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磐田物語 / 見付から福田・掛塚方面へ向かう旧道
古道 | 見付・南部・福田・竜洋

見付から福田・掛塚方面へ向かう旧道 ──
南部の低地を渡る道

見付は内陸の宿場町、福田は遠州灘の漁港、掛塚は天竜川河口の廻船湊。性格の異なるこの三つの拠点は、間にひろがる南部の低地――浸水しやすい沖積地――を挟んで向き合っている。この記事では、その低地をどう渡っていたのかを、確認できることとできないことを分けながら考えたい。

見付・福田・掛塚という三つの拠点

見付は東海道の宿場町として、遠江国府の時代から続く内陸の中心地だった。詳しくは東海道・見付宿の面影で扱っている。福田は太田川河口の天然湊で、遠州灘の漁業を支えてきた(福田湊の発展と遠州の漁業史)。掛塚は天竜川河口の廻船湊で、材木や御用米を江戸へ運んだ(掛塚湊の成立と廻船問屋)。三つの拠点は、それぞれ別の記事ですでに扱ってきたが、この三点を結ぶ「道」そのものを主題にした記事はまだなかった。

見付と福田・掛塚を結ぶ性格は、単なる二地点の往来にとどまらない。内陸の宿場と、性格の異なる二つの海辺の湊――遠州灘の漁港と天竜川河口の廻船湊――を結ぶという構図は、遠江の中でもやや珍しい組み合わせである。それぞれの拠点が別々の物流網(東海道の陸運、太田川の漁業、天竜川の水運)に属しながら、南部の低地を挟んで隣り合っていたという事実そのものが、この一帯の交通を考えるうえでの出発点になる。

南部の低地を渡る道の条件

見付と福田・掛塚の間にひろがる南部の低地は、天竜川がつくった沖積地であり、水害を受けやすい土地だった。天竜地区総論で整理したように、この一帯の集落は、周囲よりわずかに高い「微高地」をつたって旧道を通し、浸水を避けながら中泉・見付方面と行き来していたと考えられている。見付から福田・掛塚方面へ向かう道もまた、同じ原理――低地の中の微高地を選びながら南へ抜ける道筋――をたどっていたはずである。

見付の市街地から南へ出ると、まず今之浦と呼ばれる一帯に入る。今之浦は今之浦川が流れる低地で、現在の行政区画としては見付の南、福田の北東に隣接する。見付の地政学を扱った記事で触れたように、この今之浦は戦国期には入り江状の水域が広がっていたとされ、見付の水運を掛塚湊方面と結びつける役割を担っていたと考えられている。陸路が微高地を選んで南へ抜けていったのと並行して、水路もまた低地を介して見付と沿岸部をつないでいた可能性がある。道と水、両方の経路が同じ低地の制約――浸水しやすい沖積地をどう越えるか――に対する別々の答えだったと見ることができる。

現在の県道に重なる部分

見付と福田を直接結ぶ現在の道として、静岡県道43号磐田福田線がある。起点は見付の新通り交差点、終点は福田中島の福田西交差点で、総延長は約6.2キロメートル。1993年(平成5年)に主要地方道として指定され、途中で今之浦川に架かる於福橋を渡る区間は2009年に架け替えに伴うルート変更を経ている。この県道が江戸期以前の旧道をそのまま踏襲しているとまでは断定できないが、見付と福田という二つの拠点を最短距離に近いかたちで南北に結ぶ経路として、今も機能し続けている点は注目してよい。近代以降の道路が、街道や脇往還を国道・県道に置き換えながら経路を引き継いできたという交通史の一般的な傾向を踏まえれば、この県道の経路が、南部の低地を渡っていた旧道の位置を考えるうえでの一つの手がかりになりうる。

確認できること・できないこと
見付・福田・掛塚それぞれの歴史、南部の低地集落が微高地づたいの旧道で内陸とつながっていたという一般的な原則、今之浦の水運が見付と沿岸部を結んでいたとされること、そして現在の県道43号磐田福田線が見付・福田間を結んでいることは、既存の資料・記事や公開情報で確認できる。一方、見付から福田・掛塚へ向かう道について、固有の名称(◯◯街道・◯◯往還など)を持つ特定の旧道が存在したかどうか、また現在の県道が具体的にどの旧道を踏襲しているのかは、今回のWeb調査では確認できなかった。断定的な名称・ルートの提示は避け、磐田市立図書館所蔵の郷土資料や旧版地形図での追加確認を要する今後の課題としたい。

掛塚湊が結んでいた、もっと広い物流網

掛塚方面の物流を考えるとき、見落とせないのは、掛塚湊がそもそも見付との二地点関係だけで完結する湊ではなかったという点である。天竜川上流の信州(現在の長野県)で切り出された榑木(屋根材や桶・樽になる木材)は、管流し・筏流しによって天竜川を下り、掛塚湊に集積された。そこから廻船に積み替えられ、江戸や大坂へ運ばれていく。つまり掛塚は、信州・遠州・江戸を結ぶ広域物流の中継点であり、見付との関係は、その広域網の一部にすぎなかった可能性が高い。見付から福田・掛塚へ向かう道を考える際も、二地点だけを直線で結ぶ発想ではなく、掛塚湊を起点に四方へ広がる物流網の中に、見付方面への一本の枝道が含まれていたと捉えるほうが、実態に近いと考えられる。

何が運ばれたと考えられるか

断定はできないが、地理的な条件から推測はできる。福田からは、遠州灘でとれた海産物や塩が内陸へ向かい、見付からは、年貢米や農産物、あるいは信仰・行政にまつわる人の往来が沿岸部へ向かったと考えるのが自然である。掛塚方面へは、天竜川水運で運ばれてきた材木や物資が、見付を経由してさらに内陸・東海道方面へ流れていった可能性もある。

福田側については、福田橋の橋詰に藩の塩蔵が置かれていたと伝わる記録があり、少なくとも近世には福田周辺で塩の集積・保管が行われていたことがうかがえる。塩は内陸部にとって欠かせない物資であり、こうした集積地から見付方面へ運ばれた可能性は地理的に自然だが、その輸送経路が特定の道筋であったと確認できる記録には行き当たらなかった。また、掛塚湊は天竜川の水運で運ばれた材木の集積地であると同時に、江戸・大坂と結ぶ廻船の中継地としても機能しており、水上輸送が中心だったことも踏まえると、見付方面への陸路輸送は、水運を補完する副次的な経路だった可能性がある。いずれも拠点の性格から導かれる推測であり、具体的な輸送記録や地名にもとづいて確定した史実ではない。

見付東海道の宿場町。行政・信仰・商業の内陸拠点。
今之浦見付南方の低地。かつて入り江状の水域が広がり、水運で沿岸部と結ばれていたとされる。
福田太田川河口の天然湊。遠州灘の漁業拠点。福田橋橋詰には藩の塩蔵があったと伝わる。
掛塚天竜川河口の廻船湊。材木・御用米輸送の拠点。江戸・大坂と結ぶ廻船の中継地。
南部の低地天竜川がつくった沖積地。浸水を避け、微高地づたいに旧道が通ったと考えられる。
現在の県道静岡県道43号磐田福田線(見付新通り交差点~福田西交差点、約6.2km)。1993年主要地方道指定。
固有の旧道名今回の調査では未確認。今後の郷土資料での確認が必要。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。