失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 中泉代官と薬師堂の再興

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第132号(遠江国分寺の再興史 一)

中泉代官と薬師堂の再興 ── 中野七蔵・高室昌重と憲能和尚

天領の代官が支えた寺の再興

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉

要旨

遠江国分寺薬師堂は、元亀3年(1572年)の兵火によって焼失したと伝えられる。半世紀近い空白を経て、江戸初期に本堂を再建したのは、城を持たない天領の地を治めた中泉代官であった。本稿は、元和5年(1619年)に「本堂御造営奉行」として再建に着手した中野七蔵、その事業を継いで日光・月光菩薩と十二神将を寄進した高室昌重、そして森町の蓮華寺から迎えられ寺として朱印地を得た初代住職・憲能和尚という三者の事績を、素材記事に忠実に読み直す。焼失の経緯については『磐田市誌』上巻と地元伝承『参慶山国分寺由来』が異なる語りを残しており、いずれか一方を史実と断ずることはできない。本稿はこの二つの記録を対等に併記したうえで、代官が2代にわたり一つの堂を建て直した過程を、城主による寺社保護とは異なる、代官所を介した天領の宗教政策の実例として位置づける。あわせて史実と伝承を語の水準で区別し、確度の層を混同しない記述の作法を試みる。

キーワード:中泉代官/遠江国分寺薬師堂/中野七蔵/高室昌重/憲能和尚/天領/中興開山

1. 問題設定 ── 城なき天領で、なぜ代官が寺を建てたのか

遠江国分寺の薬師堂は、いまも磐田市中泉の一角に建つ。だがその本堂は、古代の国分寺草創以来のものではない。堂は戦国の兵火に焼け、江戸のはじめに建て直された。その再建を担ったのが、城を持たない天領の地を治めた中泉代官であったという一点に、本稿の問いは集約される。城主が寺社を庇護するのではなく、幕府から派遣された行政官が、年貢の徴収や治水と並んで一つの堂の再興を差配した──この統治のかたちを、史料に即して読み解くことが本稿の課題である。

問題を先取りして述べれば、中泉代官による薬師堂再興は、単独の代官の一存で成し遂げられた事業ではない。元和5年(1619年)に着任した中野七蔵が本堂再建の奉行を務め、その没後に高室昌重が事業を継いで堂内の諸尊を整え、さらに森町から迎えられた憲能和尚が住職として寺の体裁を築いた。2代の代官と1人の住職が、十数年から半世紀にわたる時間のなかで役割を分担しながら一つの寺を建て直していった。本稿はこの三者の事績を順に追い、それぞれが再興過程のどの局面を担ったのかを腑分けする。

本稿が依拠する事実の骨格は、国分寺奉賛会が令和4年に刊行した『国分寺ものがたり』(小杉達 著)をはじめとする地域の記録に基づく。ただし後述するように、再興の発端となった元亀3年(1572年)の焼失については、公的な編纂史料である『磐田市誌』上巻と、寺に伝わる由来書『参慶山国分寺由来』とで語りが食い違っている。そこで本稿は、史料によって確認できる事柄と、伝承として語り継がれてきた事柄とを語の水準で区別し、いずれか一方を性急に史実と決めつけることを避ける。この確度の腑分けは、素材の乏しい近世地方史を扱ううえで欠かせない手続きである。

遠江国分寺そのものの古代における姿は、別稿「遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍」で論じた。また同じ国分寺の維持をめぐっては、平安期に講堂が大風で倒れた出来事を扱った「講堂が倒れた日 ── 治安2年の大風と国分寺の嘆願」がある。本稿はその延長線上に、戦国の焼失と江戸初期の再建という、国分寺の長い維持史の一断面を置く。堂は幾度も傷み、そのつど別の主体によって支えられてきた。古代は律令国家が、平安期は在地の嘆願が、そして近世は天領の代官が、それぞれ堂を守った。担い手が入れ替わっていくこと自体が、この寺の歴史を形づくっている。

したがって本稿の問いは二重である。第一に、中野七蔵・高室昌重・憲能和尚という三者が、それぞれ具体的に何を成したのか。第二に、なぜ城なき天領において、幕府の代官が寺の再興にまで関わったのか。前者は事実の確定に、後者は統治のかたちの解釈に関わる。以下ではまず焼失をめぐる史料の性格を検討し、天領中泉という舞台を確認したうえで、三者の事績を順に読み、再興過程を比較して確度を腑分けし、天領の宗教政策として結論づける。

焼失した薬師堂を、三者が局面ごとに再興する 元亀3年 焼失(1572) 中野七蔵 ── 器 本堂の再建(1619〜) 高室昌重 ── 中身 諸尊の寄進(1624〜) 憲能和尚 ── 法灯 住職・朱印地(〜1682) 寺院として 再興・存立 器・中身・法灯の三局面を、2代の代官と1人の住職が順に担った。
図1 薬師堂再興の担い手構造。焼失した堂は、本堂(器)・諸尊(中身)・住職と朱印地(法灯)という三局面を、三者が役割を分けて整えることで寺院として回復した。

2. 元亀3年の焼失をめぐる二つの記録

薬師堂再興の物語は、一つの焼失から始まる。戦国期、遠江は徳川と武田が争う最前線となった。それに先立つ大永2年(1522年)には、見付端城主・堀越氏延が薬師堂に鰐口を寄進しており、戦国のただなかにも堂への信仰が続いていたことがうかがえる5。しかしその半世紀ほどのち、元亀3年(1572年)、武田信玄の軍が遠江に侵攻し、見付一帯は大きな被害を受けたとされる。国分寺の薬師堂も、この戦乱のなかで焼けたと伝えられている。焼失そのものは、複数の記録が「元亀3年」という同じ年を指す点で、おおむね共有された理解といってよい。

しかし、その焼失に至る経緯の描き方は、資料によって食い違う。公的な編纂史料である『磐田市誌』上巻は、武田軍の侵攻にともなう兵火によって薬師堂が焼失したという趣旨で記述する。一方、寺に伝わる由来書『参慶山国分寺由来』では、焼失の経緯や状況について、市誌とは異なる内容が語り継がれている。同じ「元亀3年に焼けた」という結論は共有しつつ、そこへ至る道筋の描き方が異なるのである。この食い違いを、本稿はどちらか一方の誤りとして裁定しない。

二つの記録は、そもそも性格を異にする。『磐田市誌』は自治体が編んだ公的な編纂物であり、諸史料を突き合わせて事実関係を整理する立場から書かれる。対して『参慶山国分寺由来』は、寺そのものが自らの来歴を語る由来書であり、寺の記憶と自己理解を伝えることに主眼がある。前者が外からの整理であるのに対し、後者は内からの語りである。両者が食い違うのは、どちらかが虚偽だからではなく、記録の目的と視点が異なるからだと考えるほうが、史料の性格に即している。公的編纂は同時代史料の裏づけを重んじ、由来書は寺の連続した記憶を重んじる。同じ出来事が、この二つの目的のもとで別々に語り直されてきたのである。

この区別は、単なる方法論上の潔癖ではない。焼失という一点の出来事の周囲に、性格の異なる複数の記憶が重なりながら伝えられてきた、その厚みそのものが国分寺薬師堂という場所の歴史だからである。公的史料と寺の由来書という二つの記録が並び立つことは、この堂が地域にとって、公的な記録の対象であると同時に、寺自身が語り継ぐべき来歴の起点でもあったことを物語る。本稿はこの二重性を、記述の欠点ではなく、場所の歴史の厚みとして受け取る1

なお、元亀3年の焼失から江戸初期の再建着手まで、およそ半世紀の空白がある。この間、薬師堂がどのような状態に置かれていたのかを直接語る史料は乏しい。これを「そのような史料が存在しない」と断ずることはできず、あくまで「管見の限り、空白期の実態を裏づける記録に突き当たっていない」という未確認の状態にとどまる。焼け跡がそのまま放置されていたのか、仮の堂で法灯がかろうじて保たれていたのかは、現時点では確定できない。この空白の長さこそが、のちの代官による再建を一大事業たらしめた前提である。

同じ焼失、異なる経緯 ── 二つの記録 『磐田市誌』上巻 公的編纂・外からの整理 武田軍の兵火による焼失 『参慶山国分寺由来』 寺の由来書・内からの語り 異なる経緯を伝える 元亀3年 焼失 結論は共有
図2 焼失をめぐる二つの記録。公的編纂の『磐田市誌』上巻と寺の由来書『参慶山国分寺由来』は「元亀3年焼失」という結論を共有しつつ、経緯の語りを異にする。本稿は両論を併記する。

3. 天領中泉という舞台 ── 城なき統治と代官所

焼失から半世紀近くを経て、世は徳川の天下となる。磐田・中泉一帯は幕府の直轄領、いわゆる天領として位置づけられ、大名の城ではなく代官所が地域を治めることになった。ここで確認しておきたいのは、城を持たない天領という土地の性格である。城主が寺社を保護するのではなく、幕府から派遣された代官が、年貢の徴収や治水と並んで、地域の信仰の中心である寺社の再興にも関わっていく。この構図が、薬師堂再興の背景をなす。

中泉代官所そのものの成り立ちや、そこに置かれた中泉御殿との関係については、一般向けの既存記事「中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち」に詳しい。また天領中泉の統治の全体像は、別稿「中泉御殿と天領中泉 ── 徳川直轄地の統治」で論じた。本稿ではこれらの詳説を繰り返さず、薬師堂再興に関わる限りで代官所の役割を確認するにとどめる。要点は、中泉が徳川直轄の要地であり、東海道の宿にも近い交通の結節にあって、幕府の統治意思が代官を通じて直接に及ぶ土地であった、という点にある。

天領における代官は、単なる年貢の徴収官ではない。治水・普請・訴訟の裁定から、地域の秩序と民心の安定に関わる諸事まで、その職掌は広い。寺社の維持や再興も、その職掌の外にあるものではなかった。城主による寺社保護が領主個人の信仰や威信と結びつくのに対し、代官による寺社の再興は、幕府の統治意思を地域に及ぼす行政の一環という色彩を帯びる。中泉代官が2代にわたって薬師堂の造営に携わった経緯は、天領という統治のかたちが、民心の安定という宗教政策の一面を帯びていたことをよく示している。

付け加えれば、天領における寺社の再興は、幕府の宗教統制という枠組みとも無縁ではない。近世の幕府は寺請制度を通じて寺院を民衆把握の末端に組み込み、寺院に一定の公的役割を負わせていた。焼けたまま放置された堂を建て直し、住職を置いて朱印地を安堵することは、その寺を幕藩体制の秩序のなかに正しく位置づけ直す営みでもあった。代官が薬師堂の再興に関わったことを、単なる篤志としてではなく、こうした統治の文脈のなかで読むとき、その行為の意味はいっそう明瞭になる。もっとも、寺請制度が全国的に整備されるのは再興よりやや後の時期にあたるため、ここでは再興を後の宗教統制へと連なる流れの初期に位置づけるにとどめ、両者を直接に結ぶ断定は避けておく。

では、なぜ数ある寺社のなかで国分寺薬師堂だったのか。素材はこの点を直接には語らないが、遠江国分寺が古代以来この地の由緒ある大寺であったこと、そして薬師如来を本尊とする薬師堂が地域の信仰の中心であったことは、再興の対象として選ばれる十分な理由となりうる。国分寺という格式ある寺の本堂が焼け跡のまま半世紀を過ごしていたことは、天領の治政にとって放置しがたい状態であっただろう。ただしこれは推定であって、代官が国分寺を選んだ動機を直接記す史料は確認できていない。動機の断定は避け、選択の背景として国分寺の由緒を挙げるにとどめる。

天領中泉の統治構造 ── 城ではなく代官所が治める 幕府(直轄領) 中泉代官所 年貢の徴収 治水・普請 寺社の再興 =薬師堂再興
図3 天領中泉の統治構造。城主ではなく代官所が地域を治め、年貢・治水と並んで寺社の再興までが代官の職掌に含まれた。薬師堂再興は、この統治構造のなかに位置づく。

4. 中野七蔵 ── 「本堂御造営奉行」による再建の着手

元和5年(1619年)、中泉代官として着任したのが中野七蔵である。中野七蔵は着任にあたり「本堂御造営奉行」という役目を帯び、焼失以来手つかずになっていた薬師堂本堂の再建に着手した2。代官という行政官が、同時に寺の造営を差配する奉行の任も負っていた──この一点に、天領における代官の役割の広さが端的に表れている。奉行という語は、幕府や領主が特定の事業を遂行させるために置く責任者の職名であり、「本堂御造営奉行」とは、まさに薬師堂本堂の造営を職務として命じられた立場を意味する。

注目すべきは、寺の再建が代官個人の私的な信仰の発露としてではなく、「奉行」という公的な職掌のもとで進められた点である。焼失した堂を建て直すという営みが、代官の職務のなかに正式に位置づけられていたことは、この再興が幕府の統治のかたちと不可分であったことを示す。私的な喜捨であれば奉行という職名は要らない。奉行の任が伴っていたという事実そのものが、薬師堂再興を天領の行政の一環として読む根拠となる。ここに、城主による寺社保護とは性格を異にする、天領ならではの再興のかたちが見て取れる。

中野七蔵は寛永元年(1624年)に没するまでの5年間、造営の指揮にあたったと伝わる。本堂という大きな建物の再建には相応の年月がかかるものであり、七蔵が在任中にすべてを完成させたわけではない。むしろ、彼の5年間は再建事業の土台を据える期間であったとみるべきだろう。焼け跡を片づけ、材を集め、堂の骨格を立ち上げる──こうした最初の、そして最も労を要する局面を担ったのが中野七蔵の在任期であった。事業の完成を見ずに没したという事実は、この再建が一代では成し遂げられない規模の営みであったことを、かえって物語っている。

ここで、着手という営みの意味を考えておきたい。半世紀にわたり焼け跡のまま置かれていた堂に、あらためて手をつけるという決断そのものが、再興の起点である。放置された状態が長く続けば、それはやがて常態となり、堂の再建はいよいよ遠のく。中野七蔵の在任期は、その常態化した空白を断ち切り、再建へと事業を動かし始めた画期であった。完成者ではなく着手者であったことは、彼の功績を減じるものではない。むしろ、動きの止まっていた事業を再び前へ進めたという点にこそ、着手者の意義がある。

本稿の評価:中野七蔵の事績は、素材に「本堂御造営奉行」の職名と在任期間が伝えられている点で、比較的確度の高い伝えとして扱える。ただし再建の進捗の具体的な程度──在任中にどこまで堂が立ち上がったか──を示す史料は確認できていない。七蔵を「再建の完成者」ではなく「着手者・土台を築いた者」として位置づけるのが、素材に即した穏当な理解である。
薬師堂 焼失から再興までの歩み 1522鰐口寄進 1572焼失 1619七蔵着手 1624昌重が継承 1634昌重退任 1682憲能遷化 空白 約半世紀 緑=焼失前の寄進/赤=焼失/橙=代官による再興/青=住職の遷化
図4 再興の年表。大永2年(1522年)の鰐口寄進、元亀3年(1572年)の焼失、そして元和5年(1619年)以降の代官による再興と、憲能和尚の天和2年(1682年)遷化までを一線に置く。焼失後の約半世紀が空白である。

5. 高室昌重 ── 日光・月光と十二神将の荘厳

中野七蔵の没後、代官の役目を引き継いだのが高室昌重(四郎左衛門)である。高室昌重は寛永元年(1624年)から寛永11年(1634年)まで中泉代官の任にあり、前任者が進めた本堂再建の事業を受け継ぐとともに、堂内を荘厳する仏像の造立・寄進にも力を注いだ3。七蔵から昌重への交替は、単なる人事の更迭ではなく、再建事業の継承でもあった。前任者が着手した堂を、後任者が引き継いで仕上げていく──この連続性こそが、薬師堂再興を一代の事業ではなく2代がかりの事業たらしめている。

薬師堂の本尊は薬師如来であるが、その脇には日光菩薩・月光菩薩の両脇侍が控え、周囲を十二神将像が守る構成が、仏教の作法として整えられている。薬師如来を中心に日光・月光の両菩薩が侍る形は薬師三尊と呼ばれ、さらに十二神将は薬師如来の眷属として、それぞれが方位や時を司りながら本尊を守護するとされる。高室昌重は、この日光菩薩・月光菩薩と十二神将像を新たに造立し、薬師堂に寄進したと伝わる。焼失によって失われたであろう堂内の諸尊を、あらためて整え直したのである。

ここに、再興の事業がもつ二つの局面が見えてくる。中野七蔵が本堂という「器」を再建し、高室昌重がそこに祀られるべき諸尊という「中身」を整えた、と見ることができる。堂という建物だけでは寺は成り立たず、そこに本尊とその眷属が揃ってはじめて、薬師信仰の場としての薬師堂が回復する。器と中身、建築と荘厳という二つの局面を、2代の代官が分担して担った。城下町ではなく天領の一角で、2代の代官が5年、10年という単位の年月をかけて一つの堂を再興していった歩みは、決して急ごしらえの事業ではなかった。

諸尊の造立という営みには、本堂の再建とはまた別の意味がある。堂の骨格を立てるのが土木・建築の仕事であるのに対し、仏像を造り、堂に安置するのは、信仰の対象そのものを回復する営みである。焼失によって失われたのは建物だけではなく、そこに祀られ、人々が手を合わせてきた諸尊でもあった。高室昌重が薬師三尊と十二神将を整え直したことは、薬師堂を「祈りの場」として蘇らせる行為にほかならない。器を再建した中野七蔵の仕事と、中身を整えた高室昌重の仕事は、そろってはじめて一つの再興を完成へと近づけた。

本稿の評価:高室昌重の事績もまた、在任期間と寄進の内容が素材に具体的に伝えられており、比較的確度が高い。ただし造立された諸尊が現存するか、また当初の像がそのまま今日まで伝わっているかについては、素材からは確定できない。昌重を「堂内の荘厳を担った代官」として位置づけつつ、現存遺品との対応は別途の調査を要する課題として残しておく。
薬師堂の尊像構成 ── 高室昌重が整えた「中身」 薬師如来 本尊 日光菩薩 脇侍 月光菩薩 脇侍 赤い円=十二神将(本尊を囲み守護する眷属)。薬師三尊+十二神将で薬師堂の荘厳が整う。
図5 薬師堂の尊像構成。中央の薬師如来を日光・月光の両菩薩が挟み、周囲を十二神将が守る。高室昌重はこの日光・月光菩薩と十二神将を造立・寄進し、堂内の荘厳を整えた。

6. 憲能和尚 ── 森町蓮華寺からの初代住職と朱印地

本堂の再建と諸尊の荘厳が進むなか、寺として堂を守り、法灯を継ぐ住職も必要とされた。堂と仏像が整っても、それを日々まもり、供養を絶やさぬ僧がいなければ、寺は寺として立ち行かない。そこで森町(現・周智郡森町)の天台宗蓮華寺から迎えられたのが、憲能和尚である4。周智郡森町は中泉から見て北方の山あいに位置し、天台の寺々が古くから営まれてきた土地である。その蓮華寺から住職を迎えたという経緯は、再興された薬師堂が天台の法灯のもとに置かれたことを意味する。

憲能和尚は初代住職として薬師堂の再興に尽力し、その働きによって幕府から朱印高12石2斗余を与えられたと伝わる。朱印地を得るということは、寺として幕府から公式に存立を認められ、一定の収入基盤を持つことを意味する。朱印状によって安堵された寺領は、将軍の代替わりのたびに改めて確認される公的な権利であり、その保有は寺が幕藩体制のなかに正式に組み込まれたことの証しである。薬師堂が単なる村の堂から、寺院としての体裁を整えていく過程が、この12石2斗余の朱印高に凝縮されている。器を建て、中身を整えただけでは足りず、寺としての公的な存立が保証されてはじめて、再興は一つの到達点を得たのである。

住職を外部から迎えたという点にも注意しておきたい。地元の僧ではなく、森町という離れた土地の天台宗寺院から住職を招いたことは、再興された薬師堂に一定の格と法脈を与えようとする配慮の表れとも読める。焼失によって法灯がいったん途絶えていたとすれば、新たな住職はどこかの寺から迎えるほかなく、その招請先として天台の由緒ある蓮華寺が選ばれた意味は小さくない。もっとも、なぜ蓮華寺であったのか、両寺のあいだにどのような縁があったのかを直接語る史料は確認できていない。この点は未確認の課題として残し、憲能和尚が天台の法灯を携えて中泉に入ったという事実の確認にとどめる。

憲能和尚は天和2年(1682年)に没した。中野七蔵の着任から数えれば60年以上、高室昌重による諸尊寄進からも半世紀近くを経ての遷化である。焼失した堂を再興し、寺としての基盤を築いた功績から、憲能和尚は今日、国分寺の「中興開山」と位置づけられている。中興開山とは、いったん衰えた寺を再び興した僧を、寺の歴史の再出発点として位置づける呼称である。古代の草創者とは別に、再興の祖を開山になぞらえて顕彰するこの語は、薬師堂にとって憲能和尚の存在がもつ画期性をよく表している。

境内には憲能和尚の宝塔が現存しており、江戸初期の再興の歩みを今に伝える数少ない物証のひとつとなっている。文献の伝えが人物の事績を語るのに対し、宝塔という石造の遺構は、その人物が確かにこの地に生き、この堂を守ったことを物として示す。憲能和尚以降の歴代住職の足跡については、境内の墓塔を読み解いた一般向け記事「卵塔墓が語る260年 ── 国分寺住職たちの墓碑を読む」に譲るが、その系譜の起点に立つのが、森町から迎えられた初代・憲能和尚である。

本稿の評価:憲能和尚については、出自(森町蓮華寺)・朱印高・没年・宝塔の現存という複数の要素が伝えられており、三者のなかで最も多くの手がかりが残る。とりわけ宝塔という物証が現存する点は、文献の伝えを裏づける手がかりとして重い。ただし「中興開山」という位置づけは寺の内部でなされた顕彰に基づく評価であり、これを史実と伝承のいずれの層に置くかは慎重を要する。再興の中心に憲能和尚がいたことは動かしがたいが、その顕彰的な評価と、朱印高などの具体的事実とは、確度の層を分けて扱うべきである。

7. 二代の代官と一人の住職 ── 再興過程の比較と史料批判

ここまで、中野七蔵・高室昌重・憲能和尚という三者の事績を順に見てきた。三者はしばしば「薬師堂を再興した人々」として一括りに語られるが、その担った局面も、事績を伝える資料の確度も、一様ではない。以下では三者を同じ粒度で並べ、それぞれが再興過程のどの局面を担い、どの程度の確からしさで事績が伝わるのかを可視化する。特定の人物を突出させず、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。

表1 薬師堂再興を担った三者の比較 ── 在職期・局面・事績・確度上の留意点
人物在任・在職期再興上の局面主な事績留意点(史料批判)
中野七蔵元和5年(1619年)着任〜寛永元年(1624年)没本堂の再建(器)「本堂御造営奉行」として焼失した本堂の再建に着手。職名・在任は伝わるが、在任中の完成度を示す史料は未確認。
高室昌重(四郎左衛門)寛永元年(1624年)〜寛永11年(1634年)堂内の荘厳(中身)日光菩薩・月光菩薩と十二神将像を造立・寄進。寄進内容は伝わるが、現存遺品との対応は要調査。
憲能和尚初代住職〜天和2年(1682年)没寺としての存立(法灯)森町蓮華寺から入寺、朱印高12石2斗余、境内に宝塔現存。出自・朱印・宝塔は具体的。ただし「中興開山」は寺内の顕彰。

この表から見えてくるのは、三者が競合していたのではなく、再興という一つの事業を局面ごとに分担していたという事実である。中野七蔵は建築を、高室昌重は荘厳を、憲能和尚は寺としての存立を、それぞれ担った。器・中身・法灯という三つの局面が、およそ60年の時間のなかで順に整えられていった。一人の英傑が一挙に寺を建てたのではなく、行政官と僧が役割を分けて長い時間をかけたという点にこそ、この再興の実像がある。

もう一点、比較を通じて確認しておきたいのは、時間の長さである。中野七蔵の着手から憲能和尚の遷化まで、およそ60年余りの歳月が流れている。この長さは、再興が一人の生涯では完結せず、複数の担い手が世代を越えて事業を引き継いだことを意味する。前任の代官が据えた土台の上に後任が諸尊を整え、さらに住職がその堂を寺として存立させる──こうした継承の連鎖があってはじめて、焼けた堂は寺院として蘇った。個々の人物の事績を切り離して見るのではなく、この継承の連なりとして再興史を読むことが肝要である。担い手が代われば事業が途切れてもおかしくないなかで、局面を引き継ぎながら一つの堂を完成へ向かわせえたのは、代官所という統治機構が世代を越えて事業を保証したからにほかならない。

史料批判の観点からは、三者の事績が同じ確度で伝わっているわけではないことに注意を要する。年代や職名、朱印高といった具体的な数値・名称は、後世の編纂や顕彰のなかで整えられた可能性を含む。とりわけ「中興開山」という位置づけは、寺の内部でなされた顕彰的な評価であり、外部の史料によって裏づけられた客観的な事実とは性格を異にする。本稿はこれらを頭から疑うのではないが、伝えられている事績のうち、何が同時代の記録に遡りうるのか、何が後世の整理によるのかを、可能な範囲で腑分けしておく必要がある。

第2節で見た焼失をめぐる二つの記録の食い違いも、この確度の問題と地続きである。『磐田市誌』上巻と『参慶山国分寺由来』が異なる経緯を伝えるように、再興の物語もまた、公的な編纂と寺の自己語りという二つの流れのなかで形づくられてきた。本稿が依拠した『国分寺ものがたり』のような地域の記録は、これら複数の伝えを丹念に拾い上げた営みに多くを負っている。ただしそれらを孫引きするだけでなく、どの伝えがどの資料層に属するのかを明示することが、後世の調べものに耐える記述の条件である。

以上を整理すれば、薬師堂再興史は、確度の高い骨格(焼失の年・代官の職名と在任・住職の出自と朱印高)と、確度に留保を要する評価(焼失の経緯・中興開山の位置づけ・現存遺品との対応)とが層をなして重なっている。この層を混同せず、骨格を史実に近いものとして押さえつつ、評価の部分は伝承・顕彰として区別する。これが、素材の限られた近世地方史を扱う本稿の基本姿勢である。骨格だけを語れば物語は痩せ、評価だけを語れば確度を失う。両者を層として並べて記すことが、この再興史を正しく後世へ手渡す道である。

再興史を二つの確度の層に腑分けする 骨格 ── 史実に近い ・焼失の年(元亀3年) ・代官の職名と在任期 ・住職の出自・朱印高 同時代の記録に遡りうる部分 評価 ── 留保を要する ・焼失の経緯(二伝の食い違い) ・「中興開山」の位置づけ ・現存遺品との対応 後世の編纂・顕彰・未確認を含む部分
図6 再興史の確度の腑分け。焼失の年・代官の職名と在任・住職の出自と朱印高は史実に近い骨格として、焼失の経緯・中興開山の位置づけ・現存遺品との対応は留保を要する評価として、層を分けて扱う。

8. 結論 ── 代官所を介した宗教政策として

本稿は、遠江国分寺薬師堂の江戸初期における再興を、中野七蔵・高室昌重・憲能和尚という三者の事績に即して読み直した。得られた見取り図はこうである。元亀3年(1572年)の兵火に焼けた薬師堂は、半世紀近い空白を経て、中泉代官・中野七蔵が「本堂御造営奉行」として着手し、高室昌重が諸尊を寄進し、森町から迎えられた憲能和尚が住職として朱印地を得ることで、寺としての体裁を回復した。器・中身・法灯という三つの局面が、2代の代官と1人の住職によって順に整えられていったのである。

この再興史が示すのは、城主による寺社保護とは異なる、代官所を介した幕府の統治のかたちである。城を持たない天領において、寺の再興は領主個人の信仰ではなく、代官の職掌のなかに「奉行」という公的な職として位置づけられた。年貢の徴収や治水と並んで、焼けた堂を建て直し、住職を迎え、朱印地を安堵する──これら一連の営みは、民心の安定という宗教政策の一面を帯びた行政であった。中泉代官による薬師堂再興は、天領という統治のかたちが地域の信仰といかに関わったかを示す、具体的な一事例として読むことができる。

したがって本稿の立場は明確である。薬師堂再興を「篤志の代官による美談」として一元的に語ることを避け、それを天領の統治構造のなかに置き直して読む。同時に、焼失の経緯や中興開山の位置づけといった確度に留保を要する部分については、史実と伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別する。二つの記録が食い違うときは、いずれか一方を切り捨てるのではなく、両論を併記してその食い違いごと記録する。この禁欲的な手続きこそが、素材の限られた地方史を後世の調べものに耐える形で残す方途である。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、元亀3年焼失の経緯をめぐる『磐田市誌』上巻と『参慶山国分寺由来』の食い違いは、両者の成立事情を系統的に比較することで、なお腑分けを進めうる余地がある。第二に、高室昌重が寄進した日光・月光菩薩と十二神将像が現存するか、現存するとして当初の像がどこまで伝わるかは、現地の遺品調査と照合すべき課題である。第三に、憲能和尚以降の歴代住職の系譜と朱印地の推移は、境内の墓塔や近世の寺領文書を博捜することで、より精確に描きうる。これらはいずれも、本稿が骨格として押さえた再興史を、確度の層を保ったまま肉付けしていく作業に属する。焼けた堂が再び立ち上がり、諸尊が整えられ、住職が法灯を継いだ──その江戸初期の歩みの先に、国分寺薬師堂の長い維持史が続いている。

本稿の舞台である中泉には、寺社とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 元亀3年(1572年)の薬師堂焼失について、『磐田市誌』上巻は武田軍の兵火による焼失とする趣旨で記し、地元伝承『参慶山国分寺由来』は焼失の経緯を市誌と異なる内容で伝える。本稿は両論を併記し、いずれか一方を史実と断定しない。
  2. 元和5年(1619年)の中野七蔵着任と「本堂御造営奉行」の職名、および寛永元年(1624年)没までの在任は、国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年、pp.28-29)による。
  3. 高室昌重(四郎左衛門)の在任は寛永元年(1624年)から寛永11年(1634年)まで。日光菩薩・月光菩薩と十二神将像の造立・寄進も同書による。
  4. 憲能和尚は森町(現・周智郡森町)の天台宗蓮華寺から迎えられた初代住職で、朱印高12石2斗余を与えられ、天和2年(1682年)に没した。国分寺の中興開山とされ、境内に宝塔が現存する。
  5. 焼失以前の薬師堂については、大永2年(1522年)に見付端城主・堀越氏延が鰐口を寄進した記録がある。戦国期の薬師堂と鰐口の詳細は磐田物語 n038「堀越氏延の鰐口」を参照。

付記:本稿は一般読者向け記事 n039「中泉代官と薬師堂の再興」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・伝承・推定・未確認)を語の水準で区別し、代官の職名・在任・朱印高などの骨格を確度の高い伝えとして、焼失の経緯や「中興開山」の位置づけを伝承・顕彰として扱った。事実関係は素材記事 n039 に依拠し、素材にない年代・人名・数値を加えていない。

参考文献・参考資料

  • 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年発行、pp.28-29)。
  • 『磐田市誌』上巻(元亀3年の薬師堂焼失に関する記述)。
  • 地元伝承『参慶山国分寺由来』(同焼失について異なる経緯を伝える由来書)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(近世 天領・中泉代官関係の章)。
  • 遠江国分寺(参慶山国分寺)由緒・境内案内。
  • 天台宗蓮華寺(周智郡森町)寺誌。
  • 磐田物語 n039「中泉代官と薬師堂の再興 ── 中野七蔵・高室昌重と憲能和尚」 https://iwata-monogatari.net/n039 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第7号「遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/007/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第4号「中泉御殿と天領中泉 ── 徳川直轄地の統治」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/004/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第127号「講堂が倒れた日 ── 治安2年の大風と国分寺の嘆願」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/127/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n020「中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち」 https://iwata-monogatari.net/n020 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n040「卵塔墓が語る260年 ── 国分寺住職たちの墓碑を読む」 https://iwata-monogatari.net/n040 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。