磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第86号(見付戦国史研究)
徳川家康と三方原合戦 ── 見付を通った遠江攻略
武田信玄の遠江侵攻と磐田の戦国
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
元亀3年(1572年)、武田信玄は二万を超えるとされる大軍を率いて遠江へ侵攻し、木原・西島方面から見付を経て西へ進み、浜松北方の三方原で徳川家康軍を破った。本稿は、この一連の攻防を「見付を通った遠江攻略」という経路の観点から読み直し、見付・磐田が戦国史のなかで占めた位置を検討する。永禄11年(1568年)の家康の遠江侵攻から三方原合戦に至る五年間、天竜川東岸の見付は主戦場そのものではなかったが、軍勢・兵糧・情報が東西に往来する経路上の結節点として機能した。史料の中心は『図説 磐田市史』であり、武田軍の進路の一部は『浜松御在城記』などに基づく概略である。本稿は、史料で確認できる事項と、本多忠勝の武勇伝や伝酒井の太鼓といった後世の伝承とを語の水準で書き分け、合戦そのものの叙述に還元せず、その経路上に置かれた地の記憶として三方原を記述する立場をとる。あわせて一言坂・城之崎・挑燈野をめぐる既刊の論考を接続し、磐田の戦国を経路の視点から総合する。
キーワード:三方原合戦/武田信玄/徳川家康/遠江攻略/見付/天竜川/一言坂
1. 問題設定 ── 見付は「戦場」か「経路」か
三方原合戦は、徳川家康の生涯屈指の敗戦として広く知られる。武田信玄の大軍に浜松北方の台地で挑み、手痛い打撃を受けたこの戦いは、日本史の大きな流れのなかでも記憶される一戦である。しかしその決戦の舞台は浜松北方の三方原であって、磐田市見付そのものが両軍のぶつかる主戦場になったわけではない。それにもかかわらず、この戦役を語るとき見付・磐田の地を抜きにはできない。本稿が立てる問いは、まさにこの点にある。すなわち、主戦場ではなかった見付が、なぜ三方原の戦役において欠かせない位置を占めたのか、という問いである。
本稿の素材とする『図説 磐田市史』は、永禄11年(1568年)から元亀3年(1572年)までを、家康の遠江攻略と武田信玄の侵攻が交差する時期として整理し、見付を「戦場そのものだけでなく、天竜川を越えて東西へ軍が動く経路上」に置いて記述する。この一文は、戦国史を主戦場の勝敗を中心に描く見方とは別の、経路と結節点から地域を読む視点を提供する。合戦の帰趨は台地の上で決したが、そこへ至る軍勢の往来は、天竜川東岸の見付一帯を繰り返し通過した。
この経路という視点をとることには、方法上の利点がある。合戦を勝敗の一点に還元すると、その戦いが実際にどの土地を踏み、どの地の人々の暮らしのそばを通り過ぎたのかが見えにくくなる。逆に、軍勢がたどった経路に沿って戦役を追うと、教科書の一行に圧縮された出来事が、具体的な地面の上に展開した現実として立ち上がってくる。見付を経路の結節点として位置づけることは、この地を戦国史の脇役とみなすことではなく、むしろ軍事的な要地として正当に評価することにほかならない。
戦国史の叙述は、ともすれば著名な合戦の勝敗と、それを指揮した武将の決断に焦点を絞りがちである。三方原についても、家康がなぜ籠城せず打って出たのか、なぜ大敗を喫したのかといった論点が繰り返し論じられてきた。それらの問いに意義がないわけではない。だが、そうした叙述だけでは、合戦の前後に軍勢が実際にどの土地を移動し、どの町のそばを通過したのかという、地域に即した事実が視野から抜け落ちてしまう。本稿が経路の視点にこだわるのは、この抜け落ちを埋め、磐田の地を戦国史の具体的な現場として描き直すためである。
郷土史を書くという営みは、中央の歴史叙述をそのまま地方に当てはめる作業ではない。むしろ、大きな歴史の流れが、ある特定の土地でどのように現れたかを、その土地の側から記述し直すことにこそ意味がある。三方原合戦という全国に知られた出来事を、見付という一点の経験として捉え返すとき、教科書の一行は、具体的な地名と地形をともなった歴史として立ち上がる。本稿の記述は、この立ち上がりを丁寧に跡づけることを目指す。
もう一つ、本稿があらかじめ定めておく方針がある。それは、史料で確認できる事項と、後世に語り継がれてきた伝承とを、語の水準で書き分けることである。三方原の戦役をめぐっては、本多忠勝の武勇伝や、浜松城で打ち鳴らされたと伝わる太鼓など、印象深い逸話が数多く残る。これらは地域の記憶として貴重であるが、そのまま合戦の一次史料として扱うことはできない。以下では、確認できる事柄は史実として、後世の語りは伝承として、それぞれの位置を保ったまま記述していく。
以下ではまず、依拠する史料の性格を確かめ(第2節)、家康の遠江侵攻に至る前史を押さえる(第3節)。続いて武田信玄の西進経路を追い(第4節)、一言坂の戦いを史実と軍記のあいだで検討し(第5節)、伝承品の記憶を扱う(第6節)。そのうえで天竜川渡河と見付の結節性という地理的背景を論じ(第7節)、経路の視点から磐田の戦国を総合する(第8節)。
2. 史料の性格 ── 『図説 磐田市史』と『浜松御在城記』
検討に入る前に、依拠する史料の性格を確定しておく。本稿が事実の根拠とする中心資料は、磐田市史編さん委員会編『図説 磐田市史』であり、その項目23「徳川家康と一言坂合戦」が三方原前後の遠江情勢を整理している1。これは自治体史として編纂された二次的な整理であり、一次史料を博捜した成果を要約する性格をもつ。したがって本稿は、この資料が「史料が示す」と述べる事項を出発点としつつ、その背後にある一次史料の性格にも一言を加えながら記述する。
もう一つ、武田軍の進路を語るうえで参照されるのが『浜松御在城記』などの記録である。『図説 磐田市史』も、木原・西島方面から見付を経て西進したという進路の描写について、これらをもとにした概略であり、各部隊の厳密な通過地点には検討の余地があると注意を促している。この留保は重要である。戦国期の軍勢の進路は、後世の記録や軍記に基づいて復元されることが多く、その復元は資料の性格に応じた確からしさの幅をもつ。「木原・西島から見付を経て西へ」という大きな流れは資料が一致して示すところであるが、その大枠のなかで、どの部隊がいつどの地点を通ったかという細部までを一点で確定できるわけではない。
ここで、本稿が用いる確度の区別を明示しておきたい。第一に史実、すなわち編纂物や記録によって確認できる事柄。第二に推定、根拠はあるが一点には確定しがたい事柄。第三に伝承、地域や軍記のなかで語り継がれてきた事柄である。三方原の戦役についていえば、家康が遠江へ侵攻したこと、武田軍が見付方面を経て西進したこと、三方原で合戦があったことは史実の層に属する。武田軍の詳細な進路は推定の層に、本多忠勝の武勇をめぐる逸話や伝酒井の太鼓は伝承の層に、それぞれ位置づけられる。
加えて、「未確認」と「記載なし」を区別しておく。武田軍の各部隊が見付のどの地点を通過したかを一点で記す同時代の一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そうした史料が存在しないと断定できる」ことを意味するのではなく、「管見の限り、細部を裏づける一次史料に突き当たっていない」という状態を指す。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのかは、それ自体が別に検証を要する問いである。この区別を、以下の各節で一貫して保持する。
自治体史を出発点とすることには、利点と限界の両面がある。利点は、専門の編纂者が一次史料を収集・照合したうえで整理している点であり、個々の史料に当たる前の見取り図として信頼できる。限界は、要約の過程で一次史料の細かな表現や、複数の史料間の食い違いが均されてしまいうる点である。本稿は『図説 磐田市史』の記述を骨格として尊重しつつ、その背後にある一次史料の性格――国家の正史なのか、後世の軍記なのか、地域に伝わる由緒なのか――を意識しながら、確度の層を割り当てていく。
3. 前史 ── 家康の遠江侵攻と今川の崩壊
三方原に至る経路を理解するには、まず家康がどのように遠江へ入ったかを押さえておく必要がある。この侵攻の背景には、駿河・遠江・三河を治めた今川氏の急速な衰えがあった。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川の勢力は大きく傾いた2。三河で自立した家康は、やがて今川氏真との対立を深め、隣国・遠江へと手を伸ばす。一方、甲斐の武田信玄も、同じ遠江・駿河をうかがっていた。家康と信玄は、いったんは今川領を東西から分け取る密約を結んだと伝えられるが、その協調はやがて崩れ、両者は遠江をめぐって正面から対峙していくことになる。
永禄11年(1568年)12月、家康は井伊谷から遠江へ入り、気賀の堀川一揆などの抵抗を受けながら引間城を攻めた。引間城を得たのち、これを浜松城として本拠を整えていく。ここで注意しておきたいのは、家康の遠江入りが天竜川の西側、井伊谷から浜名湖北岸を経て引間へ向かう経路をとった点である。すなわち家康は東の見付方面からではなく、西寄りの山際の道から遠江の中枢へ入った。見付は、この段階では家康の侵攻路の正面にはなく、むしろ浜松を本拠とした家康にとって、東に控える東海道上の要地として意味をもつことになる。
家康が本拠を引間=浜松に定めた経緯については、単純に軍事的合理だけで説明できるものではない。当初は天竜川東岸の見付が本拠の候補に挙がったとも伝えられ、なぜ最終的に浜松が選ばれたのかは、それ自体が一個の論点をなす。この点については、天竜川を背後に控える見付の地形的なリスクなどをめぐって、別稿「家康はなぜ見付に本拠を置かなかったか」で論じた。ここでは、家康の本拠が天竜川の西の浜松に定まったことによって、東岸の見付が「本拠の東を守る要地」であると同時に「東から迫る敵が最初に踏む地」という二重の性格を帯びた、という点だけを確認しておきたい。
桶狭間から遠江侵攻に至る流れは、しばしば英雄たちの決断の連続として語られる。しかし地域の側から見れば、それは今川という一つの秩序が崩れ、新たな勢力が入れ替わっていく過程であり、その狭間で見付を含む磐田の地が、どの勢力の版図に属するのかが定まらない不安定な時期でもあった。国境地帯の町にとって、支配者の交替は税や軍役の担い手が変わることを意味する。家康の遠江入りは、こうした地域の帰属をめぐる大きな転換の一齣であった。
付言すれば、家康が今川から自立し遠江へ向かいえた背景には、西の織田信長との提携があったとされる。東の今川・武田と向き合う家康にとって、背後の三河・尾張方面の安定は不可欠であり、その提携が遠江侵攻を可能にした条件の一つであったと考えられている。もっとも、家康と信長、家康と信玄それぞれの関係は、時期によって協調と対立のあいだを揺れ動いており、遠江の情勢を一枚の同盟図で説明することはできない。見付を含む磐田の地は、こうした複数の勢力の思惑が交錯する場に置かれていた。
家康の遠江侵攻は、一度の進軍で完了したわけではない。気賀の堀川一揆に見られるように、遠江各地には今川方や在地勢力の抵抗が残り、家康はそれらを一つずつ収めながら支配を固めていった。この平定の過程で、天竜川以東の見付一帯がいつ、どの程度まで家康の勢力下に入ったのかは、必ずしも一点で明らかにできるわけではない。むしろ、東の武田と西の徳川がにらみ合う国境地帯として、見付を含む磐田の地は、支配の帰属が流動的なまま元亀年間へと入っていったと考えるのが実態に近い。
4. 武田信玄の西進 ── 元亀3年の遠江侵攻経路
元亀3年(1572年)11月、武田信玄は木原・西島方面から見付を通って西へ進んだと資料は示す。家康軍は浜松城へ退き、同年12月に三方原で戦った。すでに述べたとおり、この進路は『浜松御在城記』などをもとにした概略であり、各部隊の厳密な通過地点には検討の余地がある3。それでも、武田軍が天竜川東岸を西へたどり、その途上に見付があったという大枠は、資料の一致して示すところである。
このときの信玄の西進は、単なる遠江への侵攻にとどまらない、大きな戦略の一部であったと考えられている。信玄は、京へ上って天下の情勢を左右しようとする、いわゆる上洛を目指していたとされ、その途上でまず遠江・三河を押さえようとした。二万を超えるともいわれる大軍が、東から遠江へなだれ込んだ。その進路上に、見付があった。木原・西島は天竜川の東岸にあたる一帯で、大軍が川を越える前後に通過する要地である。
資料が確認できる範囲。武田軍が元亀3年に遠江へ侵攻し、木原・西島から見付方面を経て西進したこと、家康が浜松城へ退いたこと、そして三方原で合戦があったことは、史料の裏づけをもつ事項として扱ってよい。見付が武田軍の西進経路上にあったという点も、資料の一致する記述である。
確定しがたい細部。他方で、二万という軍勢の具体的な規模、各部隊がいつどの地点を通過したか、信玄の意図が明確な上洛戦にあったのか否かといった点は、軍記や後世の記録に多くを負い、一点には確定しがたい。本稿はこれらを推定の層に置き、「西進した」という大枠と、その細部の確度とを区別する。
大軍が通り過ぎるとき、その沿道の村々が無傷でいられるはずもない。兵糧の調達、人足や馬の徴発、田畑の踏み荒らしなど、戦国の合戦の陰には、名も記されないまま巻き込まれた無数の民の苦難があった。見付やその周辺の人々もまた、東から迫る武田の大軍と、西の浜松に構える家康との間で、息をひそめて時の過ぎるのを待ったにちがいない。武将たちの華々しい武勇伝の裏側に、そうした庶民の生きた時間があったことは、記録にこそ乏しいが、経路の視点をとるとき必ず視野に入ってくる事実である。戦国の争乱は、遠い場所の出来事ではなく、この磐田の地を実際に踏みしめて進んでいったのである。
ここで一つ、経路と主戦場の関係を確かめておきたい。武田軍が見付を通ったからといって、見付で大合戦が起きたわけではない。両軍が正面からぶつかったのは、あくまで浜松北方の三方原の台地である。見付が担ったのは、大軍が天竜川を越えて西進していく、その通り道としての役割であった。だがこの「通り道」は、決して軽い役割ではない。大軍を養い、進退させるためには、街道と渡河点を押さえることが不可欠であり、見付はまさにその要にあたった。経路であることは、脇役であることを意味しない。
信玄の遠江侵攻をより大きな文脈に置けば、それは西上作戦とも呼ばれる一連の軍事行動の一環として理解されている。ただし、信玄の最終的な狙いが京への上洛にあったのか、遠江・三河の切り取りにとどまったのかについては、研究者のあいだでも見方が分かれており、本稿はこれを断定しない。確実に言えるのは、信玄率いる大軍が元亀3年の晩秋に遠江へ入り、その進路が天竜川東岸の見付一帯を通過したことである。信玄自身はこの遠征の途上、翌元亀4年(1573年)に病により没したと伝えられ、武田の西進はやがて頓挫する。三方原の勝利が武田にとって大きな戦果へ結実しなかった背景には、この信玄の死があった。
5. 一言坂の戦い ── 史実と軍記のあいだ
武田の大軍を前に、家康は偵察に出た軍勢を浜松へ退かせようとする。その退却戦の舞台となったのが、見付にほど近い一言坂(ひとことざか)である。ここで殿軍(しんがり)、すなわち退く味方を守るため最後尾で敵を食い止める最も危険な役を務め、家康軍の無事な撤退を助けたとされるのが、本多忠勝である。一言坂の戦いは、三方原本戦の前哨戦として位置づけられ、見付周辺が戦国史のなかで確かな位置を占めていたことを示す出来事である。この戦いそのものについては、別稿「一言坂の戦い ── 本多忠勝の殿軍をめぐって」で詳しく検討したので、本稿では三方原の戦役全体のなかでの位置づけに絞って述べる。
確認できる骨格。元亀3年の武田侵攻に際して、家康方の部隊が退却戦を行い、その舞台の一つが一言坂であったこと、そこで本多忠勝が殿軍として奮戦したとされることは、資料が伝える骨格である。一言坂という具体的な地名が、この戦役の記憶と結びついて残されている点は、見付周辺が単なる通り道ではなく、実際に軍事行動の起きた場であったことを物語る。
逸話の性格。他方で、忠勝の奮戦が武田方の武将からも称賛されたという話や、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」──唐渡りの兜と本多平八郎忠勝は家康にはもったいないほど立派だ、とうたわれたという逸話は、後世の軍記物が英雄を際立たせるために整えた表現でもある4。この種の逸話は忠勝の武勇を象徴するものとして広く知られるが、細部をそのまま史実と受け取ることには慎重でありたい。
一言坂の戦いを経路の視点から見ると、その意味はいっそう明確になる。家康は東から迫る武田軍に対し、天竜川の西の浜松城まで軍勢を退かせなければならなかった。その退却路が見付から一言坂を経て天竜川方面へ向かうものであったとすれば、殿軍の奮戦は、まさにこの経路上の一点で、追う武田と退く徳川がぶつかった局面であったことになる。合戦の勝敗を決する主戦場ではないが、軍勢の進退がぶつかり合う結節点として、見付周辺は確かにこの戦役の一部を担っていた。
殿軍という役割そのものについても、一言しておきたい。退却戦において最後尾を守る殿軍は、味方の主力が安全に退くための時間を稼ぐ役であり、敵の追撃を正面から受ける最も危険な任務である。この役を務めた者の武勇が後世に語り継がれやすいのは、それが軍勢全体の生死を左右する局面だからである。本多忠勝の名が一言坂とともに記憶されたのも、この殿軍という役割の重みゆえであろう。ただし繰り返せば、その奮戦ぶりを具体的に描く叙述の多くは後世の軍記に負っており、細部の史実性と、役割そのものの重みとは、区別して受けとめる必要がある。
6. 伝承品が伝える記憶 ── 伝酒井の太鼓
浜松城には、三方原から退いた家康軍が、城内に多くの軍勢がいるように見せるため太鼓を高く打ち鳴らしたという伝承がある。この太鼓は「伝酒井の太鼓」と呼ばれ、のちの見付学校の時代にも時報用として使われたと伝えられる5。これは合戦の一次史料ではなく、戦いが地域でどのように記憶されてきたかを伝える資料である。
こうした伝承品や逸話を、それ自体で「合戦の証拠」として扱うことはできない。太鼓を打ち鳴らして敵を欺いたという話も、後世に語られ、磨かれてきた物語の色合いが濃い。しかし、こうした伝承が生まれ、大切に語り継がれてきたという事実そのものが、三方原の戦いがこの地域の人々にとっていかに大きな出来事だったかを物語る。とりわけ「伝酒井の太鼓」が、明治の見付学校で時報として使われたと伝わることは、記憶の伝わり方として注目に値する。戦国の記憶をまとった品が、近代の子どもたちの学び舎で時を告げていた──合戦から三百年を経てなお、その記憶が形を変えて生き続けていたことになる。
ここで、伝承品の扱いについて本稿の立場を示しておく。歴史は一次史料のなかだけにあるのではない。こうして語り継がれ、暮らしの道具となって残るもののなかにも、地域が何を記憶として選び取ってきたかが刻まれている。伝酒井の太鼓を史実の証拠として合戦の細部を語ることは避けなければならないが、この品が見付学校で時を告げていたという伝えを、地域が三方原の記憶をどのように継承したかを示す資料として読むことはできる。史実の確認と、記憶の継承の記録とは、別の水準の営みであり、そのどちらも地域史の記述には欠かせない。
伝承品や逸話が地域に根づく過程には、一定の型がある。大きな出来事が起きた土地では、その記憶を具体的な品物や場所に結びつけて語ろうとする力が働く。太鼓のような具体物は、抽象的な出来事の記憶を世代を超えて運ぶ器となりやすい。伝酒井の太鼓が見付学校の時報として実際に鳴らされていたとすれば、それは合戦の記憶が、日々の暮らしのリズムのなかに溶け込んで継承された例といえる。史実の裏づけとは別に、こうした継承の回路そのものが、地域が過去とどう向き合ってきたかを教えてくれる。
もっとも、伝承品を扱う際には、その由緒がいつ、どのように形づくられたかにも注意が要る。ある品にまつわる物語は、必ずしも出来事と同時に成立するわけではなく、後の世に語りが整えられ、細部が加えられていくことが多い。伝酒井の太鼓についても、それが三方原の合戦とどこまで直接に結びつくのか、由緒の成立過程を跡づける作業は、なお残された課題である。本稿はこの品を、合戦の証拠としてではなく、地域が記憶を継承した回路を示す資料として位置づけるにとどめる。
| 事項 | 確度の層 | 内容 | 依拠する資料 | 留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 家康の遠江侵攻 | 史実 | 永禄11年、井伊谷から遠江へ入り引間城を攻略、浜松を本拠化。 | 『図説 磐田市史』ほか自治体史。 | 侵攻路は天竜川西寄り。見付は正面路ではない。 |
| 武田軍の西進 | 史実(大枠) | 元亀3年、木原・西島から見付方面を経て西進、三方原で合戦。 | 『浜松御在城記』等に基づく整理。 | 大枠は一致。各部隊の通過地点は推定を含む。 |
| 軍勢の規模・意図 | 推定 | 二万を超える大軍、上洛を目指す戦略の一部とされる。 | 軍記・後世の記録。 | 規模・意図の細部は一点に確定しがたい。 |
| 本多忠勝の殿軍 | 史実+伝承 | 一言坂で退却戦、忠勝が殿軍。称賛の逸話を伴う。 | 自治体史、軍記物。 | 退却戦は史実、称賛逸話は軍記の意味づけ。 |
| 伝酒井の太鼓 | 伝承 | 浜松城で敵を欺いた太鼓、のち見付学校で時報に。 | 地域に伝わる由緒。 | 合戦の一次史料ではなく記憶継承の記録。 |
7. 背景としての地理 ── 天竜川渡河と見付の結節性
ここまで見た経路と伝承の意味を深めるには、なぜ見付がこれほど繰り返し軍勢の通り道となったのか、その地理的な条件に立ち返る必要がある。そもそも、なぜ遠江という土地がこれほど激しく争われたのか。遠江は、東の駿河・甲斐と、西の三河・尾張のちょうど境目に位置する。東西の大勢力がにらみ合うとき、その境目にある国は必ず草刈り場となる。加えて遠江には、東海道という日本の大動脈が東西に貫き、天竜川という大河が南北に流れる。街道を押さえ、川の渡河点を制することは、軍勢の進退を左右する決定的な意味をもった。
とりわけ天竜川は、大軍が渡るには難所であり、その東岸の見付一帯は、渡河の前後に軍が滞留する要地となる。武田軍が木原・西島から見付を経て西進したのも、家康軍が浜松へ退く際に見付から一言坂を通ったとされるのも、この天竜川という大河をどう越えるかという条件に規定されている。渡河点の手前は、軍勢が集まり、隊列を整え、あるいは追撃を受ける場となる。見付が主戦場ではなく経路の結節点であったのは、まさにこの地形的な位置ゆえである。地理が、この土地の役割を決めていたといってよい。
この結節性を支えたのは、東海道の宿場として発展していく見付宿の人々である。祭礼・徴税・裁判を担う町の共同体があり、街道を行き交う人や物を受けとめる町場の機能があった。大軍の通過に際して兵糧や人足を出させられたのも、逆に平時には街道の賑わいを担ったのも、この宿場町の社会があったからである。戦国の争乱が過ぎ去ったのち、家康が開いた泰平の時代に、見付が東海道の宿場町として大きく栄えることになるのは、この結節点としての地理的条件が、乱世には争いを、平時には繁栄をもたらしたことの表れである。見付は当初、家康の築城候補にも挙がったと伝えられ、遠江経営の要として重んじられていく。
戦の記憶は、地名のかたちでもこの地に刻まれた。磐田の地には、古戦場と伝えられる野が残り、その名が戦の記憶を今日に伝えている。たとえば上万能の「挑燈野」は、古戦場と伝わる野の名であり、別稿「上万能『挑燈野』」で、その地名が伝える戦の記憶と、それを史料でどこまで検証できるかを論じた。こうした地名伝承は、伝酒井の太鼓と同じく、地域が戦国の記憶をどのように継承したかを示す資料であり、史実の当否とは別の水準で、この地が繰り返し軍勢の往来する場であったことの痕跡を留めている。
天竜川の渡河がいかに大事であったかは、後の時代の記録からも窺える。近世を通じて天竜川は「暴れ天竜」と称される難所であり、増水すれば渡しは止まり、街道の通行は大きく左右された。橋のない大河を大軍が越えることの困難は、戦国期にあってはいっそう深刻であったにちがいない。武田軍がどのように天竜川を越えたのか、その具体的な渡河地点や方法を一点で記す史料に本稿は突き当たっていないが、渡河という一事が軍勢の行動を強く規定したこと自体は、地理の条件から確かに推し量ることができる。
経路の視点は、戦国という時代の性格を、地域の側から照らし返す。街道と大河の交わる地は、平時には人と物を集めて富をもたらすが、乱世にはその同じ条件が軍勢を呼び寄せ、争いの通り道となる。見付が戦国期に繰り返し軍勢の往来にさらされ、近世には東海道の宿場町として栄えたことは、矛盾する二つの出来事ではなく、同一の地理的条件がもたらした表裏の帰結である。土地の運命は、そこに敷かれた道と、そこを流れる川によって、大きく方向づけられていた。三方原の戦役を経路からたどることは、この地理と歴史の結びつきを、具体的な地面の上で確かめる作業でもある。
8. 結論 ── 経路の視点から見た磐田の戦国
本稿は、元亀3年(1572年)の武田信玄の遠江侵攻と三方原合戦を、「見付を通った遠江攻略」という経路の観点から読み直してきた。得られた見取り図は次のとおりである。三方原の決戦は浜松北方の台地で戦われ、見付そのものは主戦場ではなかった。しかし永禄11年(1568年)の家康の遠江侵攻から三方原に至る五年間、天竜川東岸の見付は、軍勢・兵糧・情報が東西に往来する経路上の結節点として、この戦役に深く関わっていた。武田軍が木原・西島から見付を経て西進したこと、家康軍が退却に際して一言坂で殿軍を置いたとされることは、いずれも見付周辺が軍事行動の起きた場であったことを示している。
本稿が随所で参照した既刊の論考――一言坂の戦い、家康の浜松移転、上万能の挑燈野――は、いずれも見付・磐田の戦国を、それぞれ別の切り口から扱ったものである。一言坂は退却戦の一局面を、浜松移転は本拠地選定の判断を、挑燈野は古戦場伝承の検証を主題とする。これらを経路という一本の軸で束ね直すと、見付が家康・武田両勢力の動きのなかで繰り返し要地として現れることが、あらためて見えてくる。個々の出来事を点として論じるだけでなく、それらを結ぶ軍勢の往来の線を描くこと――それが本稿の試みであった。
本稿がとった方法上の姿勢は、史実・推定・伝承の三層を語の水準で書き分けることであった。家康の侵攻、武田の西進、三方原の合戦は史実の層に、軍勢の規模や進路の細部は推定の層に、本多忠勝をめぐる称賛の逸話や伝酒井の太鼓は伝承の層に、それぞれ位置づけた。この腑分けは、印象深い逸話を史実へと格上げする誘惑を退けると同時に、伝承を根拠薄弱として切り捨てる過ちも避けるためのものである。忠勝の武勇伝も伝酒井の太鼓も、合戦の細部を証する史料ではないが、地域が三方原の記憶をどのように継承したかを示す資料として、確かな価値をもつ。
したがって本稿の立場は明確である。三方原の戦役は、合戦の勝敗を叙述するだけでは、その全体をとらえきれない。軍勢がどの土地を踏み、どの地の人々の暮らしのそばを通ったのかという経路の視点を加えてはじめて、見付・磐田がこの戦役において占めた位置が見えてくる。見付は華々しい合戦の舞台ではなかったが、戦国の大きな動きがその足もとを繰り返し通り過ぎていった、まぎれもない歴史の要衝であった。経路であることは脇役であることではなく、街道と大河の交点を押さえる者が戦いの帰趨を左右した戦国にあって、見付はその要にあたる地であった。
最後に、本稿が扱いきれなかった課題を記しておく。第一に、武田軍の各部隊が見付のどの地点を通過したかという進路の細部は、地方文書や軍記の系統的な比較によって、推定の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、家康の遠江経営のなかで見付が果たした役割は、築城候補としての位置づけや浜松移転の経緯と併せて、なお検討を要する主題である。第三に、挑燈野をはじめとする古戦場伝承と地名の関係は、伝承が指し示す出来事を史料でどこまで裏づけられるかという課題として残る。これらはいずれも、本稿が設定した三層の枠組みのなかで、推定を史実へと押し上げ、伝承の由来を跡づけていく作業に属する。合戦の勝敗を一点に還元する誘惑を退け、軍勢のたどった経路に沿って地域の戦国を記述していくこと──その手続きの先にこそ、磐田の戦国の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 磐田市史編さん委員会編『図説 磐田市史』磐田市、1995年、項目23「徳川家康と一言坂合戦」、冊子45〜46頁。永禄11年から元亀3年までを家康の遠江攻略と武田侵攻が交差する時期として整理する。↩
- 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた事実は、今川氏衰退の画期として広く知られる。家康の遠江侵攻はこの今川崩壊を前提とする。↩
- 武田軍が木原・西島方面から見付を経て西進したとする進路は、『浜松御在城記』などをもとにした概略であり、各部隊の厳密な通過地点には検討の余地がある(『図説 磐田市史』の記述による)。↩
- 「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」の逸話は、本多忠勝の武勇を象徴するものとして知られるが、後世の軍記物が英雄を際立たせるために整えた表現でもあり、細部をそのまま史実とみなすことには慎重を要する。↩
- 「伝酒井の太鼓」は、浜松城で敵を欺くために打ち鳴らされたと伝わり、のちの見付学校の時代に時報用として使われたとされる。合戦の一次史料ではなく、戦いが地域で記憶された過程を伝える資料である。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 m133 の内容を、郷土史研究者向けに経路と史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、家康侵攻・武田西進・三方原合戦を史実、軍勢規模や進路細部を推定、本多忠勝の称賛逸話および伝酒井の太鼓を伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田市史編さん委員会編『図説 磐田市史』磐田市、1995年、項目23「徳川家康と一言坂合戦」、45〜46頁。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 静岡県編『静岡県史』通史編(静岡県、中世の章)。
- 浜松市『浜松市史』(浜松市、戦国期の章)。
- 『浜松御在城記』(家康浜松在城期の記録)。
- 『三河物語』大久保忠教(近世成立の軍記・覚書)。
- 『甲陽軍鑑』(武田氏関係の軍記)。
- 『信長公記』太田牛一(桶狭間の戦いの記録)。
- 磐田市教育委員会「一言坂古戦場」関係案内・解説。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 磐田物語 m133「徳川家康と三方原合戦 ── 見付を通った遠江攻略」 https://iwata-monogatari.net/m133 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第12号「一言坂の戦い ── 本多忠勝の殿軍をめぐって」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/012/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第10号「家康はなぜ見付に本拠を置かなかったか」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/010/ (最終閲覧:2026年7月25日)。