失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 中泉の成り立ち

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第202号(中泉地区研究 一)

中泉の成り立ち ── 陣屋・御殿から磐田市への沿革

天領の中心地から近代磐田の中枢へ ── 中泉地区の行政沿革試論

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉

要旨

中泉は、江戸期に幕府直轄領を治める中泉陣屋(中泉代官所)が置かれ、徳川ゆかりの中泉御殿があった地として知られる。本稿は、この近世的な中心性を出発点に、明治の町村制による中泉町の成立、昭和の磐田町・磐田市への発展、平成の新設合併までの行政沿革を、一つの総論として整理する。中泉村と二ノ宮村の合併、梅原村の編入、見付町ほかとの合同といった行政区域の変遷は、自治体史で確認できる史実として扱い、旧町村と現大字の対応や地名の由来については、確認できる範囲と推定にとどまる範囲とを腑分けする。近代において中泉が駅と役所を擁する磐田の中枢となった背景を、天領支配の拠点という近世的位置から説明し、あわせて現在の学校区と大字の枠組みを跡づける。本稿の立場は、中泉の中心性を単一の起点に還元せず、近世の格・行政の位置・近代のインフラという複数の層の重なりとして記述する点にある。史料で確認できる事柄と、なお未確認の事柄とを区別することを、一貫した方針とする。

キーワード:中泉/中泉陣屋/中泉御殿/天領/町村制/磐田市/大字

1. 問題設定 ── なぜ中泉が近代磐田の中心になったのか

中泉は、現在の磐田市の中心市街を含む地区である。鉄道の駅、市役所をはじめとする行政の諸機能、商業の集積は、いずれもこの中泉の地とその周縁に置かれてきた。ところが、磐田という市名そのものは、近世に東海道の宿場として栄えた見付に近い一帯の地形に発する呼称とされ、必ずしも中泉という地名を直接に指す語ではない。にもかかわらず、近代以降の磐田の中枢は見付ではなく中泉に置かれた。本稿の出発点は、この一見ねじれた事実、すなわち「なぜ中泉が近代磐田の中心となったのか」という問いにある。

この問いに答えるには、中泉の成り立ちを一続きの行政沿革として通観する必要がある。中泉は、江戸期には幕府直轄領を治める中泉陣屋が置かれ、徳川ゆかりの中泉御殿があった地であった。明治の町村制では中泉村と二ノ宮村が合併して中泉町となり、昭和には見付町ほかと合同して磐田町を、次いで磐田市を構成した。平成の合併を経て、現在の磐田市に至る。この沿革の骨格そのものは自治体史で確認できる史実である。本稿はまずその骨格を確定し、そのうえで、なぜ近代の中枢機能が中泉に集まったのかを、近世的な中心性から説明することを課題とする。

あらかじめ本稿の方法上の姿勢を述べておきたい。行政区域の変遷、すなわちいつ、どの村とどの村が合併し、何郡に属したかという事柄は、自治体史や公的な記録で確認できる史実として扱う。これに対し、旧町村と現在の大字との対応関係の細部、そして地名そのものの由来については、確認できる範囲と、なお推定にとどまる範囲とがある。本稿では両者を語の水準で区別し、確認できないものを確認できたかのように書くことを避ける。とりわけ「未確認」──管見の限り一次史料に突き当たっていない状態と、「記載なし」──史料に記述そのものが存在しない状態とを混同しないことを、一貫した規律とする。

あわせて、本稿と既刊論考との関係を断っておく。中泉の個別の主題については、本論考シリーズですでにいくつかを扱っている。天領を治めた役所の機構と管轄については中泉代官所を論じた別稿で、徳川将軍家ゆかりの御殿の史実については中泉御殿を論じた別稿で、それぞれ立ち入って検討した。本稿はそれらの個別論を前提としつつ、中泉という地区の行政的な成り立ちを、陣屋・御殿の時代から磐田市までの一本の線として描く総論の位置づけにある。個別の史実の当否そのものよりも、沿革の全体像と、その各段階の確度の腑分けに重心を置く。以下ではまず史料で確認できる骨格を押さえ、続いて近世の中心性、明治・昭和・平成の沿革を順にたどり、学校区と大字の枠組みを整理して結論に至る。

中泉陣屋・御殿江戸期 中泉町1889年 磐田町1940年 磐田市1948年 新・磐田市2005年 中泉地区 行政沿革の系統 近世の陣屋・御殿から現在の磐田市まで、中泉は一貫して行政の中心に位置してきた。
図1 中泉地区の行政沿革系統図。江戸期の中泉陣屋・御殿を起点に、中泉町・磐田町・磐田市を経て現在の磐田市へと至る。各年紀は自治体史で確認できる史実にもとづく。

2. 史料で確認できる沿革の骨格

推論に入る前に、史料で確認できる範囲を確定しておく。中泉地区の行政沿革は、近世から現代まで、いくつかの明確な画期をもって記述できる。まず江戸期、中泉には幕府直轄領を治める中泉陣屋が置かれ、あわせて徳川ゆかりの中泉御殿があったと伝えられる。近代の起点は町村制施行である。1889年(明治22年)4月1日、豊田郡中泉村と山名郡二ノ宮村が合併して豊田郡中泉町が成立した1。このとき中泉町は梅原村と組合村を形成しており、単独の完結した自治体としてではなく、複数村による組合を伴う形で発足した点は、後の編入の伏線として押さえておきたい。

次いで1896年(明治29年)4月1日、郡制の施行にともなって、中泉町の所属が豊田郡から磐田郡へと変更された。ここで「磐田」という郡名が中泉の頭上にあらわれる。さらに1929年(昭和4年)3月1日、中泉町は梅原村を編入して組合村を解消し、単一の町として区域を整えた。昭和期に入ると合併の規模が一段と大きくなる。1940年(昭和15年)11月1日、中泉町は見付町・西貝村・天竜村と合併して磐田町を発足させ、この合併をもって中泉町という自治体名はいったん消滅した。中泉は、磐田町という新しい枠組みの一部となったのである。

戦後、磐田町は市制施行の段階へ進む。1948年(昭和23年)4月1日、磐田町が市制を施行して磐田市(いわゆる旧磐田市)が成立した。中泉はこの旧磐田市の中心市街を担う地区となる。そして平成の大合併において、2005年(平成17年)4月1日、旧磐田市・豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村が新設合併し、現在の磐田市が発足した。この新設合併により、旧来の磐田市もいったん法人格としては解消され、より広い区域を包摂する新しい磐田市が生まれた。中泉は、その広域化した磐田市においてもなお中心市街としての位置を保っている。

ここまでの年紀と合併の関係は、いずれも自治体史や公的な沿革記録で確認できる史実である。本稿がこの骨格を先に確定するのは、後段で扱う「なぜ中泉が中心になったのか」という説明的な問いと、「いつ何が起きたか」という事実の記述とを、はっきり区別しておくためである。事実の骨格は動かない。動きうるのは、その骨格をどう解釈するか、という水準である。以下では、この確定した骨格の上に、近世の中心性という解釈の層を重ねていく。なお、二ノ宮村や梅原村の編入範囲を大字・地番の単位まで細かく跡づける作業は、資料の追加確認を要する部分が残る。この点は本稿でも「調査中」の状態にとどまることを、あらかじめ断っておく。

江戸幕府 中泉陣屋 中泉代官所 周辺の天領村々 年貢・訴訟の管掌 御殿・宿の機能 近世の統治構造(模式)
図2 天領支配の構造(模式図)。幕府直轄領を管掌する中泉陣屋(代官所)が、周辺の天領村々に対する年貢徴収・訴訟裁許の拠点として機能した。管轄村数・石高の詳細は別稿に譲る。

3. 近世的中心性 ── 天領支配の拠点としての中泉

近代の中枢がなぜ中泉に置かれたのかを理解するには、中泉が近世においてすでに一帯の行政的な中心であった事実に立ち返る必要がある。中泉には幕府直轄領を治める中泉陣屋、すなわち中泉代官所が置かれていた2。代官所は、周辺に散在する天領の村々から年貢を徴収し、訴訟を裁許し、触書を伝達する役所であって、一定の広がりをもつ地域に対する統治の結節点であった。宿場町として人と物の往来を担った見付が交通の要であったとすれば、中泉は支配と徴税の要であった。この二つの機能が近接して並び立っていたことが、後の磐田という枠組みを準備したと考えられる。

さらに中泉には、徳川将軍家ゆかりの中泉御殿があったと伝えられる。御殿は、将軍やその一行が鷹狩などの折に逗留するための施設であり、その存在は中泉が単なる一村ではなく、幕府にとって特別な意味をもつ土地であったことを示す。御殿の具体的な用途や、周辺の大池、これを管掌したとされる家などについては、企画展資料等をもとに中泉御殿の史実を整理した稿で扱ったとおり、確認できる事柄と伝承の域にとどまる事柄とが混在する。本稿の総論の水準では、御殿の存在それ自体が、中泉に付与された近世的な格の高さを象徴する事実として位置づけておけばよい。

見付と中泉の関係も、この中心性を考えるうえで見落とせない。近世の遠江において、見付は東海道の宿場として人馬の継立を担い、公用の旅と物流の要をなした。これに対し中泉は、宿場の賑わいとは別に、天領を治める役所の町として、支配と徴税の機能を引き受けた。交通の中心と支配の中心とが、わずかな距離を隔てて隣り合っていたことは、この一帯が近世を通じて遠江の要地であり続けた理由の一つである。後に両者が同じ磐田町の枠へ束ねられたとき、宿場の記憶を担う見付と、役所の記憶を担う中泉とが、一つの近代都市の別々の核として結びつくことになった。中泉の中心性は、こうした見付との機能分担のなかに置いてこそ、その輪郭がはっきりする。

ここで方法上の区別を明示しておきたい。中泉に代官所が置かれ、天領支配の拠点であったことは、公的な記録で確認できる史実の側に属する。これに対し、その代官所の管轄がどの村々にどこまで及んだか、石高がいかほどであったかという細部は、資料によって復元できる部分と、なお未確認の部分とがある。ここで言う「未確認」は、そうした記録が存在しないという意味ではなく、筆者がなお一次史料に突き当たっていないという状態を指す。存在しないこと(記載なし)と、確認できていないこと(未確認)とを、ここでも区別しておく。

近世的中心性という論点の眼目は、中泉が「役所のある町」であったという性格が、明治以降も慣性をもって働いた可能性にある。天領を治める役所が置かれた土地には、それに付随して人と情報が集まり、周辺村々との連絡網が形づくられる。そうした集積は、制度が幕藩体制から近代の府県制・町村制へと切り替わっても、一夜にして消えるものではない。役所を中心に人が動くという構造そのものが、土地に刻まれた一種の下地として残る。中泉が近代に磐田の中枢となった背景には、この近世以来の下地が働いていたと見るのが、本稿の立場である。ただしこれはあくまで構造的な推定であって、近世の中心性と近代の中枢化とを直接に結ぶ一次史料を提示できるわけではない。この点は推定として、史実の骨格とは層を分けて述べておく。

4. 明治の町村制と中泉町の成立

近代の行政沿革の起点は、1889年(明治22年)の町村制施行である。このとき豊田郡中泉村と山名郡二ノ宮村が合併し、豊田郡中泉町が成立した3。ここで注目すべきは、合併した二村がもともと異なる郡に属していた点である。中泉村は豊田郡、二ノ宮村は山名郡であり、郡界をまたぐ合併によって新しい町がつくられた。郡という枠を越えて一つの町が編成されたことは、この地域が郡の区分よりも実質的な生活・経済の結びつきを優先して束ねられたことを示唆する。中泉と二ノ宮とが、日常の往来において一体の地域として機能していた実態が、その背景にあったと推定される。

郡界をまたぐ合併は、町村制施行期には決して例外的な出来事ではなかった。町村制は、旧来の村々を、行政運営に堪える規模の自治体へと再編することを目的としており、その編成にあたっては、郡の区分よりも、地形・水利・往来といった実質的なまとまりが重視される場合があった。中泉村と二ノ宮村が郡を異にしながら一つの町を組んだのも、この実質本位の編成方針の表れと見ることができる。両村がどの程度一体の生活圏をなしていたかを直接に語る史料は未確認だが、少なくとも制度の側に、郡界を越えて村々を束ねることを許す枠組みがあったことは確かである。この点を「未確認」と述べるのは、そうした一体性が存在しなかったという意味ではなく、それを裏づける記録に筆者がなお行き当たっていないという意味である。

成立時の中泉町は、梅原村と組合村を形成していた。組合村とは、複数の町村が役場事務の一部を共同で処理するために結んだ緩やかな連合であり、完全な合併とは異なる。中泉町がこの形をとったことは、中泉と梅原とがなお別個の自治体でありながら、行政運営の面では連携を要する関係にあったことを表している。この組合の関係は、後の1929年(昭和4年)の梅原村編入によって解消され、両者は一つの町へと統合されることになる。町村制施行から編入までのおよそ40年間、中泉町は組合村という中間的な形態を保っていた。

旧町村と現在の地名との対応も、この段階で整理しておきたい。旧中泉村の区域は、現在の中泉一丁目から四丁目にかけての一帯とその周辺に、おおむね対応すると考えられる。旧二ノ宮村の区域は、現在の二之宮、二之宮東、二之宮浅間といった町名に受け継がれている。ただし、旧村界と現在の町丁の境界とが厳密に一致するとは限らず、区画整理や町名変更を経て境界は改められている。したがって、ここで示す対応は大づかみの見取りであって、地番単位の精密な対照は別途の資料照合を要する。この対応関係の詳細は、後段の対応表であらためて確度とともに示す。

地名そのものの由来については、確実なことを述べるのが難しい。「中泉」という地名が何に由来するのかは、泉すなわち湧水にちなむとする理解が語られることがあるが、これを裏づける確たる一次史料を筆者は確認していない。地名由来は、しばしば後世の付会を含み、音の類似から説明が案出されることも多い。したがって本稿では、地名由来については断定を避け、推定ないし俗解の域にとどまる事柄として扱う。行政区域の変遷が史実として確定できるのに対し、地名の由来がなお推定にとどまるという確度の落差は、地域史を書くうえで常に意識しておくべき点である。

中泉村豊田郡 二ノ宮村山名郡 中泉町1889年成立 梅原村1929年編入 明治町村制における中泉町の編成 当初は組合村
図3 中泉町の編成。郡界をまたいで中泉村(豊田郡)と二ノ宮村(山名郡)が合併し中泉町となり、当初は梅原村と組合村を形成、1929年に梅原村を編入した。破線は編入の関係を示す。

5. 郡制・梅原村編入から磐田町へ

中泉町の成立から磐田町の発足までのあいだには、二つの重要な区域変更がある。第一は、1896年(明治29年)4月1日の郡制施行にともなう所属郡の変更である。これにより中泉町は豊田郡から磐田郡へと移った。郡名が「磐田」となったことは、後に町名・市名として「磐田」が採られていく流れの、制度上の前提を用意したと言える。第二は、1929年(昭和4年)3月1日の梅原村編入である。これによって、町村制施行以来の組合村の関係は解消され、中泉町は梅原の区域を含む単一の町として輪郭を整えた。ここまでで、中泉町は近世の中泉を核としつつ、二ノ宮・梅原を包摂する広がりをもつ町となった。

「磐田」という郡名そのものにも、簡単に触れておきたい。磐田の名は、律令期以来この地方を指す由緒ある呼称の系譜に連なるとされる。近代の郡制がこの古い郡名を採ったこと、そしてその郡名が後に町名・市名へと引き上げられていったことは、中泉や見付といった個別の地名よりも上位の、地方全体を包む名として「磐田」が選ばれていく流れを形づくった。もっとも、古代の磐田郡の範囲と近代の磐田郡の範囲とが同一であるわけではなく、郡の区域は時代ごとに改められている。古代以来の郡名が近代に受け継がれたという事実と、その指し示す範囲の連続性とは、区別して扱うべき事柄である。名の連続を、範囲の連続と取り違えないことも、確度を保つうえでの一つの規律である。

そして昭和期最大の画期が、1940年(昭和15年)11月1日の磐田町発足である。この日、中泉町は見付町・西貝村・天竜村と合併し、新たに磐田町を発足させた4。この合併をもって、中泉町という自治体名はいったん歴史から退く。ここで留意すべきは、新しい町の名に「中泉」でも「見付」でもなく「磐田」が選ばれた点である。中泉は近世以来の役所の町、見付は東海道の宿場町であり、いずれも由緒ある地名であった。その二つを差し置いて、郡名でもある「磐田」が採られたことは、特定の旧町に肩入れしない中立的な名称を選ぶという配慮が働いた結果と推定される。合併にあたって旧町村の対抗意識を避けるため、より上位の郡名を町名に採る事例は各地に見られ、磐田町の命名もその類型に連なると考えられる。

この命名の問題は、本稿の主題である「中泉の中心性」とも関わる。名において中泉が前面に出なかったことと、機能において中泉が中心であり続けたこととは、必ずしも矛盾しない。名称は中立性の要請から「磐田」となったが、役所や交通の集積という実質的な中心機能は、近世以来の下地をもつ中泉とその周辺に置かれ続けた。地名としての「磐田」と、中心地としての「中泉」とが、いわば別の水準で並存する構図がここに生まれたのである。この構図を押さえておくと、次章で扱う磐田市成立後の中枢配置が理解しやすくなる。

なお、見付町・西貝村・天竜村それぞれの区域が、現在のどの地区・大字に対応するかは、本稿の主対象である中泉の範囲を超えるため深くは立ち入らない。ただし、これらの旧町村が磐田町という一つの枠に束ねられたことは、現在の磐田市中心部が単一の旧町ではなく複数の旧町村の合成であることを意味する。中泉地区として本稿が扱う範囲も、この合成の全体のなかで、旧中泉町域を中心とする一区画として理解されるべきものである。地区の輪郭は、行政区域の変遷の産物であって、自然の境界ではない。

江戸期陣屋・御殿 1889中泉町成立 1896磐田郡へ 1929梅原村編入 1940磐田町発足 1948磐田市成立 2005新磐田市 中泉地区 沿革年表 ■ 近世(背景) ■ 近代以降の区域変更(史実)
図4 中泉地区の沿革年表。江戸期の陣屋・御殿(橙)を背景に、1889年の中泉町成立から2005年の新・磐田市発足まで(青)の区域変更を年代軸上に配する。年紀はいずれも自治体史で確認できる。

6. 磐田市の成立と平成の合併 ── 中枢となる論理

磐田町は、戦後まもなく市制施行の段階に進む。1948年(昭和23年)4月1日、磐田町が市制を施行して磐田市が成立した。いわゆる旧磐田市である。市役所をはじめとする行政機能は、旧中泉町域を中心とする一帯に置かれ、中泉は名実ともに市の中枢を担う地区となった。ここにおいて、近世の役所の町・中泉は、近代自治体の役所の町・中泉として、その中心性を更新したと言える。近世の代官所と近代の市役所とは制度的にはまったく異なる機関であるが、いずれも「この地域を治める役所がここに置かれる」という点では連続しており、その連続が中泉という土地の上で反復された。

中泉の中枢性を近代のインフラの面から決定づけたのは、鉄道の駅である。東海道の鉄道が敷設される際、その駅が中泉の地に置かれた。この駅は、当初は中泉の地名を冠していたが、のちに磐田駅と改称されたことが知られている。改称の正確な時期など個別の事項には本稿では踏み込まないが、少なくとも、駅という近代交通の結節点が中泉に置かれたことは、役所の集積と相まって、中泉を磐田の中心市街として定着させる決定的な要因となった。役所と駅という二つの中枢機能が同じ地に重なったことが、中泉の中心性を近代において不動のものにしたのである。

そして平成の大合併において、2005年(平成17年)4月1日、旧磐田市・豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村が新設合併し、現在の磐田市が発足した5。この合併は、既存の市が周辺町村を編入する形ではなく、五つの市町村がいったん解散して対等に新しい市をつくる新設合併の方式で行われた。区域は大きく広がり、旧竜洋町・旧福田町といった海沿いの地域までを含む広域自治体が生まれた。それでも市役所をはじめとする中枢は旧磐田市の中心、すなわち中泉とその周縁に置かれ続けた。広域化してもなお中泉が中心であり続けたことは、近世以来この地に蓄積されてきた中心機能の慣性の強さを物語る。

新設合併がもたらした含意を、中泉の側から見ておきたい。編入合併であれば、既存の市が周辺を取り込む形となり、中心はそのまま動かない。これに対し新設合併は、参加する市町村がいったん対等に解散して新しい市をつくる方式であり、理屈のうえでは中枢の位置が改めて問われる余地があった。それでも新・磐田市の中枢は、旧竜洋町や旧福田町といった海側の区域へ移ることなく、旧磐田市の中心すなわち中泉とその周縁にとどまった。対等合併という建前のもとでも実際の中心が動かなかったことは、中泉に集積した役所・駅・商業の機能が、容易には代替しがたい重みをもっていたことを示している。制度上の対等と、機能上の中心とは、必ずしも一致しない。

ここまでの沿革を通観すると、中泉の中心性は、単一の要因ではなく、複数の層の重なりとして説明される。すなわち、天領を治める代官所が置かれたという近世的な格、郡名でもある「磐田」の名を戴いた行政的な位置、役所と駅が集中したという近代的なインフラの集積、これらが同じ土地の上に折り重なった。どれか一つを取り出して中心化の原因とするのは適切でなく、むしろ各層が相互に補強し合った結果として、中泉は近代磐田の中枢となったと見るべきである。ただし、近世の中心性と近代の中枢化とを結ぶ因果を直接に立証する史料はなお未確認であり、本章の説明は、確定した史実の骨格の上に立てた構造的な推定であることを、あらためて断っておく。

天領の中心 代官所・御殿 行政の役所 町役場・市役所 鉄道の駅 中泉駅・磐田駅 中泉 中泉に重なる三つの中心機能 近世の格・行政の役所・近代の交通が同じ地に重なり、中心性を不動のものにした。
図5 中泉の中心性の重層構造。天領支配の拠点という近世的な格、町役場・市役所という行政機能、鉄道駅という近代インフラの三層が同じ地に重なった。三者の重なりが中枢化の構造的背景をなす。

7. 学校区と大字の枠組み

行政沿革を通観したうえで、現在の中泉地区を構成する枠組みを、学校区と大字の面から整理しておく。学校区は、行政区域とは別の論理で引かれる区分でありながら、地域の日常的なまとまりを反映する指標でもある。中泉地区に関わる中学校区としては磐田第一中学校が、小学校区としては磐田中部小学校および磐田西小学校が挙げられる。ただし、通学区域は住宅開発や児童数の推移に応じて改定されうるものであり、ここに示すのはあくまで大枠の対応である。正確な通学区域は、その時々の磐田市の公式情報によって確認する必要がある。学校区を沿革の文脈に置くと、旧中泉町域を核とする一帯が、近代の教育行政においても一つのまとまりとして扱われてきたことがうかがえる。

大字・町名の面から見ると、中泉地区に関わる主な地名としては、中泉一丁目から四丁目、二之宮、二之宮浅間、二之宮東、大泉町、今之浦一丁目から三丁目、鳥之瀬、京見塚などが挙げられる。これらのうち、中泉の各丁目は旧中泉村の系譜を、二之宮の各町名は旧二ノ宮村の系譜を引くと考えられる。一方で、今之浦や鳥之瀬のように、後の区画整理や埋め立て・宅地化のなかで整えられた町名もあり、旧村との対応が単純でないものもある。旧町村から現大字への対応は、確実に跡づけられるものと、なお再確認を要するものとが混在しており、その確度の別を明示することが、地域史の記述には欠かせない。以下の対応表は、その確度の別とあわせて主要な対応を示したものである。

表1 旧町村と現在の主な大字・町名の対応 ── 中泉地区(確度の別を付す)
旧町村(郡)成立・変遷現在の主な大字・町名対応の確度
中泉村(豊田郡)1889年、二ノ宮村と合併し中泉町へ。中泉一〜四丁目 ほかおおむね確認できる(史実)。丁目境界は区画整理で改定。
二ノ宮村(山名郡)1889年、中泉村と合併し中泉町へ。二之宮・二之宮東・二之宮浅間おおむね確認できる(史実)。
梅原村成立時は組合村、1929年に中泉町へ編入。梅原編入は史実。区域細部は要再確認。
中泉町(1889年成立)1940年、磐田町へ。1948年、磐田市。中泉および周辺一帯沿革は史実。個々の町名対応は大づかみ。
(後年の整理地)区画整理・宅地化により成立。今之浦各丁目・鳥之瀬・大泉町 ほか旧村との一対一対応は推定・要確認。

この対応表で確度の欄をあえて設けたのは、旧村と現大字の関係を一律に「対応する」と断ずることの危うさを避けるためである。中泉村・二ノ宮村のように旧村名がそのまま現在の地名に受け継がれている場合、対応はおおむね確認できる。これに対し、区画整理を経て新設された町名の場合、どの旧村の区域に由来するかは、一対一では言い切れず、複数の旧区域にまたがることもある。こうした場合を「対応が確認できる」と書いてしまうと、実際には推定にすぎない事柄が史実のように読まれてしまう。確度の欄は、その混同を防ぐための装置である。より精密な対応は、旧公図や地籍の照合を要する作業であり、本稿の総論の枠を超える。この点は中泉の成り立ちを年表・対応表で整理した資料編とあわせて参照されたい。地区の全体像は中泉地区の入口ページからも辿ることができる。

大字という単位そのものについても、一言しておきたい。大字は、明治の町村制で行政村が編成された際に、それ以前の近世の村を、新しい村の内部の区分として残したものに由来する場合が多い。すなわち、中泉町という行政町の内部に、中泉・二之宮・梅原といった旧村由来の区分が大字として存置され、それが後の町名・丁目へと再編されていった。この重層を踏まえると、現在の町丁の境界の背後に、近世の村の輪郭がうっすらと透けて見えることがある。地名を手がかりに土地の来歴をたどる作業は、この重層をほどいていく作業にほかならない。旧村・大字・現町丁という三つの層を混同せず、それぞれの成立時期を分けて捉えることが、対応関係を正しく読むための前提となる。

中泉地区 旧中泉町域が核 中泉各丁目 二之宮ほか 磐田第一中学校中学校区 中部小・西小小学校区 大字と学校区の枠組み
図6 中泉地区の大字と学校区の枠組み。旧中泉町域を核として、旧村由来の大字(左)が地区を構成し、磐田第一中学校区・磐田中部小学校区・磐田西小学校区(右)が重なる。通学区域は改定されうるため大枠の対応を示す。

8. 結論 ── 天領の中心から市の中心へ

本稿は、中泉地区の成り立ちを、中泉陣屋・中泉御殿の近世から、中泉町・磐田町・磐田市を経て平成の合併に至るまでの行政沿革として通観した。得られた見取りは次のとおりである。中泉は、江戸期に幕府直轄領を治める代官所と徳川ゆかりの御殿を擁する土地であり、支配と徴税の拠点として一帯の中心にあった。この近世的な中心性が下地となり、明治の町村制で中泉町が成立し、昭和の合併で磐田町・磐田市の中枢を担い、平成の広域合併を経てもなお中心市街であり続けた。中泉が近代磐田の中心となったのは偶然ではなく、天領の中心地という近世以来の格と、役所・駅という中枢機能の集積とが、同じ土地の上に重なった結果である。

この総論を貫いたのは、確度の層を区別するという方法上の規律であった。行政区域の変遷、すなわちいつどの村とどの村が合併し、何郡に属したかという事柄は、自治体史で確認できる史実として扱った。これに対し、近世の中心性と近代の中枢化とを結ぶ因果、旧町村と現大字の細部の対応、地名の由来といった事柄は、確認できる範囲と推定にとどまる範囲とを腑分けし、後者を史実と偽ることを避けた。とりわけ「未確認」と「記載なし」を区別することを、本稿は一貫して守った。代官所の管轄の細部や、駅の改称の正確な事情を「確認できていない」と述べることは、それらが「存在しない」と述べることとは異なる。この区別を保つことが、後の調べものに耐える記述の条件である。

本稿の立場を一文で示せば、中泉の中心性は単一の起点に還元できず、近世の格・行政の位置・近代のインフラという複数の層の重なりとして記述されるべきである、というものである。名において「磐田」を戴きながら、機能において「中泉」が中心であり続けたという構図は、地名と中心地とが別の水準で並存しうることを示す一例でもある。同様の沿革の型は、旧町村が合成されて現在の地区が形づくられた磐田市の各地区に共通してみられ、たとえば豊田の成り立ちを論じた稿と対照すると、合併による地区形成の一般的な様相と、中泉に固有の中心性とが、いっそう鮮明になる。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、二ノ宮村・梅原村の編入範囲を大字・地番の単位まで跡づける作業は、旧公図・地籍資料の照合を要し、なお調査中の状態にある。第二に、中泉代官所の管轄村々と、それが近代の中心機能へ引き継がれた具体的な経路は、近世・近代の地方文書を博捜することで、未確認の状態を史実へ押し上げられる余地がある。第三に、駅の設置と役所の配置が中泉に集中した過程は、鉄道・行政双方の記録に即してさらに精査されるべきである。これらはいずれも、本稿が設定した確度の腑分けの枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。天領の中心から市の中心へ──その連続と断絶とを、確度の層を保ったまま丹念に記述していくことが、中泉という地区の全体像を後世へ手渡す方途であると考える。

本稿が扱った中泉には、代官所・御殿の時代から市の中枢を担ってきた土地の記憶が、いまも家や地割のかたちで残っている。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 1889年(明治22年)4月1日の町村制施行にともなう豊田郡中泉村・山名郡二ノ宮村の合併と中泉町の成立、および梅原村との組合村の形成については、中泉地区の沿革を整理した資料編(本稿末尾の参考文献に掲げる磐田物語 n053)ならびに自治体史による。
  2. 中泉陣屋(中泉代官所)および中泉御殿の存在は、磐田市の公開資料・企画展資料等で確認できる。ただし代官所の管轄村数・石高、御殿の用途の細部には、確認できる事柄と伝承の域にとどまる事柄とが混在する。管掌機構の詳細は本論考シリーズの中泉代官所論(oishi-ronko/162)に譲る。
  3. 中泉村と二ノ宮村が豊田郡・山名郡という異なる郡に属したうえで合併した点については、町村制施行時の郡別町村編成に関する記録による。郡界をまたぐ合併の背景として、両村の生活・経済圏の一体性を推定したが、これを直接に述べる一次史料は未確認である。
  4. 1940年(昭和15年)11月1日、中泉町・見付町・西貝村・天竜村の合併による磐田町の発足については自治体史による。新町名に郡名でもある「磐田」が採られた事情については、旧町の対抗を避ける中立的命名という類型からの推定であり、命名の経緯を記す一次史料は本稿では未確認である。
  5. 2005年(平成17年)4月1日、旧磐田市・豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村の新設合併による現・磐田市の発足については、磐田市公式資料および市町村合併に関する公的記録による。

付記:本稿は一般読者向け資料ページ n053「中泉の成り立ち ── 沿革年表・学校区・大字」の内容を、郷土史研究者向けに再構成した論考版である。行政区域の変遷を史実として扱い、旧町村と現大字の対応・地名由来・中心化の因果については、確認できる範囲と推定にとどまる範囲とを腑分けした。既刊の代官所論(162)・御殿論(197)と主題が重ならないよう、本稿は中泉地区の行政沿革の総論に軸を置いた。

参考文献・参考資料

  • 磐田物語 n053「中泉の成り立ち ── 沿革年表・学校区・大字」 https://iwata-monogatari.net/n053.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 n052「資料で読む中泉御殿の史実 ── 家康の鷹狩り・秋鹿家・大池」 https://iwata-monogatari.net/n052.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「中泉代官所論」大石浩之の磐田論考 第162号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/162/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「中泉御殿論」大石浩之の磐田論考 第197号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/197/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 『中泉町』(中泉町沿革に関する町村誌)。
  • 『磐田郡誌』(磐田郡役所ほか)。
  • 磐田市教育委員会文化財課『ふるさと散歩 中泉編』。
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店。
  • 『日本歴史地名大系 静岡県の地名』平凡社。
  • 磐田市公式サイト「市の沿革・市町村合併」の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語「中泉地区」入口ページ https://iwata-monogatari.net/01002-nakaizumi.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 oishi-ronko/180「豊田の成り立ち」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/180/ (最終閲覧:2026年7月26日)。