磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第198号(竜洋中世史研究 一)
室町以降の竜洋 ── 池田荘・掛塚湊から天領支配まで
荘園と湊の起源、戦国期の支配交替、天領成立をめぐる史料批判
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
天竜川河口の低地に位置する竜洋地区は、太古の汽水湖が湿田へと姿を変える過程を経て、中世には京都・松尾神社の社領であった荘園「池田荘」の一部を構成した。本稿は、この地域の室町・戦国期を中心とする中世から近世初頭までを、荘園と湊という二つの水辺の制度に即して読み解く。第一に池田荘の記録を史実の層で確認し、第二に天竜川の流路移動に伴って河口に成立した掛塚湊の起源を、中世の海上流通のなかに位置づける。第三に今川・武田・徳川が交錯した戦国期の支配交替を、記録で確認できる事柄と在地の実態に関する推定とに腑分けする。そのうえで、徳川家康の鷹狩りと「御殿」の地名、江戸幕府直轄地(天領)の成立と中泉代官所の支配を、支配の連続と断絶の問題として検討する。本稿は、断片的な史料を無理に一つの物語へ束ねることを避け、水運と港町の形成を軸に、確度の層を保ったまま中世竜洋の輪郭を描くことを課題とする。
キーワード:池田荘/掛塚湊/松尾神社領/天竜川舟運/戦国期支配交替/天領/中泉代官所
1. 問題設定 ── 史料の乏しい中世をどう書くか
竜洋地区の歴史を語るとき、近世以降については比較的多くの記録が残る。中泉代官所の文書、宿場や村々の由緒、明治以降の町村沿革は、既刊の論考でも扱ってきた。竜洋町の成立そのものを合併史として論じた稿、江戸から昭和にいたる町村の錯綜した支配を追った稿は、いずれもその近世・近代を対象としている1。これに対して、本稿が主題とする室町・戦国期を中心とする中世は、地域に即した一次史料がきわめて乏しい時代である。
史料が乏しいという事実は、しかし「何も書けない」ことを意味しない。むしろ、限られた記録をどの確度で読み、どこから先を推定として腑分けするかという、記述の作法そのものが問われる時代である。本稿の出発点は、この方法上の禁欲にある。すなわち、断片的な記録を無理につなぎ合わせて一つの滑らかな物語を作るのではなく、記録で確認できる骨格と、そこから合理的に導かれる推定と、地域に伝わる伝承とを、語の水準で区別しながら書き進める。
この姿勢をとる理由は、中世の地域史がしばしば陥りやすい二つの誤りを避けるためである。一つは、後世に成立した伝承を、あたかも中世当時の史実であるかのように語ってしまう誤りである。もう一つは逆に、一次史料が乏しいことをもって、この時代には語るべき歴史がなかったかのように扱ってしまう誤りである。竜洋の中世は、荘園と湊という二つの制度を手がかりにすれば、確度の層を保ったまま、なお豊かに描くことができる。
本稿が軸に据えるのは、水である。天竜川の流れとその河口という地理は、この地域の中世を一貫して規定してきた。荘園「池田荘」は天竜川東岸の水辺の利権のうえに成り立ち、掛塚湊は川の流路が移動した先に生まれた。戦国期の支配者たちが竜洋一帯に関心を寄せたのも、この地が河口の水運を握る要地であったからである。近世に幕府がこの地域を直轄地としたのも、同じ理由による。荘園・湊・支配という三つの主題は、いずれも水をめぐる制度として一つに結ばれている。以下ではまず池田荘の記録を確認し、掛塚湊の起源、戦国期の支配交替、家康の鷹狩り、そして天領の成立へと、この水辺の制度史をたどっていく。
あらかじめ本稿で用いる確度の層を定義しておく。史実は編纂物・文書・研究の蓄積によって確認できる事柄、通説は広く受け入れられているが一点では確定しない事柄、推定は根拠はあるが未確定の事柄、伝承は地域で語り継がれてきた事柄である。加えて、一次史料に突き当たっていない状態を指す「未確認」と、史料そのものに記載がない「記載なし」とを区別する。この二つは似て非なるものであり、混同すれば、まだ探されていないだけの事柄を「存在しなかった」と誤って断じることになる。以下、この枠組みを一貫して保持する。
2. 史料で確認できる荘園「池田荘」
中世竜洋を語る足場として、まず荘園「池田荘」を確認する。平安時代末期から鎌倉期にかけて、この地域は天竜川東岸に広がる荘園・池田荘の一部を構成していた。池田荘は京都・松尾神社の社領、すなわち神領として寄進された経済的基盤であり、当時この地域で最も重要であった天竜川の渡船権や、水辺の諸利権を掌握していたと伝えられる2。その荘域は現在の磐田市から浜松市にまたがり、およそ20平方キロメートルに及んだとされる。
ここで確度の層を明示しておきたい。荘園としての池田荘が存在し、松尾神社の社領であったこと自体は、荘園史の研究蓄積のなかで扱われてきた事柄であり、本稿では史実の層に置く。一方、その荘域が現在の竜洋地区のどこまでを具体的に含んでいたか、渡船権の運用がどのようなものであったかといった細部については、地域に即した一次史料が乏しく、多くは推定にとどまる。荘園の存在という骨格と、その内部の運用という細部とは、確度を分けて扱わねばならない。
遠江国には、池田荘のほかにも村櫛荘・原田荘・初倉荘・鴨江御厨といった荘園が並び立っていた。そのなかで池田荘は、比較的史料が残る事例として、荘園公領制の東の限界を示す一例に数えられている。荘園公領制とは、中世前期に荘園と国衙領(公領)とが併存しながら土地と人を編成した仕組みを指すが、その東国的展開のありようを考えるうえで、天竜川という大河の東岸に営まれた池田荘は、一つの手がかりを与える。天竜川下流の荘園では、中心となる社が荘域の北西端に置かれ、そこから農業用水を管理する仕組みがとられていたことも指摘されており、水の管理と荘園経営が不可分であった様子がうかがえる。大河の東岸という不安定な立地にあって、用水の確保と洪水への備えは荘園経営の根幹をなしたはずであり、荘域の中心が水利の要となる位置に置かれたことは、その事情を反映していると考えられる。
現在の竜洋地区にまで、この池田荘の支配は及んでいたと考えられる。当時の記録には、天竜川を運ばれる木材や物資の中継地として、早くも水辺に集落が形成されつつあった状況がうかがえる。ここで注意したいのは、「支配が及んでいた」という叙述の性格である。荘園の支配が名目上この地域を含んでいたことと、在地の人々が日々どのような生活を営み、どの領主に年貢を納めていたかという実態とは、必ずしも一致しない。荘園の枠組みは制度の平面の話であり、その下で暮らした在地の人々の実態は、記録の残らない層に沈んでいる。本稿はこの区別を保ち、制度としての池田荘を史実として押さえつつ、在地の実態については推定の域を出ないことを繰り返し確認する。
なお、池田荘と平重盛の遠江守補任、保元・平治の乱との関わりについては、竜洋町中島の蓮覚寺に伝わる伝承とあわせて、別稿「池田荘と掛塚湊の起源 ── 竜洋の中世荘園史」で扱った。本稿ではこれらの人物・事件に立ち入らず、荘園という制度が河口低地に及んでいたという骨格の確認にとどめる。伝承に属する事柄を史実の骨格へ混ぜ込まないための、意図的な限定である。
3. 掛塚湊の起源 ── 流路移動と港町の形成
荘園が制度としてこの地域を覆っていた一方で、中世の竜洋を実質的に動かしていたのは水運であった。室町時代から戦国期にかけて、天竜川の流れの移動に伴い、河口部に「掛塚湊」が成立する。当時の掛塚は、単なる地方の漁村ではなく、京都や鎌倉、伊勢などと遠州東部を結ぶ海上流通の要衝として頭角を現し始めた3。荘園の枠組みが荘域を静的に区切る制度であったとすれば、湊は物と人を動的に集散させる結節点であり、両者は中世竜洋の二つの顔をなす。
掛塚湊の成立を考えるうえで決定的なのは、天竜川という河川の性格である。天竜川は流路の定まりにくい暴れ川であり、その河口は歴史的に位置を変えてきた。掛塚湊が「天竜川の流れの移動に伴って」成立したという叙述は、この河川の不安定さと港町の立地とが不可分であったことを示している。港は、川が海へ注ぐ地点に、川の運ぶ物資と海の運ぶ物資とが積み替えられる場として生まれる。その地点が川の流路とともに動けば、港の立地もまた条件を変える。掛塚が河口の港として栄ええたのは、天竜川の流れがこの地点で遠州灘へ注ぐ条件が整ったからにほかならない。
掛塚の地形的な条件も見ておきたい。掛塚は天竜川に三方を囲まれ、南は遠州灘に面する。この地形は、川舟と海舟の双方が接岸できる港湾条件を用意した。中世の海上流通において、遠州灘という外洋に開きつつ、天竜川という内陸水路の末端に位置する掛塚は、まさに川と海の交わる結節点であった。戦乱の時代にあって、物資の集散と舟の通行権をめぐる支配が、中世領主たちの間で激しく争われたのも、この結節点を押さえることが遠州東部の物流を握ることに直結したからである。
ここで、中世の掛塚湊についての史料の性格に触れておく。掛塚が中世に海上流通の要衝であったという叙述は、後世の湊町としての繁栄から遡って推し量られる部分を含む。中世当時の掛塚の規模や取引の実態を具体的に記した一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そうした記録が存在しなかった(=記載なし)」ことを意味しない。あくまで管見の限り、中世掛塚の実態を直接に語る一次史料に突き当たっていないという「未確認」の状態である。したがって、掛塚湊が中世に要衝であったという見立ては、通説的な理解として提示するにとどめ、その内実の具体的な記述には慎重でありたい。
掛塚の港町としての性格が明瞭な記録に現れるのは、むしろ近世初頭である。慶長11年〔1607年〕、京の豪商・角倉了以が幕府の命を受けて天竜川を浚渫し、信濃国平出から遠江国掛塚まで、東大寺大仏殿再建用の木材を筏で運んだという記録が残っている。これは中世ではなく近世初頭の事績であるが、掛塚が天竜川舟運の河口拠点であったことを具体的に示す史実として重要である。この舟運の実績が、掛塚をのちに廻船問屋が軒を連ね「遠州の小江戸」と称されるほどの湊町へと押し上げていく素地になったと考えられる。中世に胚胎した河口の港が、近世の材木流通の拠点として花開いていく、その転換点にこの浚渫事業は位置している。
4. 戦国期の支配交替 ── 今川・武田・徳川
荘園と湊という制度的な足場を確認したうえで、戦国期の支配交替に移る。戦国時代、遠江国は今川氏の勢力下にあった。ところが桶狭間の戦い〔永禄3年・1560年〕以降、今川氏の勢力が急速に衰えると、この地は武田信玄の西上作戦と、徳川家康による奪還戦の最前線となる。今川・武田・徳川という三者の勢力が、遠江という一国をめぐって激しく交錯したのが、16世紀後半のこの地域の政治情勢であった4。
この支配交替のなかで、掛塚や袖浦周辺の諸集落も、支配者が幾度も入れ替わる不安定な状況に置かれた。ここで史料批判の観点から慎重に扱うべきは、「支配者が入れ替わった」という叙述の確度である。今川から武田、武田から徳川へという遠江全体の勢力交替は、戦国史の大枠として記録に裏づけられる史実である。しかし、その大枠のなかで、掛塚や袖浦といった個別の集落が、どの時点でどの勢力の実効支配下にあったかを一日単位・一村単位で確定する一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。地域の集落が「支配者の交替に洗われた」という叙述は、遠江全体の趨勢から合理的に導かれる推定として提示するのが正確である。
元亀・天正期、すなわち1570年から1590年代にかけて、徳川家康は遠江の平定を進めた。この過程で家康は、掛塚を自らの軍事運送の要衝および経済的な要地として保護したと伝えられる。河口の湊を押さえることが、遠江支配の物流面での要であったことを踏まえれば、家康が掛塚を重視したという理解は蓋然性が高い。ただしここでも、「保護した」という具体的な施策の中身、たとえば特権の付与や役の免除といった行政的な措置の実態については、本稿の範囲では史料に即して詳述できない。掛塚重視という方向性は推定として妥当だが、その具体像は今後の課題として残る。河口の湊を軍事と経済の両面から掌握することは、遠江を面として支配しようとする者にとって避けて通れない課題であり、家康がこの地を平定の過程で押さえたこと自体は、戦国期の遠江支配の論理に照らして無理のない理解である。
竜洋一帯が戦国期の争乱と無縁でなかったことは、周辺の地理からも裏づけられる。竜洋のすぐ北方、天竜川をはさんだ地域には、武田・徳川の主戦場となった一言坂・三ケ野坂・社山城・匂坂城といった古戦場が連なっている。河口の湊町・掛塚もまた、こうした遠江争奪戦の帰趨と無縁ではいられなかったと考えられる。戦場そのものが竜洋の域内であったことを示す記録は未確認だが、主戦場に隣接する河口の要地として、この地が軍事的緊張のなかに置かれていたことは、地理的配置から推し量ることができる。この時期、すでにこの周辺には多くの定住集落が確立していたとされ、争乱の舞台であると同時に、人々の生活の場でもあった。
5. 家康の鷹狩りと「御殿」 ── 大の浦をめぐる推定
徳川家康と竜洋一帯との関わりを、もう一つの角度から照らすのが、鷹狩りの伝えである。安土桃山時代から江戸初期にかけて、家康はたびたび大の浦周辺で鷹狩りを催したことが伝えられている。大の浦とは、かつてこの地域に広がっていた広大な浅い湿地帯であり、水鳥の生息する狩猟の適地であった。現在の磐田市内に残る「御殿」という地名は、家康が狩猟の折に滞在した宿館の跡とされ、この鷹狩りの伝えを地名として今に伝えている5。
この「御殿」地名と鷹狩りの伝えは、確度の腑分けを要する好例である。家康が近世初頭にこの地方で鷹狩りを行ったこと自体は、家康の鷹狩り好きが広く知られていることとも整合し、蓋然性が高い。しかし、「御殿」という地名が家康の宿館に由来するという理解は、地名伝承の域を出るものではない。地名の由来を後世に説明する語りが、必ずしも当初の事実と一致するとは限らないことは、地名研究の基本的な注意点である。したがって本稿は、家康の鷹狩りを近世初頭の推定として、「御殿」地名の由来を伝承として、それぞれの層に置く。
鷹狩りを、単なる為政者の娯楽として片づけないことも重要である。鷹狩りは、領内の地理や治安を実地に把握し、在地の有力者と主従関係を確認する政治的な機会でもあったとされる。為政者が自ら領内を巡り、狩りの場で在地の人々と接することは、支配の末端を掌握するうえで実際的な意味をもった。家康が繰り返しこの地を訪れたと伝えられることは、竜洋一帯が遠江支配において軽視できない土地であったことの、間接的な表れとも読める。河口の湊を抱え、水鳥の集まる湿地が広がるこの地は、経済的にも軍事的にも、そして狩猟の場としても、為政者の関心を引く条件を備えていた。
大の浦という地形そのものにも触れておきたい。太古の巨大な汽水湖であった大の浦は、天竜川の運ぶ土砂によって徐々に埋まり、中世には広大な浅い湿地帯へと姿を変えていた。この湿地は、水鳥の狩猟地であると同時に、やがて干拓・開発を通じて湿田へと転じていく、近世的な土地利用の前段階でもあった。家康の鷹狩りの伝えは、この大の浦がまだ湿地として広がっていた時代の記憶を、地名という形で留めている。湿地から湿田へ、狩猟の場から耕作の場へという土地の変容の途上に、鷹狩りの伝えは位置している。地形の変化と支配の記憶とが、「御殿」という一つの地名に凝縮されているのである。
6. 支配の連続と断絶 ── 比較と史料批判
ここまで、荘園制の時代・戦国期の支配交替・近世初頭の家康との関わりを順にたどってきた。これらを一望すると、竜洋の中世から近世初頭は、支配主体が目まぐるしく交替した時代として映る。松尾神社領の荘園から、今川・武田・徳川の争奪を経て、やがて幕府の直轄地へ。この交替の連続を、どのような枠組みで理解すべきか。以下の比較表は、各段階の支配主体を、時期・性格・確度の層・根拠・留意点においてそろえて並べ、支配の連続と断絶を見通すことを目的とする。
| 時期 | 支配主体 | 確度の層 | 主な根拠 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 平安末〜鎌倉 | 荘園「池田荘」(松尾神社領) | 史実(制度)/推定(実態) | 荘園史研究、社領の記録。 | 荘域の細部・在地の実態は史料が乏しく推定にとどまる。 |
| 室町〜戦国 | 掛塚湊をめぐる中世領主 | 通説/未確認(実態) | 後世の湊町繁栄からの遡及、地形条件。 | 中世掛塚の規模・取引を記す一次史料は未確認。 |
| 16世紀後半 | 今川 → 武田 → 徳川 | 史実(国全体)/推定(個別集落) | 戦国史の記録、周辺古戦場の配置。 | 竜洋の各集落の帰属時期を確定する史料は未確認。 |
| 安土桃山〜江戸初 | 徳川家康(鷹狩り・掛塚保護) | 推定/伝承(御殿地名) | 鷹狩りの伝え、「御殿」地名、掛塚重視の蓋然性。 | 保護の具体策・地名の由来は伝承の域を出ない。 |
| 江戸期 | 天領(中泉代官所)・一時大名領 | 史実 | 代官所の支配記録、井上家の領有記録。 | 天領と大名領の交替時期は記録で確認できる。 |
この表から浮かび上がるのは、支配主体が断続的に交替する一方で、竜洋という土地が一貫して「押さえるべき要地」であり続けたという事実である。松尾神社が渡船権を重んじたのも、戦国大名が掛塚の通行権を争ったのも、幕府がこの地を直轄地としたのも、突き詰めれば同じ理由による。すなわち、天竜川の河口という地理が、水運と物流の急所をなしていたからである。支配者は入れ替わっても、支配の対象となる水辺の利権そのものは連続していた。断絶しているのは支配の主体であり、連続しているのは支配の対象である。
もう一つ、史料批判の観点から確認しておくべきことがある。本稿がたどった各段階は、確度の層を大きく異にする。荘園制と天領支配は、制度としては史実の層に置ける。これに対し、中世掛塚の実態、戦国期の個別集落の帰属、家康の鷹狩りといった事柄は、推定あるいは伝承の層にとどまる。同じ「支配の歴史」という叙述のなかに、確度の異なる情報が混在していることを、読者に対して隠してはならない。制度の骨格は確かでも、その下で暮らした在地の人々の実態は、多くが未確認の層に沈んでいる。この非対称は、中世地域史の史料状況そのものを反映している。
ここで本稿の立場を一文で示しておく。すなわち、竜洋の中世から近世初頭は、単一の物語として滑らかに語るのではなく、水辺の利権をめぐる支配主体の交替史として、確度の層を保ったまま記述されるべきである。この立場は、断片的な史料を尊重し、埋められない空白を空白として残すことを厭わない。空白を推測で埋めて物語を完成させる誘惑は強いが、それは後世の調べものに対して不誠実な態度である。むしろ、どこまでが確かで、どこから先が未確認なのかを明示することこそ、次の研究者へ手渡すべき最も重要な情報だと考える。
7. 天領の成立 ── 中泉代官所と近世初頭への接続
中世から近世への転換点として、天領の成立を確認する。江戸時代に入ると、竜洋地区の多くの村々は、幕府直轄の「天領」として配置された。この地が直轄地とされたのは、天竜川河口という重要水路であり、かつ海防・物資の出入港としての掛塚を抱える、極めてセンシティブな地域であったためである。地域の行政や検地、年貢の徴収は、現在の磐田市中泉に置かれた「中泉代官所」の支配下で行われた。
この天領支配のなかで、竜洋一帯はつねに幕府の直轄下にあり続けたわけではない。江戸中期の宝暦9年〔1759年〕から文化13年〔1816年〕にかけては、大名領として井上河内守の支配下に入った時期もあった。しかし文化14年〔1817年〕以降は再び幕府の直轄地に戻り、中泉代官所の支配が明治維新まで続いた。「河内守」を名乗った井上家は遠江浜松藩主を務めた家柄であり、江戸期を通じて「井上河内守」を称した当主が複数おり、幕政の要職である老中を輩出したこともある家である。天領と大名領との間を行き来したこうした支配の変遷は、遠江という土地が幕府にとって軍事・経済の両面で重要視され、時の情勢に応じて統治のかたちが柔軟に組み替えられていたことを物語っている。
ここで、中世との連続を確認しておきたい。幕府がこの地を直轄地とした理由は、天竜川河口の水路と掛塚湊の物流を掌握することにあった。これは、松尾神社領の荘園が渡船権を握り、戦国大名が掛塚の通行権を争ったのと、本質的に同じ関心である。支配の制度は荘園から天領へと大きく変わったが、支配が狙う対象は、一貫して河口の水運であった。近世の天領支配は、中世以来の水辺の利権をめぐる支配史の、一つの到達点として読むことができる。制度の断絶の底に、対象の連続が流れている。
もっとも、天領支配下の村々の具体的な暮らしについては、既刊の論考でより詳しく扱った。江戸から昭和にいたる町村沿革の錯綜、村々の合議による共同管理のあり方は、「竜洋になるまでの町村沿革」および「竜洋町の誕生」で論じている。本稿はそれらと重複を避け、天領の成立を中世からの水辺の制度史の帰結として位置づけるにとどめる。近世の支配の詳細は、これらの姉妹稿に譲りたい。近世の領主の入れ替わりと厳しい管理のなかでも、地域の人々が灌漑用水の共同管理や防風松林の維持を通じて、村同士が強くまとまり、合議によって日々の暮らしを守る村落共同体を築き上げていたことは、あわせて記憶しておくべき事実である。
8. 結論 ── 水辺の制度史として読む
本稿は、竜洋地区の中世から近世初頭を、荘園と湊という二つの水辺の制度に即して読み解いてきた。得られた見取り図は次のとおりである。平安末から鎌倉期にかけて、この地域は松尾神社領の荘園・池田荘の一部を構成し、天竜川の渡船権と水辺の利権のうえに立った。室町から戦国期には、川の流路移動に伴って河口に掛塚湊が成立し、海上流通の結節点として中世領主の争奪の対象となった。16世紀後半には今川・武田・徳川の勢力が交錯し、家康の遠江平定を経て、江戸期にはこの地が幕府の天領として、中泉代官所の支配下に置かれた。
この叙述を貫くのは、支配主体は断続的に交替したが、支配の対象である水辺の利権は連続していた、という理解である。荘園も、戦国大名も、幕府も、竜洋という土地に関心を寄せた理由は一つに帰する。天竜川の河口という地理が、水運と物流の急所をなしていたからである。中世竜洋の歴史は、この水辺の急所をめぐる支配史として読むとき、断片的な記録が一つの筋のもとに見通せるようになる。
あわせて本稿は、確度の層を保つことを一貫して自らに課した。荘園制と天領支配という制度の骨格は史実の層に置けるが、中世掛塚の実態、戦国期の個別集落の帰属、家康の鷹狩りといった事柄は、推定あるいは伝承の層にとどまる。この非対称を隠さず、「未確認」と「記載なし」を区別しながら書き進めたのは、埋められない空白を空白として次の研究者へ手渡すためである。空白を推測で塗り込めて物語を完成させることは容易だが、それは後世の調べものを妨げる。どこまでが確かで、どこから先が未確認なのかを明示することこそ、地域の中世史を書くうえで最も誠実な態度だと考える。
最後に、本稿が残した課題を三点記しておく。第一に、中世掛塚湊の実態については、伊勢や鎌倉など交易相手の側に残る記録を博捜することで、未確認の状態を前進させられる余地がある。第二に、戦国期の竜洋の個別集落の帰属については、周辺の城郭や合戦に関わる文書のなかに、河口部への言及が見いだせる可能性が残る。第三に、荘園池田荘の荘域と在地の実態は、荘園史研究の進展とあわせて、なお検討を要する。これらはいずれも、本稿が設定した水辺の制度史という枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。天竜川の河口という一点に立ち返りながら、確度の層を保って記録を積み上げていくこと──その地道な手続きの先に、竜洋の中世という、いまはまだ輪郭の淡い時代が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 竜洋の近世・近代については、大石浩之の磐田論考「竜洋町の誕生」(第148号)および「竜洋になるまでの町村沿革」(第158号)で扱った。本稿はこれらと対象時代を分け、中世を主題とする。↩
- 池田荘が松尾神社の社領であったこと、渡船権・水辺の利権を掌握していたことは荘園史研究による。荘域は現在の磐田市・浜松市にまたがり、およそ20平方キロメートルに及んだとされる。↩
- 掛塚湊が京都・鎌倉・伊勢などと遠州東部を結ぶ海上流通の要衝であったという理解は、後世の湊町としての繁栄と地形条件から導かれる通説的な見立てであり、中世当時の実態を直接記す一次史料は本稿の範囲では未確認である。↩
- 遠江が今川氏の勢力下にあり、桶狭間の戦い〔永禄3年・1560年〕以降に武田・徳川の争奪の地となったことは戦国史の大枠として確認できる。個別集落の帰属時期は本稿では推定にとどめる。↩
- 「御殿」の地名を家康の鷹狩りの宿館跡とする理解は地名伝承の域にあり、当初の事実との一致は確定できない。鷹狩り自体は近世初頭の推定として扱う。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 r020「室町時代以降の竜洋」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、荘園制・天竜川浚渫・天領支配を史実、中世掛塚の実態・戦国期の個別帰属・鷹狩り・「御殿」地名を推定または伝承として扱った。既刊148・158と対象時代を分け、中世=室町・戦国期を軸に据えている。
参考文献・参考資料
- 磐田物語 r020「室町時代以降の竜洋|戦乱・支配・村のまとまり」 https://iwata-monogatari.net/r020.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第148号「竜洋町の誕生 ── 掛塚・十束・袖浦が描いた『竜の洋』の合併史」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/148/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第158号「竜洋になるまでの町村沿革 ── 江戸の支配錯綜から昭和の合併まで」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/158/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 r033「池田荘と掛塚湊の起源 ── 竜洋の中世荘園史」 https://iwata-monogatari.net/r033.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 千年村プロジェクト「遠江国磐田郡池田庄(荘園)」(池田荘の規模・遠江の荘園群) https://mille-vill.org/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 「掛塚湊の歴史的変遷 ── 天竜川舟運と海運の結節点として」(角倉了以の木材輸送・遠州の小江戸に関する論考)。
- 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年〔1977年〕発行相当資料。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、中世・近世該当章)。
- 静岡県編『静岡県史』通史編(中世・近世、荘園制と遠江の支配)。
- Wikipedia「井上正直」「井上正岑」(河内守を称した浜松藩主) https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料(中泉代官所・天領支配)。
- 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺、および「御殿」地名の所在。