磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第220号(天竜川渡船研究 災害史編)
天竜川の氾濫と仮渡船
文化13年・文政11年の大洪水を読む ── 災害が交通を断つとき、地域は何をしたか
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
天竜川は「暴れ天竜」の名の通り、東海道の渡船にとって恵みであると同時に、渡し場そのものを幾度も襲う脅威であった。本稿は、文化13年(1816年)8月の大風雨と文政11年(1828年)の三たびの連続洪水という二つの災害に焦点を当て、渡船場が流失した際に組まれた「仮渡船」の対応を、災害史・危機対応の観点から読み解く。洪水の年代・被害・復旧の事実は郷土研究資料によって確認できる史実として扱い、被害の規模や影響の連鎖については推定として腑分けする。中泉代官所の役人が現地に出張して仮渡船を取り決め、道中奉行所へ届け出るという手続き、そして四尺八寸・九寸を越立禁止の境界、五尺以下を渡船可とする川留めの水位基準を検討し、災害が交通を断ち、地域がどう応急対応したかを描く。あわせて近世の災害記録が帯びる誇張と過少という史料的性格にも論及し、記録の空白を「未確認」と「記載なし」に区別して扱う立場を示す。
キーワード:天竜川/池田の渡船/仮渡船/洪水災害/中泉代官所/川留め/災害史
1. 問題設定 ── 「渡れない日」を災害史として読む
橋のない時代、大河は人と物の流れを分かつ境界であり、その境界を日々つなぎ直していたのが渡船であった。天竜川の池田の渡しは、家康の証文に由来を引く東海道有数の渡船場として、およそ三百年にわたり見付宿と浜松宿の間を結んできた。その通史については既刊の天竜川池田の渡船に譲るが、本稿が改めて焦点を当てるのは、その渡船が「機能しなかった日」、すなわち洪水によって渡し場そのものが失われた局面である。
渡船史は、平時の運営組織や大名との特約、外国船来航の余波といった側面から論じられることが多い。だが渡船を支える施設は、川の増水という自然の力の前ではきわめて脆弱であった。船着き場の護岸、繋留の設備、渡船そのものが一夜の出水で押し流されることは、決してまれではなかった。渡船が止まれば、東海道という国家の幹線が止まる。そこにこそ、近世の地域社会が備えた危機対応の実像が現れる。本稿はこの局面を、災害史と危機対応の視点から読み直すことを課題とする。
本稿が主たる根拠とするのは、豊田町郷土を研究する会が編んだ『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』(1976年刊)である1。この資料には、文化13年(1816年)と文政11年(1828年)という二つの年に起こった大洪水と、それに対して組まれた仮渡船の記録が収められている。年代・被害・復旧の経過そのものは、この資料によって確認できる範囲の事実として扱う。他方で、洪水が地域経済や交通に及ぼした影響の規模、被害の連鎖の全体像については、資料が直接に語らない部分が多い。ここは推定として腑分けし、確認できる事実と区別して記述する。
あらかじめ本稿の姿勢を述べておく。近世の災害と交通を論じるとき、私たちはしばしば被害の甚大さを強調し、あるいは復旧の見事さを美談として語りたくなる。しかし史料が語るのは、多くの場合ごく限られた事実──いつ、どこが、どの程度壊れ、誰が何を取り決めたか──に過ぎない。その限られた事実の周囲に、どこまでを推定として補い、どこからを空白として残すかを慎重に見極めることが、災害史を読む作法である。以下ではまず史料の性格を検討し、続いて二つの洪水を順にたどり、仮渡船の手続きと川留めの基準を分析したうえで、両者を比較して結論に至る。
2. 史料の性格 ── 近世災害記録をどう読むか
二つの洪水を具体的に検討する前に、本稿が依拠する記録の性格を確認しておきたい。『天竜川池田の渡船』は、渡船方の家に伝わった文書や村方の記録を、昭和期に地域の研究者が整理・集成した郷土研究資料である。したがって、そこに収められた洪水と仮渡船の記述は、当事者が残した一次記録に基づく部分と、後世の編者が要約・再構成した部分とを含む。この二層を意識せずに読むと、記録の一句を過大に、あるいは過小に評価しかねない。
近世の災害記録は、一般に二つの方向へ偏りやすい性格をもつ2。一つは誇張の方向である。被害を大きく記すことは、上位の役所へ救済や負担軽減を願い出る際の根拠となり、また災害の記憶を後世へ強く刻む動機ともなった。もう一つは過少の方向である。渡船の運営に責任を負う立場からは、川留めや渡船途絶の日数を過大に書き立てることは、運営の不手際と受け取られかねない。被害と復旧をめぐる記録は、こうした利害の場のなかで書かれたのであって、中立な観測値ではない。
とはいえ、こうした偏りの可能性を理由に記録を退けるのは適切でない。むしろ、記された事実がどのような立場から、どのような目的で書かれたかを見定めたうえで、確実に読み取れる部分を抽出することが求められる。たとえば「渡船場が流失した」「仮渡船を何月まで運用した」「代官所の役人が出張して取り決めた」といった手続きに関わる記述は、複数の当事者が関与するため、単独の誇張が入りにくい。他方、「村々が難儀した」「途絶する日もあった」といった被害の程度に関わる記述は、書き手の立場の影響を受けやすい。本稿は前者を史実として、後者を史実を核とした推定として扱い分ける。
もう一点、この資料が昭和期の集成であることの利点にも触れておきたい。渡船方や村方に散在していた文書は、そのままでは一件ごとに孤立し、災害と復旧の全体像を結びにくい。地域の研究者がそれらを一つの資料に編み直したことで、文化13年と文政11年という二つの災害を、同じ枠組みのなかで比較して読むことが可能になった。編纂という営みそれ自体が、断片的な一次記録を災害史の文脈へ据え直す作業であった。本稿はその編纂の恩恵に浴しつつ、なお編者による要約と、その背後にある一次記録の水準とを、可能なかぎり意識して読むよう努める。
ここで方法上の区別を一つ明示しておく。本稿が用いる資料には、二つの洪水について記された年代と概要が含まれるが、被害の具体的な数値──流失した船の数、途絶した正確な日数、復旧に要した費用など──を一件ごとに詳細に記した一次帳簿には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。これは「そうした帳簿が存在しない(=記載がない)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、それを裏づける一次史料を確認できていない(=未確認)」という状態である。記録が作られなかったのか、作られたが伝わらなかったのか、伝わっているが筆者が把握していないのかは、それぞれ別に検証を要する。この「未確認」と「記載なし」の区別は、以下の記述を通じて一貫して保つ。
3. 文化13年の大風雨 ── 渡船場流失と最初の仮渡船
まず文化13年(1816年)の災害からたどる。資料によれば、この年の8月13日から翌14日にかけての大風雨により、池田の渡船場そのものが流失する被害が生じた3。渡船場の流失とは、単に川の水位が上がって渡れなくなったという一時的な事態ではない。船着き場の設備や繋留の施設が物理的に押し流され、平時の運航を再開する土台そのものが失われた状態を指す。
渡船が使えなくなれば、東海道の交通はたちまち滞る。参勤交代の大名行列であれ、御用の継飛脚であれ、川を渡らねば先へ進めない。そこで急遽、仮の渡船場が設けられた。資料は、この文化13年の仮渡船が9月まで運用が続いたと伝える。すなわち、8月中旬の被災から、少なくとも一か月ほどの間、平時の渡船場に代わる応急の渡船で通行がしのがれたことになる。
ここで確認できる事実と推定を分けておきたい。「8月13〜14日の大風雨」「渡船場の流失」「9月まで仮渡船を運用」という三点は、資料が記す事実として扱える。他方、その一か月余りの間に、どれだけの通行がどの程度停滞したのか、仮渡船の運賃や運航体制が平時とどう異なったのか、被災した渡船場の本格的な復旧がいつ完了したのかについては、資料は詳しく語らない。これらは推定の領域にとどまる。仮渡船が9月まで続いたという記述の裏には、本格復旧までにそれだけの日数を要した事情がうかがえるが、その具体は未確認である。
この一件から読み取れるのは、渡船場の流失に対して、地域が「渡船を止めたまま復旧を待つ」のではなく、「仮の渡船で通行を維持しながら復旧を進める」という二重の対応をとった点である。東海道という幹線の性格上、通行を長く止めることは許されなかった。応急の仮渡船を立てて交通を維持しつつ、その裏で本設の渡船場を立て直すという並行作業こそ、この災害対応の要であった。図1に示した「途絶」と「復旧」の間を、仮渡船がつないでいたのである。
なお、この年の大風雨がどれほどの規模の気象現象であったか、天竜川流域の他の地点でどのような被害が生じたかについては、本稿の資料は渡船場に関わる範囲でしか記していない。8月という季節から台風性の暴風雨であった可能性は考えられるが、これは一般的な背景からの推測であって、資料が明記するところではない。素材にない事象を確定的な事実として補うことは避け、渡船場流失という確認できる一点を軸に記述を組み立てる。
4. 文政11年の三たびの洪水 ── 連続災害と交通の途絶
文化13年から十二年を経た文政11年(1828年)には、より深刻な事態が生じた。資料によれば、この年は6月末から9月にかけて、洪水が三回連続して発生し、そのたびに池田側と対岸側の双方の渡船場が被害を受けた4。一度の洪水でも渡船場の復旧には相応の労力を要するのに、それが夏から秋にかけて三たび繰り返されたのである。
三回の洪水の間には、渡船が全く途絶えてしまう日もあったと資料は伝える。渡船の途絶は、東海道を行き交う人々にとって、そのまま足止めを意味した。そうした局面で、見付宿から浜松宿までの間の村々が保有する川船を回して急場をしのぐこともあったという。渡船方の専用船が失われ、あるいは使えない状況で、周辺村々の船が動員されたことは、この災害対応が渡船方だけで完結せず、より広い地域社会を巻き込むものであったことを示している。
ここでも事実と推定を腑分けする。「文政11年に6月末から9月にかけて洪水が三回」「双方の渡船場が被害」「渡船が途絶する日もあった」「村々の川船を回した」という骨格は、資料が記す事実として扱える。他方、三回の洪水がそれぞれいつ発生し、各回でどの程度の被害が出て、途絶が何日続いたかという時系列の詳細は、資料の記述からは一義的には定まらない。三度の連続が渡船方や助郷の村々に与えた負担は、通常の年とは比較にならないものであったと考えられるが、その負担の規模を数値で裏づける一次帳簿は未確認である。負担が重かったという評価は、三回連続という事実からの合理的な推定として提示するにとどめる。
文政11年の事例が文化13年と決定的に異なるのは、災害が単発ではなく反復した点にある。一度目の被害から復旧しかけたところへ二度目が襲い、さらに三度目が重なるという事態は、応急対応そのものを繰り返し立て直すことを強いる。仮渡船を出しては流され、また出すという反復のなかで、村々の船と人足が繰り返し動員された。連続する災害は、単発の災害の被害を足し合わせた以上の負荷を地域に課したと見るのが妥当である。この「反復による負荷の増幅」こそ、文政11年の洪水が災害史において示す重要な論点である。
5. 仮渡船という危機対応 ── 代官所・道中奉行所・村々
二つの災害を通じて機能したのが、仮渡船という応急の仕組みである。ここではその運用手続きを、危機対応の構造として分析する。まず押さえるべきは、仮渡船の開設・廃止が渡船方の一存で決められるものではなかった点である。資料によれば、仮渡船の開設・廃止は、中泉代官所の役人が現地に出張して取り決めるものであった。渡船場が流失するたびに勝手に仮渡船を出せるわけではなく、道中奉行所への届け出も必要とされた。
この手続きは、一見すると災害時の即応をむしろ妨げる煩瑣な規制にも見える。しかし近世の交通行政の枠組みに置き直すと、その意味が見えてくる。東海道の渡船は、単なる地域の便益施設ではなく、幕府の道中奉行所が管轄する国家的な交通インフラであった。したがって、その運行形態を一時的にでも変更する仮渡船の設置は、地方の代官所と、街道全体を統括する道中奉行所の双方が関与すべき事柄であった。災害時であっても、あるいは災害時だからこそ、通行の安全と運賃の秩序を保つために、公的な手続きが求められたのである。
ここに、近世の危機対応の一つの型が現れている。応急対応は現地の判断だけで進むのではなく、代官所の役人による現地確認と、上位の奉行所への届け出という、二段の公的関与を経て正式化された。中泉代官所は、天竜川下流域の幕府領を管轄する現地の行政拠点であり、その役人が現地に出張して状況を確認したうえで仮渡船を取り決めたことは、災害対応が現場の実情に即して行われたことを示す。一方、道中奉行所への届け出は、その対応を街道全体の秩序のなかに位置づける手続きであった。現地即応と中央統制の二層が、仮渡船という一つの応急措置のなかで組み合わされていた。
そして、この公的な枠組みを実際に動かしたのが、村々の力であった。文政11年に見付宿から浜松宿までの間の村々が川船を回して急場をしのいだように、応急対応の実働は、渡船方と周辺村々の共同によって担われた。池田の渡船を平時に支えた助郷の村々は、災害時にもまた船と人足を提供する担い手として動員された。代官所・道中奉行所という公の枠組みと、村々という現場の実働とが噛み合ってはじめて、仮渡船は機能した。この官と民の連携こそ、近世の災害対応を支えた構造である。
この構造は、平時の渡船運営の延長線上に理解すべきものである。池田の渡船は、もともと渡船方の家々だけで完結する事業ではなく、周辺の村々が助郷として船・人足・諸役を負担することで成り立っていた。災害時に村々の川船が動員されたのは、この平時の負担体制が、非常時にも転用されたということにほかならない。言い換えれば、仮渡船という危機対応は、まったく新しい仕組みをその場で立ち上げたのではなく、平時から地域に埋め込まれていた助郷の網の目を、災害という局面へ振り向けたものであった。だからこそ、三たびの洪水にも辛うじて応じることができた。危機対応の速さは、平時の備えの厚みに支えられていたのである。
もっとも、この構造がつねに円滑に働いたと見るのは楽観に過ぎよう。代官所の役人の出張には時間を要し、その間の通行がどうさばかれたか、届け出と実際の開設との時間差がどれほどであったかは、資料からは判然としない。手続きの存在は確認できるが、その運用の速度や実効性を細部まで裏づける記録は未確認である。危機対応の「仕組み」が記録に残ることと、その仕組みが災害の現場でどれだけ迅速に働いたかとは、別の問いであることを付言しておく。制度が整っていたという事実から、対応が万全であったと結論するのは早計である。むしろ、繰り返される洪水に対して手続きを守りながら通行を維持しようとした、その緊張の連続にこそ、当時の危機対応の実相があったと見るべきであろう。
6. 川留めの基準 ── 水位という境界線
災害時の対応を考えるうえで見落とせないのが、そもそも「いつ渡船を止めるか」を定めた基準の存在である。天竜川では、川の増水量に応じて通行の可否が定められていた。資料によれば、四尺八寸・九寸(およそ1.5メートル前後)を超えると、徒歩による「越立(こしだて)」は禁止され、五尺(およそ1.5メートル)以下であれば渡船で渡ることができた5。増水の高さが、通行の可否を分ける明確な境界線として機能していたのである。
この水位基準は、災害対応の観点からいくつかの重要な性格をもつ。第一に、それは危険の可視化である。刻々と変わる川の状態を、誰の目にも共有できる「何尺何寸」という数値へ翻訳することで、渡すか止めるかの判断を個人の裁量から切り離し、あらかじめ定めた基準に委ねる。増水という自然現象を、通行管理という社会的な制度へ橋渡しする装置が、この水位基準であった。
第二に、越立の禁止と渡船の可否とが、異なる水位で線引きされていた点である。徒歩で川を渡る越立は、渡船よりも早く危険域に達する。四尺八寸・九寸を超えれば徒歩渡りは禁じられるが、五尺以下であれば船での渡河はなお可能とされた。ここには、渡河の手段ごとに危険の閾値が異なるという実際的な認識が反映されている。水位という一つの指標のもとで、手段に応じた段階的な規制が組まれていたことになる。
第三に、この川留めの規定がきわめて厳格に運用されたことである。資料は、たとえ急用の御状箱であっても、川留めには例外が認められなかったと伝える。御状箱は幕府の公用文書を運ぶ最優先の便であり、通常であれば何をおいても先を急がせるべきものである。その御状箱すら止められたということは、川留めが人の都合や身分の上下を超えて、水位という自然の基準のみに従って発動されたことを意味する。ただし五尺以下の増水であれば渡舟は可能であり、荷物の増水の場合でも渡舟の継立を行うことができたという。全面停止と条件付き通行の間に、水位に応じた運用の幅が設けられていた。
この厳格な水位基準は、災害への「事前の備え」として読むことができる。洪水が渡船場を流失させるという事後の破局に対して、仮渡船が応急対応であったとすれば、川留めの水位基準は、増水がまだ通行を止める程度にとどまる段階での、被害を未然に防ぐ予防的な制度である。天竜川の川留めが、助郷制度を伴う数少ない例のひとつであったと記されていることも、この川の増水がいかに頻繁で、その管理がいかに重い社会的負担を伴ったかを物語る。増水の常襲する大河のほとりで、人々は事後の応急対応と事前の予防規制の両輪によって、渡船という交通を辛うじて維持してきたのである。
7. 二つの洪水の比較と災害史的考察
ここまで見た文化13年と文政11年の災害を、災害史の観点から並べて考察したい。両者は同じ天竜川の同じ渡船場を襲った洪水でありながら、災害としての性格と、それが要求した対応の質において、いくつかの対照を示す。以下の比較表は、確認できる事実の層で両者を対等の粒度で並べ、それぞれが災害史において示す論点を整理したものである。
| 項目 | 文化13年(1816年) | 文政11年(1828年) | 災害史的論点 |
|---|---|---|---|
| 災害の型 | 単発の大風雨(8月13〜14日) | 連続する洪水(6月末〜9月に三回) | 単発災害と反復災害では負荷の質が異なる。 |
| 被害の範囲 | 渡船場の流失 | 池田側・対岸側の双方が被害 | 反復により両岸へ被害が及んだと読める。 |
| 交通への影響 | 仮渡船で通行を維持(9月まで) | 渡船が全く途絶える日もあった | 途絶の有無は災害の深刻度を測る指標となる。 |
| 応急対応 | 仮渡船の開設 | 村々の川船を動員し急場をしのぐ | 渡船方単独から地域全体の動員へと拡大。 |
| 資料の確度 | 年代・流失・仮渡船運用は確認可 | 三回連続・双方被害・途絶は確認可 | 被害数値・日数の詳細はいずれも未確認。 |
この比較から浮かび上がる第一の論点は、災害の「反復性」が対応の質を変えるということである。文化13年の単発の大風雨に対しては、仮渡船を一度立てて通行を維持するという対応で足りた。ところが文政11年の三たびの洪水に対しては、立てた応急対応が繰り返し崩され、そのつど立て直すことを強いられた。反復する災害は、単発の災害を単に足し合わせたものではなく、復旧の途上を次の災害が直撃するという固有の困難を生む。文政11年に村々の川船まで動員されたのは、渡船方の通常の備えでは反復する被害を吸収しきれなくなったことの現れと読める。
第二の論点は、応急対応の担い手の広がりである。文化13年の記録では仮渡船の開設が中心に語られるのに対し、文政11年では村々の川船の動員が明示される。もとより両者は排他的ではなく、文化13年の仮渡船運用にも村々の関与があったと考えるのが自然だが、少なくとも記録の上では、災害が深刻化するにつれて、対応の担い手が渡船方から周辺村々へと目に見えて拡大している。災害の規模が、地域社会をどこまで巻き込むかを規定したのである。この点は、平時の助郷制度が災害時にどのように転用されたかという、より大きな問いにつながる。
第三に、両災害に共通する構造として、応急対応(仮渡船・川船動員)と予防規制(川留めの水位基準)の二層が指摘できる。洪水が渡船場を破壊するという事後の破局には仮渡船で応じ、増水が通行を危うくするという事前の兆候には水位基準で応じる。この事前・事後の二層の備えは、増水が常襲する天竜川という環境に、地域社会が長い時間をかけて適応してきた到達点であった。個々の洪水の記録は断片的だが、それらを貫くこの二層構造は、断片から復元できる災害対応の骨格である。
最後に、この二つの洪水を、より長い渡船史のなかに位置づけておきたい。文化13年と文政11年は、資料が比較的まとまった記述を残す二つの画期にすぎず、その前後にも天竜川は幾度となく増水し、渡船場を襲ったはずである。外国船の来日と池田の渡船で論じた幕末の政治的動揺が渡船に外からの負荷を加えたとすれば、洪水は内からの、しかも周期的に反復する負荷であった。渡船史を「制度と特約の歴史」としてだけでなく「災害と復旧の反復の歴史」として読み直すとき、文化13年・文政11年の記録は、その反復の一断面を照らす貴重な標本となる。
8. 結論 ── 復旧の反復としての渡船史
本稿は、文化13年(1816年)の大風雨と文政11年(1828年)の三たびの洪水という二つの災害を軸に、天竜川池田の渡船場が流失した際の仮渡船の対応を、災害史・危機対応の観点から検討した。得られた見取り図は次のとおりである。洪水の年代、渡船場の流失、仮渡船の運用、村々の川船動員、そして川留めの水位基準は、いずれも郷土研究資料によって確認できる事実である。他方、被害の具体的な数値や途絶の正確な日数、影響の連鎖の全体像は、本稿の調査範囲では未確認の領域にとどまる。この事実と推定の腑分けを保ったまま、災害対応の骨格を描くことを本稿は試みた。
そこから見えてきたのは、近世の渡船が、平時の運営組織や大名との特約だけでなく、洪水という周期的な災害への応急対応と予防規制の体系のうえに成り立っていたという事実である。渡船場が流失すれば仮渡船を立てて通行を維持し、増水が兆せば水位基準に従って川留めを発動する。中泉代官所の役人が現地に出張して取り決め、道中奉行所へ届け出るという二段の公的関与のもと、渡船方と助郷の村々が実働を担った。官の枠組みと民の実働が噛み合ってはじめて、災害を越えて交通は維持された。
したがって本稿の立場は明確である。天竜川池田の渡しの三百年は、家康の証文に始まる制度と特約の歴史であると同時に、洪水に壊されてはそのつど立て直されてきた、復旧の反復の歴史でもあった。渡船史をこの二つの側面から読むことで、はじめて「橋のない大河をつなぎ続ける」という営みの重みが見えてくる。仮渡船とは、その反復のたびに途絶と復旧の間に架けられた、目立たないが不可欠な応急の装置であった。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、文化13年・文政11年以外の洪水についても、渡船方や村方の文書を博捜することで、天竜川の増水と渡船途絶の系列をより連続的に復元できる余地がある。第二に、仮渡船の運賃や運航体制が平時とどう異なったか、川船を動員された村々にどれだけの負担が生じたかは、助郷の帳簿類の検討を俟つべき主題である。第三に、川留めの水位基準がいつ、どのような経緯で定められ、他の東海道の川越しの基準とどう異なったかは、街道全体の災害管理史のなかで比較検討されるべきである。これらはいずれも、未確認を史実へと押し上げていく地道な作業に属する。洪水の記録を断片のまま放置せず、確度の層を保ったまま一つずつ積み上げていくこと──その先にこそ、天竜川という大河とともに生きた地域の災害対応の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。素材とした一般向け記事の内容は天竜川の氾濫と仮渡船に、渡船の通史は既刊論考にゆずり、本稿は災害史の一断面を担うものとして稿を閉じる。
注
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』(豊田町教育委員会発行、1976年3月/昭和51年)。本稿の洪水・仮渡船に関する事実記述は、特記なきかぎり同書による。↩
- 近世の災害記録が、救済願いや責任弁明といった文書作成の場に規定され、被害の程度をめぐって誇張・過少の双方に振れうることについては、近世災害史研究の一般的な指摘に依る。個々の記録の性格は、作成主体と目的に即して判断する必要がある。↩
- 文化13年(1816年)8月13〜14日の大風雨による渡船場流失、および仮渡船を9月まで運用したとの記述は前掲『天竜川池田の渡船』による。大風雨の気象学的規模は資料に明記がなく、本稿では確定的に断じない。↩
- 文政11年(1828年)6月末〜9月の洪水三回連続、池田側・対岸側双方の被害、渡船の途絶、村々の川船動員に関する記述は前掲『天竜川池田の渡船』による。各回の日付・被害数値は資料に詳細がなく未確認とする。↩
- 川留めの水位基準(四尺八寸・九寸超で越立禁止、五尺以下で渡船可)、御状箱にも例外を認めない厳格な運用、荷物の増水時の渡舟継立、および天竜川の川留めが助郷制度を伴う数少ない例であったとの記述は前掲『天竜川池田の渡船』による。↩
付記:本稿は一般向け記事 t052「天竜川の氾濫と仮渡船 ── 文化13年・文政11年の大洪水」の内容を、郷土史研究者向けに災害史・史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層を語の水準で区別し、洪水の年代・被害・復旧・水位基準を資料で確認できる事実、被害規模・影響の連鎖・負荷の程度を推定として扱った。渡船の通史は既刊第190号・第193号にゆずり、本稿は災害史の側面に軸を置いた。
参考文献・参考資料
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』豊田町教育委員会、1976年(昭和51年)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、近世の章)。
- 静岡県『静岡県史』通史編(近世)(静岡県、該当章)。
- 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』(豊田町、通史・資料編)。
- 児玉幸多『近世宿駅制度の研究』吉川弘文館。
- 丸山雍成『近世日本の交通と地域社会』文献出版。
- 北原糸子編『日本災害史』吉川弘文館。
- 建設省中部地方建設局浜松工事事務所編『天竜川治水史』関連資料。
- 大石浩之「天竜川池田の渡船 ── 家康の証文から始まった渡し場300年」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第190号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/190/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「外国船の来日と池田の渡船 ── ラクスマンから幕末の動揺まで」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第193号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/193/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 t052「天竜川の氾濫と仮渡船 ── 文化13年・文政11年の大洪水」 https://iwata-monogatari.net/t052.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 t045「天竜川池田の渡船(総論)」 https://iwata-monogatari.net/t045.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 t023「天竜川の『暴れ天竜』と決壊の歴史」 https://iwata-monogatari.net/t023.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 国立公文書館デジタルアーカイブ(近世交通・道中奉行関係史料の項) https://www.digital.archives.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。