失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 見付に残る幻の城 ── 城之崎城と築城伝説の検証

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第196号(見付戦国史研究 一)

見付に残る幻の城 ── 城之崎城と徳川家康の築城伝説を検証する

秀吉配慮説・対武田戦の地政学・中泉御殿との混同をめぐる史料批判

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市見付

要旨

磐田市見付、城山球場と城山中学校が並ぶ丘陵には、徳川家康が築こうとしたとされる城郭「城之崎城」の記憶が伝わる。地域には「家康は立派な城を築きたかったが、豊臣秀吉に配慮して完成させなかった」という言い伝えがあるが、築城が進められたとされる時期に秀吉はまだ天下人ではなく、この伝承をそのまま史実とみることはできない。本稿は、この幻の城をめぐる三つの説明──築城中止を秀吉への遠慮とみる秀吉配慮説、対武田戦の地政学に理由を求める説、城之崎城と中泉御殿という別個の史実が一つの物語に重なったとみる混同説──を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けし対等に併記して検討する。あわせて、地名「城之崎」「城山」が城の実在を証明しうるかを史料批判の観点から論じ、地名から実在を直接には導けないことを示す。本稿は「城があった/なかった」を絵図・遺構・文献と伝承に厳密に腑分けし、確度の層を保ったまま記述する立場をとる。

キーワード:城之崎城/見付三城/徳川家康/秀吉配慮説/中泉御殿/地名の史料批判/未完の城

1. 問題設定 ── 城山の丘に眠る「幻の城」

磐田市見付、城山球場と城山中学校が並ぶ丘陵の一帯には、戦国期に徳川家康が築こうとしたとされる城郭「城之崎城(きのさきじょう)」の跡が比定されている。球場の外周や土手には、いまも土塁や堀の名残とされる高まりが残ると伝えられ、見付の人々の間では古くから「幻の城」として語られてきた1。この城之崎城について、地域には「家康は見付に立派な城を築きたかったが、豊臣秀吉に遠慮して、あえて本格的な城を完成させなかった」という言い伝えが伝わる。

本稿の出発点は、この言い伝えを頭から否定することでも、そのまま史実として受け取ることでもない。時代を順に整理していくと、この伝承をそのまま史実とみるのは難しい。しかし「難しい」ということと「まったくの作り話である」ということは同じではない。ある伝承がなぜ生まれ、なぜ語り継がれてきたのかを問うことは、その伝承の当否を裁定することとは別の、それ自体として意味のある作業である。本稿が課題とするのは、城之崎城をめぐる複数の説明が、どのような資料に支えられ、どの程度の確からしさをもつのかを腑分けすることにある。

ここで最初に区別しておきたいのは、二つの問いである。第一は「見付の城山に城郭は実在したのか」という城の存否の問い。第二は「もし築城が中止されたなら、その理由は何か」という廃城理由の問いである。この二つはしばしば混ぜて語られるが、資料の性格も、答えうる確度も異なる。存否の問いは絵図・遺構・文献という物的・文献的証拠に、廃城理由の問いは同時代の政治状況と地理という状況証拠に、それぞれ照らして検討されねばならない。本稿は両者を分けたうえで、まず史料で確認できる範囲を確定し、続いて廃城理由をめぐる三つの説明を対等に併記して検討する。

あらかじめ、本稿が用いる四つの確度の層を定義しておく。第一に史実、すなわち絵図・文書・編纂物など史料によって確認できる事柄。第二に通説、広く支持されているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。あわせて「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない状態)と「記載なし」(史料に無いと確認できる状態)を区別し、両者を混同しないことを一貫して保持する。

城之崎城をめぐる二つの問いを分ける 問いⅠ:存否 城郭は実在したか 絵図・遺構・文献で検討 問いⅡ:廃城理由 なぜ未完に終わったか 政治状況・地理で検討 混同の危険 二つの問いを混ぜて語ると 伝承が史実の顔をして流通する
図1 二つの問いの分離。城の存否と廃城理由は依拠する資料が異なる。両者を混ぜて語ると、伝承が史実のように流通する危険が生じる。本稿はこれを分けて検討する。

2. 史料で確認できること ── 見付三城と城之崎城の位置比定

三説の検討に入る前に、史料によって確認できる範囲を確定しておく。まず見付という土地には、城之崎城以前にも城郭の系譜があったと伝えられる。遠江国の国衙(こくが、国の行政庁)が置かれた地に築かれたとされる「見付古城」、それが戦乱で使えなくなったのちに南側へ築かれたとされる「見付端城」、そして家康が東側の台地を改修して築いたとされる「見付新城」、すなわち城之崎城である。この三者はしばしば「見付三城」と総称される2。見付端城の跡地には、いまも大源寺の境内にわずかな土塁が残るとされる。

この系譜が示すのは、遠江国府以来の政治的中心地であった見付という土地に、時代ごとの為政者が繰り返し城郭を築こうとしてきたという事実である。ただし「見付三城」という枠組み自体が、後世に体系立てて語られた整理の側面をもつ点には留意を要する。三城が同一の史料に一括して記されているのか、別々の伝えを後人がまとめたものなのかは、それ自体が検討を要する問いであり、本稿では三城の呼称を通説的な整理として扱う。この幻の城をめぐる伝承の全体像は、一般読者向けの特集見付に残る幻の城――徳川家康の築城伝説と城之崎城にまとめられており、本稿はその内容を史料批判の観点から論考として再構成したものである。

ここで、なぜ見付が繰り返し城郭の地に選ばれたのかを一言しておきたい。見付は遠江国府の置かれた地とされ、東海道の宿場として要衝でもあった。国府以来の政治的中心という格、東西を結ぶ街道の結節点という利、そして磐田原台地南端という防御に適した地形が、この土地を為政者にとって魅力ある拠点候補にした。城之崎城の築城計画も、この土地の地の利を背景として理解されるべきものである。見付を選んだ地政学的な理由そのものは本稿の主題を超えるため深くは立ち入らないが、城郭の系譜がこの一帯に累積したこと自体が、見付の土地の格を物語っている。

城之崎城の位置については、磐田原台地の南端、現在の城山球場付近に比定されている。磐田市観光協会の紹介によれば、家康は1569年(永禄12年)、遠江支配の拠点として見付に新城の築造を開始したとされ、遺構としては土塁の一部と堀跡が現存するとされる3。ここで語の水準を確認しておきたい。「比定される」「現存するとされる」という表現は、それが確定した史実であることを必ずしも意味しない。台地上の高まりが人為の土塁なのか自然地形なのか、堀跡とされる窪みが城郭に伴うものなのかは、本来、発掘調査や縄張り図の精査によって判定されるべき事柄である。本稿の調査範囲では、城之崎城の遺構を城郭遺構として確定した発掘調査報告に、直接は突き当たっていない。これは「そうした調査が行われていない(=記載なし)」ことを意味せず、あくまで「管見の限り確認できていない(=未確認)」という状態である。

一方、城之崎城の存在を積極的に支える文献的手がかりとして、しばしば名古屋市蓬左文庫所蔵とされる『遠州見付古城図』の類が挙げられる。関連する城郭図が本曲輪・二の曲輪・東曲輪といった縄張りを描くと紹介されることがある。絵図の存在は、少なくとも近世のある時点で、見付の城郭がひとまとまりの城として認識され図に描かれていたことを示す点で重要である。ただし絵図もまた史料批判を免れない。近世に描かれた城絵図は、しばしば現況の測量ではなく、伝えや記憶にもとづいて過去の城を再構成する。したがって絵図に城が描かれていることは「当時そう認識されていた」ことの証拠にはなるが、「戦国期に実際にその縄張りの城が完成していた」ことの直接の証拠にはならない。本稿は絵図を、存否をめぐる有力な手がかりとしつつ、それ自体を完成した城の証明とは扱わない。

見付三城 ── 台地上に累積する城郭の系譜 ← 今之浦・低地 磐田原台地 → 見付古城 国衙の地(伝) 見付端城 大源寺付近(伝) 城之崎城 城山球場付近(比定) =見付新城 位置・呼称は伝承と比定にもとづく。台地南端に城郭が累積したとされる。
図2 見付三城の位置関係(模式)。見付古城・見付端城・城之崎城(見付新城)が磐田原台地の南端に累積したと伝えられる。位置と呼称は比定・伝承にもとづく整理である。

3. 第一説:秀吉配慮説(築城中止を遠慮とみる伝承)

説①・伝承/口碑

家康が秀吉に配慮して本格的な城を完成させなかったとする説

説の骨子。家康は見付に立派な城を築きたかったが、豊臣秀吉の警戒を招くことを恐れ、あえて本格的な城郭を完成させなかった──これが地域に伝わる秀吉配慮説である。この説は、城之崎城が「未完に終わった」という事実の外形を、天下人・秀吉と大名・家康の政治的緊張という分かりやすい構図で説明する。城が完成しなかったのは技術や地理の問題ではなく、家康の政治的判断の結果である、という物語である。

この説の説明力。秀吉配慮説は、聞く者に強い納得を与える。天下人に遠慮して城を控えたという筋立ては、家康の慎重さ・忍耐という後世に定着した人物像とよく整合し、また「立派な城を築けたはずなのに築かなかった」という抑制の物語は、見付という土地の格の高さを裏側から語る効果をもつ。城を築けなかったのではなく、あえて築かなかったのだ、という語りは、土地の誇りと結びつきやすい。

資料的裏づけと限界。この説の決定的な弱点は、年代が合わないことにある。城之崎城の築城が進められたとされるのは1569年(永禄12年)ごろ、放棄されたのは1570年(元亀元年)ごろとされる。この時期、のちに天下人となる秀吉は、まだ織田信長配下の一将にすぎず、遠江の家康の築城を制限できるような立場にはなかった4。秀吉が家康にとって配慮すべき相手となるのは、本能寺の変(1582年)を経て秀吉が織田家中の主導権を握り、やがて天下人へと昇っていく1580年代以降のことである。すなわち、1570年ごろの城之崎城放棄を1580年代以降の政治力学で説明することには、十数年の時間的なずれがある。したがって秀吉配慮説を、城之崎城の廃城理由をそのまま記述した史実として採ることはできない。

本稿の評価:秀吉配慮説は、城之崎城の廃城理由としては年代が整合せず、史実とは認めがたい。ただしこれを単なる誤りとして切り捨てるのではなく、なぜこの説が生まれ定着したのかを問う手がかりとして、伝承の層で扱う。後述するように、この配慮のモチーフは中泉御殿の性格に由来する可能性がある。

4. 第二説:対武田戦の地政学説(天竜川・背水の陣・水不足)

説②・推定/通説

築城中止を対武田戦の地政学と地形的弱点に求める説

説の骨子。城之崎城が未完に終わった直接の理由を、政治的配慮ではなく軍事地理に求めるのがこの説である。東方から迫る武田信玄の脅威を前にしたとき、見付に本拠を置くと背後に天竜川を負う「背水の陣」になってしまうという地政学上の弱点、また磐田原台地上の丘陵という地形ゆえの水資源の乏しさが、築城中止の理由として資料からは考えられる。家康はこの弱点を避けるべく、天竜川を前面に置ける引間(現在の浜松)への移城を決断したと伝えられる。

この説の説明力。この説の強みは、同時代の政治・軍事状況とよく整合する点にある。1570年前後、家康にとって最大の脅威は西の秀吉ではなく東の武田であった。武田方が遠江へ侵攻してくれば、見付を本拠とする軍勢は、敗走時に背後の天竜川に阻まれて退路を断たれる恐れがある。逆に天竜川の西の引間に拠れば、川を天然の防御線として東からの敵に備えることができる。この判断は、のちに家康が浜松城を本拠として武田と対峙した歴史的経過とも整合する。城之崎城の放棄は、対武田戦を見据えた合理的な戦略的選択だったと読むことができる。

資料的裏づけと限界。この説は、当時の政治状況・地形という状況証拠によく支えられており、秀吉配慮説より確度は高い。実際、家康の懸念が杞憂でなかったことは、元亀3年(1572年)の武田信玄の遠江侵攻によって現実となった。一言坂の戦い、三ケ野坂、社山城・匂坂城の攻防など、磐田市域はまさに対武田戦の戦場となっている。ただし留意すべきは、これらが「築城中止の理由をこう記した一次史料」ではなく、状況からの推定だという点である。家康自身が「天竜川を背にするのを避けた」と明言した同時代文書に、本稿は突き当たっていない。地理的合理性による説明は説得力をもつが、それは後世のわれわれが地図を見て導く合理性であって、当事者の判断理由をそのまま記録したものではない。この区別を保つ限りにおいて、地政学説を最も蓋然性の高い推定として位置づける。

本稿の評価:対武田戦の地政学説は、同時代状況と整合し、廃城理由として最も蓋然性が高い。ただし当事者の判断理由を直接記す一次史料は未確認であり、状況証拠にもとづく推定にとどまることを明示して採る。
天竜川をはさむ地政学 ── 背水か、前面防御か 天竜川 見付 城之崎城 背後に川=背水の陣 引間 のちの浜松 川を前面に置ける 武田 東からの武田に対し、見付は退路を天竜川に断たれる。家康は引間へ移ったと伝わる(推定)。
図3 天竜川をめぐる地政学(模式)。東の武田に対し、見付は背後を天竜川に断たれる位置にある。川を前面に置ける引間への移転は戦略的合理性をもつが、当事者の判断理由を記す史料は未確認である。

5. 第三説:中泉御殿との混同説(二つの史実の重なり)

説③・推定

城之崎城と中泉御殿という別個の史実が一つの物語に重なったとする説

説の骨子。秀吉配慮説の起源を、城之崎城そのものではなく、同じ磐田市内の中泉に築かれた「中泉御殿」に求めるのがこの説である。中泉御殿は「御殿」と称されながら、堀・土塁・大池を利用した実質的な防衛拠点であったとされ、これを「城」と呼ばずに秀吉の警戒を解こうとした事情が伝わっている。すなわち「秀吉に配慮して城の体裁を避けた」というモチーフは、本来は中泉御殿に対応する話ではないか。時代も仮想敵も異なる城之崎城(1569〜70年ごろ・対武田)と中泉御殿(1580年代・対秀吉)という二つの史実が、長い年月のなかで一つの物語として重なった可能性がある。

この説の説明力。混同説の強みは、秀吉配慮説の年代的な破綻を無理なく解消できる点にある。秀吉への配慮というモチーフは、1570年ごろの城之崎城には時代が合わないが、1580年代の中泉御殿にはよく合う。中泉御殿については、『遠州中泉古城記』などの記録によれば、家康が家臣・伊奈忠次に命じ、天正12年から15年(1584年から1587年)にかけて築かせたと伝えられる5。この時期の秀吉は、まさに天下人への階段を昇りつつあり、家康が配慮すべき相手であった。「御殿」という非軍事的な呼称そのものが、秀吉の警戒を避ける意図を示すと読める。つまり配慮のモチーフは、中泉御殿の性格から自然に生じうる。

資料的裏づけと限界。混同説は、城之崎城の「未完」と中泉御殿の「秀吉への配慮」という二つの別個の事実が、なぜ一つの伝承に融合したのかを説明する枠組みを与える。二つの拠点はいずれも家康にゆかりがあり、いずれも磐田市域にあり、いずれも通常の近世城郭として完結しなかった(一方は未完、他方は御殿という体裁)という共通点をもつ。この共通点が、記憶の中で二つを引き寄せたと考えられる。中泉御殿の統治上の位置づけについては中泉代官所と天領の統治を扱った既刊でも触れた。ただし混同説もまた、あくまで伝承の生成過程を説明する推定である。「城之崎城の伝承が中泉御殿から派生した」ことを直接に記す史料があるわけではなく、二つの類似から導かれる蓋然的な再構成である。混同がいつ、どのように起きたのかを跡づける作業は、伝承伝播史の課題として別に検討を要する。

本稿の評価:混同説は、秀吉配慮説の年代的破綻を解消し、伝承の生成過程を説明する枠組みとして有力な推定である。ただし混同の直接の証拠があるわけではなく、二つの史実の類似から導かれる再構成であることを明示して採る。
二つの史実の時間差 ── 混同はここに生じる 城之崎城 1569〜70 仮想敵:武田 中泉御殿 1584〜87 配慮先:秀吉 約15年 記憶のなかで一つの物語へ融合
図4 城之崎城と中泉御殿の対比。約15年の時間差と、武田・秀吉という異なる相手をもつ二つの史実が、記憶のなかで一つの伝承へ融合したとみるのが混同説である(推定)。

6. 三説の比較と史料批判

ここまで見た三説は、しばしば「どれが本当か」という択一の問いのもとに並べられる。しかし三説は、答えている問いの水準がそもそも異なる。地政学説は「なぜ城之崎城は未完に終わったのか」という廃城理由の問いに直接答える。秀吉配慮説は、その廃城理由を政治的に説明しようとするが、年代が合わない。混同説は、廃城理由そのものではなく「なぜ秀吉配慮という説明が生まれたのか」という伝承生成の問いに答える。したがって三説は、単純に優劣を競う関係にはない。以下の比較表は、各説をその確度の層・骨子・根拠・弱点において対等の粒度で並べ、読者が自ら判断できる状態をつくることを目的とする。

表1 城之崎城をめぐる三説の比較 ── 確度の層・骨子・根拠・弱点の対比
確度の層骨子主な根拠弱点・留意点(史料批判)
秀吉配慮説伝承・口碑家康が秀吉に遠慮して城を完成させなかった。地域の言い伝え。家康の慎重な人物像との整合。1570年ごろ秀吉は信長配下の一将にすぎず、年代が合わない。
地政学説推定・通説対武田戦で天竜川を背にする弱点と水不足のため中止した。同時代の対武田情勢、天竜川と引間の位置関係、のちの浜松移転。当事者が理由を明言した一次史料は未確認。状況証拠からの推定。
混同説推定秀吉配慮は本来中泉御殿の話で、城之崎城の伝承と融合した。中泉御殿の造営年(1580年代)と対秀吉状況の整合。両拠点の類似。混同の直接証拠はなく、類似からの再構成。融合過程は別途要検討。

この比較から見えてくるのは、三説が同じ土俵で争っているのではなく、それぞれが異なる問いに光を当てているという事実である。廃城理由の問いに対しては地政学説が最も蓋然性が高く、伝承生成の問いに対しては混同説が有力な枠組みを与える。そして秀吉配慮説は、それ自体を廃城理由の史実とみることはできないが、混同説を介して「なぜそう語られてきたのか」という問いのなかに正しく位置づけ直すことができる。三説を排他的な選択肢とみるのをやめ、それぞれが答える問いの水準を見分けることで、全体像はむしろ明瞭になる。秀吉配慮という説明の本来の対応先を中泉御殿に求める議論は、「秀吉に配慮した城」の正体――中泉御殿との混同を解くでも詳しく扱われている。

史料批判の観点から共通して確認すべきは、いずれの説も、家康の同時代の意思決定を直接記録した一次史料に立脚しているわけではない、という点である。城之崎城の築城中止の理由も、その放棄の正確な年月も、絵図が描く縄張りが実際に完成していたか否かも、本稿の範囲ではいずれも一次史料による確定には至っていない。この限界は三説に等しく課されるのだから、それを理由に特定の説だけを退けることはできない。むしろ問うべきは、各説がどの資料層に立脚し、その層の資料がどこまでを語りうるのか、という点である。

この整理は、廃城理由の問いと存否の問いを分けるという本稿の出発点に戻ることでもある。三説はいずれも「城之崎城が築城途上で放棄された」という前提の上に立っているが、その前提自体──すなわち、そもそも城郭がどこまで築かれたのか──は、絵図と遺構の検討にゆだねられる、なお開かれた問いである。廃城理由をどれほど精緻に論じても、それは存否の問いを自動的には解決しない。二つの問いは連動しているようでいて、要求する証拠が違う。この分離を保つことが、伝承を史実の顔で語らせないための要諦である。

三説は別々の問いに答えている 秀吉配慮説 伝承 地政学説 推定・通説 混同説 推定 なぜ未完か 廃城理由の問い なぜそう語るか 伝承生成の問い
図5 三説と問いの対応。地政学説は廃城理由の問いに、混同説は伝承生成の問いに答える。秀吉配慮説は廃城理由の史実ではなく、混同説を介して伝承生成の問いのなかに位置づけられる。

7. 地名は実在の証拠になるか ── 「城之崎」「城山」を読む

城之崎城の存否を論じるとき、しばしば最後の拠り所とされるのが地名である。「城之崎」という城名、そして「城山球場」「城山中学校」という現在の施設名に残る「城山」の語は、この地に城があったことの動かぬ証拠ではないか──こう考えたくなるのは自然である。だが地名を城の実在の証拠として用いることには、方法上の慎重さが要る。本節では、地名から実在を導く推論がどこで躓きうるのかを検討する。

第一に、地名は城の実在を証明するには弱い証拠である。「城山」「城之崎」のような地名は、たしかに城郭の記憶に由来する場合が多い。しかし、地名は実際の遺構よりもはるかに長く残り、また容易に移動し、時に後世に付与される。城郭が完成していなくとも、築こうとした計画や、土塁の一部、あるいは「ここに城があったらしい」という伝承だけを根拠に、「城山」の地名が定着することは十分にありうる。つまり地名は「この地が城と結びつけて記憶されてきた」ことの証拠にはなるが、「戦国期にそこに完成した城郭が実在した」ことの直接の証拠にはならない。地名と遺構は、別々に検証されるべき二つの証拠である。

第二に、地名には循環論法の危険がひそむ。「城山という地名があるから城があった」「城があったから城山という地名がついた」という二つの命題は、たがいを根拠にすると閉じた円環になり、外部の証拠なしには真偽を確かめられない。この循環を断ち切るには、地名とは独立した証拠──発掘による遺構の年代、同時代文書の記載、信頼できる絵図──を持ち込むほかない。地名は、そうした独立の証拠を探すための出発点としては有益だが、それ自体を結論の根拠に据えると論証が空回りする。

第三に、地名の由来には複数の可能性を並べておく必要がある。「城之崎」の「崎」は、台地や岬状に突き出た地形を指す語でもあり、必ずしも城郭に直結しない。「城山」もまた、実在した城に由来するのか、築城計画の記憶に由来するのか、あるいは「見付三城」という後世の整理が地名に投影された結果なのか、単一の由来に決めつけることはできない。ここでも「未確認」と「記載なし」の区別が生きる。地名の由来を一次史料で確定できていない現状は「未確認」であって、「城に由来しないと確定した(=記載なし)」ことを意味しない。

この地名をめぐる慎重さは、城之崎城に限らず、城郭伝承一般に通じる方法上の作法である。全国には「城山」「城ノ腰」「殿屋敷」といった城郭系の地名が数多く残るが、そのすべてに完成した城郭が対応するわけではない。館や砦の跡、あるいは築城の計画だけが地名として結晶した例も少なくない。見付の「城山」を読むにあたっても、地名が語りうる範囲を見きわめ、それを超えて実在を断定しない節度が要る。地名は問いの出発点であって、答えではない。

それでは地名は無価値かといえば、そうではない。地名は、この土地が長く城郭と結びつけて記憶されてきたという事実そのものを証言する。城之崎城が完成した城だったか未完の城だったかにかかわらず、見付の人々が丘陵を「城山」と呼び続けてきたこと自体が、この地の歴史意識の表れである。地名を実在の証拠として過大に用いることは戒めつつ、地域の記憶の資料としては丁重に扱う。これが本稿のとる立場である。地名から実在は導けないが、地名から記憶は読める、と言い換えてもよい。

地名 → 実在 は直接には導けない 「城山」「城之崎」 地名が残る 城郭が実在した 証明したい結論 論理の飛躍 独立の証拠が要る 発掘・同時代文書・信頼できる絵図
図6 地名から実在への推論。地名は城の記憶を証言するが、実在の直接の証拠にはならない。結論を支えるには、地名とは独立した発掘・文書・絵図が必要である。

8. 結論 ── 「あった/なかった」を腑分けする

本稿は、見付の城山に伝わる幻の城・城之崎城をめぐって、秀吉配慮説・地政学説・混同説という三つの説明を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。見付が遠江国府以来の政治的中心地であり、そこに城郭を築こうとする営みが繰り返されたことは、伝承と比定の水準で確からしい。城之崎城の築城が家康によって進められ、まもなく放棄されたとされることも、通説として広く受け入れられている。しかし、その城郭がどこまで完成していたのか、放棄の正確な理由と年月は何かを直接記す一次史料には、本稿の範囲では突き当たっていない。

廃城理由については、対武田戦の地政学説が最も蓋然性が高い推定であり、秀吉配慮説は年代の不整合ゆえに廃城理由の史実とは認めがたい。ただし秀吉配慮説は、混同説を介することで「中泉御殿の性格が城之崎城の記憶に投影された」伝承として、正しい位置を与えられる。三説は排他的な選択肢ではなく、廃城理由の問いと伝承生成の問いという別々の水準に対応している。この見分けを保つことが、本稿の第一の結論である。

存否の問いについては、なお慎重でなければならない。絵図は近世に城が図として認識されていたことを示し、地名は土地が城と結びつけて記憶されてきたことを証言する。だが絵図も地名も、戦国期に完成した城郭の実在を直接には証明しない。本稿は「城之崎城は完全な城郭として実在した」とも「まったく築かれなかった」とも断定しない。現段階で言えるのは、「見付の台地南端に城郭を築こうとする計画があり、それが何らかの形で途上に終わったと伝えられ、その記憶が地名と絵図と伝承として残っている」ということである。これは歯切れの悪い結論に見えるかもしれない。しかし、確度の層を混同して歯切れよく断定することこそ、郷土史がもっとも避けるべき誤りである。

したがって本稿の立場は明確である。城之崎城をめぐる語りは、「城があったか、なかったか」という二者択一に押し込めるのではなく、確認できる史実、蓋然性の高い推定、地域の伝承を、それぞれの層に置き分けたまま記述されるべきである。「未確認」を「記載なし」と偽らず、伝承を史実の劣位に貶めず、また伝承を史実の顔で語らせない。この禁欲的な手続きこそが、幻の城の記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、城山球場周辺の高まりが城郭遺構であるか否かは、発掘調査と縄張り図の精査によって「未確認」を一歩前進させられる余地がある。第二に、蓬左文庫所蔵とされる城絵図の制作年代と典拠を吟味することで、絵図が描く縄張りの信頼度をより正確に評価できる。第三に、秀吉配慮の伝承が城之崎城と中泉御殿のあいだで融合していく過程は、伝承伝播史の主題として、なお稿を改めて論じる必要がある。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。断定の誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その先にこそ、見付に眠る幻の城の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。城之崎城と中泉御殿が一つの物語へ融合する過程については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である見付や中泉には、城郭の記憶とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 城之崎城跡は磐田原台地の南端、現在の城山球場付近に比定され、土塁の一部と堀跡が現存するとされる。位置比定・遺構については磐田市観光協会「城之崎城跡」の紹介による。
  2. 見付古城・見付端城・見付新城(城之崎城)を「見付三城」と総称する整理は、城郭関連の紹介資料に見える。三城の呼称が同一の一次史料に一括して記されるものか、後世の整理かは検討を要する。
  3. 1569年(永禄12年)の築城開始、1570年(元亀元年)ごろの放棄、および引間(浜松)への移城については、磐田市観光協会・磐田市文化財関連資料による伝承的記述に拠る。
  4. 城之崎城が放棄されたとされる1570年ごろ、羽柴(豊臣)秀吉はなお織田信長配下の一将であり、遠江の家康の築城を制約しうる政治的立場にはなかった。秀吉が家康の配慮対象となるのは本能寺の変(1582年)以後の権力上昇を経てからである。
  5. 中泉御殿の造営年(天正12〜15年=1584〜1587年)、伊奈忠次による普請、水堀に囲まれた約1万坪の敷地などについては、『遠州中泉古城記』等の記録にもとづく伝承的記述による。

付記:本稿は一般読者向け特集 m055 ほかの内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、位置比定・遺構・築城年などの伝承的記述を、断定を避けて「とされる」「伝わる」と表記した。「未確認」と「記載なし」を一貫して区別している。

参考文献・参考資料

  • アップロード資料「家康の磐田築城伝説」。
  • 磐田市観光協会「城之崎城跡」「徳川家康ゆかりの地 いわた」 https://kanko-iwata.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市文化財だより関連資料(見付編)。
  • 磐田市立図書館所蔵資料(見付編・中泉編、磐田の戦国武将物語)。
  • 『遠州中泉古城記』(中泉御殿関連の記録)。
  • あなたの静岡新聞「中泉御殿 密談・軍略の拠点に利用(大御所の遺産探し)」 https://www.at-s.com/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 「見付三城(見付古城・見付端城・見付新城)」城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 名古屋市蓬左文庫所蔵『遠州見付古城図』関連の城郭図(近世の城絵図)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、戦国期の該当章)。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 磐田物語 m055「見付に残る幻の城――徳川家康の築城伝説と城之崎城」 https://iwata-monogatari.net/m055.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 m058「城之崎城はなぜ未完に終わったのか――武田信玄・天竜川・水不足」 https://iwata-monogatari.net/m058.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第162号「中泉代官所と天領の統治」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/162/ (最終閲覧:2026年7月26日)。