磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第277号(水と土地の総合 一)
磐田の水と土地を総合する
用水・治水・新田がつくった平野 ── 既刊各論の横断的レビュー
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田平野は、天竜川という「暴れ川」と人との長い関わりのなかで、水を引き、水を防ぎ、土地を拓く三つの営みが折り重なって形づくられてきた。本稿は、この平野を水と土地の視点から扱った既刊各論を先行研究として横断し、(1)水を引く利水(磐田用水・土地改良区)、(2)水を防ぐ治水(天竜川の川除・堤防)、(3)土地を拓く開発(新田)という三つの営みが相互にどう絡んだかを整理・総合するレビュー論考である。工事・組織・災害の記録は史実として、被害や効果の実態は推定として腑分けし、開発年代や成立時期については「未確認」(一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に無い)を一貫して区別する。三つの営みは独立した工事史ではなく、同一の川をめぐる連関した過程であり、利水は治水を前提とし、治水は開発地を守り、開発は利水を要求する、という循環のなかにある。本稿は個別の各論では見えにくいこの連関を可視化し、平野形成を単線の進歩ではなく、暴れ川と人との反復的な折衝の堆積として記述する立場をとる。
キーワード:磐田平野/天竜川/磐田用水/土地改良区/治水/新田開発/史料批判
1. 問題設定 ── 水と土地から磐田平野を読む
磐田平野は、天竜川の左岸に開けた沖積の低地と、その東に連なる磐田原台地の裾、そして南の遠州灘沿岸の砂地からなる。この平野に人が田を営み、村を構え、街道を通してきた歴史は、突きつめれば水と土地をめぐる営みの積み重ねである。田に水を引くこと、その田や村を洪水から守ること、そして新たに土地を拓くこと──この三つは、いずれも天竜川という一本の川を相手にした人の働きかけであった。
本論考シリーズは、これまでこの三つの営みを、それぞれ別個の各論として書き重ねてきた。用水改良の事業史があり、水を管理する組織の組織史があり、治水の年表があり、洪水と交通途絶の災害史があり、新田開発を横断するレビューがあった。だが個別の各論は、それぞれの主題を深く掘り下げる一方で、三つの営みが同じ平野の上で互いにどう関わっていたのかを、正面からは扱ってこなかった。本稿の出発点は、この空白を埋めることにある。
すなわち本稿は、新たな一次史料を発掘して未知の事実を提示する論文ではない。既刊の各論を先行研究として読み直し、そこで明らかにされた事柄を利水・治水・開発という三つの軸に配置し直したうえで、軸と軸の間にどのような連関があったのかを整理する、横断的な総合論考である。個々の事実は各論に依拠し、本稿が新たに提示するのは事実そのものではなく、事実どうしの関係の見取り図である。
こうした総合を試みる理由は、磐田平野の形成が、どれか一つの営みだけでは説明できないからである。用水がいかに整っても、洪水が田を流せば収穫は失われる。堤防がいかに堅くても、水を引く仕組みがなければ田は乾く。土地を拓いても、水利と治水の裏づけがなければ村は続かない。三つの営みは、それぞれが他の二つを前提とし、また要求する関係にある。この相互依存を視野に入れないかぎり、平野の歴史は工事や事業の断片の寄せ集めに見えてしまう。
本稿の方法上の姿勢を、あらかじめ二点示しておきたい。第一に、確度の層を混同しない。工事の年代、組織の設立年、洪水の年次といった、記録によって確認できる事柄は史実として扱い、被害の規模や工事の効果、労働の実態といった、記録の背後にある事柄は推定として腑分けする。第二に、「未確認」と「記載なし」を区別する。ある事柄の一次史料に管見の限り突き当たっていない状態(未確認)と、史料を博捜したうえでそれが無いと判断できる状態(記載なし)とは、同じではない。三つの営みのいずれにも、この区別を要する主題が含まれている。以下ではまず既刊各論を整理し、続いて三つの営みを順に検討し、連関と地理的背景を経て結論に至る。
2. 先行研究の整理 ── 五本の各論が明らかにしたこと
総合に入る前に、本稿が先行研究として横断する既刊各論を整理しておく。ここで扱うのは、いずれも磐田平野の水と土地を主題とした本論考シリーズの五本である。各論の要点を、それが立脚する資料と確度の層に注意しながら振り返る。
利水については二本がある。磐田用水幹線改良事業を扱った各論は、昭和4年(1929年)の計画採択から昭和19年(1944年)7月の初通水に至る事業史を、『磐田用水のあゆみ』ほかの事業記録に依拠して再構成した。取水量や用水路延長といった諸元は事業記録に明記された史実として扱う一方、戦時下の労働動員の実態は断片的な記録からの推定にとどめた1。もう一本の磐田用水東部土地改良区の各論は、水を配る技術ではなく水を管理する組織の側から用水を読み、水利土功会・普通水利組合・土地改良区・連合という組織化の階梯を、設立年という史実と運営の実態という推定に腑分けした。
治水については、同じく二本を参照する。天竜川の治水史を扱った各論は、近世の川除普請・霞堤に代表される「水を受け流す」思想から、明治以降の連続堤・河川改修による「水を封じ込める」思想への転換を軸に、洪水年と工事年を史実として押さえ、被害や効果を推定として腑分けした。洪水と仮渡船を扱った各論は、文化13年(1816年)と文政11年(1828年)の大洪水に焦点を当て、渡船場が流失した際の応急対応を災害史として読み解いた。前者が治水の思想史を、後者が個別災害の危機対応を扱う点で、両者は治水という主題を長期と短期の二つの時間軸から照らしている。
開発については、磐田の新田開発を総合した各論を参照する。この各論はそれ自体が既刊各論のレビューであり、天竜川左岸の自然堤防・氾濫原と、遠州灘沿岸の砂地・河口低湿地という二つの対照的な開発地の地形条件を整理し、島・新田・人名という開発地名の類型を分類したうえで、開発年代や主体を直接記す一次史料がなぜ未確認にとどまりやすいのかを検討した。本稿は、この新田開発のレビューをさらに利水・治水と接続する点で、レビューのレビューという性格を帯びる。
五本を並べてみると、それぞれが優れた深度をもつ一方で、共通して一つの限界を抱えていることが見えてくる。すなわち各論は、自らの主題の内部では史実と推定を丁寧に腑分けしているが、主題の外側にある他の営みとの関係は、背景として一言触れられるにとどまり、正面からは論じられていない。利水の各論は治水を前提として語らず、治水の各論は開発地の存在を所与とし、開発の各論は用水の来歴に深くは立ち入らない。本稿がこの五本を「先行研究」として括り直すのは、まさにこの各論間の空隙を主題化するためである。
3. 水を引く ── 利水の営みと磐田用水
第一の営みは、田へ水を引く利水である。磐田平野の東部は、磐田原台地の裾に広がる比較的乾いた地であり、確実に水を届けることが長く課題であった。この課題に応えたのが磐田用水の系統であり、その来歴は二つの各論によって、事業の側面と組織の側面から描かれている。
事業の側面から見ると、磐田用水幹線改良事業は、昭和4年(1929年)に計画が採択され、太平洋戦争のさなかを経て昭和19年(1944年)7月に初通水を見た大規模な土地改良事業である。用水改良の各論によれば、取水量は毎秒13.9立方メートル、東部の灌漑面積は3,420ヘクタール、用水路の延長は33,824メートルにおよぶ。これらの諸元は事業記録に明記された史実として扱いうる。一方で、戦時下という条件が工事現場に強いた労働動員や作業の実態については、断片的な記録から推定として腑分けするほかない。用水がもたらした水の安定という効果と、戦時が現場に強いた負担とは、いずれか一方に評価を傾けずに併せて記述すべき事柄である。
組織の側面から見ると、利水は施設を造って終わる営みではない。造った水路を維持し、水を公平に分配し、費用を負担する組織があって、はじめて水は毎年田に届く。土地改良区の各論は、この点を「水を配る技術ではなく、水を管理する組織」を読むという方法で明らかにした。社山疏水にはじまる水利土功会(1885年組織)、普通水利組合(1930年区域指定)、そして土地改良法にもとづく法人としての土地改良区(1950年認可)へと至る組織化の階梯は、いずれも記念誌に記録された史実として確認できる2。ただし、賦課金の負担感や受益者の参加意識といった運営の実態は、記録の背後にあって直接には確認しにくく、推定にとどめざるをえない。
ここで利水の営みが治水・開発とどう接続するかを、あらかじめ一点だけ示しておく。用水は天竜川やその水系から水を取る以上、取水そのものが川の状態に左右される。川が荒れれば取水口は損なわれ、川の流路が変われば取水環境そのものが変化する。用水改良の各論が取水の不安定さを事業の出発点に置いたことは、利水がつねに治水と背中合わせであったことを示している。田に水を引く営みは、同じ川を防ぐ営みと、初めから切り離せない関係にあった。この接続は、後の第6節で改めて連関として整理する。
利水を事業史と組織史の両面から読むこの二本の各論を並べると、水を引くという営みが、一度の工事で完結するものではないことがよく分かる。幹線水路の改良という大事業は、初通水という一つの画期をもたらしたが、その水を毎年の田に届け続けたのは、賦課金を集め、水路を浚い、水争いを調停する組織の、地味で反復的な働きであった。事業史が語るのは営みの始まりであり、組織史が語るのはその持続である。利水を理解するには、この始まりと持続の両方を視野に収める必要がある。
4. 水を防ぐ ── 治水の営みと暴れ天竜
第二の営みは、水を防ぐ治水である。天竜川は古来「暴れ天竜」と呼ばれ、その下流部の平地は、長い治水の積み重ねの上に成り立っている。治水の各論は、この営みを、田へ水を引く利水とは区別される「洪水を防ぐ工事」の歴史として読み、その中心に治水思想の転換を据えた。
治水史の各論が描いた転換は、「水を受け流す」思想から「水を封じ込める」思想への移行である。近世の治水は、川除普請や霞堤に代表されるように、洪水の勢いを正面から止めるのではなく、あえて逃がし、遊ばせ、被害を分散させる技術であった3。霞堤は連続しない不連続な堤で、増水した水を一時的に堤内へ導き、水が引けば再び川へ戻す仕組みをもつ。これに対し、明治以降の近代河川改修は、連続した堤防と派川の締切によって水を一つの流路に閉じ込め、平地から洪水を締め出す方向へ進んだ。この転換の背後には、明治の金原明善による私設の治水や植林の営みがあり、やがて公共の河川改修事業へと引き継がれていく。工事年や洪水年は記録に残る史実として押さえられるが、それぞれの工事が実際にどれだけ被害を減らしたかという効果は、推定として慎重に扱う必要がある。
もう一本の洪水と仮渡船の各論は、治水を長期の思想史とは別の、個別災害の危機対応という短い時間軸から照らす。文化13年(1816年)8月の大風雨では東海道の渡船場が流失し、文政11年(1828年)には三たびの連続洪水が地域を襲った。渡船場が失われると、中泉代官所の役人が現地に出張して「仮渡船」を取り決め、道中奉行所へ届け出るという手続きが取られた。川留めには水位の基準があり、四尺八寸・九寸を越えれば越立を禁じ、五尺以下であれば渡船を許すといった境界が定められていた4。洪水の年代・被害・復旧の事実は郷土研究資料によって確認できる史実であるが、被害の規模や影響の連鎖は推定として腑分けされている。
二本の治水各論を並べると、治水という営みの二つの顔が見えてくる。一方は、堤防や河道をどう設計するかという長期の構想であり、他方は、洪水がまさに起きたその時に交通と暮らしをどう保つかという応急の対応である。前者が失敗すれば後者が頻発し、後者の反復が前者の構想を促す。治水は、堤防の完成という一点で終わる営みではなく、上流のダム開発や河床の変化という新たな局面へと引き継がれる、終わりのない折衝であった。そしてこの折衝の対象である天竜川こそ、利水が水を取り、開発が土地を拓いた、まさにその同じ川である。
5. 土地を拓く ── 新田という開発の営み
第三の営みは、土地を拓く開発である。磐田平野の村々のうち少なからぬものが、近世以降に新たに拓かれた新田を起源とする。新田開発を横断した各論は、この営みを二つの対照的な地形条件のもとで整理した。すなわち、天竜川左岸の自然堤防・氾濫原と、遠州灘沿岸の砂地・河口低湿地である。前者は川がもたらした土を、後者は海と川が境を接する低湿の地を、それぞれ開発の舞台とした。
開発地名の類型もまた、この営みの性格を語る。各論は、地名を島・新田・人名由来の三つに類型化した。「島」を含む地名は、氾濫原のなかで一段高い、水に囲まれた土地の記憶をとどめる。「新田」を含む地名は、開発によって新たに生まれた耕地であることを直截に示す。人名に由来する地名は、開発を主導した人物の存在を伝える。これらの地名は、土地がどのように拓かれたかを、語構成の水準で今に残す史実と推定の混じった手がかりである。
ここで開発の各論が強調したのは、開発の年代や主体を直接記す一次史料が、しばしば未確認にとどまるという事実である。ここには一つの区別が要る。ある新田の開発年が未確認であることは、「その新田がいつ拓かれたかを記した史料に、管見の限り突き当たっていない」ことを意味し、「そのような史料が存在しないと確認できた(=記載なし)」ことを意味しない5。新田検地の制度や史料の伝存状況からすれば、開発の記録が作られなかったのか、作られたが伝わらないのか、伝わっているが把握されていないのかは、それぞれ別個に検証を要する。開発史における「未確認」の多さは、史料の欠如の証明ではなく、探索の現段階を示す標識である。
この未確認の多さは、利水・治水と比べたときに際立つ。用水改良は事業記録を、土地改良区は記念誌を、治水は工事記録と洪水年表を、それぞれ後世に残した。これに対し新田開発は、しばしば個々の百姓や小さな村の営みとして始まり、公的な記録の網の目からこぼれやすかった。開発の来歴を語る地名が、文書に代わる証言として重んじられてきたのは、このためである。地名は、文書が失われても土地に貼りついて残る、もっとも息の長い史料の一種であり、開発史においては、その語構成の分析が推定を支える有力な手がかりとなる。
開発の営みは、利水と治水の双方に依存する。新田を拓くには、まずその土地へ水を引く仕組みが要り、同時にその土地を洪水から守る備えが要る。天竜川左岸の氾濫原に拓かれた新田は、川がもたらす肥沃な土の恵みを受けると同時に、川が氾濫すれば真っ先に被害を受ける位置にあった。開発は、利水と治水がある程度整った土地に成り立つと同時に、新たな開発地が生まれることで、そこへの用水の延伸と、その地を守る新たな治水とを要求する。開発は三つの営みの結節点に位置し、利水と治水を前提としつつ、両者に新たな課題を投げ返す営みであった。
6. 三つの営みの連関と史料批判 ── 本稿の立場
ここまで三つの営みを順に見てきた。本節では、それらを同一平面に並べ、相互の連関を整理する。まず、三つの営みを対象・主体・時代・確度の層という同じ粒度で並べた比較表を示す。特定の営みを他に優越させる書式を避け、各行の情報量をそろえることで、三者が等しく天竜川をめぐる営みであることを可視化することを心がけた。
| 営み | 主な対象 | 担い手 | 主な時代 | 確度の層と留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 水を引く(利水) | 磐田用水・幹線水路・分水・取水口 | 水利組合・土地改良区・受益農家 | 近世〜昭和(1929〜1944年ほか) | 諸元・設立年は史実。労働動員・負担感は推定。 |
| 水を防ぐ(治水) | 川除普請・霞堤・連続堤・河川改修 | 幕府・村々・県・国、金原明善ら | 近世〜近代・現代 | 工事年・洪水年は史実。被害規模・効果は推定。 |
| 土地を拓く(開発) | 天竜川左岸の氾濫原・遠州灘沿岸の低湿地 | 開発主体(人名地名に痕跡)・村 | 近世以降(多くは未確認) | 地形・地名は史実/推定。開発年代・主体は未確認が多い。 |
この表から読み取れるのは、三つの営みが競合するのではなく、同じ川をめぐって役割を分担していたという関係である。利水は川から水を取り、治水は川の氾濫を抑え、開発は川がつくった土地を耕地に変える。三者はいずれも天竜川という一つの自然を相手にしており、その関係は循環をなす。すなわち、治水が平野を洪水から守るからこそ利水の施設が維持され、利水が水を届けるからこそ開発地が耕地として成り立ち、開発地が広がるからこそ新たな利水と治水が求められる。どこか一つの環が切れれば、他の二つも立ち行かなくなる。
史料批判の観点からは、三つの営みに共通する限界と、それぞれに固有の限界とを区別しておく必要がある。共通するのは、いずれの営みについても、記録に残るのは工事・組織・災害という制度的な事実であって、その背後にある実態──労働の現場、被害の実感、開発の動機──は直接には史料に残りにくい、という点である。固有の限界としては、利水と治水は事業記録や公的記録に恵まれるのに対し、開発は一次史料の未確認が際立って多い。この非対称は、三者の重要度の差ではなく、それぞれの営みが公権力や組織とどう関わったかという、記録が生まれる条件の差に由来すると考えられる。
ここで本稿の立場を一文で示す。磐田平野の形成は、利水・治水・開発のいずれか一つを主因とする単線の過程ではなく、三つの営みが天竜川という同一の自然を相手に互いを前提とし要求し合った、循環的で反復的な折衝の堆積として記述されるべきである。この立場は、どの営みが最も重要かを裁定するものではない。むしろ、いずれの営みも他の二つなしには成り立たなかったという相互依存を、平野形成の基本構造として据えるものである。
なお、この総合が個別各論の価値を減じるものでないことは、明記しておきたい。各論が主題の内部で積み上げた史実と推定の腑分けがあってはじめて、本稿の横断的な整理は可能になった。総合は各論の上に立つのであって、各論に代わるのではない。むしろ本稿の連関の見取り図は、それぞれの営みの各論が今後どこを掘り下げるべきかを指し示す地図としても働く。開発の未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業は、依然として個別の各論に委ねられている。
7. 背景としての地理 ── 天竜川扇状地と平野の形成
三つの営みの連関を、より深い時間の層に置き直すと、そこには天竜川が長い時間をかけてつくった地形そのものがある。磐田平野は、天竜川が山地から平地へ出るところに土砂を積み上げてできた扇状地状の低地と、その表面を覆う沖積の土、そして南の遠州灘が寄せた砂丘とからなる。人が水を引き、水を防ぎ、土地を拓いたのは、この川がまず土地そのものをつくった、その上においてであった。
この地形の成り立ちは、三つの営みの意味を根底から規定している。天竜川が氾濫のたびに運んだ土砂は、左岸に自然堤防と後背の低湿地をつくった。自然堤防のわずかに高い地は早くから人の住みかとなり、その背後の低湿地は排水と用水の両方を要する開発の対象となった。すなわち、開発の各論が整理した左岸の氾濫原という舞台は、治水各論のいう暴れ天竜の氾濫が、長い時間をかけて堆積させた地形そのものである。川が土地をつくり、その土地に川が氾濫し、人がそれを防ぎ、拓き、水を引く──この重なりのなかに、三つの営みは置かれている。
遠州灘沿岸に目を移すと、事情はまた異なる。ここでは川が海と接し、砂地と河口の低湿地が開発の舞台となった。海からの塩と風、川からの水と土が交わるこの地は、内陸の氾濫原とは別種の困難を開発に課した。用水の各論が扱った東部の乾いた台地裾とも、また性格を異にする。磐田平野が一様な低地ではなく、台地裾の乾いた地、左岸の氾濫原、沿岸の低湿地という異なる地形の集合であることは、なぜ利水・治水・開発の営みが場所ごとに異なる形をとったかを説明する。
この地理的背景を踏まえると、三つの営みの連関は、単なる人間の工夫の相互関係を超えて、天竜川という自然が課した条件への応答として読み直せる。人は自由に平野を設計したのではない。川がつくった地形の凹凸、川がもたらす水と土砂、海が寄せる砂と塩──こうした与件のなかで、水を引ける場所に用水を通し、水が溢れる場所に堤を築き、水はけと水利の折り合う場所に田を拓いた。三つの営みが互いを前提とし要求し合ったのは、それらがいずれも同一の地形的条件の異なる面への応答だったからである。連関の根には、天竜川という一つの自然がある。
もっとも、この地形形成の具体的な過程、とりわけ個々の自然堤防や旧河道がいつ形づくられたかを、年代を伴って確定することは、本稿の範囲では確認できていない。治水地形分類図や地形の観察は、おおよその成り立ちを推定させるが、それは史料に基づく史実ではなく、地形からの推定である。ここでも、地形の大枠は推定として提示しうるが、個々の年代は未確認にとどまるという、確度の層の区別を保っておきたい。
8. 結論 ── 三つの営みが総合した磐田平野
本稿は、磐田平野の水と土地を扱った既刊各論五本を先行研究として横断し、水を引く利水、水を防ぐ治水、土地を拓く開発という三つの営みを、天竜川という一つの自然をめぐる連関として整理した。得られた見取り図は次のとおりである。三つの営みは独立した工事史ではなく、治水が平野を守り、利水が水を届け、開発が土地を耕地に変えるという循環をなしており、どれか一つを主因として平野の形成を語ることはできない。
この総合を通して見えてきたのは、確度の層の非対称である。利水と治水は事業記録・公的記録・災害記録に恵まれ、多くの事柄を史実として押さえられるのに対し、開発は一次史料の未確認が際立って多い。だがこの非対称は、開発という営みが実際に不確かだったことを意味しない。それは、記録が生まれる条件──公権力や組織とどう関わったか──の差の反映である。史実の厚薄を、そのまま営みの実在の厚薄と読み替えないことは、地域史を書くうえで守るべき禁欲の一つである。
したがって本稿の立場は明確である。磐田平野の形成は、単線の進歩でも、単一の主因の産物でもなく、天竜川という暴れ川を相手にした三つの営みが、互いを前提とし要求し合った反復的な折衝の堆積である。この立場に立てば、用水の一本の水路、堤防の一つの区間、新田の一つの村は、それぞれ孤立した工事の跡ではなく、三つの営みが交わる結節点として読める。個別の各論が深く掘った点と点を、本稿の連関の線が結び直す──その作業の意義は、平野の歴史を断片の集積から一つの構造へと組み替える点にある。
最後に、本稿が残した課題を三点記しておく。第一に、三つの営みが実際に相互作用した具体的な事例──ある新田の開発が特定の用水延伸や堤防築造を促した、といった因果の連鎖──を、一次史料に即して跡づける作業が残されている。本稿が示したのは連関の一般的な構造であって、個別の因果ではない。第二に、開発史における未確認の多さを、近世・近代の検地帳や村方文書の博捜によって、一歩ずつ史実へと押し上げる作業が要る。第三に、天竜川の地形形成そのものの年代を、地形分類と地質の知見によってより精確に描くことは、三つの営みの舞台を確定する基礎作業として重要である。これらはいずれも、本稿が据えた三つの営みの連関という枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。暴れ川と人との折衝の全体像は、その地道な積み重ねの先に、少しずつ像を結んでいくはずである。三つの営みそれぞれの続編と、その交点をなす個別事例の検討については、本論考シリーズで稿を改めて論じたい。
注
- 磐田用水幹線改良事業の諸元(取水量毎秒13.9立方メートル、東部かんがい面積3,420ヘクタール、用水路延長33,824メートル、計画採択1929年・初通水1944年7月)は、大石浩之「磐田用水幹線改良事業」(本論考第151号)が『磐田用水のあゆみ』ほかの事業記録に依拠して整理した数値による。↩
- 水利土功会の組織(1885年)、普通水利組合の区域指定(1930年)、土地改良区の認可(1950年)の年代は、大石浩之「磐田用水東部土地改良区の50年」(本論考第184号)が記念誌に記録された史実として整理したものによる。土地改良区は土地改良法(1949年制定)にもとづく法人である。↩
- 川除普請・霞堤に代表される「受け流す」治水から、連続堤・河川改修による「封じ込める」治水への転換については、大石浩之「天竜川の治水史」(本論考第218号)による。工事年・洪水年は史実、効果は推定として腑分けされている。↩
- 文化13年(1816年)・文政11年(1828年)の洪水と仮渡船、および四尺八寸・九寸を越立禁止、五尺以下を渡船可とする川留めの水位基準については、大石浩之「天竜川の氾濫と仮渡船」(本論考第220号)による。↩
- 本稿は「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない状態)と「記載なし」(史料を博捜したうえで無いと判断できる状態)を区別する。開発史における未確認の多さは前者であり、史料の欠如を証明するものではない。↩
付記:本稿は既刊各論(第151・184・218・220・273号)を先行研究として横断・整理した総合論考(レビュー論文)である。個々の事実は各論に依拠し、確度の層(史実・推定)および「未確認」と「記載なし」の区別を各論から引き継いだうえで、三つの営みの連関という新たな整理軸を提示した。新たな一次史料の提示は行っていない。
参考文献・参考資料
- 大石浩之「磐田用水幹線改良事業 ── 戦時下の突貫工事と初通水の記録」大石浩之の磐田論考 第151号、磐田物語、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/151/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「磐田用水東部土地改良区の50年 ── 水を管理する組織を読む」大石浩之の磐田論考 第184号、磐田物語、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/184/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「天竜川の治水史 ── 年表が語る『暴れ天竜』との三百年」大石浩之の磐田論考 第218号、磐田物語、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/218/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「天竜川の氾濫と仮渡船 ── 文化13年・文政11年の大洪水を読む」大石浩之の磐田論考 第220号、磐田物語、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/220/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「磐田の新田開発を総合する ── 天竜川と遠州灘が生んだ村々」大石浩之の磐田論考 第273号、磐田物語、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/273/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田用水土地改良区(東部)『磐田用水のあゆみ』(記念誌)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 静岡県『静岡県史』通史編・資料編(治水・利水の項)。
- 国土交通省中部地方整備局 浜松河川国道事務所『天竜川治水史』関係資料。
- 金原明善記念館ほか 金原明善関係資料(明治期の治水・植林)。
- 農林水産省「土地改良法」および土地改良制度関係資料 https://www.maff.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 国土地理院「治水地形分類図」および地形図(天竜川下流域) https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 佐口行正氏所蔵史料(磐田物語 佐口史料室)。