失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 磐田用水東部土地改良区の50年

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第184号(磐田用水研究 二)

磐田用水東部土地改良区の50年

水を配る技術ではなく、水を管理する組織を読む

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市(市域)

要旨

水利施設は、造ったあとにそれを維持し分配する組織があって、はじめて地域の基盤となる。本稿は磐田用水東部土地改良区を、水を配る技術の側からではなく、水を管理する組織・制度の側から読む。すなわち工事の完成年を追う事業史ではなく、誰が費用を負担し、誰が意思を決め、誰が施設を守り続けたのかを問う組織史として叙述する。社山疏水にはじまる水利土功会、普通水利組合、そして土地改良法にもとづく法人としての土地改良区、さらに広域を束ねる連合へと至る組織化の階梯を、設立年・管理区域・統合の年代という史料で確認できる史実と、運営の実態や受益者の意識という推定とに腑分けする。1885年の水利土功会組織、1930年の普通水利組合区域指定、1950年の土地改良区認可はいずれも記念誌に記録された史実として扱い、賦課金の負担感や参加意識は推定にとどめる。農業水利を支える「見えない組織」を、史料批判の手続きによって可視化することを課題とする。

キーワード:磐田用水東部土地改良区/土地改良法/普通水利組合/管理区域/賦課金/土地改良区連合/組織史

1. 問題設定 ── 工事史から組織史へ視点を移す

磐田用水を語るとき、話題はどうしても工事に向かう。天竜川からどこで水を取り、どの経路で導き、いつ通水したか──こうした土木の物語は、目に見える施設をともなうがゆえに記述しやすい。本論考シリーズでも、幹線改良事業の突貫工事と初通水については別稿で扱った。だが水路は、掘り上げた瞬間から劣化しはじめる構造物である。堰は土砂で埋まり、水門は錆び、コンクリートは割れる。造った施設を毎年使える状態に保ち、限られた水を公平に配り、費用を集めて次の更新に備える営みがなければ、用水は一世代で朽ちる。本稿が対象とするのは、この維持と分配を担う組織のほうである。

組織を読むという作業は、工事を読む作業とは性格を異にする。工事には竣工という明確な区切りがあるが、組織の営みには終わりがない。ある年に施設が完成しても、その施設を守る組織は翌年も、その翌年も、賦課金を集め、水路を浚い、県や市と協議を重ねる。したがって組織史の史料は、竣工記録のような一点の文書ではなく、認可指令・区域指定・歴代管理者名簿・附帯事業一覧といった、継続を示す記録の集積となる。こうした記録は地味で、読み解くには忍耐を要する。しかしそこにこそ、地域が水をどう管理してきたかという実態が刻まれている。

本稿がとる立場をあらかじめ述べておく。第一に、磐田用水東部土地改良区を「工事の主体」としてではなく「管理の主体」として記述する。第二に、記念誌等で確認できる設立年・区域指定・認可の年代を史実として扱い、そこから離れて運営の内実や受益者の意識を語る部分については、推定であることを明示する。第三に、史料に突き当たっていないだけの事柄(未確認)と、史料に記載がないと言える事柄(記載なし)とを区別する。この三点を守ることで、農業水利を支えながら日常の視界からは消えている「見えない組織」を、根拠の確度を保ったまま浮かび上がらせたい。

あわせて、なぜいま組織史なのかを述べておく。農業をとりまく状況が変わり、田を継ぐ人が減り、水路の意味を実感する機会が薄れるほど、水を管理する組織の存在は見えにくくなる。用水は蛇口をひねれば出る水道とは違い、誰かが毎年、堰を守り水路を浚っている。その誰かが土地改良区という法人である。組織の来歴を書き留めることは、過去を懐かしむ作業ではなく、いま地域の足元を支えている仕組みを言葉にする作業である。以下ではまず土地改良区という制度の枠組みを確認し、続いて前史と設立、管理区域、連合、そして費用と意思決定の担い手へと論を進める。

水を管理する組織の階梯 水利土功会 任意の結社 普通水利組合 公法上の団体 1930年区域指定 土地改良区 土地改良法の法人 1950年認可 連合 広域の調整 右へ進むほど、法的根拠・強制力・区域の広がりが強まる。 本稿はこの階梯を「水を配る技術」ではなく「水を管理する組織」の発達として読む。
図1 水を管理する組織の階梯。任意の結社から公法上の団体、法人、広域調整の連合へと、管理の主体が制度的に強化されていく過程を模式化した。年代は本文および記念誌の記載による。

2. 土地改良区とは何か ── 土地改良法という器

磐田用水東部土地改良区の来歴に入る前に、そもそも土地改良区とは何かを確認しておきたい。土地改良区は、1949年に制定された土地改良法にもとづいて設立される法人である1。任意の団体でも、市町村の一部局でもない。一定の区域内で農地に関わる土地改良事業を行い、その施設を維持管理するために、法律が特別に用意した公共的な法人という位置づけをもつ。株式会社が利益を目的とする法人であるのに対し、土地改良区は水と農地の保全を目的とする、いわば地域の水を預かるための器である。

この器には、いくつかの制度的な特徴がある。第一に、区域内で一定の要件を満たす農地の所有者・耕作者は、原則として組合員となる。水の恩恵を受ける者が、その水を守る責任も負うという仕組みである。第二に、組合員は賦課金を負担する。水路の補修も、施設の更新も、事務局の運営も、この賦課金がなければ回らない。第三に、意思決定は組合員による自治で行われる。組合員が総代を選び、総代会が予算や事業を議し、理事会が執行する。県や市の下部組織ではなく、受益者みずからが運営する自治組織である点が、土地改良区の核心にある。

なぜこのような特別な法人が必要なのか。水利施設は、その性質上、個々の農家では管理できない。一本の幹線水路は多数の農地を潤すが、その補修費を誰がどれだけ負担するかは、放っておけば決まらない。上流の農家は下流の水路補修に関心をもちにくく、恩恵を受けながら費用を負わない者も現れうる。こうした集合行為の困難を、法律による強制力で解く。区域を定め、区域内の受益者を組合員とし、賦課金の負担を義務づける。土地改良区とは、水という共有財を管理するために、受益と負担と決定を一つの区域のなかで結びつける制度装置なのである。

ここで一点、史料の性格について注意しておく。以下で扱う磐田用水東部土地改良区の設立年・区域指定・認可の年代は、設立50周年記念誌『磐田用水のあゆみ』に記載された年月日を史実として扱う2。他方、賦課金の水準がどれほど組合員の負担となったか、受益者が組織にどの程度参加意識をもっていたかといった運営の実態については、記念誌の年表や表からは直接には読み取れない。これらは推定として扱い、史実と混同しない。土地改良法という制度の一般的な枠組みは背景知識として述べうるが、磐田の個別の運営実態を断定的に語ることは慎む。

土地改良区の意思決定と負担の循環 組合員(受益者) 農地の所有者・耕作者 総代会 予算・事業を議決 理事会・管理者 事業を執行 水路・施設の維持 補修・分水・更新 総代を選ぶ 賦課金 受益者が費用を負担し、自治で決定し、その施設がふたたび受益者を潤す。破線は賦課金の負担を示す。
図2 土地改良区の意思決定と負担の循環。受益・負担・決定を一つの区域内で結びつける制度装置であることを模式化した。図は土地改良法の一般的な仕組みにもとづく概念図であり、特定年次の機関構成を示すものではない。

3. 前史 ── 水利土功会から普通水利組合へ

磐田用水東部土地改良区は、ある日突然に生まれたわけではない。その前史には、水を管理しようとする地域の試みが半世紀以上にわたって積み重ねられている。記念誌の年表によれば、1885年(明治18年)5月に社山疏水組合水利土功会が組織された3。社山疏水は、天竜川の水を引いて磐田原周辺の農地を潤そうとする明治の水利構想であり、その担い手として結成されたのがこの水利土功会である。水利土功会は、水利事業のために土地の所有者らが結ぶ組織で、のちの制度的な組合の前身にあたる。

ただし、この初期の試みは平坦ではなかった。年表は、1888年(明治21年)8月に水利土功会が事業中止を決議したことを記録している。組織を作れば水が引けるというものではなく、資金・技術・利害の調整という現実の壁の前で、事業はいったん頓挫したのである。この中止の決議は、水利組織の歴史を「成功の連続」として描く誘惑を退けるうえで重要な記録である。組織は作られては行き詰まり、また組み直されながら、少しずつ制度的な形を整えていった。ここで確認しておきたいのは、なぜ中止に至ったのかという具体的な事情については、記念誌の年表が事実の記載にとどまる以上、本稿の範囲では立ち入った説明を確認できていないという点である。これは中止の理由が史料に「記載されていない」と断ずるのとは異なる。より詳細な会議記録や関係文書に当たれば、事情が明らかになる余地は残されている。

その後、水利を担う組織は普通水利組合へと制度化されていく。普通水利組合は、旧来の水利慣行団体を近代的な公法上の団体として再編する制度であり、任意の結社であった水利土功会とは、法的な位置づけを異にする。年表には、1926年(大正15年)3月17日に社山疏水普通水利組合の廃止を決議したこと、そして1930年(昭和5年)9月6日に磐田用水東部普通水利組合の区域を指定し、同年10月13日にその許可指令が下ったことが記録されている。社山疏水の名を冠した組合が廃され、磐田用水東部普通水利組合として新たに区域が定められたこの一連の動きは、水利組織が「疏水を通す構想の団体」から「用水を管理する区域の団体」へと性格を変えたことを示している。

この前史から読み取れるのは、組織化とは区域の確定と不可分だという事実である。水利土功会の段階では、組織の輪郭は関係者の合意にゆだねられていた。しかし普通水利組合の段階になると、区域が行政の手続きによって指定され、許可指令という形で公認される。1930年の区域指定は、誰がこの用水の受益者であり、誰が管理の責任を負うのかを、公的に線引きした画期であった。以後、水の管理は、この線引きされた区域を単位として営まれることになる。土地改良区への道は、この普通水利組合による区域の確定を土台として開かれた。

組織化の年表 ── 1885年から1950年へ 1885水利土功会組織 1888事業中止決議 1926社山疏水組合廃止決議 1930東部普通水利組合区域指定 1949土地改良法制定 1950改良区認可 ■ 任意の結社 ■ 公法上の団体 ■ 法人(土地改良区) 年代は記念誌年表による史実。1949年の土地改良法制定は制度的背景として付した。
図3 組織化の年表。水利土功会(緑)から普通水利組合(青緑)を経て、土地改良法にもとづく土地改良区(青)へ至る。色は組織の法的性格の変化を示す。年月日は記念誌の記載による。

4. 設立 ── 1950年の土地改良区認可を読む

記念誌の年表は、1950年(昭和25年)11月27日に磐田用水東部土地改良区が認可されたことを記録している。前年の1949年に土地改良法が制定されているから、この認可は新しい法制度が施行されて間もない時期のものである。全国で水利慣行団体が土地改良区へと切り替わっていく大きな流れのなかに、磐田用水東部土地改良区の設立も位置づけられる。1930年に区域を指定された普通水利組合が、20年を経て、新法にもとづく法人へと衣替えしたのである。この認可の年をもって、本稿の表題に掲げた「50年」の起点とする。

この切り替えが単なる看板の掛け替えではなかったことは、制度の性格の変化から読み取れる。普通水利組合も公法上の団体ではあったが、土地改良区は土地改良法という戦後の新しい枠組みのもとで、農地改革後の自作農体制と結びついて再編された。地主が土地を握っていた時代から、耕す者が農地を所有する時代へと移るなかで、水を管理する組織もまた、耕作する組合員の自治を基盤とする形へと組み替えられた。1950年の認可は、こうした戦後農政の転換を背景として理解する必要がある。もっとも、磐田用水東部土地改良区の設立が具体的にどのような議論や調整を経て実現したのか、その内部の経緯までは、記念誌の年表からは確認できていない。認可という結果は史実として押さえられるが、そこに至る過程は別途の史料を要する。

設立の意味を、組織の連続性という観点から捉え直しておきたい。1885年の水利土功会から数えれば、磐田用水東部土地改良区の前史は半世紀を優に超える。しかし組織としての法的な連続性は、水利土功会から土地改良区まで一本の線で結べるわけではない。任意の結社、公法上の団体、法人という三つの異なる法的性格を、組織は段階的に乗り換えてきた。設立50周年という区切りが1950年の認可を起点とするのは、土地改良法にもとづく法人としての磐田用水東部土地改良区が、この年に発足したからである。前史との関係でいえば、1950年は「新たな始まり」であると同時に「積み重ねの到達点」でもあるという、二重の性格をもつ。

ここで、50年という時間の単位そのものについても一言しておきたい。50周年記念誌が編まれたということは、この組織が半世紀にわたって存続したという事実を意味する。水利組織の歴史は、しばしば設立や竣工という華やかな場面で語られがちだが、実際に地域を支えるのは、その後の長い維持の時間である。堰を守り、水路を浚い、賦課金を集め、県と協議し、管理者が代を継いでいく──こうした反復こそが、組織の本体である。50周年という節目は、施設の建設だけでなく、補修・更新・農地の変化・組合員の世代交代を含めた、管理の持続を振り返る時間の単位なのである。

5. 管理区域を組織として読む

土地改良区を組織として読むうえで、管理区域は決定的な意味をもつ。区域とは、水がどこまで届くかという物理的な範囲を示すだけではない。それは、誰が組合員であり、誰が賦課金を負担し、誰が意思決定に参加するのかを画定する、組織の輪郭そのものである。1930年の普通水利組合区域指定が画期であったと前章で述べたのは、この輪郭が公的に線引きされたからにほかならない。管理区域を読むとは、水の届く先を読むことであると同時に、組織の成員がどこまで広がるかを読むことでもある。

ここで注意すべきは、管理区域が行政区画と必ずしも一致しない点である。市町村の境界は、行政上の都合や歴史的な経緯によって引かれる。これに対して水利区域は、地形と水路の配置によって決まる。水は標高の高いところから低いところへ、幹線から支線へと、施設の形に沿って流れる。したがって一つの土地改良区の区域は、複数の旧村にまたがることもあれば、同じ行政区のなかで水系によって分かれることもある。区域の線を地図の上でたどると、行政の線とは別の論理で引かれた、水の共同体の輪郭が浮かび上がる。これは地域史を読むうえで見のがせない視点である。

この区域の内実は、実際には一様ではない。記念誌の改良区編には、昭和45年度から平成8年度にかけての附帯県営事業として、広瀬・前野・匂崎西・匂崎東・一色・高木・掛塚・大原・今井田原・福田・浅羽といった多くの用水路の名が挙げられている4。これらの地区ごとの用水路は、一本の幹線で完結するのではなく、開水路・管水路・ポンプ・放流工といった多様な施設に分かれている。すなわち管理区域は、均質な平面ではなく、地区ごとに異なる施設と条件をかかえた、複合的なまとまりなのである。土地改良区は、この不均質な区域の全体を、一つの組織として束ねて管理する。区域内のどの地区にも水を届け、どの施設についても賦課と負担を調整するという課題が、組織に課される。

もっとも、区域内の受益者が実際にどれほど「一つの水利共同体」としての意識をもっていたかは、慎重に扱うべき問いである。制度上は同じ区域の組合員であっても、幹線に近い地区と末端の地区とでは、水をめぐる利害が一致するとは限らない。上流と下流、幹線沿いと支線の末端では、渇水時の水配分をめぐって緊張が生じうる。こうした区域内部の利害の濃淡や、受益者の帰属意識のありようは、年表や事業一覧といった史料からは直接には読み取れない。本稿ではこれを推定の領域として区別し、区域が制度上の輪郭であることは史実として述べつつ、その輪郭の内側でどのような意識が働いていたかについては、断定を避ける。

行政区画と水利区域はずれる 行政区画(旧村界) 水利区域(管理区域) 幹線水路 支線水路が地区ごとの農地へ分かれる 水は地形と施設に沿って流れるため、水利区域は行政の境界とは別の論理で引かれる。
図4 管理区域の模式図。破線は行政区画(旧村界)、青の枠は水利区域を表す。両者はしばしば一致せず、水利区域は幹線・支線という施設の配置に沿って引かれる。地区や水路の位置を正確に示す地図ではない。

6. 連合 ── 単独では担えない水を誰が管理するか

一つの土地改良区が管理できる範囲には限りがある。取水施設や幹線水路のように、複数の土地改良区が共同で恩恵を受ける大規模な施設については、単独の改良区だけでは管理を担いきれない。ここで登場するのが、土地改良区連合という仕組みである。連合は、複数の土地改良区が集まって構成する上位の組織で、広域にわたる施設の管理や、市町をまたぐ利害の調整を担う。図1に示した組織の階梯において、連合が最も右に、すなわち最も広い区域と強い調整機能をもつものとして位置づけられるのは、このためである。

広域管理には、単独の改良区にはない固有の難しさがある。天竜川のような大河から水を取る場合、取水口は一箇所でも、その水は下流の広い範囲に配られる。上流で多く取れば下流に届く水は減り、右岸を優先すれば左岸が不足する。渇水の年には、こうした対立が先鋭化する。連合という仕組みは、個々の改良区の利害を超えて、広域の水をどう配分するかを協議し決定するための場である。磐田用水の管理史は、こうしてみると、地域の自治と広域の調整という二つの原理が、たえず折り合いをつけてきた歴史でもある。

連合の意義は、規模の経済という観点からも理解できる。大規模な頭首工やポンプ施設、長大な幹線水路の維持には、多額の費用と専門的な技術が要る。これを個々の小さな改良区が別々に担うのは、費用の面でも技術の面でも効率が悪い。複数の改良区が連合を組み、共通の施設を共同で管理すれば、費用を分担し、専門的な人員を共有できる。連合とは、水という共有財を、より大きな単位で効率的に管理するための組織的な工夫でもある。ただし、磐田用水に関わる連合の具体的な構成や、どの施設をどの範囲で共同管理してきたかという細部については、本稿が依拠した記念誌の記載の範囲を超える部分が多く、立ち入った記述は確認できていないことを断っておく。

ここで、連合という上位組織の存在が、下位の土地改良区の自治を弱めるものではない点を確認しておきたい。連合は、個々の改良区を吸収して消してしまう組織ではなく、各改良区が自治を保ったまま、広域の課題についてのみ協議し調整する仕組みである。区域内の水路補修や賦課の決定は、依然として各改良区の自治にゆだねられる。連合が担うのは、あくまで単独では扱えない広域の施設と調整である。この重層的な構造──地域の自治を基盤としつつ、その上に広域の調整を重ねる構造──こそが、水という、狭くも広くもある共有財を管理するために、制度が編み出した解答である。

連合による広域施設の共同管理 土地改良区連合 広域施設・調整 改良区A 区域の自治 改良区B 区域の自治 改良区C 区域の自治 各改良区は自治を保ちつつ、共有施設と広域調整のためにのみ連合を構成する。
図5 連合の広域管理。複数の土地改良区が自治を保ったまま、取水施設や幹線のような共有施設の管理と広域調整のために連合を構成する重層構造を模式化した。改良区名は例示であり実在の構成を示すものではない。

7. 費用と意思決定は誰が担うのか ── 見えない組織の実態

ここまで制度の骨格を追ってきたが、組織を最終的に動かすのは人である。記念誌には、磐田用水東部普通水利組合の歴代管理者として、初代の柏木八郎左衛門、9代の江塚勝馬らの名が掲載されている5。個人名の羅列は、一見すると無味乾燥な記録に見える。しかし歴代管理者の名が代を追って連なるという事実そのものが、この組織が特定の一時期の事業体ではなく、代を継いで持続する管理の主体であったことを物語る。管理者が交代しながらも組織が存続したという連続性は、水利が一過性の工事ではなく、恒常的な運営であったことの何よりの証拠である。

費用の負担という側面に目を向けると、水を管理する組織の骨格がいっそう明瞭になる。水路の補修、施設の更新、事務局の運営、県との協議──こうした営みには、絶えず費用がかかる。その費用を支えるのが、組合員の負担する賦課金である。土地改良区は、受益者から賦課金を集め、それをもって施設を維持し、次の更新に備える。水を得る権利と、水を守る責任とを、賦課金という負担を通じて一つに結びつける。これが土地改良区という組織の、費用の面から見た本質である。誰が費用を負担するのかという問いに対する答えは、明快である。水の恩恵を受ける者が、みずから負担するのである。

意思決定の担い手についても同様に明快である。土地改良区は、県や市の下部組織ではなく、組合員による自治組織である。どの水路を優先して補修するか、賦課金をいくらにするか、どの県営事業を受け入れるか──こうした決定は、組合員が選んだ総代の会議を通じて、組織自身が行う。行政は認可や事業の実施を通じて関与するが、区域内の水をどう配り、どう守るかを日々決めるのは、受益者みずからである。水利施設が土木構造物であると同時に、人が運営する制度であるという二重性は、この意思決定の自治性において、最もよく現れる。

ただし、この費用と意思決定の実態を、史料からどこまで具体的に復元できるかには限界がある。歴代管理者の名は史実として確認できるが、その一人ひとりがどのような判断を下し、どのように地元をまとめたのかは、名簿からは読み取れない。賦課金の負担が組合員にとってどれほど重かったか、意思決定への参加がどの程度実質的であったかも、年表や表からは直接にはうかがえない。これらは推定の領域に属する。水を管理する組織の実態を語ろうとするとき、制度の骨格は史実として押さえられても、その骨格に血を通わせた人々の判断や感情の細部は、多くが史料の向こう側に残される。この限界を認めたうえで、なお名簿や事業一覧といった記録を丹念に読むことが、見えない組織を可視化する唯一の道である。この組織史的な視点は、幹線改良という工事の側から磐田用水を論じた第151号や、用水の全体像を扱った磐田用水の歩みとあわせて読むことで、より立体的なものになる。

表1 水を管理する組織の制度段階 ── 根拠・構成員・意思決定・強制力・確度
組織段階根拠構成員意思決定・強制力本稿での確度
水利土功会(1885年〜)関係者の合意による任意の結社水利事業に関わる土地所有者ら合意にもとづく。法的な強制力は弱い。組織年は史実。中止の事情は未確認。
普通水利組合(1930年区域指定)旧水利組合制度(公法上の団体)指定区域内の関係者区域指定・許可指令により公認。強制力を帯びる。区域指定・許可の年月日は史実。運営実態は推定。
土地改良区(1950年認可)土地改良法にもとづく法人区域内の農地所有者・耕作者(組合員)組合員の自治(総代会・理事会)。賦課金を義務づける。認可年は史実。参加意識・負担感は推定。
土地改良区連合複数改良区による上位組織構成する各土地改良区広域施設の共同管理と市町をまたぐ調整。仕組みは制度的背景。個別構成は未確認。

この表を通覧すると、水を管理する組織が、右の段階へ進むほど、法的な根拠を強め、構成員を明確にし、意思決定と負担の仕組みを整えてきたことがわかる。同時に、確度の欄が示すように、年代や区域といった骨格は史実として押さえられる一方、運営の実態や受益者の意識は、多くが推定にとどまる。この確度の落差そのものが、組織史を読むうえでの現実である。史料が語るのは、いつ・どこで・どの組織が公認されたかという枠組みであって、その枠組みのなかで人々がどう水を分け合い、どう費用を出し合ったかという肌理は、しばしば記録の外に残される。この落差を無理に埋めず、史実は史実として、推定は推定として書き分けることが、本稿の方法上の要である。

受益・負担・管理の循環 受益 水が届く 負担 賦課金 管理 補修・分水 受益者が負担し、負担が管理を支え、管理がふたたび受益を生む。土地改良区はこの循環を制度として担保する。
図6 受益・負担・管理の循環。水の恩恵を受ける者がみずから費用を負担し、その負担が施設の管理を支え、管理がふたたび受益を生む。土地改良区は、この循環を法的に担保する組織である。

8. 結論 ── 水を管理する組織を史料批判的に可視化する

本稿は、磐田用水東部土地改良区を、水を配る技術の側からではなく、水を管理する組織・制度の側から読んできた。得られた見取り図は次のとおりである。水利土功会という任意の結社にはじまり、普通水利組合という公法上の団体を経て、土地改良法にもとづく法人としての土地改良区に至り、さらに広域を束ねる連合へと展開する。この階梯を貫くのは、水という共有財を管理するために、受益と負担と意思決定を一つの区域のなかへ結びつけようとする制度の営みである。造った施設を守り続ける組織があってはじめて、用水は世代を超える地域の基盤となる。

この叙述にあたって本稿が一貫して守ったのは、確度の腑分けである。1885年の水利土功会組織、1930年の普通水利組合区域指定、1950年の土地改良区認可という年代は、記念誌に記録された史実として扱った。他方、事業中止の具体的事情や設立に至る内部の経緯、区域内の受益者の帰属意識、賦課金の負担感といった運営の実態は、推定の領域として区別した。そして、より詳しい史料に当たれば明らかになりうる事柄(未確認)と、史料に記載がないと断じうる事柄(記載なし)とを、注意して区別した。組織史を書くとき、骨格をなす年代と、その骨格に血を通わせた人々の判断とのあいだには、しばしば史料の確度の落差がある。この落差を無理に埋めず、書き分けることが、後世の調べものに耐える記述の条件である。

したがって本稿の立場は明確である。土地改良区の歴史は、工事の完成年だけを並べても読めない。地元負担金、組合の設立、区域の指定、認可指令、歴代管理者、県営事業、附帯事業といった記録が重なって、はじめて水が日常的に管理される仕組みが立ち上がる。水利施設は土木構造物であると同時に、人が運営する制度である。水路を造る人、費用を集める人、県と交渉する人、地元を説得する人、通水後に管理する人がいて、はじめて用水は地域の共有財産になる。工事史が施設の側から磐田用水を照らすのに対し、組織史はこの人と制度の側から照らす。両者は競合するのではなく、同じ用水を別の角度から可視化する営みである。

最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、事業中止の事情や設立の内部経緯は、より詳細な会議記録や関係文書を博捜することで、未確認の状態を史実へと押し上げられる余地がある。第二に、賦課金の水準や区域内の利害調整の実態は、賦課台帳や総代会の議事録といった運営記録に当たれば、推定を通説へと近づけられる。第三に、連合の具体的な構成と広域管理の実態は、連合側の史料を含めて別途に検討されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した確度の腑分けの枠組みのなかで、記録を一つずつ積み上げていく作業に属する。水を管理する組織は、日常の視界からは消えている。だからこそ、その来歴を史料批判の手続きによって可視化し、言葉にして残すことに意味がある。用水の水がいまも田を潤しているのは、この見えない組織が、半世紀を超えて水を管理し続けてきたからにほかならない。

本稿が扱った土地改良区の区域には、代を継いで田畑を守ってきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶と、その承継の現実にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。水を管理する組織の歴史を書き留めることと、その水に支えられてきた土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 土地改良区は、土地改良法(1949年〔昭和24年〕法律第195号)にもとづいて設立される法人である。同法は農地改革後の農業生産力の増進を目的とし、土地改良事業の主体として土地改良区を制度化した。本注の法制度の枠組みは一般的背景知識による。
  2. 設立・区域指定・認可の年月日は、磐田用水東部土地改良区設立50周年記念誌『磐田用水のあゆみ』の記載を史実として扱う。運営の実態・受益者の意識は同誌の年表・表からは直接には読み取れないため、本稿では推定として区別する。
  3. 1885年(明治18年)5月の社山疏水組合水利土功会の組織、1888年(明治21年)8月の事業中止決議、1926年(大正15年)3月17日の社山疏水普通水利組合廃止決議、1930年(昭和5年)9月6日の磐田用水東部普通水利組合区域指定および同年10月13日の許可指令は、いずれも同記念誌年表の記載による。
  4. 附帯県営事業(昭和45年度〜平成8年度)として、広瀬・前野・匂崎西・匂崎東・一色・高木・掛塚・大原・今井田原・福田・浅羽などの用水路が同記念誌改良区編の表に整理されている。地区ごとに受益面積・通水量・延長・事業費・施工年度が示される。
  5. 歴代管理者として、初代・柏木八郎左衛門、9代・江塚勝馬らの名が同記念誌に掲載されている。管理者名簿は、水利が行政と地域代表の連携によって代を継いで維持されたことを示す史料である。

付記:本稿は一般読者向け記事 c032(磐田用水東部土地改良区)の内容を、郷土史研究者向けに組織史・制度史の観点から再構成した論考版である。工事史を主題とした第151号(幹線改良事業)とは対をなし、本稿は「水を管理する組織」の側に軸を置いた。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、年代・区域・認可を史実、運営実態・受益者意識を推定として扱った。

参考文献・参考資料

  • 磐田用水東部土地改良区設立50周年記念誌編集委員会編『磐田用水のあゆみ』磐田用水東部土地改良区、2000年。
  • 土地改良法(1949年〔昭和24年〕法律第195号)。
  • 農林水産省「土地改良制度・土地改良区について」 https://www.maff.go.jp/j/nousin/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 全国土地改良事業団体連合会(水土里ネット)「土地改良区の役割」 https://www.inakajin.or.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 静岡県「県営土地改良事業・農業水利」関係資料 https://www.pref.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、農業・水利の章)。
  • 磐田市『磐田市史』資料編(近代・現代、産業・土地関係)。
  • 旧磐田郡各町村史(水利・用水の関係章)。
  • 磐田物語 c028「磐田用水の歩み ── 天竜川の水が変えた農地と暮らし」 https://iwata-monogatari.net/c028.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 c030「磐田用水幹線改良事業」 https://iwata-monogatari.net/c030.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 c032「磐田用水東部土地改良区 ── 管理区域と年表でたどる50年」 https://iwata-monogatari.net/c032.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「磐田用水幹線改良事業 ── 戦時下の突貫工事と初通水の記録」大石浩之の磐田論考 第151号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/151/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 佐口行正氏所蔵史料(水利・用水関係)。