JR磐田駅の南、中泉のあたりは、いまは住宅と商いの広がる市街地である。だが江戸時代、ここには徳川幕府の役所が置かれ、遠江一帯の幕府領を治めていた。中泉代官所(なかいずみだいかんしょ)である。話を始める前に、まず一つ、混同されやすい二つの施設を分けておきたい。
中泉という地名を歩いていると、駅前の商店街や住宅地の合間に、ふと古い寺の門や石碑が現れることがある。それらの多くは、かつてこの土地が徳川将軍家の宿泊施設であり、同時に遠江一帯を治める行政の中心地でもあったという記憶を、静かに今に伝えている。
家康が築いた「中泉御殿」
一つめが「中泉御殿(なかいずみごてん)」である。これは役所ではなく、将軍家の宿泊・休憩のための施設、いわば御茶屋であった。徳川家康が家臣の伊奈忠次(いなただつぐ)に命じ、天正の中ごろ(1580年代後半)に築いたと伝わる。敷地は1万坪ともいわれ、土塁と堀をめぐらせた要害の地だった。
御殿は、ただ泊まるだけの場所ではなかったらしい。密談や軍略の拠点としても使われ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、家康がここから前線へ向かったとも伝わる。大坂の陣のころには、立ち寄って鷹狩りをしたという話も残る。この御殿は寛文10年(1670年)に廃止され、建物の門は近隣の寺へ移された。いま市内の西光寺(見付)と西願寺(中泉)に残る門が、それで、いずれも磐田市の文化財に指定されている。
この地はもともと、天正6年(1578年)頃に築かれた小規模な砦で、府八幡宮の神職も兼ねた在地の有力者・秋鹿(あいか)氏の屋敷地であったと伝わる。それが家康に献上され、家臣の伊奈忠次に命じて改修・整備させたのが中泉御殿である。伊奈忠次は徳川家の代官頭として、のちに関東各地の新田開発や検地にも辣腕を振るった人物で、その整備は天正15年(1587年)頃に完成したとされる。当時、江戸から駿府・浜松へと向かう将軍の宿泊・休憩施設は全国に約90か所設けられていたと言われ、中泉御殿もその一つに数えられる。北側には土塁と水堀がめぐらされ、南側は湿地を望む要害の地であったという構えからも、単なる休憩所以上の防御性を備えていたことがうかがえる。
天領を治めた「中泉代官所」
二つめが、本題の「中泉代官所」である。御殿が将軍の休泊所だったのに対し、代官所は幕府の領地――天領(てんりょう)――を治める行政の役所であった。御殿が廃された後も、代官所は明治の世になるまで続いた。中泉代官の支配地は時に広く、遠江・三河で6万石を越えたともいう。年貢の取り立て、治水、訴訟の裁き――この地に暮らす人々の暮らしの根もとを、ここから差配していた。
歴代の代官のなかでも、幕末の林鶴梁(はやしかくりょう、1806年~1878年)の名が知られる。鶴梁は嘉永6年(1853年)に中泉代官として着任した儒学者で、佐藤一斎・松崎慊堂ら当代一流の儒者に学び、後世「幕府代官のうちの三大儒者」の一人に数えられた人物である。嘉永7年(1854年、この年の11月に安政と改元)11月4日、駿河湾を震源とすると見られる大地震が遠州一帯を襲い、中泉代官所の建物の多くが倒壊、周辺の町や村も大きな被害を受けた。鶴梁は配下の役人とともに被災地を巡視し、江戸へ被害を報告するとともに、救済活動に乗り出したと伝わる。
鶴梁は、たび重なる災害の経験から、備蓄米だけに頼るその場しのぎの救済ではせいぜい1か月ほどしか持たないことを見抜き、恒久的に困窮者を支える仕組みとして「恵済倉(けいさいぐら)」の制度を考案した。この仕組みはのちの代官にも引き継がれ、明治期には民に金銭を貸し付ける施設の原資としても活用されたという。役所は、ただ税を取るだけの場所ではなく、災害のたびに人の暮らしを支え直す場でもあったのである。
「御殿」と「代官所」。よく似た名で、しばしば一つにされてしまう。だが片や将軍の旅の宿、片や民を治める役所。二つを分けて見たとき、中泉というまちの厚みが見えてくる。
維新と、今に残る面影
明治の世になると、代官は廃され、新政府のもとで中泉には奉行が置かれた。その初代の中泉奉行に明治2年(1869年)1月に任じられたのが、のちに日本の近代郵便制度を築く前島密(まえじまひそか)である。前島が着任する前年、慶応4年(1868年)秋には天竜川が氾濫し、沿岸の村々は甚大な被害を受け、多くの住民が生業を失っていた。前島は、こうした天竜川の水害で困窮した人々を救うため、近くの寺と協力して「中泉救院」を開設した。中泉に赴任していた期間、前島は昼夜を分かたず地域の立て直しに奔走したと伝えられ、この経験がのちに中央政府での近代郵便制度の構想へとつながっていったとも言われている。磐田駅前には、その前島の像と、復元された郵便ポストが立っている。
役所の建物は、もう残っていない。けれど、駅のすぐ南の御殿遺跡公園には、家康ゆかりの地であることを伝える碑が立ち、寺に移された門が当時の構えをしのばせる。何気ない市街地の足もとに、徳川の世の役所があり、名代官の働きがあり、近代のはじまりに立ち会った人の足跡がある。中泉は、そういうまちである。
中泉代官所の支配地は、天領としては決して小さくなく、遠江・三河にまたがり6万石を超えたと伝わる規模であった。これは一つの藩に匹敵する石高であり、代官一人が担った行政範囲の広さがうかがえる。江戸から見れば辺境に近いこの地に、なぜこれほどの規模の天領が置かれたのか。天竜川という暴れ川の治水、東海道という大動脈の維持、そして遠江国府以来の土地としての重みが、幕府にとって直轄支配を必要とする土地にしていたのだろう。御殿・代官所・奉行所と、統治の形は時代とともに姿を変えたが、中泉が街道と川と人の交わる要地であり続けたという一点だけは、変わらなかったのである。
中泉をたどる手がかり
- 御殿遺跡公園
- 磐田市中泉。JR磐田駅南口のすぐ南。御殿・代官所のあった一帯。家康像を頂く碑がある。
- 西光寺の表門/西願寺の裏門
- いずれも中泉御殿から移築と伝わる門。磐田市指定有形文化財。
- 人物
- 名代官・林鶴梁(恵済倉)。維新後の初代中泉奉行・前島密(中泉救院、近代郵便の父)。
- 留意
- 「御殿」(1670年廃止)と「代官所」(維新まで存続)は別の施設・時期。築造年は天正12〜15年と幅がある。
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