磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第41号(竜洋沿岸産業史 一)
袖浦村の塩づくり ── 遠州灘の砂丘に生きた製塩
塩業の技術・流通と村の生業
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
現在の磐田市竜洋地区南部の沿岸には、かつて遠州灘の砂浜に塩田を営んだ袖浦村があった。本稿は、この地の製塩業を、技術・流通・村の生業という三つの側面から、史実・推定・未確認の確度を腑分けしつつ検討する。江戸期以降に普及したとされる入浜式塩田は、潮の干満差を利用して海水を塩浜へ導く仕組みであり、遠浅で干満差の大きい遠州灘の地形によく適合していた。塩分を含む砂から濃い塩水(かん水)を採り、これを大釜で煮詰めて結晶を得るという工程は、砂浜の労働として長く繰り返された。産した塩は、天竜川の舟運や秋葉街道の「塩の道」を介して内陸の信濃へ送られた可能性がある。ただし袖浦村域の塩田の規模・生産量・廃業年、および「遠州塩」という呼称の実態を直接に語る一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。本稿はこの未確認の状態を明示したうえで、袖浦の製塩を、砂丘という自然条件と天竜川河口の交通に規定された地域の生業として記述し、明治期の村の成立から沿岸漁業への転換までを一連の過程として位置づける。
キーワード:袖浦村/製塩業/入浜式塩田/かん水/塩の道/南塩/遠州灘
1. 問題設定 ── 塩害の土地に製塩を読む
現在の磐田市竜洋地区の南部、遠州灘に面した砂浜の一帯は、かつて袖浦村(そでのうらむら)と呼ばれた。この土地を語るとき、まず思い浮かぶのは、年間を通じて吹きつける潮風と、井戸水にまで塩気が忍び込む厳しい環境である。海に近い砂地では、作物が塩を被って枯れ、農業は容易でない。ところが袖浦の人々は、その農業を苦しめる塩そのものを産業の資源へと転じた。海水と砂浜と陽光と潮風という、この土地にありあまるものを組み合わせ、塩をつくる生業をここに育てたのである。
本稿の課題は、この袖浦の製塩業を、地域史の対象として腑分けして記述することにある。製塩をめぐっては、技術・流通・村の生業という三つの側面が絡み合う。どのような仕組みで砂浜から塩を採ったのか、産した塩はどこへ運ばれたのか、そしてその生業は村の暮らしをどう形づくったのか。これらを一続きに描こうとするとき、私たちはただちに史料の壁に突き当たる。塩づくりが確かにこの地で営まれていたことは疑いないが、その規模や年代を数値で裏づける一次史料は、必ずしも豊富ではない。
そこで本稿がとる姿勢は、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないことである。行政記録によって年代を確定できる事柄と、製塩技術史の一般的知見から復元される事柄と、地域に語り継がれてきた事柄と、そして現時点では一次史料に突き当たっていない事柄とを、語の水準で書き分ける。とりわけ、「史料に記載がない」ことと「管見の限り一次史料を確認できていない」こととを区別することが、袖浦のように史料の薄い主題を扱ううえで欠かせない。前者はその事柄の不在を主張するが、後者は調査の現段階を述べるにとどまる。両者を取り違えれば、確かめられていないだけの事柄を、あたかも存在しなかったかのように語る誤りに陥る。
あらかじめ本稿の見取り図を示しておく。以下ではまず史料の状況を確認し(第2節)、続いて製塩技術の型を検討する(第3・4節)。次に産した塩の流通を、確度を保ちながら推定として論じ(第5節)、そのうえで村の成立と生業の転換を追う(第6節)。最後に、これらを規定した地理的条件を背景として整理し(第7節)、袖浦の塩業史がなお抱える未確認の領域を明示して結ぶ(第8節)。塩づくりという一見素朴な生業の背後に、自然条件・技術・交通・行政が幾重にも重なっていることを、順に解きほぐしていきたい。
2. 史料の状況と確度の腑分け
袖浦の製塩を論じるうえで、まず史料の状況を正直に確認しておかねばならない。この主題について確度の高い記述が可能なのは、主として行政の記録が残る近代以降の枠組み、すなわち明治22年(1889年)の町村制施行にともなう村の成立や、その後の郡の変更、国勢調査による人口といった事柄である。これらは公的な記録に基づくため、年代と数値をもって史実として扱ってよい。これに対し、製塩そのものの実態──村域にいくつの塩浜があり、どれほどの面積で操業し、年にどれだけの塩を産し、いつ廃業したのか──を数値で示す一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない1。
この非対称は、袖浦に固有の欠陥ではない。近世の在地産業一般について、行政の枠組みは記録に残りやすく、生産の日常は記録に残りにくい。塩浜の経営は多く小規模な村方の営みであり、藩の直轄でもない限り、生産高が体系的に集計されて残る保証はない。したがって袖浦の製塩を語るには、乏しい直接史料を、製塩技術史の一般的知見と、天竜川河口域の交通史と、村の行政史とで囲み込み、その内側に蓋然性の高い像を描くという迂回が要る。
もう一つ、この主題に特有の困難がある。塩田は、廃業とともに地表から消えやすい施設だという点である。石垣や礎石を残す建物と違い、砂浜に築かれた塩浜は、操業をやめれば風と波にならされ、やがて元の砂浜へと還ってしまう。塩釜も撤去されれば痕跡を残さない。つまり袖浦の製塩は、記録に残りにくいうえに、現地にも物証が残りにくいという二重の消えやすさを抱えている。地名や祠にわずかな記憶がとどまるのみで、それ以外は砂とともに流れ去った。史料の薄さは、この生業そのものの物質的なはかなさと無縁ではない。
この迂回を安全に行うために、本稿は事項を確度の層へ腑分けする。第一に、行政記録で確認できる史実。第二に、遠州灘沿岸で広く見られたことが複数の資料から支持される通説。第三に、根拠はあるが袖浦への当てはめが確定しない推定。第四に、現時点で一次史料に突き当たっていない未確認である。表1は、袖浦の製塩をめぐる主要な事項を、この四層に振り分けて一覧したものである。特定の事項を過大にも過小にも評価せず、各行の確度を対等の粒度で明示することを心がけた。
| 事項 | 確度の層 | 根拠となる資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|
| 遠州灘沿岸に砂浜製塩が営まれたこと | 通説 | 竜洋町史ほか地域史料、塩の道関連資料 | 沿岸一帯の事実。袖浦村域に限った操業実態は史料が乏しい。 |
| 入浜式塩田の技術 | 通説 | 製塩技術史の一般的記述 | 遠州灘での採用時期・普及範囲を示す一次史料は限定的。 |
| 明治22年の袖浦村成立と郡の変更 | 史実 | 町村制施行の行政記録 | 合併13村・新田名、1896年の磐田郡編入は記録で追える。 |
| 塩の道・南塩による信州への流通 | 推定 | 秋葉街道・南塩に関する複数資料 | 袖浦産塩の具体的な経路・量を示す一次史料は未確認。 |
| 塩田の規模・生産量・廃業年、「遠州塩」の呼称 | 未確認 | ─ | Web上の一次資料では確認できず、地域史料の博捜を要す。 |
この腑分けが示すのは、袖浦の製塩について「あった/なかった」という粗い二分では、事態を正しく捉えられないということである。製塩が営まれたこと自体は通説として揺るがないが、その規模を数値で語ろうとすると、たちまち未確認の領域へ入る。逆に、村の成立という行政上の事実は、年月日まで確定できる。研究の作法としては、この確度の落差を平らにならさず、落差のあるまま記述することが誠実である。以下の各節は、この表1の各行を、それぞれの確度を保ちながら敷衍する試みにほかならない。
3. 入浜式と揚浜式 ── 製塩技術の分岐
砂浜での製塩は、海水をそのまま煮ても効率が悪い。海水の塩分濃度はおよそ三パーセント台にすぎず、これを直接煮詰めては、莫大な燃料を費やして少量の塩を得るにとどまる。そこで各地の塩田は、まず砂と太陽と風を使って海水を濃縮し、塩分濃度を高めた「かん水」をつくる採かんの工程と、そのかん水を煮詰めて結晶を取り出す煎熬(せんごう)の工程とを分離した。この二段構えが、前近代の製塩に共通する基本原理である。採かんをいかに効率よく行うかによって、塩田の型は大きく分かれた。
採かんの型には、大きく揚浜式(あげはましき)と入浜式(いりはましき)とがある。揚浜式は、人力で海水を汲み上げて砂浜に撒く方式であり、潮の干満差が小さい海岸でも成り立つ反面、水を運ぶ労力が大きい。これに対し入浜式は、潮の干満差を利用して海水を自動的に塩田へ引き入れる方式である。堤防を築いた塩浜の高さを満潮と干潮のちょうど中間程度に設定し、その周囲に浜溝(はまみぞ)をめぐらせておく。満潮時には海水が浜溝を通じて塩田の砂へと下から染み込み、干潮時には水位が下がって余分な水が引く。こうして人が水を担ぐことなく、砂へ海水を供給し続けられる2。
この二型の分岐は、地形との対応で理解される。潮の干満差が小さく遠浅の砂浜に乏しい日本海側などでは、揚浜式が採られたと伝えられる。一方、遠浅の海岸と大きな干満差に恵まれた太平洋側の遠州灘は、労力の少ない入浜式に適した土地であった。袖浦を含む遠州灘沿岸で江戸期以降に普及したとされるのが、この入浜式である。広大な砂浜と大きな干満差という、袖浦がもともと備えていた地形条件が、そのまま入浜式塩田の立地条件と重なっていた点は見逃せない。農業を阻んだ砂と潮が、製塩においては最良の生産基盤へと反転したのである。
入浜式塩田は、近世に瀬戸内海沿岸で大規模に展開した技術として広く知られる。穏やかな内海と大きな干満差に恵まれた瀬戸内は、入浜式の一大生産地となり、その塩は各地へ移出された。遠州灘は外洋に面し、瀬戸内のような静穏な内海ではないが、遠浅の砂浜と大きな干満差という採かんの基本条件は共有している。したがって、瀬戸内で洗練された入浜式の原理が、海運や人の往来を介して太平洋沿岸の諸地域へも伝わり、遠州灘の砂浜にも根づいていったと考えることには、一定の蓋然性がある。ただし、その伝播の具体的な経路や時期を袖浦について跡づける史料は、本稿では確認できていない。
また、入浜式が採かんの労力を軽減したとはいえ、製塩全体が省力化されたわけではない。むしろ採かんの効率が上がれば、その分だけ煎熬に投じる燃料の確保が経営の要となる。塩を煮詰める釜を焚くには大量の薪を要し、この薪──塩木(しおぎ)と呼ばれることもある──を絶やさず調達できるかどうかが、塩浜の存続を左右した。海辺の砂浜が採かんの舞台であるとすれば、燃料を供給する後背の山や林は、製塩を支えるもう一つの不可欠な資源であった。塩業は海だけで完結する生業ではなく、海と陸の資源を結びつけてはじめて成り立つ営みだったのである。
ただし史料批判の観点からは、留保も必要である。入浜式が遠州灘沿岸で「いつ」普及したのかを一点で確定する一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。それが遠州灘の各村へどのように伝播し、袖浦でいつから採用されたのかは、なお検討を要する。したがって「袖浦は入浜式であった」という叙述は、遠州灘沿岸の一般的傾向からの推定として理解すべきであり、袖浦の塩浜の構造を実測した史料に基づく断定ではない。
4. 塩浜の生産工程 ── かん水から結晶へ
塩田で行われた作業を、採かんから煎熬まで順に追ってみたい。もっとも、以下の工程叙述は、袖浦の塩浜そのものを記録した史料に基づくものではなく、各地の砂浜塩田に共通する一般的な作業から復元した記述である。袖浦の塩浜における具体的な設備の配置や道具立てを直接に伝える史料は、本稿の範囲では確認できていない3。その限界を承知したうえで、砂浜製塩の原理を押さえておくことは、この生業の労働の質を理解するために有益である。
まず採かんである。入浜式では、浜溝から染み込んだ海水が塩浜の砂を下から潤す。日中、強い陽光と潮風が砂の表面の水分を蒸発させると、塩分だけが砂粒の表面に取り残されて濃縮していく。塩を含んで白く乾いた砂を掻き集め、これを沼井(ぬい)と呼ばれる槽に入れ、上から海水を注いで洗い流すと、砂に付いた塩分が溶け出し、下から濃い塩水が得られる。これがかん水である。海水そのものにくらべ、かん水は格段に塩分濃度が高く、次の煮詰めの燃料を大きく節約できる。晴天が続くほど採かんは進み、天候の読みがそのまま生産を左右した。
次いで煎熬、すなわち煮詰めである。得られたかん水を大釜に移し、薪を焚いてじっくりと煮つめていくと、やがて水分が飛んで塩の結晶が析出する。この工程は大量の燃料を要し、塩釜のための薪の調達は、塩浜の経営における恒常的な負担であった。塩の品質は、かん水の濃さと煮詰めの加減に左右される。袖浦で産した塩は「白く、粒が細かく、旨味が強い」と市場で評価されたと伝えられるが、この評語が事実であれば、それは採かんと煎熬の双方において丁寧な仕事がなされていたことの反映と考えてよい。もっとも、この評価そのものは伝承の層に属し、当時の市場記録によって裏づけられたものではない。
この工程は、季節と天候に強く縛られていた。採かんは陽光と乾いた風に依存するため、晴天の続く夏場が最盛期となり、雨や湿りの多い時期には思うように進まない。塩浜の一年は、天候の巡りに合わせて採かんと煎熬の量を加減しながら回っていたと考えられる。海の民が漁の季節に生活の律動を合わせたように、塩の民もまた潮と陽射しの巡りに暮らしの律動を重ねていた。天候を読む力そのものが、この生業における熟練の中身であった。
こうして見ると、砂浜の製塩は、自然のエネルギーを最大限に用いながらも、けっして楽な生業ではなかったことがわかる。潮の満ち引きと天候を絶えず読み、白く乾いた砂を来る日も来る日も掻き集め、重い海水とかん水を運び、薪を絶やさず釜を焚き続ける。太陽と風は無償で働くが、それを塩へと結晶させる最後の局面には、人と燃料の集約的な投入が欠かせなかった。この労働の重さこそが、次節で見る村ぐるみの組織化を要請した基盤である。
5. 塩の道と南塩 ── 遠州塩の流通をめぐる推定
産した塩は、どこへ向かったのか。塩は生活の必需品でありながら、内陸ではみずから得ることができない。したがって海辺で産した塩は、必ず内陸へと運ばれる流通の対象となる。江戸時代、遠州灘沿岸で生産された塩もまた、内陸の信濃国(現在の長野県)へ送られる貴重な物資であった。太平洋側から入る塩は信濃で「南塩」と呼ばれて珍重されたと伝えられ、その搬入路の一つが、相良(現在の牧之原市)を起点に、掛川、秋葉山を経て諏訪・岡谷方面へ抜ける道であった。この道は「塩の道」あるいは「秋葉街道」と呼ばれる4。
信濃が塩を海に頼らざるをえなかった事情も、あわせて押さえておきたい。四方を山に囲まれた内陸国は、みずから塩を産することができない。そのため信濃には、太平洋側から入る「南塩」と、日本海側から糸魚川方面を経て入る「北塩」の双方が搬入され、両者が内陸で出会う土地柄であった。この塩の欠乏こそが、遠州灘のような太平洋岸の産地に安定した需要を約束していた。海辺で塩をつくる袖浦の営みは、山国信濃の食卓と、目に見えない一本の線でつながっていたことになる。塩の道とは、その線を地上に敷いた交通の脈にほかならない。
相良が塩の一大産地として知られたことには、政治的な後押しもあった。江戸時代中期、相良藩主・田沼意次が領民に塩づくりを奨励したと伝えられ、相良は遠州における塩業の中心の一つとなった。この相良を起点とする流通網が、遠州灘沿岸で産した塩を束ねて信濃へ送り出す太い幹であったことは、複数の資料から支持される。問題は、この幹に、袖浦の塩がどのように接続していたか、である。
ここで確度を厳密に区別しておきたい。第一に、天竜川下流域から遠州灘沿岸にかけて塩の道の流通網が存在し、相良を起点とする秋葉街道が信州へ塩を送る主要ルートであったこと──これは複数の資料で確認できる。第二に、袖浦をはじめとする遠州灘沿岸の塩が、天竜川の舟運や周辺の街道を介して、こうした内陸流通網の一端を担っていたこと──これは沿岸産地の地理的位置から導かれる蓋然性の高い推定である。しかし第三に、袖浦産の塩が具体的にどの経路をたどり、どれだけの量が信州まで運ばれたのか──これを直接に示す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。第一を史実、第二を推定、第三を未確認と腑分けすることが、この主題を扱う要点である。
この点で、天竜川という水路の存在は無視できない。袖浦は天竜川河口の西岸に位置し、河口の掛塚湊は近世に廻船で栄えた集散地であった。掛塚の海運については本論考シリーズ第29号「掛塚湊と廻船問屋」で論じたが、河口の湊と舟運が沿岸の物資を束ねていたことを踏まえれば、袖浦の塩もまた天竜川の水運や河口の湊を経て流通した可能性は十分に考えられる。ただしこれもまた、湊の一般的機能からの推論であって、塩の積み出しを記録した帳簿を確認したうえでの叙述ではない。「遠州塩」という呼称が当時実際に広く用いられていたかどうかも、現時点では確認できていない。呼称は後世に整えられた総称である可能性を排除できず、当時の商いの現場でどう呼ばれたかは別途の検証を要する。
6. 袖浦村の成立と村の生業
製塩の技術と流通を確度を分けて見てきたが、これらが実際の生業として毎年くり返されたのは、それを担う共同体があったからである。ここで村そのものの歴史に目を転じる。明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行にともない、中平松村・東平松村・西平松村・岡村・藤木村・駒場村・又兵衛請新田・清庵浜請負新田・大中瀬村・小中瀬村・稗原村・海老島村・浜新田という、13にのぼる村と新田の地区が合併し、豊田郡袖浦村が発足したと伝えられる。当初は豊田郡に属したが、1896年(明治29年)には所属郡が磐田郡へと変更されたとされる5。袖浦の名は、遠州灘の波打ち際が衣服の袖のように緩やかに湾曲する風景から名付けられたとされる。
合併した地区の名に「新田」「浜請負」が目立つことは、この一帯の土地の履歴を映している。砂浜と湿地を人の手で耕地や塩浜へと拓いてきた開発の記憶が、地名のうちに刻まれている。塩浜もまた、こうした沿岸開発の一環として営まれたと見てよい。村としての袖浦の成立は、これら小さな開発集落を一つの行政単位へ束ねる出来事であり、それは同時に、潮とともに生きる人々の結束を制度の側から後押しするものでもあった。
製塩は、その性格からして共同の労働を要した。潮の満ち引きと天候を読み、塩釜の薪を調達し、重い塩水を運ぶ過酷な作業は、一戸の家では担いきれない。袖浦村の成立以降、こうした労働を村全体で組織的に分担するようになったとされる。薪の共同調達、塩浜の管理、出荷の段取りといった営みは、村という単位があってはじめて円滑に回る。塩業が村の生業の核であった時期には、村の社会組織そのものが、塩をつくり出すための仕組みとして編み上げられていたと考えられる。なお、村の規模を示す数値として、1950年(昭和25年)の国勢調査時点で袖浦村の人口は3,728人であったと記録されている。
だが、この塩業の時代は永くは続かなかった。明治後期以降、安価な海外産の塩の輸入が進み、さらに1905年(明治38年)の塩専売法に始まる塩の専売制のもとで、手間のかかる砂浜の塩田製塩は急速に競争力を失っていった。袖浦の浜辺に立ち並んでいた塩釜の煙突からは、大正期までには煙が消え、数百年続いたとされる塩づくりの歴史は幕を下ろしたと伝えられる。ここで注意したいのは、しばしば衰退の要因に挙げられる近代的な化学製法──流下式塩田やイオン交換膜法──が本格化するのは戦後のことであり、大正期の袖浦の塩業を直接に終わらせた要因とは時期を異にする点である。袖浦の砂浜製塩を退場させたのは、まずは輸入塩と専売制であり、化学製法はのちに全国の塩田製塩そのものへ終止符を打つ、より後の局面に属する。
塩をやめた村は、しかし海を離れなかった。人々は製塩から沿岸漁業へと主力を移した。地引き網やシラス漁は、砂浜の村が海とつながり続けるもう一つの道であった。遠州灘沿岸の漁業の展開については本論考シリーズ第24号「福田湊の発展と遠州の漁業史」で扱ったが、袖浦もまた、塩から魚へと生業の重心を移しながら、海辺の暮らしを保った。あわせて、砂地の保水性を活かしたサツマイモや根菜類の栽培、防風林の整備といった営みが、潮風の土地の暮らしを支えた。塩田の記憶は、古い地名や、塩の神を祀る小さな祠のなかに、いまもひそかに残る。そして1955年(昭和30年)、袖浦村は掛塚町・十束村と合併して竜洋町となり、村としての歴史に幕を下ろした。竜洋町成立に至る合併の経緯は竜洋町の誕生と近代行政のあゆみに詳しい。
7. 背景としての地理 ── 遠州灘の砂丘と天竜川河口
ここまで検討してきた技術・流通・生業のいずれも、その根底には袖浦の地理的条件が横たわっている。最後にこの背景を整理しておきたい。袖浦を規定した地理は、大きく二つである。一つは遠州灘の砂丘と砂浜、いま一つは東を限る天竜川の河口である。この二つが、農業を阻みつつ製塩を可能にし、また産した塩に流通の出口を与えた。
遠州灘の海岸は、広大な砂浜と、その内側に発達した砂丘列を特徴とする。強い潮風と飛砂は、農地にとっては絶えざる脅威であり、この土地の人々は黒松の防風林を育てて飛砂と潮風を防いできた。海岸砂丘と防潮の営みが磐田の沿岸に長く根づいてきたことは、遠州灘の砂丘・海岸線・防潮堤をめぐる歴史にも見えるとおりである。だが同じ砂浜と潮風は、製塩にとっては採かんの舞台であり動力であった。広い砂浜は塩田の用地を与え、強い陽光と潮風は水分を蒸発させ、遠浅で大きな干満差は入浜式の採かんを支えた。防がれるべき自然と、活かされるべき自然とが、同じ一つの砂浜のうえに重なっていた。この両義性こそ、袖浦という土地の核心である。
いま一つの天竜川河口は、袖浦に「外へ開く口」を与えた。海に産した塩は、内陸へ運ばれてはじめて価値を実現する。天竜川の舟運と河口の掛塚湊は、沿岸の物資を集散し、より広い流通網へ接続する結節点であった。袖浦が塩の道の幹へ接続しえたとすれば、その物理的な通路を用意したのは、まさにこの河口の水運であったと考えられる。もっとも、前述のとおり袖浦産塩の積み出しを記録した史料は未確認であり、これは河口の一般的機能からの推論にとどまる。それでも、砂浜が塩をつくり、河口が塩を運ぶという二重の地理的条件のもとに袖浦の塩業が成り立っていた見取り図は、確度の層を保ちながらも十分に描くことができる。
この地理はまた、塩業が退いたあとの村の身の振り方をも規定した。砂浜と海が残り、河口の漁場が残る以上、村が沿岸漁業へ重心を移したのは自然な選択であった。砂地はサツマイモや根菜の畑となり、砂丘には防風林が育てられた。塩から魚へ、塩浜から畑へという生業の移動は、いずれも同じ砂浜と海と砂丘という地理的資源の、別の使い方への切り替えであった。袖浦の歴史は、一つの土地が備える自然条件を、時代に応じて塩・魚・畑と読み替えていった営みの記録として読むことができる。
8. 結論 ── 未確認を腑分けする塩業史へ
本稿は、袖浦村の製塩業を、技術・流通・村の生業という三側面から、確度の層を腑分けしつつ検討した。得られた見取り図は次のとおりである。遠州灘沿岸に砂浜製塩が営まれたこと、その採かんが入浜式の型に属したとみられること、産した塩が塩の道を介して信州へ流れる流通網の一端に位置したこと、そして村が明治期に成立し、塩業の衰退ののち沿岸漁業へ転じたこと──これらは、通説・推定・史実の層においてそれぞれ相応の確からしさをもって記述できる。他方、村域の塩田の規模・生産量・廃業年、袖浦産塩の具体的な流通経路と量、「遠州塩」という呼称の当時の実態は、いずれも本稿の範囲では未確認であり、地域史料の博捜を俟たねばならない。
ここで改めて強調したいのは、「未確認」を「記載なし」と取り違えないことの意味である。袖浦の塩田の規模が数値で確認できないことは、規模がなかったことを意味しない。それは、その数値を伝える一次史料に、本稿がまだ突き当たっていないという、調査の現段階を述べるにすぎない。史料の薄い地域産業を扱うとき、この禁欲を守ることが、後の調べものに耐える記述を残す唯一の方途である。乏しい直接史料を、技術史・交通史・行政史で囲い込み、その内側に蓋然性の高い像を描きつつ、なお空白として残る部分を空白として明記する──この二重の作業を、本稿は試みた。
したがって本稿の立場は明確である。袖浦の塩業史は、失われた生業を懐かしむ物語としてではなく、確度の層を保った実証的記述の対象として書かれるべきである。砂丘という自然条件、入浜式という技術、天竜川河口という交通、村という組織──これらが折り重なって袖浦の塩業を成り立たせ、時代の変化がそれを退場させた。その全体を、史実は史実として、推定は推定として、未確認は未確認として書き留めることが、この土地の記憶を次代へ手渡す作法である。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、竜洋町史をはじめとする地域史料を博捜することで、塩田の反別・生産量・操業数・廃業年といった、いま未確認にとどまる事項を、史実の層へ押し上げられる余地がある。第二に、袖浦産塩と天竜川舟運・掛塚湊との具体的な結びつきは、湊の帳簿や廻船の記録を博捜することで、推定を通説へと進められる可能性がある。第三に、「遠州塩」「南塩」といった呼称の来歴は、流通の実態と呼称の成立とを分けて跡づける作業を要する。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を推定へ、推定を史実へと一歩ずつ進めていく作業に属する。塩害の土地に塩をつくった人々の営みは、その素朴さの見かけとは裏腹に、なお解きほぐすべき問いを豊かに含んでいる。天竜川河口の水運と沿岸産業の連関については、稿を改めて論じたい。
注
- 袖浦村域の塩田の反別・生産量・操業していた塩田の数・廃業の正確な年を直接に記す一次史料は、本稿の調査範囲(Web上で確認できる公開資料)では確認できていない。竜洋町史など地域史料による裏づけが望まれる。↩
- 入浜式・揚浜式の技術的説明は、日本の製塩技術史に関する一般的記述に基づく。遠州灘沿岸における入浜式の具体的な採用時期・普及範囲を示す一次史料は限定的である。↩
- かん水・沼井・大釜による工程叙述は、各地の砂浜塩田に共通する作業からの復元的記述であり、袖浦の塩浜の具体的な設備配置を記録した史料に基づくものではない。↩
- 相良を起点とする秋葉街道(塩の道)と「南塩」の呼称については塩の道関連資料による。江戸中期に相良藩主・田沼意次が塩業を奨励したことは一般に知られる。↩
- 明治22年(1889年)の町村制施行にともなう合併13村・新田名、および1896年(明治29年)の磐田郡編入は、行政記録により追える。1950年(昭和25年)国勢調査人口3,728人も同様。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 r005「袖浦村の塩づくり(製塩業)」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・未確認)を語の水準で区別し、行政記録に基づく村の沿革を史実、製塩技術と沿岸流通を通説・推定、塩田規模・生産量・廃業年・呼称の実態を未確認として扱った。
参考文献・参考資料
- 『竜洋町史 通史編』竜洋町(該当章)。
- 『竜洋町史 史料編』竜洋町。
- 『遠州掛塚港の廻船史』(掛塚湊の海運・廻船に関する資料)。
- 『天竜川河口域の歴史と民俗』。
- 『遠州の屋台と祭り文化の歴史』。
- 「塩の道案内資料 遠州相良から掛川へ」ほか塩の道・秋葉街道関連資料。
- 日本塩業史・製塩技術史に関する概説(入浜式塩田・揚浜式塩田・採かんの項)。
- 牧之原市(相良)の塩業と田沼意次に関する地域資料。
- 磐田市『磐田市史』通史編(該当章)。
- Wikipedia「袖浦村(静岡県)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/袖浦村_(静岡県) (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 r005「袖浦村の塩づくり(製塩業)── 遠州灘の塩害克服と生活の知恵」 https://iwata-monogatari.net/r005 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第29号「掛塚湊と廻船問屋」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/029/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第24号「福田湊の発展と遠州の漁業史」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/024/ (最終閲覧:2026年7月25日)。