磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第218号(天竜川治水史研究 一)
天竜川の治水史 ── 年表が語る「暴れ天竜」との三百年
受け流す治水から封じ込める治水へ ── 洪水年表の史料批判を通して
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
天竜川は古来「暴れ天竜」と呼ばれ、その下流部にあたる竜洋・掛塚の平地は、長い治水事業の積み重ねの上に成り立っている。本稿は、この川の治水を、田へ水を引く利水(用水)とは区別される「洪水を防ぐ工事」の歴史として読む。近世の川除普請(かわよけふしん)や霞堤(かすみてい)に代表される「水を受け流す」思想から、明治以降の連続堤・河川改修・派川締切による「水を封じ込める」思想へ、という治水思想の転換を軸にすえ、記録に残る洪水年と工事年を史実として押さえたうえで、被害の実態や工事の効果は推定として腑分けする。あわせて、この歩みを伝える「年表」という資料形式そのものの性格──何が記録され、何が漏れるか──を史料批判の対象とする。天竜川との攻防は堤防の完成をもって終わったわけではなく、上流のダム開発や河床の変化という新たな局面へと引き継がれてきた。本稿は「暴れ天竜」を、封じ込めきれぬ自然と、それでも住み続けてきた人々の営みとが交差する場として描き出したい。
キーワード:天竜川治水/暴れ天竜/川除普請/霞堤/連続堤/派川締切/史料批判
1. 問題設定 ── 治水を利水から切り離して読む
天竜川は、諏訪湖に発し、伊那谷を刻んで遠州平野へ下り、遠州灘へ注ぐ大河である。その下流部にあたる磐田市竜洋・掛塚の平地は、この川が運んだ土砂の上に開かれた土地であると同時に、この川の氾濫にたえず脅かされてきた土地でもある。近世以来、天竜川は「暴れ天竜」の名で呼ばれてきた。急な流れと大量の土砂、そして幾度もの決壊が、そう呼ばせたのである。
本稿が対象とするのは、この「暴れ天竜」に対する治水、すなわち洪水を防ぐための工事と組織の歴史である。ここで一つ、はじめに区別を立てておきたい。川に関わる土木事業には、大きく分けて二つの系がある。一つは、田畑へ水を引き入れて用に立てる利水(用水)であり、もう一つは、あふれる水を制御して人と土地を守る治水である。両者はしばしば同じ川、同じ時代に並行して進むため混同されやすいが、目的も技術も異なる。天竜川下流部の利水、すなわち磐田用水の系譜については、本論考シリーズの磐田用水幹線改良事業の稿ですでに扱った。本稿はそれと重ならぬよう、あくまで治水──水を防ぐ側の歴史に軸を置く。
治水を独立の主題として読むことには、方法上の利点がある。用水史の視点で川を眺めると、川はまず「恵み」として現れる。だが治水史の視点に立てば、同じ川がまず「脅威」として立ち現れる。同じ天竜川が、恵みと脅威という二つの顔をもつことこそ、この土地の歴史の根本にある事実であり、その脅威の側だけを腰を据えて追うことで、恵みの物語には収まりきらない、人と川との緊張の三百年が見えてくる。
そこで本稿は、治水の歴史を貫く一本の筋として、治水思想の転換という補助線を引く。おおまかに言えば、近世の治水は、堤を高く連ねて水を完全に締め出すよりも、あふれることを一定範囲で許容し、水の勢いを逃がしながら被害を分散させる方向に傾いていた。これを本稿では「受け流す治水」と呼ぶ。これに対し、明治以降の近代治水は、連続した高い堤で川を一本の水路に閉じ込め、氾濫そのものを起こさせない方向へ大きく舵を切った。これを「封じ込める治水」と呼ぶ。この二つの思想は截然と切り替わったわけではなく、長い移行期を伴うが、大きな流れとしてはこの向きに動いた、というのが本稿の見立てである。以下ではまず、その歩みを伝える資料そのものの性格を吟味したうえで、近世・近代の順に検討を進める。
2. 資料としての洪水年表 ── 何が記録され、何が漏れるか
治水の歴史を語るとき、私たちがまず頼るのは洪水と工事の年表である。何年に堤が切れ、何年にどの工事が行われたか──こうした年ごとの記録の連なりが、治水史の骨格をなす。だが年表は、そのまま史実の写しではない。年表という資料形式には固有の性格があり、それを吟味せずに読むと、記録の外にあった事実を見落とすことになる。本節では、個々の年代の検討に入る前に、年表という形式そのものを史料批判の対象としておきたい。
天竜川下流部に関わる洪水記録は、古代までさかのぼる。『続日本紀』には、奈良時代の天平宝字5年(761年)、遠江国の麁玉河(あらたまがわ、天竜川にあたるとされる)で堤防三百余丈が決壊し、延べ30万人を超える労力を投じて修築したことが記されている1。これは史料で確認できる古い洪水記録の一つである。以後、記録は近世に集中し、寛永2年(1625年)から幕末までのあいだに、竜洋周辺だけで20回を超える洪水が数えられるという。文化13年(1816年)、文政10年(1827年)の井通村森本での約300間(約540メートル)の破堤、翌文政11年(1828年)の再度の破堤、嘉永3年(1850年)、安政2年(1855年)、万延元年(1860年)の掛塚町江口での破堤、慶応元年(1865年)と、記録はほぼ切れ目なく続く。これらは各村の村誌や郡誌に採られた記録であり、年と場所が明記されている点で、史実として扱える確度をもつ。
問題は、こうして年表に載る洪水が、実際に起きた洪水の全体像をどこまで写しているか、である。ここで年表という形式の三つの偏りを指摘しておきたい。第一に、記録は被害の大きさに比例しない。大破堤は記録されやすいが、堤を越えても大事に至らなかった小規模な出水は、記録に残らないまま消えていく。年表の空白は、必ずしも平穏の証ではない。第二に、記録は記録者のいる場所に偏る。村誌・郡誌が整備された村の被害はよく残るが、記録の担い手を欠いた場所の被害は、同じ規模でも年表から漏れうる。第三に、記録の密度は時代とともに増す。近世後期から近代にかけて記録が急に増えるのは、洪水そのものが増えたというより、記録する制度と主体が整ってきたことの反映という側面が大きい。
したがって、洪水年表を「暴れ天竜」の被害史そのものと同一視することはできない。年表は、被害のうち記録された部分の分布図であって、被害そのものの分布図ではない。この区別を保つことは、後段で工事の効果を評価する際にも効いてくる。ある工事の後に年表上の洪水記録が減ったとしても、それを直ちに工事の効果と断ずることはできない。記録の減少が、被害の減少なのか、記録の欠落なのかは、別に確かめるべき問いだからである。本稿は、洪水の「年」を史実として扱う一方、その年表から読み取れる被害の「量的な推移」については、あくまで記録の推移であることを明示したうえで、慎重に扱う立場をとる。
3. 近世の治水思想 ── 水を受け流す技術
近代の連続堤が現れる前、近世の人々は天竜川とどう向き合っていたのか。ここは史料の残りが薄く、慎重を要する領域である。まず確実に言えるのは、近世を通じて破堤と復旧がくり返されていた、という事実である。前節に挙げた文政・嘉永・安政・万延の各年の破堤記録は、堤があり、それが切れ、そのつど修築されていたことを示す。堤の修築そのものが行われていたことは、これらの復旧記録から史実として確認できる。
一方で、その堤がどのような構造・思想のもとに築かれていたかを、天竜川下流部に即して具体的に記す一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。ここは「未確認」であって、「そのような治水が行われなかった(記載がない)」ことを意味しない。この留保を置いたうえで、近世治水一般の知見に照らして、いくつかの見通しを述べる。
近世治水の通説的枠組み
近世の河川治水では、堤を途切れなく連ねるのではなく、堤と堤を不連続に重ね、増水時にあふれた水を堤の切れ目からいったん遊水地へ導き、勢いを弱めてから本川へ戻す工法が各地で用いられたことが知られている。これがいわゆる霞堤である5。また、水の当たる部分に石や木で水制を設け、流れの向きを変えて岸を守る川除普請も、近世を通じて広く行われた。これらに共通するのは、水を完全に締め出すのではなく、あふれを一定範囲で受け入れつつ、被害を分散し、致命的な決壊を避けようとする発想である。本稿冒頭で「受け流す治水」と呼んだのは、この発想を指す。
ただし、霞堤や川除普請が天竜川下流部で具体的にどこにどう設けられていたかは、前述のとおり本稿では未確認である。したがって「天竜川下流に霞堤があった」と断定はできない。言えるのは、この時代の治水思想の一般的な傾きが「受け流す」方向にあったこと、そして下流部の破堤と復旧のくり返しが、そうした思想のもとでの人と川との関わりの現れであった可能性が高いこと、までである。近世の治水が「受け流す」性格をもったのは、技術上の制約もさることながら、上流から下流までを一つの計画で統御する主体が近世には存在せず、各村・各領がそれぞれの持ち場を守るほかなかった、という社会的条件にもよると考えられる。全体を封じ込める治水は、それを担いうる広域の主体を前提とする。その主体が現れるのが、次に見る明治である。
この社会的条件は、竜洋の土地の成り立ちとも無関係ではない。室町以降の竜洋を扱った稿で見たように、この地域は池田荘や掛塚湊を舞台に、荘園・湊町・天領といった複数の支配が重なり合う場であった。川筋の管理もまた、こうした重層的な支配のもとで分節されており、流域を貫く一元的な治水計画が立てにくい構造にあった。近世の「受け流す治水」は、技術の選択であると同時に、こうした支配の在り方の反映でもあったと見るのが穏当であろう。
4. 明治という転換点 ── 金原明善と私設の治水
近世の分節された治水から、近代の一元的な治水へ。その転換点に立つのが、安間村(現在の浜松市域)の金原明善(きんぱらめいぜん)である。明善による治水の歩みは、素材とした天竜川の治水年表にも詳しいが、本稿の関心に引きつけて、その意味を治水思想の転換として読み直しておきたい。
年表に沿えば、明善の関与は明治元年(1868年)の天竜川堤防決壊に始まる。彼はみずから修防を願い出て、同年11月にそれを実現させた。翌明治2年(1869年)には静岡藩によって水下(みずした、下流域)各村の総代に任じられ、以後、流域全体を視野に入れた治水を構想していく。明治4年(1871年)には鹿島から掛塚港までの区間の川普請改良を静岡藩に建言し、明治7年(1874年)6月には天竜川堤防会社を設立、明治9年(1876年)にはこれを治河協力社と改称した。明治11年(1878年)には自費で安間川の川替を行っている。これらの年紀と事業は、記録に確認できる史実として扱ってよい2。
ここで治水思想の観点から重要なのは、明善の事業が二重の意味で過渡的だった点である。第一に、担い手の性格において過渡的であった。堤防会社・協力社という組織は、公共の事業でありながら、私財を投じた私設の主体が担うものであった。国が河川を直轄する体制が整う前の、民間による広域治水の試みである。第二に、思想において過渡的であった。明善が構想したのは、上流の支流を締め切って水を本川に集め、流路を整えるという、後の「封じ込める治水」につながる発想である。だがそれは、いまだ国家的な計画としてではなく、下流の村々を守るための個別の工事の積み重ねとして進められた。明治5年(1872年)に上流鹿島村での支流締切が費用超過を理由に不許可となり、明治6年(1873年)には下流での支流川締切に掛塚港村民が反発したことは、流域全体を一つの計画で動かす主体がなお不在であったことを示している。
明善の事業は、明治14年(1881年)を境に、国・県・町村の枠組みへと移行し、治河協力社は解散へ向かう。ここに、私設の治水から公共の治水への移行がはっきりと現れる。翌明治18年(1885年)から、いよいよ国家が河川を直轄する近代改修が始まる。明善という一個人の献身が切りひらいた道を、国家という主体が引き継いでいく──この継承のかたちそのものが、天竜川治水の近代化の性格をよく表している。もっとも、明善個人の事績と国家事業への移行の因果を過度に単純化することは慎みたい。明善の献身が近代改修を「準備した」とまで言えるかは、なお検討を要する。ここでは、私設から公共への担い手の交替という制度的な事実を史実として押さえるにとどめ、その思想史的な意味づけは推定の域にあることを明記しておく。
5. 近代河川改修 ── 水を封じ込める技術
明治18年(1885年)11月から明治27年(1894年)4月にかけて、内務省の直轄事業として第一次改修が行われた。区間は二俣町鹿島以南、工費は約80万円と記録される。主要な工事は、護岸の石張とその補強、水の当たる部分へのケレップ水制の設置、神田口締切堤の延長、合代島・一貫地から松ノ木島にかけての連続堤の築造、河口付近の砂丘や飛地の除去であった3。ここで用いられたケレップ水制は、明治初年に来日したオランダ人技術者の考案によるもので、岸から川へ突き出して流れの勢いを弱め、向きを整える構造物である。この時期、日本の河川改修は、オランダ由来の低水工法から、堤で水を封じ込める高水工法へと重心を移していく。天竜川の改修も、その大きな流れのなかにあった。
第一次改修は、しかし、被害の多い区間に絞った部分的な改修にとどまった。それでは足りないことを突きつけたのが、明治43年(1910年)・44年(1911年)の連続した大水害である。とりわけ明治44年8月の洪水は激烈で、池田村の水量標は1丈6尺4寸(約4.8メートル)、袖浦村岡の水量標は1丈8尺(約5.4メートル)余に達し、広瀬村一貫地では改修したばかりの堤約600間(約1080メートル)が破壊されたと記録される。資料はこれを、寛永2年(1625年)以来の大洪水と位置づけている。ここで一点、確度に注意したい。「約4.8メートル」「約5.4メートル」といった水位は、当時の水量標の読みを記録したものであり、その数値自体は史料に見える。ただし、その水位が現在のどの基準面からの高さにあたるかは、換算の前提を要する事柄であり、本稿ではそこまで踏み込まない。数値は記録どおりに掲げるが、それを現在の尺度へ機械的に置き換えることは控える。
この連続水害を直接の契機として、大正12年(1923年)から、内務省直轄の第二次改修が10か年の継続事業として始まった。中ノ町に天竜川改修事務所が置かれ、第一次改修よりも広範囲で本格的な改修に着手する。この第二次改修によって、今日われわれが目にする天竜川下流部の姿が、ほぼできあがったとされる。改修費・維持費・災害費を合わせた投資は、後年までの累計で約71億円に及んだと記録されるが、この額がどの時点までの累計で、どのような貨幣価値のもとでの数字かは、資料からは明確でない。したがってこの数値は、事業の規模を示す一つの目安として掲げるにとどめ、厳密な比較の基礎とはしない。
第二次改修の具体化は、昭和期の派川締切として進んだ。派川とは、本流から分かれて流れる川筋をいう。昭和4年(1929年)の河輪築堤に続き、昭和10年(1935年)着手・昭和19年(1944年)竣功の東派川締切、昭和12年(1937年)着手・昭和14年(1939年)竣功の大平川締切、昭和25年(1950年)着手・昭和26年(1951年)竣功の西派川締切、そして昭和37年(1962年)の井通堤締切と、分流はつぎつぎに締め切られていった。これらの締切は、天竜川の水を一本の本流に集め、氾濫の危険を減らすことをねらったものである。分流を閉じて水を一本に束ねるこの過程こそ、「封じ込める治水」の完成形にほかならない。昭和37年ごろまでに派川締切はほぼ完了し、天竜川は一本化された現在の姿にたどり着いた。近世の「受け流す治水」が水にいくつもの逃げ道を残していたのとは対照的に、近代の治水は、その逃げ道を一つずつ塞いでいったのである。
6. 比較と史料批判 ── 受け流すと封じ込める
ここまでの検討をもとに、近世の「受け流す治水」と近代の「封じ込める治水」を対比しておきたい。両者は優劣で並べられる関係ではなく、それぞれ長所と弱点を表裏に抱えている。以下の表は、両者を目的・技術・担い手・弱点の各点で対等に並べ、思想の違いを可視化することをねらう。特定の一方を進歩とみなす書式を避け、双方の性格を同じ粒度で記す。
| 観点 | 受け流す治水(近世) | 封じ込める治水(近代) |
|---|---|---|
| 基本の発想 | あふれを一定範囲で許容し、水の勢いを逃がして被害を分散する。 | 連続した堤で川を一本の水路に閉じ込め、氾濫そのものを起こさせない。 |
| 代表的な技術 | 霞堤、川除普請、水制、遊水地。 | 連続堤、ケレップ水制、派川締切、護岸の石張。 |
| 担い手 | 各村・各領。分節された局所的な主体。 | 金原明善の私設事業を経て、内務省直轄の国家事業へ。 |
| 長所 | 致命的な決壊を避けやすく、局所で完結できる。 | 平時の氾濫を大きく減らし、可住地・耕地を広げる。 |
| 弱点 | 遊水地となる場所は恒常的に浸水を引き受ける。 | 想定を超える出水では被害が一挙に集中し、上流の変化に弱い。 |
| 資料の確度 | 下流部での具体的所在は未確認。破堤・復旧の記録は史実。 | 年・区間・工費は記録に確認できる史実。効果の量的評価は推定。 |
この対比から見えてくるのは、二つの治水が単なる新旧の交替ではなく、それぞれ異なる前提のうえに立つ選択だった、という点である。受け流す治水は、遊水地となる土地の犠牲を織り込むことで全体の破局を避ける発想であり、封じ込める治水は、その犠牲を許さぬかわりに、想定を超えた出水では被害が一点に集中する危険を抱え込む。堤を高くするほど、堤の内と外の高低差は大きくなり、ひとたび切れたときの被害は激化する。近代治水は、氾濫の頻度を下げるかわりに、まれに起こる氾濫の激烈さを引き受けた、と言い換えることもできる。
史料批判の観点から、いま一度確度の腑分けを確認しておく。第一に、洪水の「年」と工事の「年・区間・工費」は、村誌・郡誌・改修記録に明記されており、史実として扱える。第二に、被害の「実態」──何戸が流され、どれだけの田が失われたか──は、記録された数字の背後に記録されなかった被害が控えており、記録を最小限の下限として読むべき推定である。第三に、工事の「効果」──ある改修がどれだけ洪水を減らしたか──は、前述のとおり年表上の記録の減少をそのまま効果とみなせないため、もっとも慎重を要する推定である。年表という資料は、年と事実の対応を明快に見せてくれるがゆえに、かえって「記録されなかったこと」を忘れさせやすい。年表を読むとは、載っている年を追うことであると同時に、載っていない空白を疑うことでもある。本稿がくり返し「未確認」と「記載なし」を区別してきたのは、この空白の扱いを誤らないためである。
7. 堤防が完成したのちに ── ダム・河床・現在の課題
昭和38年(1963年)以降の改修は、水の強く当たる部分の根固水制の補修・増設に重点を置く、局所的な維持管理の段階に入る。第二次改修までで堤防の骨格が完成した後は、新たに大きな堤を築くよりも、既存の堤を守り、傷んだ箇所を補うことが中心となった。年表の上では、この段階は工事の記述が減り、一見すると治水が「完成」したかに見える。だが、それは攻防が終わったことを意味しない。
素材とした資料の末尾は、堤防完成後の新たな課題に触れている。洪水防御はいちおう概成したものの、骨材需要の増大にともなう河川砂利の採取や、上流部のダム開発の影響が下流部へ及びつつあり、河道の計画を見直して、治水・利水をあわせた恒久的な改修計画を立て直す必要がある、というのである4。この記述がいつの時点のものかは資料からは明確でないため、現在の状況をそのまま述べたものとしては扱えない。だが、堤防の完成が治水の終わりではなかったこと、そして新たな局面が別の相貌をもって現れたことは、確かに読み取れる。
ここで起きている変化は、これまでの治水とは質を異にする。近世から近代まで、天竜川治水の相手は一貫して「あふれる水」であった。ところがダム開発と砂利採取がもたらすのは、むしろ「土砂の不足」という逆向きの問題である。上流にダムができると、水とともに運ばれてきた土砂がダムにとどまり、下流へ供給される土砂が減る。河床が下がり、河口の砂浜が痩せる。堤で水を封じ込めることには成功したが、その封じ込めた水路のなかで、川が本来運ぶはずだった土砂の流れが細っていく。あふれる水を防ぐ治水が一応の完成を見たそのとき、痩せていく川という新しい課題が姿を現した。これを「封じ込める治水」がもたらした帰結の一つとして読むなら、天竜川との攻防は、局面を変えて続いていると言うほかない。
もっとも、河床低下や海岸侵食の現況とその原因を定量的に論じることは、本稿の史料的な範囲を超える。ここで確実に言えるのは、素材資料が堤防完成後の時点で、すでにダム・砂利・河道の問題を課題として認識していたという事実までである。その後の推移がどうであったかは、より新しい観測資料に基づいて別に検討されるべき主題である。本稿は、治水史を「堤防の完成」で閉じてしまうことの危うさを指摘するにとどめ、その先の評価は後考に委ねたい。戦後の竜洋では、天竜川の堤防によって洪水がひとまずおさまったのちも、昭和28年(1953年)の台風13号による高潮、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風による海水の侵入といった、海の側からの災害が続いた。水防の相手が川から海へと移っていったこともまた、治水の「完成」が攻防の終わりではなかったことを、別の角度から物語っている。
8. 結論 ── 年表が語る三百年の攻防
本稿は、天竜川下流部の治水を、利水とは区別される「洪水を防ぐ工事」の歴史として読み、その歩みを治水思想の転換──受け流す治水から封じ込める治水へ──という補助線に沿って整理してきた。得られた見取り図は次のとおりである。近世には、破堤と復旧をくり返しながら、あふれを一定範囲で受け入れて被害を分散する治水が営まれていた(ただしその具体的な工法の所在は下流部については未確認である)。明治に入り、金原明善の私設事業を過渡期として、治水の担い手は国家へと移り、連続堤と派川締切によって、水を一本の水路に封じ込める近代改修が昭和期に完成を見た。そして堤防の完成は攻防の終わりではなく、ダム・砂利・河床という新たな局面へと課題を引き継いだ。
この三百年を貫いて見えてくるのは、治水思想の一つの逆説である。人は、水にいくつもの逃げ道を残す治水から、その逃げ道を一つずつ塞ぐ治水へと進んできた。氾濫の頻度は確かに下がった。だがそのかわりに、まれに起こる氾濫の激烈さを引き受け、さらには川が運ぶ土砂の流れまでも細らせることになった。封じ込めることは、制御の完成であると同時に、新たな不均衡の始まりでもあった。「暴れ天竜」は、堤によって鎮められたのではなく、鎮められた形で別の姿に変わったのだと言うべきかもしれない。
方法の面で本稿が保とうとしたのは、年表という資料への史料批判的な距離である。年表は、年と事実の対応を明快に見せてくれる。しかしその明快さゆえに、記録されなかった洪水、記録されなかった被害、そして記録が語らない工事の実効を、私たちの視野の外へ追いやりやすい。本稿は洪水と工事の「年」を史実として尊重する一方、被害の実態と工事の効果は推定として腑分けし、「未確認」と「記載なし」を一貫して区別してきた。年表を読むとは、載っている年を追うことであると同時に、その空白を疑い続けることでもある。これは天竜川治水史に限らず、年表という形式で語られるあらゆる地域史に通じる作法であると考える。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、近世の天竜川下流部における川除普請・霞堤の具体的な所在は、近世の地方文書や絵図の博捜によって、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、明治期の水位記録を現在の基準面へ換算し、被害規模を通時的に比較する作業は、水文資料の裏づけを得て別に果たされるべきである。第三に、堤防完成後の河床低下・海岸侵食の推移とその原因は、より新しい観測資料に基づいて定量的に検討される必要がある。これらはいずれも、本稿が引いた「受け流す/封じ込める」という補助線を、より精密な資料で検証し直す作業に属する。暴れ天竜との攻防は、堤防の完成をもって歴史となったのではない。局面を変えて続くその攻防を、確度の層を保ったまま書き継いでいくこと──それが、この川とともに生きてきた土地の記憶に対して、いま私たちにできる誠実な向き合い方であると信じている。
注
- 『続日本紀』天平宝字5年(761年)条による。麁玉河を天竜川にあてる理解は通説であるが、古代の河道と現在の天竜川の同定には、なお検討の余地がある。↩
- 金原明善に関わる年紀・事業は、素材とした「天竜川の治水年表」(磐田物語 r027)が所引する各誌および明善関係資料による。本稿はこれを記録に確認できる史実として扱う。↩
- 第一次・第二次改修の期間・区間・工費・主要工事は、素材資料の記載による。工費・投資額の貨幣価値および累計の基準時点は資料から明確でないため、規模の目安として掲げる。↩
- 昭和38年(1963年)以降の第三次改修および堤防完成後の課題(河川砂利採取・上流ダムの影響)に関する記述は、素材資料の末尾による。記述の時点が資料から明確でない点に留意を要する。↩
- 霞堤・川除普請は近世治水の代表的技術として知られるが、天竜川下流部での具体的な所在・構造を記す一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。この「未確認」は、そうした治水が行われなかったこと(記載なし)を意味しない。↩
付記:本稿は一般向け資料「天竜川の治水年表」(r027)を底本の一つとし、これを郷土史研究者向けに、治水思想の転換と年表の史料批判という観点から再構成した論考版である。既刊の磐田用水関連論考(利水史)とは主題を分け、本稿は治水(防災)に軸を置いた。
参考文献・参考資料
- 磐田物語「天竜川の治水年表 ── 金原明善から第三次改修まで」(r027) https://iwata-monogatari.net/r027.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「磐田用水幹線改良事業 ── 戦時下の突貫工事と初通水の記録」大石浩之の磐田論考 第151号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/151/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「室町以降の竜洋 ── 池田荘・掛塚湊から天領支配まで」大石浩之の磐田論考 第198号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/198/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 『続日本紀』天平宝字5年(761年)条。
- 『磐田郡誌』(磐田郡教育会編、該当章。r027所引)。
- 『十束村誌』(r027所引)。
- 『掛塚町誌』および『掛塚町沿革誌』(r027所引)。
- 『袖浦村誌』(r027所引)。
- 提供資料「三、天竜川の変遷」(原本44〜59頁相当、治水に関する記述は主に56〜59頁。書誌未確認)。
- 金原明善関係資料(治河協力社・天竜川堤防会社の設立および事業に関する記録。r027所引)。
- 国土交通省 中部地方整備局 浜松河川国道事務所「天竜川の歴史・改修」 https://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大熊孝『洪水と治水の河川史 ── 水害の制圧から受容へ』(近世・近代治水思想の一般的背景として参照)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、天竜川治水に関する該当章)。