失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 掛塚・袖浦・十束の村域と石高

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第223号(竜洋近世村落史 一)

掛塚・袖浦・十束の村域と石高

検地帳・郷帳・村明細帳から読む江戸期の村組織史

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋(旧竜洋町域)

要旨

旧竜洋町域を構成した掛塚・袖浦・十束の三地区は、廻船の湊、砂丘の農村、新田の開拓地という異なる生業を背負って近世を迎えた。本稿は、この三地区を「村」という近世の組織の輪郭から捉え直し、検地帳・郷帳・村明細帳といった数値史料に記される石高と村域の記載を、近世村落史の観点から読む。手がかりとなるのは、提供資料に転写された寛政元年(1789年)の石高調である。そこには掛塚の村高617石余が記される一方、袖浦・十束の個別村高は判読の限界と記載の偏りのために確定しがたい。本稿はこの数値の不均等そのものを史料批判の対象とし、石高が土地の生産力を示す指標であると同時に年貢賦課の基準でもあるという二重の性格を検討する。あわせて、村名の初見年紀や新田村の集合過程を伝承・推定の層に置いて腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別する。数値に還元されない村の自治・入会・年貢の実態を、記載の背後から描くことを試みる。

キーワード:石高/検地帳/村明細帳/掛塚湊/新田村/村請制/史料批判

1. 問題設定 ── 「村」を数値史料から読む

天竜川の河口東岸に広がる旧竜洋町域は、昭和30年(1955年)に掛塚町・袖浦村・十束村が合併して成立した地である。この三つのまとまりは、それぞれ廻船の湊、砂丘の農村、新田の開拓地という異なる性格をもって近世を過ごし、明治22年(1889年)の町村制施行を経て近代の行政村へと姿を整えた。既刊の論考では、この地域を室町以降の展開として室町以降の竜洋を扱った稿で、また町の沿革として竜洋沿革を扱った稿で扱ってきた。本稿はそれらと重複を避け、対象を江戸期の「村」という組織の輪郭に絞る。すなわち、村域・石高・村組織という三つの座標から、近世の掛塚・袖浦・十束を読み直すことを課題とする。

近世の村を論じるとき、避けて通れないのが石高(こくだか)という単位である。石高は、田畑や屋敷地の生産力を米の量に換算して表した数値であり、村の規模を示すと同時に、領主が年貢を賦課する際の基準となった。したがって石高は、単なる経済統計ではない。それは、村がどれだけの負担を負い、どのような自治の枠を与えられたかを規定する、統治の言語でもあった。本稿が村を「数値史料から読む」と述べるのは、この石高という数値の背後に、村の実態と統治の意図が二重に折り込まれているからである。

ただし、数値史料を扱うには相応の慎重さが要る。石高や村高、戸数といった数字は、それを記した史料の性格によって意味が変わる。検地帳は領主が土地の生産力を測って登録した台帳であり、郷帳は一国単位で村ごとの高をまとめた集計であり、村明細帳は村側が自らの実態を書き上げた報告である。同じ「高」という語でも、誰が何のために記したかによって、その数字が指すものは一様ではない。本稿は、数値をそのまま事実として受け取るのではなく、その数値がどの史料に、どのような目的で記されたのかを問う立場をとる。

本稿が依拠する数値の中心は、竜洋町教育委員会が編んだ地誌に転写された寛政元年(1789年)の石高調である1。この記載には、掛塚地区の村高が比較的明瞭に残る一方で、周辺の小集落や袖浦・十束の個別村高については、原資料の判読の限界もあって確定しがたい部分が多い。本稿は、この「掛塚については数値が読め、他については読みにくい」という記載の不均等そのものを、史料批判の出発点に据える。数値が伝わることと伝わらないことの差は、しばしば偶然ではなく、村の性格や史料が作られた事情を反映するからである。

あらかじめ、本稿が用いる確度の層を定めておく。史料で確認できる事柄を史実、学界や地誌で広く受け入れられているが一点では確定しない事柄を通説、根拠はあるが未確定の事柄を推定、地域で語り継がれてきた事柄を伝承とする。そして、一次史料に突き当たっていない状態を「未確認」、史料に記載が無いことを「記載なし」として区別する。石高の数値は、史料にそう記される水準において史実として扱うが、その数値が指す境界や増減の理由の解釈は、推定として腑分けする。以下、まず三地区の地勢を押さえ、掛塚・袖浦・十束を順に検討し、比較と村組織論を経て結論に至る。

天竜川 掛塚 河口東岸・廻船の湊 袖浦 砂丘・製塩と農業 十束 東岸内陸・新田開拓 天竜川河口東岸の三地区 位置関係は概念的な模式であり、実際の縮尺・方位を示すものではない。
図1 三地区の位置関係(模式)。天竜川河口東岸に、湊の掛塚・砂丘の袖浦・新田の十束が異なる地勢を占めた。図は概念図であり、正確な地図ではない。

2. 三地区の地勢と近世的前提

村域と石高を論じる前に、三地区がどのような土地の上に営まれたかを押さえておく。近世の村は抽象的な区画ではなく、川と海と砂が刻んだ地形の上に、人が田畑を開き、屋敷を構え、境を定めた具体的な場である。地勢を知ることは、石高という数値がなぜその値をとったのかを理解する前提となる。

掛塚は、天竜川河口の東岸に位置し、堤防に囲まれた低平な砂洲の上に開けたと伝わる。地勢は平坦一様ではなく、掛塚・白羽・十郎島・川袋・豊岡といった複数の字(あざ)が、砂洲の微高地に散在した。河口という立地は、農地としては塩害や出水の危険を負う一方、廻船の停泊地としては大きな利点をもたらした。掛塚の村の性格が、農だけでなく湊の商いに支えられていたことは、この地勢から自然に導かれる。

袖浦は、磐田郡の西南端にあり、西は旧東天竜川をへだてて浜松の側に接した。地内は土地が肥え、灌漑と排水がともに便であったと地誌は記す。砂丘を背後に負いながら、その内側に開けた農地をもち、加えて海に近い立地から製塩の営みも行われたとされる。砂丘という一見農に不利な地形の上に、灌漑を工夫して農村を成り立たせた点に、袖浦の近世的な性格がある。

十束は、天竜川の東岸、掛塚よりやや内陸に位置する。中平松・東平松・大中瀬・小中瀬・稗原・清瀬諸新田・旧村茗荷澤新田といった小村・新田を合わせて「十束」と称したと伝わる。地名からうかがえるとおり、十束は単一の古村ではなく、複数の開発地が寄り集まって一つのまとまりを成した地である。新田の集合という性格は、後述するように村組織の成り立ちにも影響を与えた。

この三者の地勢の差は、そのまま生業の差となり、生業の差は村高の性格の差となる。掛塚の高は湊町を背後に負う村の高であり、袖浦の高は砂丘を灌漑で克服した農村の高であり、十束の高は新田を積み上げた開拓地の高である。同じ石高という単位で表されても、その数値が代表する経済の中身は同じではない。数値を横に並べて大小を比べる前に、それぞれの高が異なる土地条件の産物であることを、まず確認しておく必要がある。この点は、後の比較検討で繰り返し立ち返る前提となる。

なお、三地区の近世の領主支配については、天竜川流域の多くの村と同様に、幕府直轄領(天領)と中泉代官の支配が関わったとみられるが、村ごとの支配替えの細部や相給の有無を、本稿は一次史料で網羅的に確認できていない。ここでは支配関係を主題とせず、村域と石高の記載に議論を絞る。領主論は稿を改めて論じるべき主題であり、既刊の沿革論考との重複も避けたい。

3. 掛塚 ── 廻船湊の村域と石高

史料・数値

寛政元年の石高調に残る掛塚の村高

記載の中身。提供資料に転写された寛政元年(1789年)8月の石高調には、掛塚の村高として617石6斗4升4合という数値が記される2。この数値は、原資料のなかでも比較的明瞭に読み取れる部類に属し、本稿が三地区を通じて最も確度をもって扱える石高である。617石余という規模は、天竜川河口東岸の低地の一村としては、まとまった高であるといってよい。

数値の性格。ここで注意すべきは、この617石余が何を代表しているかである。石高は本来、検地によって測られた田畑・屋敷地の石盛(こくもり、単位面積あたりの標準収量)と面積の積として算定される。すなわち、それは土地の生産力の指標である。しかし同じ数値は、領主が年貢を割り付ける際の基準高としても機能した。掛塚が湊町として廻船の商いに潤っていたとすれば、村の実際の経済力は石高が示す農業生産力を上回っていた可能性がある。石高はあくまで土地の高であって、湊の商業利益をそのまま計上する数値ではないからである。この乖離は推定にとどまるが、湊町の石高を読む際に留意すべき点として挙げておく。

周辺集落の記載。同じ石高調には、掛塚の周辺とみられる芋間・白瀬・老間・西名地や、敷袋・内堀・川島・十郎島・江口・金洗といった地名に対応する数値も並ぶ。ただし、これらは原資料の手書き・スキャンの状態から判読が難しく、数値と地名の対応関係にも不確かさが残る。本稿はこれらを確定した石高として扱わず、「掛塚地区にはこれらの小集落に対応する高が記載されているが、正確な値は未確認である」という水準にとどめる。数値を無理に読み取って断定するより、判読の限界を明示するほうが、後の再検証に資すると考えるからである。

村域の輪郭。掛塚の大字は、掛塚・白羽・十郎島・川袋・豊岡の五字であったとされる。これらの字は、砂洲の微高地に沿って分布したとみられ、村域は堤防と河道に縁取られた不規則な形をとったと推定される。廻船の湊としての機能は、村域の一角に船着きと蔵、商家の集まる町場を生み、農地と町場が一村のなかに同居する景観をつくった。掛塚の村域は、純農村のように田畑が連続する形ではなく、湊町の核とその周囲の耕地とが組み合わさった構造をもっていたと考えられる。

本稿の評価:掛塚の村高617石余は、本稿が扱う三地区のうち最も確度の高い石高記載である。ただしそれは土地の生産力の指標であって、湊町としての実際の経済力を直接に表す数値ではない。周辺小集落の高は記載こそあるが、値は未確認にとどめる。
天竜川 掛塚 617石余・湊の核 白羽 十郎島 川袋 豊岡 掛塚の村域 ── 五字と湊の核 字の配置は概念図。位置・面積を示すものではない。
図2 掛塚の村域構成(模式)。掛塚・白羽・十郎島・川袋・豊岡の五字が砂洲に散在し、掛塚の核に湊町が発達した。字の配置は概念的なものである。

4. 袖浦 ── 砂丘農業の村と村名の初見

村名・年紀(伝承)

元亀天正の頃に見える「袖浦」の村名

村名の初見。地誌によれば、「袖浦」という村名は、元亀・天正の頃(1570〜1592年)にはすでに「袖浦村」として名づけられていたと伝わる3。仮にこの年紀が正しければ、袖浦は戦国末期にはすでに一個の村としての呼称を得ていたことになる。ただし、この初見年紀を裏づける同時代の一次史料を、本稿は確認できていない。したがって本稿は、この年紀を史実として断定せず、村名の古さを語る伝承の水準に置く。

年紀の解釈。戦国末期に村名があったという伝えは、袖浦がこの時期には一定の共同体としてのまとまりを備えていた可能性を示唆する。近世の村は、多くの場合、中世以来の集落や名(みょう)を母体としつつ、太閤検地とそれに続く近世検地を通じて、年貢賦課の単位としての「村」に編成し直された。袖浦の村名が戦国末期にさかのぼるという伝承は、この地が近世村への編成以前から集落として存在していたことを推測させる。しかし、村名の存在と、年貢を負う近世的な「村」としての確立とは、区別して考える必要がある。名があることと、村請の単位として機能することとは、別の事柄だからである。

石高の記載。袖浦の江戸期の個別村高について、本稿が依拠する提供資料の範囲では、掛塚の617石余に相当するような明瞭な数値を確認できない。これは「袖浦に石高が無かった」という意味では決してない。村である以上、検地を経て高を負っていたはずである。したがってこれは「記載なし」ではなく、本稿が依拠する資料の範囲で個別村高を「未確認」とするべき事例である。郷帳や検地帳の原本にあたれば、袖浦の村高は確認しうると考えられるが、その作業は本稿の範囲を超える。この未確認と記載なしの区別は、後の比較検討でも一貫して保持する。

砂丘農村の性格。袖浦は、砂丘という農に不利な地形を、灌漑と排水の工夫によって農村に変えた地である。加えて海に近い立地は製塩の営みを可能にし、農と塩業とを組み合わせた生業を成り立たせた。石高が土地の生産力の指標であるとすれば、砂地の農村の高は、肥沃な沖積地の村に比べて相対的に低く算定された可能性がある。しかし、塩業や砂丘特有の作物がもたらした実際の富は、石高には十分に反映されない。ここでも、石高という数値と村の実際の経済との間には、掛塚とは別の形での乖離が想定される。

本稿の評価:袖浦の村名が元亀天正にさかのぼるという年紀は伝承の層に置く。江戸期の個別村高は、本稿の資料範囲では未確認であって記載なしではない。砂丘農村の高は、塩業を含む実際の経済を代表しきらない点に留意を要する。
海(製塩) 砂丘 灌漑による農地 ← 石高に計上される部分 塩業の富 ── 高に載らない 袖浦 ── 砂丘農村の断面と石高の範囲 断面は概念的な模式であり、実際の地形断面を示すものではない。
図3 袖浦の断面(模式)。砂丘を背後に灌漑で開いた農地が石高に計上される一方、海に依った製塩の富は土地の高には現れない。断面は概念図である。

5. 十束 ── 新田の集合としての村組織

成立過程(伝承・推定)

岡本の郷から十ケ村の集合へ

成立の伝え。十束は、慶長の初め(1596〜1615年頃)までは総称して池田荘に属し「岡本の郷」と称したと伝わる。平氏の全盛期には、その中部は中島・宮本・高木・松本といった村々から成り、慶長の初め頃に十ケ村をもって一村を組織して「十束」となったとされる4。すなわち十束という名は、十の村(束)を合わせたという由来をもつと解される。ただし、これらの成立過程は地誌の記述に依拠する伝承・推定であり、平氏全盛期の村構成や慶長初めの十ケ村の内訳を、本稿は一次史料で確認できていない。

新田村の性格。十束を構成した地名には、清瀬諸新田・茗荷澤新田のように「新田」を冠するものが含まれる。新田とは、近世を通じて新たに開発された耕地であり、多くは中世以来の古村とは別に、開発の主体(村請新田・町人請負新田・代官見立新田など)に応じて成立した。十束が複数の新田を含んで成り立ったという事実は、この地が近世の開発によって耕地を広げ、その集積の上に村を組織した開拓地であったことを示す。掛塚が湊、袖浦が砂丘農村であったのに対し、十束は開発の産物としての村であった。

村組織への含意。複数の新田・小村が寄り集まって一つの村を組織するという成り立ちは、村の内部構造にも影響を与える。単一の古村であれば、村の自治は一つの共同体の慣行に基づいて営まれる。しかし、由来を異にする新田の集合であれば、旧村ごとの利害や慣行の違いを調整しながら、一つの村としての運営を成り立たせねばならない。十束が「十ケ村をもって一村を組織した」と伝えられること自体が、この調整の産物としての村組織を物語っている。新田の集合という成り立ちは、入会や用水の配分をめぐる村内の合意形成に、独特の複雑さをもたらしたと推定される。

石高の記載。十束の江戸期の個別村高についても、袖浦と同様、本稿の資料範囲では掛塚に相当する明瞭な数値を確認できない。新田村は、開発の進展に応じて高が段階的に付け加えられていく(新田高が本高に加算されていく)ため、一時点の数値だけでは村の全体像を捉えにくいという事情もある。十束の高を論じるには、複数時点の検地・新田検地の記録を突き合わせる必要があり、これは本稿の範囲を超える。ここでも数値は未確認とし、成立過程の記述に議論の重心を置く。

本稿の評価:十束の「岡本の郷」からの成立過程は伝承・推定の層に置く。新田の集合という成り立ちは、村組織の内部に調整の課題を抱え込ませた。個別村高は本稿の資料範囲では未確認である。
岡本の郷池田荘に属す 中部の村々中島・宮本ほか 十ケ村慶長初め・集合 十束一村を組織 十束の成立過程(伝承・推定) 各段階の年紀・村構成は地誌の伝えに依り、一次史料では未確認。
図4 十束の成立過程(模式)。岡本の郷から中部の村々を経て、慶長初めに十ケ村が一村を組織したと伝わる。各段階は伝承・推定の層にあり、年紀は一次史料で未確認である。

6. 三村の比較と数値史料の性格

ここまで三地区を個別に見てきた。掛塚には寛政元年の明瞭な村高が残り、袖浦・十束の個別村高は本稿の資料範囲では未確認である。この記載の不均等を前に、まず確認すべきは、それが三村の実際の差を反映するのではなく、史料の伝わり方の差である可能性である。以下の比較表は、三村を村域・生業・石高の記載・村名や成立の年紀・史料批判上の留意点という同一の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。特定の村を数値の大小で序列化するのではなく、各村がどの資料層に立脚するかを対等に示す。

表1 掛塚・袖浦・十束の比較 ── 地勢・生業・石高記載・成立年紀・史料批判上の留意点
地区地勢主な生業石高の記載(本稿の資料範囲)村名・成立の年紀留意点(史料批判)
掛塚天竜川河口東岸の砂洲・低地廻船の湊・商い、農業村高617石6斗4升4合(寛政元年〈1789年〉調)。周辺小集落の高は判読困難で未確認。掛塚・白羽・十郎島・川袋・豊岡の五字。石高は土地の高であり、湊町の商業利益を代表しない。
袖浦砂丘とその内側の農地砂丘農業、製塩個別村高は資料範囲で未確認(記載なしではない)。元亀天正頃(1570〜1592年)に村名の初見と伝わる。村名の古さは伝承。砂丘農村の高は塩業を含む富を代表しない。
十束天竜川東岸のやや内陸新田開発による農業個別村高は資料範囲で未確認。新田高の段階的加算により一時点では捉えにくい。慶長初め(1596〜1615年頃)に十ケ村をもって一村を組織と伝わる。成立過程は伝承・推定。複数時点の検地記録の突合を要する。

この比較から浮かぶのは、三村が「石高の大小」で比べられる均質な対象ではないという事実である。掛塚の高だけが明瞭に伝わるのは、掛塚が湊町として記録の残りやすい中心地であったこと、そして提供資料に転写された石高調がたまたま掛塚地区を比較的よく写し取っていたことの、双方が関わると考えられる。数値が伝わることには、その村の性格と、史料が作られ・写され・伝えられた事情とが折り重なっている。したがって、掛塚の高が読めて袖浦・十束が読めないことを、そのまま三村の規模の差と受け取ってはならない。

ここで、石高という数値の二重性を改めて考えたい。石高は、一面では土地の生産力の指標である。検地によって田畑の等級と面積を測り、石盛を乗じて算定されるこの数値は、その土地がどれだけの米を生みうるかを示す。しかし他面で、石高は年貢賦課の基準でもあった。領主は村高に免(めん、年貢率)を乗じて年貢高を定め、村はその総額を村請(むらうけ)として一括で請け負い、村内で各戸に割り付けた。つまり石高は、生産力を測る言葉であると同時に、負担を配分する言葉でもあった。同じ数値が、村から見れば負うべき年貢の量を、領主から見れば取りうる収入を意味した。

この二重性は、湊町の掛塚と砂丘農村の袖浦において、それぞれ別の形で数値と実態の乖離を生む。掛塚では、廻船の商業利益が石高に計上されないため、村の実力は高が示すより大きかった可能性がある。袖浦では、塩業や砂丘作物の富が高に反映されないため、農地の等級から算定された高が村の経済を過小に表した可能性がある。いずれの場合も、石高を村の総合的な経済力の指標として読むことには限界がある。石高は土地の高であって、村の富の総体ではない。この区別を保つことが、数値史料を扱う近世村落史の基本作法である。

数値史料の性格をめぐっては、もう一点、記録の目的を問う視点が欠かせない。検地帳は領主が土地を把握し年貢の基礎を固めるために作られ、郷帳は幕府が一国の高を集計して支配の全体像を得るために作られ、村明細帳は村が自らの実態を領主に報告するために作られた。同じ村高でも、それが検地帳に記されるか、郷帳に記されるか、村明細帳に記されるかによって、数値の背後にある意図は異なる。本稿が依拠した石高調が、これらのどの系譜に連なる記録を写したものかは、原資料の性格をさらに吟味しなければ確定できない。数値を読むとは、その数値がどの記録の目的のもとに生まれたかを問うことでもある。

石高 検地帳に登録 生産力の指標 土地がどれだけ生むか 課税の基準 年貢をどれだけ負うか 石高の二重性 ── 一つの数値の二つの顔 湊の商業利益や塩業の富は、この土地の高には計上されない。
図5 石高の二重性。同じ数値が、土地の生産力を測る指標であると同時に、年貢賦課の基準でもあった。湊や塩業の富はこの土地の高に反映されない。

7. 村という近世の組織 ── 年貢・自治・入会

石高と村域を見てきたが、近世の「村」は数値と区画に尽きるものではない。村は、年貢を請け負い、自らを治め、山野や用水を共同で利用する、生きた組織であった。ここでは、掛塚・袖浦・十束の個別の記述からいったん離れ、三村がひとしく属していた近世の村という組織の輪郭を、年貢・自治・入会という三つの側面から素描する。数値史料の背後にある村の実態を捉えることが、本稿の締めくくりの課題である。

第一に、年貢の側面である。近世の村は、村請制のもとで年貢を一括して請け負った5。領主は村高に免を乗じて村全体の年貢高を定め、村はその総額に責任を負い、村内で各戸の持高に応じて割り付けた。この仕組みのもとでは、村は単なる徴税の対象ではなく、年貢の完納に連帯して責任を負う共同体であった。ある戸が納められなければ、村全体で補わねばならない。石高という数値は、この村請の総量を規定する基準として、村の運営の中心にあった。掛塚の617石余も、袖浦・十束の未確認の高も、それぞれの村がこの村請の単位として機能したことを前提としている。

第二に、自治の側面である。村請を成り立たせるために、村は自らを治める組織を備えた。名主(庄屋)・組頭・百姓代といった村役人が置かれ、年貢の割り付け、村入用(村の共同経費)の徴収、争論の調停、触書の伝達などを担った。村の運営は領主の一方的な支配ではなく、村役人を通じた自治との組み合わせで成り立っていた。新田の集合として成り立った十束のような村では、由来を異にする旧村の利害を調整する役割が、この自治組織に一段重くのしかかったと推定される。村域が複雑であることと、村自治の課題が複雑であることとは、しばしば結びついていた。

第三に、入会(いりあい)と用水の側面である。近世の村は、田畑という私的に持高が定まる土地のほかに、山野・河原・用水といった共同利用の資源をもった。これらは村の生活と生産を支える不可欠の基盤であり、その利用と管理をめぐって、村内はもとより村と村との間にも、たびたび争論が生じた。天竜川流域という立地は、用水の確保と出水への備えを共同の課題として村々に課した。掛塚の堤防、袖浦の灌漑排水、十束の新田用水は、いずれも一戸では担いえない共同の営みであり、村という組織があってはじめて維持された。石高に計上されないこれらの共同資源こそ、村の生活の実質を支えていたといってよい。

こうして見ると、石高という数値は、村という組織の一断面を映すにすぎないことがわかる。数値は年貢賦課の基準として村の負担を規定したが、村の自治の実態も、入会の共同性も、数値には現れない。近世村落史が数値史料の分析にとどまらず、村明細帳や村方文書、争論の記録へと踏み込むのは、この数値に現れない部分を捉えるためである。本稿は三村の個別村高の多くを未確認とせざるをえなかったが、その未確認の背後に、村請・自治・入会という共通の組織構造があったことは、確度をもって述べうる。数値の空白は、村の実態の空白を意味しない。

そして、この村という組織は、明治22年(1889年)の町村制施行によって、近代の行政村へと再編されていく。近世の村請の単位であった掛塚・袖浦・十束は、大字として近代の行政村に組み込まれ、やがて昭和30年(1955年)の合併で竜洋町の一部となった。石高という近世の言葉から、大字という明治の言葉を経て、行政区としての現在にいたる道筋は、村という組織が幾度も編成し直されてきた歴史である。その出発点にあった近世の村を、数値史料の記載とその空白の両面から読むことが、本稿の試みであった。近代以降の再編の詳細は、既刊の沿革論考および一般向けの解説記事にゆずる。

近世の村 村請の単位 年貢 自治 入会 近代の行政村 明治22年・大字へ 町村制施行 村という組織とその再編
図6 近世の村と近代への再編(模式)。村は年貢・自治・入会を担う組織であり、明治22年の町村制で大字として近代の行政村に組み込まれた。

8. 結論 ── 記載の偏りから村を読む

本稿は、旧竜洋町域の掛塚・袖浦・十束を、村域・石高・村組織という三つの座標から、近世村落史の観点で読み直した。得られた見取り図は次のとおりである。掛塚には寛政元年(1789年)の村高617石余という比較的明瞭な石高記載が残り、これは本稿が三地区を通じて最も確度をもって扱える数値である。これに対し、袖浦・十束の個別村高は、本稿が依拠した資料の範囲では確認できなかった。だがこれは、両村に石高が無かったことを意味しない。村である以上、検地を経て高を負っていたはずであり、これは「記載なし」ではなく「未確認」として区別すべき空白である。

この記載の偏りをどう読むかが、本稿の要点であった。掛塚の高だけが明瞭に伝わるのは、湊町として記録が残りやすかったこと、提供資料に写された石高調がたまたま掛塚地区をよく写し取っていたことの、双方が関わると考えられる。数値が伝わることには、村の性格と史料の伝来事情とが折り重なっている。したがって、数値の有無をそのまま村の規模や重要さの差と受け取ることはできない。数値史料を読むとは、数値そのものだけでなく、なぜその数値が伝わり、あるいは伝わらないのかを問うことである。

あわせて本稿は、石高という数値の二重の性格を確認した。石高は土地の生産力の指標であると同時に、年貢賦課の基準でもあった。この二重性のために、湊町の掛塚では商業利益が、砂丘農村の袖浦では塩業の富が、それぞれ石高に計上されず、数値と村の実際の経済との間に乖離が生じた。石高は土地の高であって村の富の総体ではない。この区別を保つことが、数値史料を扱う近世村落史の基本作法である。そして、数値に現れない村の自治・入会・年貢の連帯こそが、村という組織の生きた実質であった。

したがって本稿の立場は明確である。近世の村を数値から読むとは、数値を絶対の事実として並べ立てることではなく、数値がどの史料に、どの目的で記され、なぜ伝わり、あるいは伝わらなかったのかを腑分けし、その空白の背後にある村請・自治・入会の構造を復元することである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承を史実の劣位に置かず、確認できないことを確認できたかのように語らない。この禁欲的な手続きこそが、村という組織を後世の調べものに耐える形で書き留める方途である。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、袖浦・十束の個別村高は、郷帳や検地帳・新田検地帳の原本にあたることで、未確認の状態を史実へと一歩進めうる。第二に、三村の領主支配の変遷──天領と中泉代官の関わり、支配替えや相給の有無──は、村組織のあり方を左右する主題であり、稿を改めて検討されるべきである。第三に、村明細帳や村方文書、用水・入会の争論記録へと踏み込むことで、石高に現れない村の実態を、より立体的に描きうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。記載の偏りを嘆くのではなく、その偏りを史料批判の手がかりとして読み解いていくこと──その先に、掛塚・袖浦・十束という三つの村が近世に抱えていた組織の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿が扱った掛塚・袖浦・十束の地には、村の記憶とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の来歴にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。石高や村域という古い記録を読み解くことと、その土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 本稿が依拠する寛政元年(1789年)8月の石高調は、『ふるさと竜洋』(竜洋町教育委員会編、1977年)中の「資料3」に転写されたものである。原資料は手書き・スキャンの状態から判読が難しい箇所を含み、数値と地名の対応に不確かさが残る。
  2. 掛塚の村高617石6斗4升4合は、上記石高調に記される数値のうち比較的明瞭に読み取れる部類に属する。石高は原則として検地帳の登録高に由来するが、本稿が依拠したのは地誌への転写であり、原検地帳との照合は未確認である。
  3. 「袖浦」の村名が元亀天正の頃(1570〜1592年)に見えるという年紀は地誌の記述に依る伝承であり、同時代の一次史料による裏づけは本稿では未確認である。
  4. 十束が池田荘「岡本の郷」を母体とし、慶長初め(1596〜1615年頃)に十ケ村をもって一村を組織したという成立過程は、地誌の記述に依る伝承・推定であり、各段階の年紀・村構成は一次史料では未確認である。
  5. 石高が土地の生産力の指標であると同時に年貢賦課の基準でもあるという二重性、および村請制のもとでの村の連帯責任については、近世村落史・近世経済史の概説による一般的理解に基づく。

付記:本稿は一般向け記事 r034 の内容を、郷土史研究者向けに近世村落史の観点から再構成した論考版である。掛塚の村高617石余を史実(史料にそう記される水準)として扱い、袖浦・十束の個別村高を本稿の資料範囲では未確認と明記し、村名・成立の年紀は伝承・推定の層に置いた。素材に無い石高・戸数の数値は補わない。

参考文献・参考資料

  • 竜洋町教育委員会編『ふるさと竜洋』竜洋町、1977年(「一、竜洋町の沿革」および「資料3」。石高調の典拠)。
  • 竜洋町史編さん委員会編『竜洋町史』竜洋町(通史編・資料編、該当章)。
  • 磐田市誌編纂委員会編『磐田市誌』磐田市(通史編、近世の項)。
  • 『静岡県史』通史編3・近世一(静岡県、近世村落・検地・石高の項)。
  • 『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店、1982年(掛塚・袖浦・十束・池田荘の項)。
  • 『日本歴史地名大系 22 静岡県の地名』平凡社(磐田郡・竜洋の項)。
  • 木村礎『近世の村』教育社歴史新書、1980年(村請制・村組織の概説)。
  • 大石慎三郎『日本近世社会の市場構造』岩波書店(石高制・検地の理解)。
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ「郷帳・国絵図関係資料」 https://www.digital.archives.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 国土地理院「地理院地図(天竜川下流域)」 https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市「磐田市の概要・地区別のあゆみ」 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r034「掛塚・袖浦・十束の村域変遷と石高 ── 江戸期の村組織史」 https://iwata-monogatari.net/r034.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第198号(室町以降の竜洋) https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/198/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第158号(竜洋沿革) https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/158/ (最終閲覧:2026年7月26日)。