磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第197号(中泉徳川史料研究)
中泉御殿の史実 ── 家康の鷹狩り・秋鹿家・大池を資料で読む
絵図・公図・発掘・古文書から、失われた別邸の輪郭を描き直す
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
中泉御殿は、徳川家康が東海道の中泉に営んだ休泊と鷹狩りの拠点である。本稿は、磐田市歴史文書館の企画展資料・絵図・公図・発掘成果・古文書をもとに、御殿を城とは異なる別邸的施設として読み直す。御殿を預かった在地の秋鹿家、屋敷の南に広がった湿地・大池、そこに集まる鶴や鴨を追う鷹狩りという三つの要素が、なぜ家康を繰り返し中泉へ通わせたのかを、地形・水・交通の面から論じる。『中泉八幡宮領絵図』や中泉公図に残る地割り、御殿・二之宮遺跡の発掘で確認された柱穴・土塁・濠跡は、建物が失われた後も御殿の輪郭を伝える。一方で御殿の正確な造営年・規模・存続期間を一点で記す一次史料は本稿の範囲では未確認であり、これを史実と分けて推定として提示する。あわせて御殿と後身の中泉代官所を機能の面で腑分けし、既刊の論考へ接続する。
キーワード:中泉御殿/徳川家康/秋鹿家/大池/鷹狩り/絵図・公図・発掘/中泉代官所
1. 問題設定 ── 建物なき御殿をどう読むか
中泉御殿は、徳川家康が遠江国中泉(現在の磐田市中泉)に営んだ施設である。上洛や駿府往復の途次に休み、あるいは近くの大池のほとりで鷹狩りを行うための拠点であった。ところが、この御殿を「どのような建物であったか」と正面から問うと、答えは容易には像を結ばない。建物はとうに失われ、その姿を描いた同時代の絵図も、規模や存続期間を一点で記す一次史料も、本稿の調査範囲では確認できていないからである。
残されているのは、御殿を囲んだ地形を描いた絵図、近代の地籍に痕跡をとどめた公図、地中から現れた柱穴や濠跡、そして御殿を預かった在地の一族が伝えた由緒である。本稿は、これら性格の異なる資料を一つずつ点検し、史料で確認できること、資料から導かれる推定、後世に整えられた由緒、地域に語り継がれる伝承の四つを腑分けしながら、中泉御殿という施設の輪郭を描き直すことを課題とする。主たる典拠は、磐田市歴史文書館の企画展「中泉御殿にて家康、泰平の世づくりを練る」および「徳川家康と磐田」の配布資料であり、その内容を一般読者向けに整理した既存記事「資料で読む中泉御殿の史実」を、本稿は学術的な史料批判の観点から再構成する。
あらかじめ、本稿で用いる語の水準を定めておきたい。史実とは、同時代の文書や編纂物、あるいは発掘成果によって確認できる事柄を指す。推定とは、複数の資料から導かれるが一点では確定できない事柄をいう。後世の由緒とは、江戸期以降に整えられた沿革の説明であり、伝承とは地域に語り継がれてきた口碑を指す。これらを語の水準で区別し、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。
もう一つ、区別を明示しておく。本稿でしばしば用いる「未確認」とは、当該の事柄を裏づける一次史料に管見の限り突き当たっていない状態をいう。これは「史料に記載がない」、すなわちそのような記録が存在しないと確認できたこととは異なる。御殿の造営年や存続期間について、後述するとおり本稿は「未確認」と述べる場面が多いが、それは記録の不在を断定するものではない。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、元来そうした記録が作られなかったのか──そのいずれであるかは、それ自体が別個に検証を要する問いである。この区別は、建物なき御殿を扱う本稿において、とりわけ慎重に保たねばならない。
建物が失われた施設を資料から読むという作業は、遺構を欠いたまま輪郭だけを追う難しさを伴う。しかし中泉御殿の場合、失われたのは建物であって、それを取り巻いた土地の記憶までが消えたわけではない。川筋、池、土手、道、そして小字の名は、建物が消えた後も地表と地籍に残り続けた。以下では、その残された輪郭を手がかりに、御殿の機能、それを支えた在地の一族、狩りの舞台となった水辺、そして御殿跡を示す考古資料の順に検討を進める。
2. 御殿という施設 ── 城ではない別邸
まず、「御殿」とは何かを確認しておく。企画展資料は御殿を、将軍などが旅行や外出の際に休んだり泊まったりするために、城とは別に建てられた邸宅と説明している1。この定義は、中泉御殿を読むうえで決定的に重要である。御殿を城そのものと同一視すると、防禦施設としての規模や軍事機能を過大に見積もることになりかねない。中泉御殿は、宿泊のための施設であると同時に、家康が中泉や大池の周辺で鷹狩りを行うための拠点でもあった。休泊、狩猟、そして政治・軍事上の打ち合わせを支える別邸的な施設──これが資料から読み取れる基本的な性格である。
上洛や駿府往復の途次に休む場所であったことは、東海道沿いの拠点としての性格を示す。さらに、関ヶ原や大坂の陣の前後の動静に関わる資料を重ねると、御殿は単なる休憩所ではなく、人と情報が集まる場所であったことがうかがえる。街道の要衝に置かれた別邸は、旅程の中継点であると同時に、周辺の在地勢力や街道を行き交う情報が結節する場でもあった。本論考シリーズの関連稿および既存記事「中泉御殿のあった町」が扱う「水と道の結節点」という見方は、御殿の機能をこのように具体的に描くことで、いっそう内実を得る。
もっとも、御殿の正確な規模や間取り、そして存続期間については、慎重な腑分けを要する。家康が浜松城へ移ったころから中泉の在地の屋敷を旅宿としていたことは資料が述べるところであるが、御殿と呼ぶにふさわしい施設がいつ整えられ、いつまで維持されたかを一点で記す一次史料は、本稿の範囲では未確認である。後述する絵図が寛文年間、すなわち御殿の廃止直前とされる時期に描かれていることから、御殿が近世前期に一定期間機能し、17世紀後半に役割を終えたことは推定できる。だが、その始期と終期を暦年で確定する作業は、なお史料の博捜を要する課題として残る。
ここで、後世に整えられた由緒の一つを検討しておきたい。『遠州中泉古城記』は、文政6年(1823年)に中泉代官で儒学者でもあった羽倉用九(簡堂)が撰んだ碑文の原稿とされる。家康がこの地に小堡を築き、その後に城を営んだと伝えるが、これは江戸後期の史料である。同時代の実録として読むのではなく、中泉御殿の由緒が江戸後期にも整理され、地域の歴史意識のなかで語り継がれていたことを示す資料として扱うのが妥当である。「城を営んだ」という表現をそのまま受け取れば御殿を城郭と見なすことになるが、前掲の御殿の定義に照らせば、これは別邸的施設を後世の語彙で顕彰的に記述したものと解する余地がある。由緒は、その施設が地域にとってどれほどの重みをもって記憶されたかを語る資料ではあるが、施設の実態を寸分たがわず伝える一次記録ではない。
したがって本稿は、御殿の性格を次のように押さえる。城とは別の休泊・狩猟のための別邸であったことは史実として確認できる。街道の結節点として人と情報を集めたことも、滞在記録の積み重ねから推定できる。しかし城郭としての規模や、造営から廃止までの正確な年代は、現時点では推定と未確認の領域にとどまる。この腑分けを保ったまま、次章以下では御殿を支えた具体的な要素へと分け入っていく。
3. 秋鹿家 ── 御殿を預かった在地の一族
中泉御殿を読むうえで外せないのが、秋鹿家(あいかけ)の存在である。企画展資料で目を引くのは、この一族の位置づけである。秋鹿家は、出雲国秋鹿郡に由来する姓とされ、初代朝治が足利尊氏に仕え、遠江国中泉と羽鳥庄貴平の地頭職に任じられたと伝える2。以後、中泉に住み、今川、そして徳川に関わっていった。中世以来この土地に根を張った在地領主が、近世に入って家康と結びついていく過程が、秋鹿家の系譜には刻まれている。
15代直朝は家康に仕え、府八幡宮の神官兼代官となったとされる。資料は、当時の秋鹿家の屋敷があった一帯を、現在の中泉字「御殿」と結びつける。すなわち、後に御殿と呼ばれる土地は、もともと在地の有力者である秋鹿家の屋敷地であった。天正元年(1573年)、直朝がこの土地一帯を家康に献上し、褒美として御刀一腰と久保の土地を与えられ、秋鹿家がそこへ移ったという筋で、資料は説明している。御殿の場所が空いた土地に突然選ばれたのではなく、在地の屋敷地が家康の手に渡り、そこに休泊と狩りの拠点が整えられていったという経緯である。
この経緯は、御殿の立地を理解するうえで示唆に富む。屋敷の南側には湿地帯である大池が広がり、鶴や鴨など、鷹狩りの獲物となる鳥が多くいたと考えられている。家康は浜松城へ移ったころから、秋鹿家の屋敷を旅宿とし、領地の視察と健康づくりを兼ねて大池で狩りを行ったと資料は述べる。ここで見えてくるのは、秋鹿家、府八幡宮、大池、久保川、そして東海道という複数の要素が一つの土地に重なっていたという事実である。家康の休泊と鷹狩りは、この既にある重なりの上に乗っていった。
ただし、秋鹿家の由緒を読むには史料批判を要する。先祖書や由緒は、家康との関係を後世に語り伝えるための資料でもある。したがって、家康との結びつきを強調する性格を帯びていることを意識して読まねばならない。天正元年の献上譚も、それ自体は在地の一族が徳川政権のもとで自らの由緒を確立していく過程で整えられた語りである可能性を排除できない。年紀や献上品の記述をそのまま同時代の事実として確定することには、慎重でありたい。
一方で、由緒に留保を付すことと、秋鹿家の重要性を退けることとは別である。むしろ、秋鹿家文書や府八幡宮領に関わる資料がまとまって伝わること自体が、中泉御殿を読むうえで秋鹿家を外せないことを示している。在地の一族が中世から近世へと連続して土地に関与し、その屋敷地が御殿へと転じたという構図は、御殿が孤立した徳川の出先ではなく、在地の社会構造の上に築かれた施設であったことを物語る。御殿の立地を「なぜここか」と問うとき、その答えの半ばは、この秋鹿家という在地の人間関係のなかにある。
4. 大池と鷹狩り ── 家康が中泉に通った理由
家康を中泉へ繰り返し引き寄せたものは何か。資料が繰り返し語るのは、大池での鷹狩りである。秋鹿家の屋敷の南に広がった大池は湿地帯であり、鶴や鴨といった水鳥が集まる場であった。鷹狩りは、鷹を放って鳥獣を捕らえる狩猟であると同時に、武家の統率や領地の視察を兼ねる政治的な行為でもあった。獲物の集う水辺を控えた中泉は、この鷹狩りの舞台として格好の条件を備えていた。
企画展資料は、『家忠日記』『当代記』『駿府記』『駿府政事録』『御年譜』などを手がかりに、家康の中泉滞在の例を列挙している。天正16年(1588年)の御鷹野、文禄・慶長期の通過・滞在、関ヶ原前後、そして大坂の陣前後の動静などである。慶長5年(1600年)の関ヶ原前の滞在については、既刊の記事「中泉御殿と関ヶ原の戦い」で一点集中的に扱った。今回の資料整理から見えてくるのは、その滞在が孤立した一回の出来事ではなく、家康が中泉を繰り返し使っていた流れのなかにあるという点である。中泉は、特定の政治的画期にだけ立ち寄られた場所ではなく、家康の移動と狩りの日常のなかに組み込まれた拠点であった。
この日常性をよく伝えるのが、林羅山の『丙申紀行』である。その中泉の項で羅山は、家康が毎年のように中泉御殿で鷹狩りを楽しみ、自分も供をしたときのことを思い出していると記していると資料は紹介する3。これは、中泉御殿が武断的な軍事拠点であるだけでなく、大御所となった家康の日常的な移動と狩りの場でもあったことを伝える証言である。「毎年のように」という表現は、中泉が家康にとって特別な非日常の地ではなく、季節ごとに立ち返る馴染みの場であったことを示唆している。もっとも、羅山の紀行は回想を含む文章であり、「毎年」を厳密な頻度の記録として読むよりは、家康と中泉の結びつきの深さを伝える証言として受け取るのが穏当であろう。
鷹狩りが「健康づくりを兼ねて」行われたという資料の記述も、見落とせない。家康が晩年まで鷹狩りを好んだことはよく知られるが、それは単なる娯楽ではなく、身体を動かし、在地を巡り、家臣や在地の者と接する複合的な営みであった。中泉での狩りもまた、休泊と視察と鍛錬が一体となった行為として営まれたと考えられる。御殿という施設は、この複合的な営みを一箇所で支える器であった。宿泊し、狩りに出て、周辺を視察し、必要とあれば人と会って相談する──そうした一連の行動を、街道沿いの一つの拠点でまかなえることに、中泉御殿の実用的な価値があった。
ここで確度の腑分けをしておく。大池が鷹狩りの舞台であったこと、家康が中泉に繰り返し滞在したことは、複数の同時代記録と絵図の裏づけをもつ史実として扱ってよい。一方、家康が「毎年」通ったかどうか、狩りの具体的な回数や規模については、記録の性格上、正確な数値を確定することは難しい。これらは推定の領域にとどまる。史実としての「繰り返しの滞在」と、推定にとどまる「頻度や規模」とを分けて記すことで、中泉と家康の結びつきを過大にも過小にも描かずに済む。
5. 絵図・公図・発掘 ── 消えた御殿の輪郭
建物が失われた御殿を、それでも土地として読むことを可能にするのが、絵図・公図・発掘という三種の手がかりである。まず絵図から見よう。『中泉八幡宮領絵図』には「御殿」の地が描かれ、北側の土手や木々、濠が読み取れる。西から南へは内川、外川、大池が続き、御殿を囲む水の構えとして働いたと資料は読む。川と池と土手が幾重にも御殿を取り巻いていた様子は、この施設が単なる屋敷ではなく、水と土手によって区画された一定の格をもつ場であったことをうかがわせる。
注目すべきは、寛文6年(1666年)から寛文10年(1670年)ごろ、御殿廃止の直前とされる時期に描かれた絵図に、御殿の建物そのものが描かれていないことである4。だが、地形、川、池、道、周辺の田畑は残されており、御殿がどのような環境のなかにあったかを考える材料になる。建物が描かれないことは、資料価値がないことを意味しない。むしろ、御殿を支えた地形の輪郭を読む資料として、これらの絵図は貴重である。建物の不在は、この絵図が描かれた時点で御殿が既に機能を終えつつあったことを推定させる手がかりでもある。
次に公図である。『中泉公図第三号御殿ほか』では、公図作成当時の小字名が示され、御殿跡に関わると推測される小字をたどることができる。資料は、濠の内側に沿った半円状の土地の連なりを、土塁跡を示すものとして読む。字「御殿」という地名、そして濠と土塁に沿って残された地割りは、建物が消えた後も、近代の地籍のなかに御殿の輪郭を刻み続けた。地名と地割りは、しばしば建造物よりも長く土地に残る。中泉御殿の場合、この地籍上の痕跡が、失われた施設の位置と規模を推し量る有力な手がかりとなっている。
そして発掘である。御殿・二之宮遺跡の発掘調査では、大手門と推定される柱穴、建物跡、塀跡、土塁や濠の跡が確認されている5。江戸時代の絵図や昭和初期の地籍図に示された地形と、発掘成果が重なる点は、決定的に重要である。御殿跡を、後世の由緒や地域の伝承だけでなく、考古資料からも裏づけられることを意味するからである。絵図が描いた濠、公図が刻んだ土塁の地割り、そして地中から現れた濠跡と柱穴が、同じ一つの輪郭を指し示すとき、その輪郭は推定を超えて史実の確度へ近づく。
ただし、発掘成果の解釈にも留保は要る。「大手門と推定される柱穴」という表現が示すとおり、個々の遺構が御殿のどの部分に当たるかは、なお推定を含む。門であったか、規模はどれほどであったか、といった細部は、発掘の進展と絵図・公図との照合によって、今後さらに詰められるべき事柄である。史実として確実なのは「御殿跡と整合する遺構が地中に存在する」ことであり、その遺構が御殿の具体的にどの施設であったかは、多くが推定の段階にある。この確度の落差を保ちながら読むことが、考古資料を郷土史に接続する際の作法である。以下に、資料ごとの確度を一覧する。
| 資料・手がかり | 読めること | 確度の層 | 扱い方(史料批判) |
|---|---|---|---|
| 中泉八幡宮領絵図 | 御殿の地、内川・外川・大池、土手、道、周辺の田畑。 | 史実(地形) | 御殿周辺の地形を読む基本資料。建物の細部は描かれない。 |
| 寛文期の絵図 | 御殿廃止直前の地形。建物は描かれない。 | 史実/推定 | 建物不在は御殿の機能終了を推定させる手がかり。 |
| 中泉公図 | 字「御殿」、濠の内側に沿う半円状の地割り。 | 推定(土塁跡) | 近代地籍から御殿跡の輪郭を読む。地名は建物より長く残る。 |
| 御殿・二之宮遺跡の発掘 | 柱穴、建物・塀跡、土塁・濠跡。 | 史実(遺構) | 考古資料。個々の遺構の同定には推定を含む。 |
| 秋鹿家由緒・古城記 | 献上譚、小堡・築城の伝え。 | 後世の由緒 | 顕彰的性格を意識して読む。年紀は同時代記録と分ける。 |
| 移築伝承 | 泉蔵寺山門、常楽寺本堂などに御殿由来の伝え。 | 伝承 | 部材年代の検討を伴う伝承として扱う。 |
この一覧が示すのは、中泉御殿が単一の資料では語りきれない施設であり、複数の資料を確度の層ごとに重ねてはじめて輪郭が立ち上がるという事実である。絵図と公図と発掘が同じ輪郭を指すとき、そこには史実に近い確からしさが生まれる。由緒と伝承は、その輪郭に意味と記憶の厚みを添える。どちらか一方だけでは、御殿は像を結ばない。
6. なぜ見付ではなく中泉か ── 地形・水・交通
ここまでの検討を踏まえて、あらためて問いたい。家康はなぜ、遠江国府が置かれた古い町・見付ではなく、中泉に休泊と鷹狩りの拠点を営んだのか。この問いは、既刊の関連稿でも土地の読み方として論じられてきたが、本稿は御殿そのものの史料から、その答えを三つの面に整理する。地形、水、交通である。
第一に地形と水である。中泉の南には大池の湿地が広がり、鶴や鴨が集まった。鷹狩りを好んだ家康にとって、獲物の集う水辺を至近に控えることは、他に代えがたい条件であった。見付は台地上の宿場町であり、遠江国府・総社の伝統を負う格式ある地であったが、鷹狩りの舞台としての水辺を屋敷の間近に備えていたわけではない。中泉の選択は、政治的格式よりも、狩りと視察という実際的な営みに適した地形が優先された結果と読むことができる。湿地の存在は、単なる自然条件ではなく、家康の行動様式と直接に噛み合う立地上の利点であった。
第二に、在地の人間関係である。前章までに見たとおり、中泉には秋鹿家という中世以来の在地領主が根を張り、その屋敷地が御殿へと転じた。府八幡宮の神官兼代官を務めた秋鹿家は、土地と信仰と行政の結節点にあった。家康が拠点を営むにあたって、既にその土地を差配していた在地の一族の存在は、決して小さくない。空白の地に城を築くのではなく、在地の基盤の上に別邸を整えるという選択には、統治の実際に即した合理があった。見付が国府以来の公的な格式の町であったのに対し、中泉は在地の私的な人間関係が家康の拠点形成を支えた町であった、という対比も成り立つ。
第三に交通である。中泉は東海道に近く、天竜川の渡し(池田渡船)や周辺の水運とも結びつく位置にあった。街道の要衝であることは、上洛や駿府往復の途次に休むという御殿の基本機能に直結する。休泊、狩り、視察、打ち合わせという御殿の四つの機能は、いずれも交通の便を前提とする。見付もまた東海道の宿場であったが、家康が求めたのは宿場そのものの賑わいよりも、街道に近く、かつ狩りの水辺と在地の基盤を併せもつ場であった。中泉は、その三つの条件を一箇所で満たす稀な立地だったのである。
もっとも、「見付か中泉か」という二者択一の構図を強調しすぎることには注意が要る。見付と中泉は互いに近接し、家康は見付をも通過・利用している。両者は排他的な関係にあったわけではなく、格式の見付、実用の中泉という役割の違いのなかで、それぞれの機能を担った。本稿の立場は、中泉の選択を見付の否定として読むのではなく、鷹狩りと視察という具体的な営みに最も適した立地として中泉が選ばれた、と読むところにある。この点で、地形・水・交通という三つの面は、互いに独立した理由ではなく、中泉という一つの土地の上で分かちがたく結びついていた。
7. 御殿と代官所を分けて読む
中泉を語るとき、しばしば「御殿」と「代官所」が混同される。両者は同じ中泉の地にあり、いずれも徳川の支配に関わる施設であるため、一括りに語られやすい。しかし機能の面では、両者は明確に区別されるべきである。御殿は家康の休泊と鷹狩りのための別邸であり、代官所は天領を統治するための行政の拠点である。時期の面でも、御殿が近世前期に機能し17世紀後半に廃止されたと推定されるのに対し、中泉代官所はその後、天領支配の中核として長く存続した。両者の区別については、既刊の論考「中泉代官所と天領の統治 ── 御殿と代官所を分けて読む」で詳しく論じたので、本稿では御殿の側から見た接続点のみを述べる。
御殿の廃止と代官所の存続は、中泉という土地の役割の転換を示している。家康が繰り返し訪れた休泊・狩猟の拠点としての中泉は、大御所家康の時代とともにその役割を終えた。しかし中泉が徳川の支配のなかで占めた位置は、行政の拠点としての代官所へと引き継がれた。土地は同じでも、そこに置かれた施設の機能は、狩りと休泊から統治と徴税へと転じたのである。前章で見た大池絵図や悪水川流れ絵図が、御殿廃止後もなお大池や手長橋跡といった水辺の記憶を書き留めていることは、御殿が去った後の中泉が、なお水と深く関わる土地であり続けたことを物語る。
この転換を読み違えると、御殿の性格そのものを誤って捉えることになる。御殿を代官所の前身として、あるいは行政拠点の一形態として読むと、休泊と鷹狩りという御殿本来の機能が視界から抜け落ちる。逆に、代官所を御殿の延長として読むと、天領統治という代官所固有の役割が見えなくなる。両者を機能と時期の両面で腑分けすることは、中泉の近世史を正確に描くための前提である。同じ地に別々の施設が時を隔てて置かれたという事実を、一つの連続した「徳川の中泉支配」へと均してしまわないことが肝要である。
あわせて、御殿にまつわる伝承も、この腑分けのなかに位置づけておきたい。磐田市域には、見付の御清水、冷酒の由来、船隠しの池、半場の姓、帯金家の由来など、家康をめぐる多くの伝承がある。中泉御殿についても、泉蔵寺の山門や常楽寺の本堂などに御殿由来を伝える移築伝承がある。これらは地域の記憶として確かな価値をもつが、古文書・絵図・発掘成果と同じ確度で史実として扱うことはできない。移築伝承については、部材の年代検討を伴う伝承として扱うのが妥当であり、その真偽の判定は建築史的な調査を別に要する。史実、後世の由緒、地域の伝承を分けて並べることで、御殿と代官所、そして家康をめぐる中泉の記憶は、かえって読みやすくなる。
8. 結論 ── 輪郭の史料学として
本稿は、中泉御殿を、企画展資料・絵図・公図・発掘成果・古文書という性格の異なる資料から読み直してきた。得られた見取り図は次のとおりである。中泉御殿は、城とは別の休泊・狩猟のための別邸であり、家康が中泉や大池で鷹狩りを行う拠点であった。この施設の性格は、御殿の定義、滞在記録、林羅山の紀行によって、史実として確認できる。御殿を預かった秋鹿家は中世以来の在地領主であり、その屋敷地が御殿へと転じた経緯は、家康の拠点が在地の社会構造の上に築かれたことを物語る。ただし秋鹿家の由緒や献上譚は後世に整えられた語りを含み、年紀の細部は同時代記録と分けて扱わねばならない。
絵図・公図・発掘という三種の資料は、建物が失われた後もなお、御殿の輪郭を土地と地籍と地中に伝えていた。濠と土手を描いた絵図、字「御殿」と土塁の地割りを刻んだ公図、柱穴と濠跡を現した発掘──これらが同じ一つの輪郭を指し示すとき、推定は史実に近い確度へと高まる。一方で、御殿の正確な造営年・規模・存続期間、個々の遺構の同定については、なお推定と未確認の領域が残る。この確度の落差を保ったまま記述することが、建物なき施設を扱う史料学の要諦である。
「なぜ見付ではなく中泉か」という問いに対して、本稿は地形・水・交通の三つの面から答えを整理した。大池の湿地という鷹狩りの舞台、秋鹿家という在地の基盤、東海道に近い交通の便──この三つが一つの土地に重なったことが、中泉の選択を導いた。それは見付の格式の否定ではなく、狩りと視察という具体的な営みに最も適した立地の選択であった。そして御殿はやがて役割を終え、その土地は代官所という統治の拠点へと機能を移していった。御殿と代官所を混同せず、機能と時期の両面で腑分けすることが、中泉の近世史を正確に描く前提となる。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を記しておく。第一に、御殿の造営年と存続期間は、なお未確認の状態にある。近世前期の在地文書や、徳川方の記録を博捜することで、この未確認を史実へと一歩近づけられる余地がある。第二に、発掘で確認された個々の遺構の同定は、絵図・公図との照合と発掘の進展によって、さらに詰められるべき事柄である。第三に、泉蔵寺・常楽寺などへの移築伝承は、部材の建築史的な年代検討を経てはじめて、伝承から史実へと確度を移しうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の層のなかで、推定を史実へ、未確認を確認へと押し上げていく作業に属する。建物なき御殿を、絵図と公図と地中の痕跡から一つずつ描き起こしていくこと──その地道な輪郭の史料学の先にこそ、家康が繰り返し立ち返った中泉という土地の姿が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 御殿の定義は、磐田市歴史文書館 第26回企画展「中泉御殿にて家康、泰平の世づくりを練る ── 徳川家康と磐田」配布資料による。将軍などが旅行や外出の際に休泊するために城とは別に建てた邸宅、との説明を踏まえる。↩
- 秋鹿家の出自・地頭職補任・天正元年(1573年)の土地献上譚は、同企画展資料が紹介する秋鹿家由緒による。由緒は後世に整えられた顕彰的性格を帯びるため、年紀は同時代記録と区別して扱う。↩
- 林羅山『丙申紀行』中泉の項に、家康が毎年のように中泉御殿で鷹狩りを楽しみ自らも供をしたとの回想が見えると、同企画展資料は紹介する。回想を含む紀行文であり、頻度の厳密な記録としてではなく結びつきの深さを示す証言として読む。↩
- 寛文6年(1666年)から寛文10年(1670年)ごろ、御殿廃止直前とされる時期に描かれた絵図には御殿の建物が描かれていない。地形・川・池・道・田畑は残る。同企画展資料による。↩
- 御殿・二之宮遺跡の発掘調査で、大手門と推定される柱穴、建物跡、塀跡、土塁・濠跡が確認されている。個々の遺構の同定には推定を含む。同企画展資料および発掘関連資料による。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n052「資料で読む中泉御殿の史実」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・後世の由緒・伝承)を語の水準で区別し、絵図・公図・発掘の重なりを史実の確度として、秋鹿家由緒や献上譚の年紀を後世の語りとして扱った。御殿の造営年・存続期間は「未確認」として記載の不在(記載なし)と区別した。
参考文献・参考資料
- 磐田市歴史文書館 第26回企画展「中泉御殿にて家康、泰平の世づくりを練る ── 徳川家康と磐田」配布資料、2023年ごろ。
- 磐田市歴史文書館 第16回企画展「徳川家康と磐田」出展目録・解説。
- 羽倉用九(簡堂)撰『遠州中泉古城記』文政6年(1823年)。
- 『家忠日記』(松平家忠の日記、天正・文禄期)。
- 『当代記』(近世前期の編年記録)。
- 『駿府記』(家康駿府期の記録)。
- 林羅山『丙申紀行』(寛永期)。
- 『中泉八幡宮領絵図』(府八幡宮領の絵図)。
- 『中泉公図第三号御殿ほか』(近代の公図)。
- 御殿・二之宮遺跡発掘調査に関わる報告・資料。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、中泉御殿・徳川関係章)。
- 府八幡宮 由緒書・社伝。
- 磐田物語 n052「資料で読む中泉御殿の史実 ── 家康の鷹狩り・秋鹿家・大池」 https://iwata-monogatari.net/n052.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第162号「中泉代官所と天領の統治 ── 御殿と代官所を分けて読む」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/162/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 n021「中泉御殿のあった町」 https://iwata-monogatari.net/n021.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 n048「中泉御殿と関ヶ原の戦い」 https://iwata-monogatari.net/n048.html (最終閲覧:2026年7月26日)。