失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 鎌倉時代の遠江国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第135号(遠江国分寺研究 三)

鎌倉時代の遠江国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき

本尊の交代が語る古代寺院の中世的再編

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉

要旨

奈良時代に釈迦如来を本尊として創建されたと考えられる遠江国分寺は、平安中期には浄土信仰の広がりのなかで阿弥陀如来へ、さらに鎌倉時代には薬師如来へと、信仰の中心を移していったとみられる。本稿は、建久2年(1191年)の源頼朝による国分二寺修造令と、承元3年(1209年)の「遠江国府中薬師堂敷地」という記録を軸に、この本尊交代の過程を、史料の確度を腑分けしながら検討する。1209年の記録で「国分寺」ではなく「薬師堂」の呼称が用いられていることは、記録上の事実として確認できる。一方、釈迦から阿弥陀、薬師へという本尊そのものの移り変わりは、記録の断片と後代まで続いた薬師信仰の継続とを重ねて導かれる推定を含み、一つの史料が明示的に宣言するものではない。本稿はこの「事実」と「推定」の境界を保ちつつ、本尊の交代を、古代国家が造営した国分二寺が現世利益の一堂へと機能を組み替えられていく中世的再編の指標として読み、巨大伽藍から一堂へと姿を変えながら同じ敷地で信仰が続いた過程を記述する立場をとる。

キーワード:遠江国分寺/本尊/釈迦如来/阿弥陀如来/薬師如来/薬師堂/中世的再編

1. 問題設定 ── 本尊が変わるとは何を意味するか

遠江国分寺は、奈良時代の中頃、聖武天皇の国分寺建立の詔を承けて、遠江国の中心である現在の磐田市中泉から見付にかけての一帯に造営された、古代遠江を代表する大寺である1。その伽藍と造営の背景については別稿で扱った遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍に譲り、本稿はこの寺が古代から中世へと時代をまたぐなかで、その信仰の核である本尊がどのように移り変わっていったかを主題とする。

寺院において本尊とは、その堂が誰に向かって祈られる場であるかを定める中心である。したがって本尊が変わるということは、単に安置される仏像が入れ替わるという物理的な出来事にとどまらず、その寺が何のために営まれ、人々が何を求めてそこへ足を運ぶのかという、寺院の機能そのものが組み替えられることを意味しうる。遠江国分寺の本尊は、創建期の釈迦如来から、平安中期の阿弥陀如来を経て、鎌倉期には薬師如来へと移ったとみられる。この三度の交代を追うことは、一つの古代寺院が中世社会のなかで生き延びるために、自らの性格をどう変えていったかを追うことにほかならない。

ただし、本尊の交代を語るには、慎重な手続きが要る。というのも、この交代の全過程を一つの史料が明確に記しているわけではないからである。釈迦から阿弥陀、薬師へという移り変わりは、断片的な記録と、後世まで続いた薬師信仰の事実とを重ね合わせたときに、そのような変遷があったと考えられる、という性格の推定を多分に含む。他方で、鎌倉初期の記録に「薬師堂」という呼称が現れること自体は、記録上の事実として確認できる。本稿の課題は、この「推定」と「事実」の境界を注意深く保ちながら、本尊交代の過程を叙述することにある。

本稿がこの区別に固執するのは、地域史の記述において、確度の異なる情報を同じ平面で語ることが、しばしば誤りの源になるからである。後世の信仰の姿から遡って「創建以来ずっとこの仏であった」と述べたり、逆に一片の記録に現れた呼称を根拠に「この年に本尊が交代した」と断じたりすることは、いずれも資料が語りうる範囲を超えている。史料で確認できることと、複数の事実を重ねて推し量られることとを、語の水準で書き分ける。この作法を守ってはじめて、本尊の交代という現象は、後世の調べものに耐える形で書き留められる。

以下ではまず、鎌倉初期の遠江国分寺について史料で確認できる範囲を押さえ(第2節)、続いて創建期の釈迦如来(第3節)、平安中期の阿弥陀如来(第4節)、鎌倉期の薬師如来(第5節)を順に検討する。そのうえで、承元3年の「薬師堂」表記を史料批判の観点から吟味し(第6節)、巨大伽藍から一堂への縮小と信仰の連続を中世的再編として位置づけ(第7節)、結論に至る。各節では、本尊にまつわる情報が史実・推定・伝承のいずれの層に属するのかを、そのつど明示していく。

釈迦如来 創建・奈良時代 推定 阿弥陀如来 平安中期・浄土信仰 推定 薬師如来 鎌倉・現世利益 呼称は記録に確認 遠江国分寺 本尊交代の三段階 釈迦・阿弥陀の交代は推定を含み、薬師への交代は承元3年の呼称に手がかりを得る。
図1 本尊交代の三段階。釈迦如来から阿弥陀如来への移行、阿弥陀如来から薬師如来への移行はいずれも推定を含み、薬師については承元3年(1209年)の「薬師堂」呼称に確かな手がかりが得られる。

2. 史料で確認できる鎌倉初期の国分寺

本尊の交代を論じる前に、鎌倉初期の遠江国分寺について、史料で確認できる範囲を確定しておきたい。まず押さえるべきは、建久2年(1191年)に鎌倉幕府を開いて間もない源頼朝が、諸国の国司に対して国分二寺、すなわち国分寺と国分尼寺の修造を命じたと『吾妻鏡』に記されていることである2。この命令は特定の一国を対象としたものではなく、諸国の国分寺全般に向けられたものであるが、遠江国分寺もその対象に含まれていたと考えるのが自然である。

この修造令が発せられた背景には、諸国の国分寺が各地で荒廃し、寺領や堂舎の維持が滞っていた事情があったと考えられる。遠江国分寺については、その前史として、平安中期の治安2年(1022年)に講堂が大風で倒壊し、太政官への修復の嘆願がなされたことが知られている。この一件については別稿講堂が倒れた日 ── 治安2年の大風と国分寺の嘆願で詳しく扱ったが、要点は、11世紀の段階で遠江国分寺がすでに堂舎の維持に苦しんでいたということである。それから150年以上を経た建久2年の修造令は、古代以来の国分寺制度が、摂関政治から武家政権へと時代が移ってもなお、少なくとも名目上は公的な修造の対象として生きていたことを示している。

頼朝の修造令に先立つ文治2年(1186年)には、『吾妻鏡』に、当時の遠江守であった安田義定朝臣が、岩室の山寺で源義経の行方を探索したという記事がある3。これは国分寺そのものについての記録ではないが、遠江国司として義定の名が史料に現れる数少ない事例であり、平氏滅亡後の混乱期に、遠江の国司が幕府の指示のもとで在地の寺社を含めて動いていた様子をうかがわせる。国分寺に関する直接の記録が乏しいこの時期にあって、遠江守の動静を伝えるこの記事は、修造令の背景にある在地支配の実態を考えるうえで参考になる。

ここで、史料の性格について一言しておきたい。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の事績を編年体でまとめた歴史書であり、後世に幕府の側で編纂されたものである。したがって建久2年の修造令の記事は、幕府が諸国の寺社政策に関与した事実を伝える一次的な価値をもつが、その命令が遠江国分寺において具体的にどこまで実行されたかまでは語らない。遠江国分寺がこの時どのような状態にあり、修造令を受けてどれほど実際に手が入ったかを直接記す史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しないと断定できる」ことを意味するのではなく、あくまで「管見の限り、実行の程度を裏づける記録に突き当たっていない」という未確認の状態である。

整理すれば、鎌倉初期の遠江国分寺について史料で確認できるのは、次の点にとどまる。第一に、建久2年に頼朝が諸国国司へ国分二寺の修造を命じたこと。第二に、文治2年に遠江守安田義定が在地で活動していたこと。そして第三に、後述するように、承元3年(1209年)の記録に「薬師堂」の呼称が現れること。これら以外の、修造の具体的な成否や堂舎の規模といった事柄は、いずれも推定の領域に属する。本尊の交代を論じる本稿は、この確認できる骨格の上に、注意深く推定を重ねていくことになる。

1022講堂倒壊(治安2年) 1186安田義定(文治2年) 1191国分二寺修造令(建久2年) 1209「薬師堂」表記(承元3年) ■ 前史(平安中期) ■ 鎌倉初期の史料 鎌倉初期・国分寺関連史料の並び
図2 関連史料の年表。治安2年の講堂倒壊を前史とし、文治2年・建久2年の『吾妻鏡』の記事、承元3年の「薬師堂」表記へと連なる。本尊交代の推定は、この史料の骨格の上に重ねられる。

3. 創建の本尊 ── 釈迦如来という出発点

段階①・推定(詔の趣旨による)

聖武天皇の詔にならう創建本尊としての釈迦如来

推定の骨子。奈良時代創建当初の遠江国分寺の本尊は、釈迦如来であったと考えられている。その根拠は、国分寺の建立を命じた聖武天皇の詔にある。詔は、諸国に金光明四天王護国之寺と法華滅罪之寺を置くことを命じ、その本尊のあり方を規定した。この詔の趣旨にならえば、諸国の国分寺の本尊は釈迦如来を中心とする構成であったと解される4。遠江国分寺もまた、この国家的な造営計画の一環として建てられた以上、創建期の本尊は釈迦如来であったとみるのが穏当である。

この推定の性格。ここで注意すべきは、遠江国分寺の創建本尊を釈迦如来とみる根拠が、遠江国分寺そのものに即した記録ではなく、諸国の国分寺一般を規定した詔の趣旨からの類推にある点である。すなわちこれは、遠江国分寺の創建仏を直接に記した史料が確認されているという意味での史実ではなく、国分寺制度の設計から導かれる推定である。とはいえ、この推定は制度の根幹に立脚しており、遠江国分寺だけがその設計から外れていたと考えるべき積極的な理由も見当たらない。したがって本稿は、創建本尊を釈迦如来とみる推定を、確度の高いものとして扱う。

国分寺制度における釈迦如来。国分寺の造営は、天平の疫病や政情不安のなかで、仏法によって国家を鎮護しようとする聖武天皇の意図のもとに進められた。釈迦如来を本尊とする護国の寺を諸国に置くという構想は、仏教を国家統治の枠組みへ組み込む古代律令国家の性格をよく表している。遠江国分寺の釈迦如来は、この意味で、一地方の信仰の対象であると同時に、国家的な護国の体系の一部として位置づけられた仏でもあった。創建期の本尊を考えることは、遠江国分寺が古代国家のなかで担わされた役割を考えることと不可分である。

本尊像そのものは伝わらない。付言すれば、遠江国分寺の創建期の本尊像そのものは現存せず、その姿を直接に伝える遺品も確認されていない。治安2年の講堂倒壊の際に堂内の仏像がどうなったかを含め、創建から中世に至る本尊像の実物の来歴を追える史料は乏しい。したがって釈迦如来という本尊は、あくまで制度と詔の趣旨から復元される観念上の出発点であって、現存する像から遡って確かめられるものではない。この点でも、創建本尊の議論は推定の層にとどまる。本尊の交代を論じるにあたっては、われわれが手にしているのが像そのものではなく、制度・記録・後代の信仰という間接的な手がかりの束であることを、繰り返し確認しておく必要がある。

本稿の評価:創建本尊を釈迦如来とみる見方は、聖武天皇の詔の趣旨にならう推定であり、遠江国分寺に即した直接の史料に基づく史実ではない。ただし国分寺制度の設計に立脚する確度の高い推定として、本尊交代の出発点に置く。

4. 平安中期の転位 ── 阿弥陀如来と浄土信仰

段階②・推定(各地の例からの類推)

浄土信仰の広がりのなかで阿弥陀如来へ

推定の骨子。平安中期になると、貴族社会に広がった浄土信仰の影響を受けて、地方の国分寺でも本尊が阿弥陀如来に置き換わっていった例が各地で知られている。遠江国分寺もまた、この流れのなかにあったとみられる。すなわち、創建期の釈迦如来から、来世の救済を約束する阿弥陀如来へと、信仰の中心が移っていったと考えられる。

この推定の性格。阿弥陀如来への転位を遠江国分寺について直接記した史料は確認できない。この推定は、平安中期の浄土信仰の全国的な広がりという背景と、他地域の国分寺で同様の転換が起こった事例とを重ね合わせたときに導かれるものである。したがって釈迦から阿弥陀への交代は、前節の釈迦如来よりもさらに推定の度合いが強い。遠江国分寺がこの流れの外にあった可能性を排除することはできず、本稿はこれを断定せず、蓋然性の高い一つの見通しとして提示するにとどめる。

時代背景としての浄土信仰。平安中期は、末法の到来が広く意識され、現世を厭い来世の極楽往生を願う浄土信仰が、貴族から次第に地方へと浸透していった時期である。阿弥陀如来は、その信仰の中心にある仏であり、念仏によって極楽への往生を願う人々の祈りを受けとめる存在であった。国家的な護国の体系のなかで釈迦如来を戴いて出発した地方の国分寺が、この時代の宗教的な潮流のなかで阿弥陀如来へと本尊の性格を変えていったとすれば、それは古代国家の寺院が、律令的な護国の器から、人々の来世への願いを担う場へと、その意味を静かに組み替えていく過程でもあった。

釈迦から阿弥陀への含意。釈迦如来が現世に教えを説いた仏であるのに対し、阿弥陀如来は西方浄土から人々を来世へ迎える仏である。両者の性格の違いは、国分寺という寺の向きが、国家の護持から個人の救済へと傾いていったことを象徴的に示している。もっとも、この段階での交代は、あくまで推定の枠内にある。本稿はこの転位を、次に述べる薬師如来への交代と合わせて、古代寺院が時代とともに信仰の重心を移していく大きな流れの一段として位置づける。

本稿の評価:阿弥陀如来への転位は、浄土信仰の広がりと各地の類例から導かれる推定であり、遠江国分寺に即した直接の史料はない。釈迦如来から薬師如来へと至る交代の中間段階として、蓋然性の高い見通しの範囲で扱う。
釈迦如来 現世に教えを説く 護国の体系 阿弥陀如来 来世の極楽往生 浄土信仰 薬師如来 現世の病気平癒 現世利益 三本尊が担った救済のかたち 護国から来世へ、来世から現世へ。本尊の性格が寺院の向きを映す。
図3 三本尊の性格対比。釈迦如来(護国・教え)、阿弥陀如来(来世の救済)、薬師如来(現世の利益)が担う救済観の違いは、遠江国分寺という寺の機能がたどった変化を映している。

5. 鎌倉の薬師如来 ── 現世利益と武家の時代

段階③・呼称は記録に確認/本尊交代の背景は推定

病気平癒と現世利益を担う薬師如来の台頭

説の骨子。鎌倉時代に入ると、遠江国分寺をめぐる史料に、それまでとは異なる仏の名が現れるようになる。薬師如来である。薬師如来は、病気平癒や現世利益を強く担う仏として、武家の時代に各地で広く信仰を集めた。後述する承元3年(1209年)の記録に「薬師堂」の呼称が現れることは、この段階で薬師如来がこの寺の信仰の中心に立っていたことを示す有力な手がかりとなる。

薬師如来の性格。薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来といい、東方浄瑠璃世界の教主として、衆生の病苦を除き、災いを払い、現世の安寧をもたらす仏とされる。来世の極楽往生を願う阿弥陀信仰に対し、薬師信仰はいま生きているこの世での救いを求める性格が強い。戦乱と飢饉、疫病が身近であった中世の人々にとって、病を癒し災いを除く薬師如来は、切実な祈りの対象であった。武家の時代に薬師信仰が各地で広まった背景には、こうした現世の苦難に応える仏への需要があったと考えられる。

本尊交代の背景は推定にとどまる。ここで慎重に述べておかねばならないのは、なぜ遠江国分寺の本尊が薬師如来へと移ったのか、その背景を直接説明する史料は確認できないという点である。武家の時代における薬師信仰の隆盛という一般的な潮流は、交代の背景として蓋然性をもつが、それはあくまで時代状況からの推定であって、遠江国分寺に即して交代の理由を明示した記録があるわけではない。本尊が釈迦如来から阿弥陀如来へ、さらに薬師如来へと移っていった経緯を、一つの史料が明確に宣言しているのではない。記録の断片と、後代まで薬師信仰が続いたという事実とを重ね合わせたときに、そのような変遷があったと考えられる、という性格のものである。したがって本稿は、薬師如来の台頭という背景を断定せず、確度の異なる複数の事柄を腑分けしたうえで提示する。

薬師如来が定着した意味。それでも、鎌倉期以降この寺で薬師信仰が根を下ろし、後代まで薬師堂として存続していったことは、単なる偶然の結果ではないだろう。護国の釈迦、来世の阿弥陀を経て、現世の病苦に応える薬師へと本尊の重心が移っていったことは、古代国家の造営した壮大な寺院が、中世の在地社会に生きる人々の日々の願いを受けとめる場へと、その役割を組み替えていった過程と重なる。本尊の交代は、寺のかたちが小さくなっていく過程と歩みを一にしながら、その寺が何のために営まれるのかという問いへの、時代ごとの答えを刻んでいる。

本稿の評価:鎌倉期に薬師如来がこの寺の信仰の中心にあったことは、承元3年の「薬師堂」呼称という記録上の事実に支えられる。ただし本尊がなぜ薬師如来へ移ったのかという交代の背景は、武家の時代の薬師信仰の隆盛からの推定にとどまり、断定はできない。
薬師如来 東方浄瑠璃世界 病気平癒 病苦を除く 除災 災いを払う 現世安穏 薬師如来が担う現世利益 来世の往生を願う阿弥陀信仰に対し、いまこの世の救いを求める性格が強い。
図4 薬師如来の現世利益。病気平癒・除災・現世安穏を担う薬師如来は、戦乱と疫病が身近であった中世の人々の切実な祈りを受けとめる仏であった。この性格が武家の時代の薬師信仰の広がりを支えた。

6. 承元3年「薬師堂」 ── 呼称変化の史料批判

本尊交代の議論のなかで、唯一、記録上の事実として確認できるのが、承元3年(1209年)の「薬師堂」という呼称である。建久2年の修造令から18年後にあたるこの年、遠江国府中で大般若経の書写が行われた記録が残っている。『静岡県の地名』(平凡社)によれば、この時の書写の場を示す記載は「遠江国府中薬師堂敷地」であり、「国分寺」という語ではなく「薬師堂」という呼び名が用いられている5

この点は、本尊交代の推定とは性格を異にする。奈良時代創建時に定められた「国分寺」という正式な寺号が、鎌倉初期の実務上の記録のなかでは、すでに本尊にちなむ「薬師堂」という呼び方に置き換わっていた——これは、本尊が交代したという推定ではなく、記録に用いられた呼称そのものの変化として確認できる事実である。ある地点の記録に、寺の正式名称ではなく本尊由来の通称が現れるということは、その時点でその仏が寺の信仰を代表する存在になっていたことを、間接的にではあれ物語る。

ただし、この記録を読むにあたっては、いくつかの史料批判的な留保が必要である。第一に、「薬師堂」という一箇所の記載をもって、直ちに「承元3年に本尊が薬師如来へ交代した」と結論することはできない。呼称の変化と本尊の交代とは、論理的に別の事柄である。呼称は、本尊がすでに定着した後に、ある時間の幅をおいて記録へ現れるのが通例であり、記録に「薬師堂」と現れた年が、そのまま本尊交代の年を意味するわけではない。この記録が示すのは、遅くとも1209年の段階で「薬師堂」という呼称が実務的に通用していたという下限であって、交代の時点そのものではない。

第二に、この記載が伝えるのは「遠江国府中薬師堂敷地」という書写の場の呼称であり、寺の由緒や本尊の来歴を論じた記述ではない。したがってこの記録は、呼称が置き換わっていたことは確実に示すものの、なぜ置き換わったのか、いつ置き換わったのかについては沈黙している。寺の起源や由緒が忘れられたわけではないだろうが、日々の信仰や書写供養の場としては、巨大な伽藍を構えた「国分寺」という存在よりも、薬師如来を祀る一堂としての「薬師堂」の方が、当時の人々にとって実感のある呼び名になっていたと考えられる。呼称の変化は、寺の実態が制度的な「国分寺」から信仰の場としての「薬師堂」へと移りつつあったことを映す指標として読める。

第三に、この記録が「遠江国府中」の書写の場に関わるものである点も見落とせない。遠江国府は、国分寺と同じく中泉から見付にかけての一帯にあったとされる遠江国の行政の中心であり、大般若経の書写という営みが国府に近いこの場で行われたことは、当時この薬師堂が、単なる一村の堂ではなく、なお遠江国の中心的な信仰の場としての位置を保っていたことをうかがわせる。国家的な「国分寺」としての制度的な後ろ盾は弱まりつつあったとしても、国府に隣接する由緒ある宗教の場としての性格は、鎌倉初期においても失われていなかったとみられる。呼称が「薬師堂」へ変わったことは、この寺の格が下がったことを意味するのではなく、その信仰の内実が本尊にちなむ呼び名で語られるようになったことを意味すると解すべきである。

整理すれば、承元3年の記録から確実に引き出せるのは、次の一点である。すなわち、1209年の遠江国府中では、かつての「国分寺」が「薬師堂」の名で呼ばれる実務が成り立っていた、ということである。この事実を、本尊交代という推定の議論と混同してはならない。本尊がいつ、なぜ薬師如来へ移ったのかは推定の領域にとどまるが、「薬師堂」という呼称が1209年に用いられていたことは、確かめうる事実である。この「事実」を確実な足場として据えたうえで、その周囲に交代の背景をめぐる推定を、推定として配置する——それが本稿のとる叙述の順序である。

表1 遠江国分寺 本尊・呼称の変遷 ── 年代・できごと・本尊/呼称にみえる変化・確度の層
年代できごと本尊・呼称にみえる変化確度の層
奈良時代(8世紀)遠江国分寺創建本尊は釈迦如来とみられる推定(詔の趣旨による)
平安中期浄土信仰の広がり本尊が阿弥陀如来へ移ったとみられる推定(各地の類例による)
治安2年(1022年)大風で講堂倒壊、太政官へ修復を申請「国分寺」の呼称のまま記録される史実(記録に確認)
文治2年(1186年)遠江守・安田義定が岩室の山寺で義経を探索国分寺そのものの記事ではない関連記事史実(『吾妻鏡』)
建久2年(1191年)源頼朝が国司に国分二寺の修造を命じる「国分寺」「国分尼寺」の呼称で命令される史実(『吾妻鏡』)
承元3年(1209年)「遠江国府中薬師堂敷地」で大般若経を書写「薬師堂」という呼称で記録される史実(呼称変化として確認)

この表が示すように、本尊にまつわる情報は、確度の層を異にする複数の種類が入り混じっている。釈迦如来・阿弥陀如来という本尊そのものは推定の層に属し、治安2年・文治2年・建久2年・承元3年の各記録は史実の層に属する。そして本尊としての薬師如来は推定を含むものの、「薬師堂」という呼称の存在は史実として確認できる。この腑分けを保つことが、本尊交代という現象を過不足なく記述するための前提となる。表を一瞥して呼称の欄が「国分寺」から「薬師堂」へ変わる箇所に目を留めれば、寺の呼び名が交代する画期が、承元3年の記録に刻まれていることが見てとれる。

国分寺 正式な寺号・制度的名称 薬師堂 本尊にちなむ通称 承元3年(1209年) 記録上の呼称変化 呼称の交代 ── 「国分寺」から「薬師堂」へ 呼称の変化は史実として確認でき、本尊交代の推定とは層を異にする。
図5 呼称の交代。承元3年の記録における「薬師堂」表記は、制度的名称「国分寺」から本尊由来の通称への変化を示す。これは記録上の事実であり、本尊交代そのものの推定とは区別される。

7. 巨大伽藍から一堂へ ── 中世的再編という視座

本尊の交代は、寺のかたちが縮小していく過程と切り離せない。遠江国分寺の伽藍は、創建当初、金堂・講堂・七重塔などを備えた壮大な規模を誇っていたと推定されている。その伽藍構成の詳細は前掲の別稿に譲るが、治安2年の講堂倒壊に象徴されるように、地方の国分寺は平安期を通じて維持管理に苦しみ、鎌倉初期までにはかつての伽藍の多くが失われていたとみられる。承元3年の記録に「薬師堂」の呼称が現れる背景には、この物理的な縮小の現実があった。

重要なのは、伽藍が縮小しても、信仰の場そのものが途絶えたわけではないという点である。承元3年の記録が示すように、同じ敷地の中に薬師如来を祀る堂が建ち、大般若経の書写や供養といった宗教活動が続けられていた。巨大な伽藍を維持することはできなくなっても、本尊への祈りの場としての機能は保たれていた。この連続性こそが、遠江国分寺の中世を考えるうえでの核心である。

この過程を、本稿は古代寺院の中世的再編として位置づけたい。古代律令国家が護国の目的で諸国に置いた国分寺は、国家の制度に支えられた壮大な寺院であった。しかし、その国家的な支えが弱まり、伽藍の維持が困難になっていく中世にあって、寺が生き延びる道は、規模を縮小しつつ、在地社会の現実的な需要に応える場へと自らを組み替えることであった。護国の釈迦から現世利益の薬師への本尊の重心の移動は、この再編の宗教的な表現であり、巨大伽藍から一堂への縮小は、その物理的な表現である。両者は、同じ再編の二つの側面として、並行して進んだと考えられる。

現在、磐田市見付にある遠江国分寺跡の東側には、今も薬師堂が建っている。伽藍の規模は奈良時代とは比べものにならないほど小さくなったが、その堂が建つ位置は、天平の昔から途切れることなく信仰が続いてきた場所だと考えられている。巨大な伽藍が一つの堂へと姿を変えながらも、本尊への祈りだけは絶えなかった——この連続と変化の重なりこそが、遠江国分寺という寺のたどった歴史の姿である。国分寺跡が特別史跡として保存され、薬師堂が現在も維持されていることは、この千年を超える信仰の連続が、いまなお地上に痕跡をとどめていることを示している。本尊が釈迦から阿弥陀、薬師へと移り、伽藍が壮大な堂塔から一堂へと縮んでいっても、祈りの向けられる場所そのものは動かなかった。その場所の不動性が、変転する本尊とかたちを一本の糸で貫いている。

もっとも、中世を通じての伽藍の縮小の具体的な段階や、薬師堂がいつどのような規模で建てられたかを詳細に記す史料は、本稿の範囲では確認できていない。ここで述べた中世的再編という視座は、承元3年の呼称変化という確かな一点と、後代まで続いた薬師信仰の事実とを結んで描いた見取り図であり、その中間の具体的な過程には、なお埋めるべき空白が多い。この空白を、後世の地方文書や発掘の成果によって少しずつ埋めていくことが、今後の課題として残されている。

同じ敷地(遠江国分寺跡)── 信仰は途切れず続く 奈良時代の伽藍 金堂・講堂・七重塔(推定) 薬師堂 一堂(鎌倉以降) 縮小しつつ存続 巨大伽藍から一堂へ ── 縮小と信仰の連続
図6 伽藍の縮小と信仰の連続。壮大な奈良時代の伽藍は鎌倉以降には薬師堂一堂へと縮小したが、堂が建つ敷地は変わらず、天平以来の信仰の場が保たれた。本尊交代と伽藍縮小は中世的再編の二つの側面をなす。

8. 結論 ── 本尊の交代を寺院史の指標として読む

本稿は、遠江国分寺の本尊が、創建期の釈迦如来から、平安中期の阿弥陀如来を経て、鎌倉期の薬師如来へと移っていった過程を、史料の確度を腑分けしながら検討した。得られた見取り図は次のとおりである。創建本尊を釈迦如来とみる見方は聖武天皇の詔の趣旨にならう推定であり、阿弥陀如来への転位は浄土信仰の広がりと各地の類例からの推定である。薬師如来については、本尊交代の背景こそ推定にとどまるが、承元3年(1209年)の記録に「薬師堂」の呼称が現れることは、記録上の事実として確認できる。

この検討から浮かび上がるのは、本尊の交代が、単なる仏像の入れ替わりではなく、一つの古代寺院がたどった機能の変化の指標だという点である。護国の釈迦、来世の阿弥陀、現世の薬師へと本尊の重心が移っていったことは、国家の制度に支えられた壮大な寺院が、その支えを失っていく中世にあって、在地社会の現実的な祈りに応える一堂へと自らを組み替えていった過程と重なる。本尊の交代と伽藍の縮小は、この中世的再編の、宗教的側面と物理的側面として並行して進んだ。

したがって本稿の立場は明確である。遠江国分寺の本尊交代は、「いつ、どの仏に変わったか」を一点で確定する問題としてではなく、確度の異なる事実と推定を腑分けし、それぞれの層のなかで正当に評価すべき問題として扱われるべきである。承元3年の「薬師堂」呼称という確かな一点を足場に据え、その周囲に本尊交代の背景をめぐる推定を、推定として配置する。史料で確認できることと、複数の事実を重ねて推し量られることとを混同せず、後者を前者に偽装しない。この禁欲的な手続きこそが、本尊の交代という中世的再編の一断面を、後世の調べものに耐える形で書き留める方途である。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、釈迦から阿弥陀、阿弥陀から薬師への交代の具体的な時点は、いずれも推定の枠内にとどまっており、地方文書や造像記録の博捜によって、なお解明の余地がある。第二に、伽藍縮小の段階的な過程と、薬師堂の建立時期・規模については、発掘調査の成果と照合しながら精査されるべきである。第三に、承元3年の大般若経書写がどのような主体によって、いかなる目的で営まれたかは、中世遠江の在地社会と国分寺との関わりを解く手がかりとして、別に検討を要する。これらはいずれも、本稿が設定した確度の腑分けの枠組みのなかで、推定を史実へと押し上げていく作業に属する。遠江国分寺という一つの寺が、古代から中世へと生き延びるために、その本尊とかたちをどう変えていったのか——その全体像は、確度の層を保ったまま資料を積み上げていく地道な手続きの先に、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿が扱った中泉・見付の一帯には、遠江国分寺跡をはじめ、古い信仰の場とともに受け継がれてきた家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 遠江国分寺は、聖武天皇の国分寺建立詔を承けて奈良時代中頃に造営された。跡地は現在、国の特別史跡として保存されている。
  2. 『吾妻鏡』建久2年(1191年)条による。諸国の国司に対する国分二寺(国分寺・国分尼寺)の修造の命。
  3. 『吾妻鏡』文治2年(1186年)条による。遠江守・安田義定朝臣が岩室の山寺で源義経を探索した関連記事。
  4. 創建本尊を釈迦如来とみるのは、聖武天皇の国分寺建立詔の趣旨にならった推定であり、遠江国分寺に即した創建仏の直接の記録によるものではない。
  5. 承元3年(1209年)「遠江国府中薬師堂敷地」での大般若経書写の記載は、『静岡県の地名』(平凡社)p1028による。「薬師堂」の呼称が用いられている点は記録上の事実である。

付記:本稿は一般読者向け記事 n036「鎌倉時代の国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定)を語の水準で区別し、治安2年・文治2年・建久2年・承元3年の各記録を史実、釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来への本尊交代の過程を推定として扱った。承元3年の「薬師堂」呼称は、本尊交代の推定とは区別される記録上の事実である。

参考文献・参考資料

  • 『吾妻鏡』建久2年(1191年)条 ── 源頼朝による国分二寺修造の命。
  • 『吾妻鏡』文治2年(1186年)条 ── 遠江守・安田義定朝臣による義経探索の関連記事。
  • 『静岡県の地名』平凡社、p1028 ── 承元3年(1209年)「遠江国府中薬師堂敷地」での大般若経書写の記録。
  • 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』小杉達 著、令和4年発行、pp.23-24。
  • 『続日本紀』天平13年(741年)条 ── 国分寺建立の詔。
  • 『延喜式』巻九・十(神名帳)ほか、国分寺関連条。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 静岡県教育委員会・磐田市教育委員会『遠江国分寺跡』発掘調査関連報告。
  • 特別史跡 遠江国分寺跡 現地説明・磐田市教育委員会資料。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」特別史跡 遠江国分寺跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n036「鎌倉時代の国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき」 https://iwata-monogatari.net/n036 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第7号「遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/007/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第127号「講堂が倒れた日 ── 治安2年の大風と国分寺の嘆願」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/127/ (最終閲覧:2026年7月25日)。