区別を一貫して保持する。
2. 対象 ── 地図に置かれた磐田の諸要素
検討に入る前に、通史の線が結ぼうとする諸要素を、確認できる範囲で押さえておく。ここで大切なのは、各要素について「何がどこまで確認できるのか」を先に確定し、後の議論が印象や伝承の上に組み立てられることを防ぐことである。以下では代表的な要素を、古い時代から順に挙げる。
まず古墳時代の痕跡として、御厨古墳群がある。その中核をなす松林山古墳は、天竜川東岸・磐田原台地南東縁に築かれた墳丘長107mの前方後円墳で、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定されている。1931年(昭和6年)の発掘調査では、後円部墳頂下の竪穴式石室から、内行花文鏡や三角縁神獣鏡を含む鏡4面、玉類、石釧・貝釧、多量の鉄製武器・武具が、盗掘を受けない状態でまとまって出土したと伝えられ、これらは現在、東京国立博物館で保管されているとされる。御厨古墳群は松林山古墳のほか高根山・御厨堂山・稲荷山・秋葉山の計5基から成り、国の史跡に指定されている2。ここで確認できるのは、古墳という遺構の存在と規模、副葬品の内容であって、被葬者が誰であったかは確認できない。
次に古代の痕跡として、遠江国分寺跡がある。金堂を中心に、北に講堂、南に中門を置き、それらを回廊で結ぶ伽藍が、東西約180m・南北約250mの範囲に配置されていたとされる。1951年(昭和26年)の発掘調査で七重塔跡をはじめとする主要伽藍の配置が明らかになり、翌1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定された。2006年度(平成18年度)以降の調査では、塔跡から粘土製の仏像頭部「塔本塑像」も発見されたとされる3。国分寺の存在は、遠江国府がこの周辺に置かれたことと不可分であり、府八幡宮・淡海國玉神社(総社)とともに、古代遠江の政治・仏教・祭祀の中心がこの地にあったことを示す。ただし、国府そのものの正確な所在地については複数の見方があり、一点に確定しているとは言い難い。国分寺の伽藍論とその意義は、本論考シリーズの遠江国分寺論で詳しく論じた。
近世の痕跡としては、見付宿がある。見付は東海道の宿場町として、本陣・脇本陣・旅籠を備え、人と物の往来を支えた。宿場の機能構造については見付宿論で論じたとおりで、ここでは、近世の見付が街道交通の結節点であったという事実を確認しておけば足りる。近代の痕跡として、旧見付学校がある。1875年(明治8年)に建てられた、現存する日本最古級の木造擬洋風小学校校舎とされ、玄関にエンタシス式の柱を配し、外壁を漆喰塗りとする。1883年(明治16年)には3階部分を増築し、屋根を寄棟造に改めたことで、俗に「見付の五階」と呼ばれる姿になったとされる。1875年から1922年(大正11年)まで校舎として使用されたのち、隣接する私設文庫・磐田文庫とあわせて国の史跡に指定され、現在は教育資料館として公開されている4。
そして、いまも続く祭礼がある。見付天神裸祭は、矢奈比賣神社の例祭であり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。旧暦8月10日直前の土曜・日曜に行われ、腰蓑姿の裸衆が乱舞する「鬼踊り」で知られる5。その起源をめぐる諸説の史料批判は、本シリーズ第1号の裸祭論で扱った。天竜川河口の掛塚では、湊町として栄えた記憶が掛塚祭に受け継がれ、屋台囃子や竹馬神事が伝えられている。これら祭礼は、過去の遺構と異なり、現に人々が身体で担い続けている点で、通史の線の性格を考えるうえで特別な位置を占める。以上が、通史が結ぼうとする主な点である。
3. 時代軸で並べる ── 年代と確度の腑分け
諸要素を確認したところで、まずそれらを時代軸に沿って並べてみる。時代軸で並べるとは、各要素に一つの年代を与え、その数直線上の位置によって順序づける操作である。御厨古墳群を4世紀後半、遠江国分寺跡を8世紀、見付宿を近世、旧見付学校を明治、裸祭や掛塚祭を現在に続く祭礼として置けば、古墳から祭りへと至る一本の時間の線が引ける。「磐田タイムトラベル地図」の時代別カードも、基本的にこの並べ方を採っている。
だが、この操作には最初から一つの難しさが潜む。各要素に与える「一つの年代」が、どれも同じ性格の年代ではないという点である。松林山古墳の4世紀後半は、発掘された遺構と副葬品の型式から導かれた考古学的な推定年代であり、文字で記された年紀ではない。遠江国分寺の特別史跡指定は1952年という確定した史実だが、それは寺の創建年ではなく近代の行政行為の年である。旧見付学校の1875年は建築の年であり、これは記録によって確認できる史実に近い。裸祭に至っては、そもそも「始まった年」を確定できず、矢奈比賣神社が延喜式に載る古社であること(905年に編纂が始まった延喜式に神社名が見えること)と、現行の鬼踊りの成立年代とは、別の事柄である。つまり時代軸に打たれた点は、確定した史実の年もあれば、幅をもった推定の年もあり、性格の異なる年代が同じ数直線上に等価に並べられている。
この不均質を無視して線を引くと、点と点のあいだの「距離」が実際以上に正確なものに見えてしまう。4世紀の古墳と8世紀の国分寺のあいだには、おおよそ四百年という時間があるが、その四百年は磐田において何が起きた時間だったのか、確認できる史料はきわめて乏しい。時代軸の線は、この空白の四百年を、あたかも滑らかに連続した一続きの時間であるかのように描いてしまう。線が引かれることで、点と点のあいだにあるはずの断絶や不明が、視覚的に消去されるのである。
したがって時代軸で並べる作業には、年代の確度を腑分けする手続きが不可欠となる。確定した年紀なのか、型式からの推定なのか、指定・登録という後代の行為の年なのかを区別し、幅のある推定にはその幅を明示する。そして、点と点のあいだの空白については、「史料に記載がない」のか「まだ確認できていないだけ」なのかを判別する。前者であれば空白そのものが一つの事実であり、後者であれば今後の調査に開かれた課題である。この腑分けを経てはじめて、時代軸の線は誤解を招かない叙述の道具となる。
4. 空間軸で並べる ── 台地・街道・河口の地理
時代軸と並んで、通史はもう一つの軸をひそかに用いている。空間軸である。諸要素は時間の順に並ぶだけでなく、地図という平面のうえに配置されており、その位置関係が線の引き方を左右する。磐田の地理を大きく捉えれば、西を天竜川、東を太田川が限り、そのあいだに磐田原台地が広がり、台地の南縁を東西に旧東海道が走り、さらに南の遠州灘に向かって天竜川が掛塚の河口へ注ぐ。この地形の骨格が、諸要素の立地を規定している。
古墳は、台地や河川を見下ろす高所に築かれた。松林山古墳が磐田原台地の南東縁に位置することは、被葬者とされる古代の権力が、台地と低地の境という眺望と交通の要所を選んだことを示す。古代の国府・国分寺・府八幡宮・総社は、台地上の中泉・見付一帯に集中し、ここが遠江国の政治的中心として選ばれたことを物語る。近世の見付宿は、この古代以来の中心の記憶を引き継ぐように、台地南縁の東海道沿いに開かれた。そして掛塚は、これらの内陸の拠点とは離れ、天竜川が海へ注ぐ河口に、水運の湊町として成立した。空間軸で見れば、磐田の歴史は「台地上の内陸拠点」と「河口の湊」という二つの異なる立地原理のうえに展開している。
ここで注意すべきは、空間軸の近さが、しばしば時間軸の連続と取り違えられることである。中泉・見付の一帯には、古代の国府から近世の宿場、近代の学校、そして現在の祭礼までが、同じ場所に幾重にも積み重なっている。この場所の連続は確かに事実である。しかし、同じ場所にあることは、それらが一続きの歴史的過程として因果でつながっていることを意味しない。国府が置かれたから宿場が栄えた、と滑らかに語りたくなるが、古代国府の衰退と近世宿場の成立のあいだには、中世という長い時間の断絶が挟まっており、その間の連続を直接に証す史料は、本稿の範囲では確認できていない。場所が同じであることと、営みが連続していることとは、区別して扱わねばならない。
他方、掛塚のように場所が離れた要素を、内陸の拠点と一本の線で結ぶときには、逆の危うさが生じる。掛塚祭を見付天神裸祭や府八幡宮例大祭と並べて「磐田の祭り」として一括りにすると、河口の湊町という掛塚固有の成立事情、すなわち水運と結びついた町の生業や信仰が、内陸の祭礼の文脈に吸収されて見えなくなる。空間軸は、近い要素を過度に連続させ、遠い要素を無理に束ねるという、二つの逆方向の歪みを同時に生みうる。空間軸を用いるなら、立地原理の違いを消さずに、それぞれの場所がどのような地理的条件のうえに成り立ったのかを、腑分けして示す必要がある。府八幡宮と国府をめぐる中泉の空間的中心性については、府八幡宮論で立ち入って論じた。
5. 通史の効用 ── 線が生む見通し
ここまで通史の難点を強調してきたが、通史がなぜこれほど広く用いられ、また求められるのかには、正当な理由がある。本節では、線を引くことの効用を積極的に認めておきたい。効用を見ないまま危うさだけを説けば、それはそれで一面的な議論に陥るからである。
第一の効用は、見通しを与えることである。個々の史跡は、それぞれの解説板や個別の記事のなかに閉じている限り、互いに無関係な点の集合にとどまる。古墳は古墳の、国分寺は国分寺の、宿場は宿場の話として別々に語られ、訪れる者はそれらを結ぶ糸を自力で見つけねばならない。通史の線は、この孤立した点を一つの見取り図のうえに置き、「この土地には古墳の時代から現在まで、人の営みが積み重なってきた」という大きな見通しを与える。専門家でない読者にとって、この見通しは、ばらばらの史跡を一つの土地の物語として受け取るための、事実上不可欠な入口となる。
第二の効用は、問いを生み出すことである。諸要素を一本の線に並べると、点と点のあいだの空白が可視化される。前節で見た4世紀の古墳と8世紀の国分寺のあいだの空白は、線を引かなければ意識されることもない。しかし線を引き、そこに空白があると気づいたとき、「では、その四百年、この土地では何が起きていたのか」という問いが立ち上がる。通史は、答えを与えるだけでなく、むしろ答えの欠けている場所を照らし出すことによって、次の調査への問いを生み出す。線は、連続を主張する道具であると同時に、断絶を発見する道具でもありうる。
第三の効用は、土地への帰属の感覚を育てることである。同じ場所に幾重にも積み重なった時代の層を一続きの線として受け取るとき、いま自分が立っている土地が、古墳を築いた人々、国府に仕えた人々、宿場を行き交った人々、そして祭礼を担ってきた人々と地続きであるという感覚が生まれる。この感覚は、史実の厳密な連続とは別の水準の、いわば記憶の連続である。それは学問的な因果関係の主張ではないが、地域の歴史を「自分たちの歴史」として引き受ける営みを支える。掛塚の湊町が屋台囃子を伝え、見付の町が裸祭を担い続けているのは、まさにこの記憶の連続が身体を通じて働いているからである。祭礼という現在進行形の営みは、通史の線が単なる過去の整理ではなく、現在の共同体を過去へと結び直す実践でもあることを示している。
これらの効用に共通するのは、通史が「関係を仮設する」働きをもつという点である。点をただ列挙するのではなく、それらのあいだに時間的・空間的な関係を仮に置いてみることで、見通し・問い・帰属という三つの価値が生まれる。問題は、この仮設された関係を、確定した事実と取り違えないことである。仮設としての線は有用であり、確定としての線は危うい。次節では、この危うさの側を検討する。
6. 通史の危うさ ── 断絶を線で結ぶこと
通史の効用が「関係を仮設する」ことにあるなら、その危うさは、仮設されたはずの関係が、いつのまにか確定した因果として語られてしまう点にある。本節では、この危うさを三つの型に分けて指摘する。
第一の型は、連続の錯覚である。点と点を線で結ぶという視覚操作は、それ自体が連続の印象を生む。前節で触れたように、古代国府と近世宿場を同じ地図上に近接して置き、時間順に結ぶと、あたかも国府が衰えたのちも人の営みが途切れずに続き、やがて宿場へと発展したかのように見える。しかし、古代から近世までのあいだには中世という長い時間があり、その間の見付・中泉一帯の様相を連続的に描ける史料は乏しい。線が滑らかであるほど、この空白は見えなくなる。連続の錯覚とは、線の視覚的な滑らかさが、史料上の空白を埋めてしまう現象である。
第二の型は、因果の捏造である。連続の錯覚は、しばしば因果の言明へと踏み越える。「古代に国府が置かれた土地だから、近世に宿場として栄えた」という語りは、耳になじみやすいが、両者を直接に結ぶ因果を証す史料があるわけではない。地理的な条件、すなわち台地南縁の交通の要所という立地が、古代と近世の双方に拠点を呼び込んだ、という説明ならば推定として成り立つ余地がある。だが「国府があったから宿場が栄えた」と国府自体を近世宿場の原因に据えるのは、あいだの中世を飛ばした因果の飛躍である。通史の線は、この「地理という共通の条件」と「歴史的な因果の連鎖」とを混同させやすい。
第三の型は、担い手の消去である。過去の遺構と現在の祭礼を一本の線で結ぶとき、その線は、誰がその営みを担ってきたのかという主体の交替を覆い隠す。古墳を築いた集団、国府に仕えた官人、宿場を運営した町人、祭礼を担う氏子──これらはそれぞれ別の時代の別の人々であり、同じ「磐田の人々」として一括りにできる連続した主体ではない。とりわけ祭礼は、担い手の共同体が世代を超えて交替しながら、所作を少しずつ加除して伝えてきたものである。通史の線が「古墳の時代から続く磐田の営み」と語るとき、この担い手の断続と交替は、しばしば無名の連続体へと均されてしまう。だが実際には、それぞれの時代の人々が、その都度の事情のなかで営みを選び直してきたのであり、その選び直しの積み重ねこそが歴史である。
これら三つの型に共通する根は、先に述べた「未確認」と「記載なし」の混同にある。点と点のあいだの空白を、書き手が無意識のうちに「連続していたはずだ」と埋めるとき、そこでは「まだ確認できていないだけ」の空白が「連続していた」という積極的な主張にすり替わっている。史料が沈黙している場所で、線は最も雄弁に語りたがる。だからこそ、通史を用いる者は、線が空白をまたぐその瞬間に、自分がいま仮設をしているのか、それとも確認された事実を述べているのかを、絶えず自問しなければならない。
7. 比較と本稿の立場 ── 手つきを可視化する
ここまでの検討を、時代区分ごとに整理しておく。以下の表は、磐田の主要な要素を時代の層で並べ、それぞれについて確認できる史実と、通史の線を引く際に生じやすい危うさとを、対等の粒度で示したものである。特定の要素を主役に立てず、各行の情報量をそろえることで、読者が線の引き方を自分で吟味できる状態をつくることを心がけた。
| 時代区分 | 主要な要素 | 確認できる史実 | 確度の層 | 通史上の留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 古墳時代(4C頃) | 御厨古墳群・松林山古墳 | 墳丘長107mの前方後円墳、鏡4面等の副葬品、国史跡。 | 史実(遺構)+推定(年代) | 被葬者は未確認。次代との連続を語る史料はない。 |
| 古代(8C〜) | 遠江国府・国分寺・府八幡宮 | 国分寺跡は特別史跡、伽藍配置・塔跡が判明。 | 史実(遺構)+推定(国府所在) | 国府の正確な所在は諸説。古代→近世の連続は断絶を含む。 |
| 近世(東海道期) | 見付宿 | 東海道の宿場、本陣・脇本陣・旅籠の機能。 | 史実 | 「国府ゆえに宿場」は因果の飛躍。地理条件で説明すべき。 |
| 近代(明治〜) | 旧見付学校 | 1875年築の擬洋風校舎、国史跡、現・教育資料館。 | 史実 | 建築年は確実。街道の町から教育の町への転換は解釈を要する。 |
| 祭礼(継続) | 見付天神裸祭・掛塚祭 | 裸祭は重要無形民俗文化財、掛塚祭は屋台囃子等。 | 史実(指定)+伝承(起源) | 起源年は未確認。担い手は世代交替。立地原理も異なる。 |
この表から見えてくるのは、磐田の諸要素が、それぞれ異なる確度の層に属し、しかも互いのあいだに一様でない断絶を挟んでいるという事実である。古墳と国府のあいだ、国府と宿場のあいだには、それぞれ性格の異なる空白がある。通史の線は、これらの空白を一律に「時間の経過」として滑らかにまたいでしまうが、実際には、ある空白は史料の乏しさであり、ある空白は担い手の交替であり、ある空白は立地原理の断絶である。空白の性格を腑分けせずに一本の線で結ぶことが、前節に見た三つの危うさを生む。
では、通史を放棄すべきかといえば、そうではない。第5節で見たとおり、通史には見通し・問い・帰属という替えのきかない効用がある。本稿の立場は、通史を用いつつ、その線を引く手つきを可視化することにある。具体的には三つの作法を提案したい。第一に、線を引くたびに、それが確認された事実の記述なのか、仮に置いた関係の仮設なのかを明示すること。第二に、点と点のあいだの空白について、「記載なし」なのか「未確認」なのかを判別し、後者であれば調査の課題として開いておくこと。第三に、同じ場所の連続と、営みの連続と、担い手の連続とを区別し、どの水準の連続を語っているのかを明らかにすること。この三つを守れば、通史は事実を歪める道具ではなく、確度を明示しながら見通しを与える道具となる。
この作法は、磐田物語が「磐田タイムトラベル地図」において、史実・伝承・推定を分けて記述する方針を掲げていることと軌を一にする。地図に置かれた各スポットが、確認できる事実と、伝承・推定・未確認事項とを分けて示されているのは、まさに線を引く手つきを読者に開いておくための工夫にほかならない。本稿は、その方針を叙述の方法論として明示的に言語化し、通史という枠組み全体の作法へと押し広げる試みである。
8. 結論 ── 線を引く責任を引き受ける
本稿は、磐田市の古墳・国府・国分寺・宿場・学校・祭礼を、地図と時代でつなぐ「磐田通史」の試みを対象とし、異なる時代・場所の要素を一本の線で結ぶ通史という叙述の方法それ自体を、その効用と危うさの両面から検討した。得られた見取り図は次のとおりである。磐田の諸要素は、遺構や指定によって確認できる史実と、地形や配置から導かれる推定、地域が語り継ぐ伝承という異なる確度の層に属し、しかも互いのあいだに性格の異なる空白を挟んでいる。通史の線は、これらの点を一本に結ぶことで見通し・問い・帰属という効用を生む一方、連続の錯覚・因果の捏造・担い手の消去という危うさを孕む。
本稿の立場は、通史を放棄することでも、無邪気に用いることでもない。線を引くこと自体は避けられず、また効用ゆえに引く価値がある。問題は、線を引く操作を無自覚に行うか、自覚的に可視化して行うかである。書き手が点と点を結ぶとき、その線がどの確度の層をまたぎ、どのような空白の上を渡っているのかを明示するならば、通史は事実を歪める装置ではなく、確度を保ちながら磐田を時代で歩くための地図となる。線を引くことは、書き手が引き受けるべき一つの責任なのである。
この方法論的な立場は、本論考シリーズの各論とも呼応する。国分寺の伽藍論も、見付宿の機能論も、府八幡宮と国府の空間論も、裸祭の起源論も、いずれも一つの要素を深く掘り下げる作業であった。それらの各論が確度の層を腑分けしながら書かれてきたのは、まさに本稿が論じた作法の実践にほかならない。本稿は、それら各論を束ねる総論として、個々の点をどう結ぶかという次元の問いを引き受けたものである。各論が点を精密にし、総論が線を吟味する。この二つがそろってはじめて、磐田の歴史は誤解を招かない形で叙述されうる。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、古墳時代と古代のあいだ、古代と近世のあいだの空白は、いずれも「未確認」の状態にとどまっており、中世の在地社会に関する史料を博捜することで、推定を通説へ、通説を史実へと押し上げていく余地がある。第二に、掛塚のような河口の湊町を、内陸拠点の通史にどう位置づけるかは、立地原理の異なる要素を一つの叙述に統合する方法として、なお検討を要する。第三に、祭礼という現在進行形の営みを、過去の遺構と同じ線の上に置くことの当否は、担い手の連続という主体の問題として、稿を改めて論じる必要がある。いずれも、線を引く手つきを可視化するという本稿の作法のもとで、一つずつ検証されるべき主題である。磐田を時代で歩くとは、滑らかな一本の線をなぞることではなく、点と点のあいだに開いた空白の性格を確かめながら、確度を保って歩を進めることにほかならない。
注
- 磐田物語「磐田タイムトラベル地図」(c004)は、市内の歴史スポットを固定SVG模式図と時代別カードで示す通史的な入口であり、史実・伝承・推定を分けて記述する方針を掲げる。本稿はこの枠組みを主題化する。↩
- 御厨古墳群・松林山古墳の規模、1931年(昭和6年)発掘調査の出土品、東京国立博物館での保管、5基の構成と国史跡指定については、磐田市公式の文化財情報およびc004の記載による。年代は型式に基づく推定である。↩
- 遠江国分寺跡の伽藍配置、1951年(昭和26年)の発掘、1952年(昭和27年)の特別史跡指定、2006年度以降の塔本塑像の発見については、磐田市公式情報およびc004の記載による。国府の正確な所在地は本稿では確定しない。↩
- 旧見付学校の1875年(明治8年)の建築、1883年(明治16年)の増築、1922年(大正11年)までの使用、磐田文庫とあわせた国史跡指定については、c004の記載による。「現存最古級」の位置づけは公開情報に基づく。↩
- 見付天神裸祭の重要無形民俗文化財指定、旧暦8月10日前後の実施、悉平太郎伝説と鬼踊りの関係、矢奈比賣神社が延喜式に載る古社であることについては、c004の記載および本シリーズ第1号による。裸祭の起源年は未確認であり、伝説は史実として断定できない。↩
付記:本稿は一般読者向けの「磐田タイムトラベル地図」(c004)を素材とし、そこに置かれた通史という枠組みを、郷土史研究者向けに方法論として再構成した総論である。各要素の年代・存在は史実・推定・伝承に腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別した。個別要素の詳論は本シリーズ第1号・第152号・第156号・第157号を参照。
参考文献・参考資料
- 磐田物語「磐田タイムトラベル地図」(c004) https://iwata-monogatari.net/c004 (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「遠江国分寺とは何か ── 古代遠江の中心寺院と伽藍の空間論」『大石浩之の磐田論考』第152号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/152/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「見付宿の機能構造 ── 本陣・脇本陣・旅籠が編んだ東海道の宿」『大石浩之の磐田論考』第156号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/156/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「府八幡宮と遠江国府の記憶 ── 国府・国分寺・総社を結ぶ中泉の空間」『大石浩之の磐田論考』第157号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/157/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「見付天神裸祭 起源三説の学史的検討」『大石浩之の磐田論考』第1号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/001/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 磐田市公式サイト「文化財」各ページ(御厨古墳群・遠江国分寺跡・旧見付学校ほか) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市観光協会「遠江国はじまりの地」および各スポット情報 (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」(特別史跡・史跡・重要無形民俗文化財の各項) https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
- 見付天神(矢奈比賣神社)公式資料、掛塚貴船神社関係資料。
- 佐口行正氏所蔵史料、現地確認。