失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 一言坂の戦い 本多忠勝の殿軍をめぐって

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第12号(戦国・近世の磐田 一)

一言坂の戦い ── 本多忠勝の殿軍をめぐって

三方原合戦の前哨戦とその記憶

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市豊田(一言)

要旨

元亀3年(1572年)、武田信玄の西上作戦に際して遠江・磐田の一言坂で戦われた退き戦と、その最後尾を担ったと伝えられる本多忠勝の殿(しんがり)をめぐる記憶を、本稿は史料批判の観点から検討する。この戦いは、それ自体としては小規模な遭遇戦・前哨戦でありながら、二俣城攻めと三方ヶ原合戦へと連なる一連の攻防の入口をなし、また「家康に過ぎたるものが二つあり」の落首とともに長く語り継がれてきた。本稿は、一言坂に関わる記述を史実・通説・推定・伝承の四つの確度層に腑分けし、兵数や日付、大滝流れの陣や小杉左近による見逃しといった個々の細部が、いずれの層に属するのかを弁別する。あわせて、軍記『甲陽軍鑑』や近代の郷土記録が伝える逸話を、一次史料による裏づけの有無に照らして評価し、勝敗とは別の水準で「負け戦がなぜ記憶されるのか」という問いへ接続する。結論として本稿は、殿軍の武勇譚を史実として断ずるのでも一括して切り捨てるのでもなく、確度の層を保ったまま記述する立場をとる。

キーワード:一言坂の戦い/本多忠勝/殿(しんがり)/武田信玄/西上作戦/三方ヶ原の戦い/甲陽軍鑑

1. 問題設定 ── 負け戦はなぜ語り継がれるのか

いま磐田市の一言(ひとこと)のあたりは、田と住宅の広がる、ごくふつうの郊外に見える。だが、いまからおよそ450年前、この坂で、徳川家康の軍勢が甲斐の武田信玄の大軍を相手に、命がけの退き戦をくり広げた。世に一言坂の戦いと呼ばれる合戦である。勝ったのは武田方であり、家康にとっては敗走にほかならなかった。にもかかわらず、この戦いは、殿軍を務めたと伝えられる本多忠勝の名とともに、長く語り継がれてきた。

本稿の問いは、この「負け戦がなぜ記憶されるのか」という点にある。合戦史の叙述はしばしば勝敗を軸に組み立てられ、退却戦は勝った側の進撃の一挿話として処理されがちである。しかし一言坂の場合、記憶の核にあるのは勝敗ではなく、退きながら味方を守りぬいたとされる一人の若武者の働きであり、その武勇を称えたと伝わる一篇の落首である。この不均衡そのものを、本稿は検討の対象とする。

ここで本稿がとる方法をあらかじめ述べておく。一言坂の戦いについて語られる事柄は、確度の水準が一様ではない。武田信玄が元亀3年に遠江へ侵攻したこと自体は、複数の史料が一致して伝える事柄である。一方、忠勝が「大滝流れの陣」という構えをとったとか、敵将・小杉左近が忠勝をあえて見逃したといった細部は、後世の軍記や逸話に由来する話であり、一次史料で確かめることはむずかしい。この両者を同じ平面で語れば、確かな骨格と不確かな彩りとが混ざり合い、読者は何を史実として受け取ってよいのか判断できなくなる。

そこで本稿は、一言坂に関わる記述を四つの層に腑分けする。第一に史実、すなわち編纂物や記録など史料によって確認できる事柄。第二に通説、広く受け入れられているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、軍記や口碑として語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。合わせて、「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料にそもそも無い)とを区別する。

本稿の素材とするのは、磐田物語の一般読者向け記事「一言坂の戦いと、本多忠勝の殿(しんがり)」である。同記事は、地元の観光協会や郷土の記録、静岡新聞の連載、そして軍学書『甲陽軍鑑』などをもとに、戦いの経過と落首の由来を、史実と伝承を分けながらたどっている。本稿はその叙述を土台としつつ、個々の記述の確度をあらためて腑分けし、なぜこの前哨戦が記憶に値したのかを、史料批判の観点から論じ直すことを企図する。以下ではまず西上作戦という大きな背景を押さえ、続いて戦いの経過、殿をめぐる伝承、落首の諸説、史料批判、地理的背景を経て結論に至る。

甲斐 武田本国 山県昌景 隊 三河方面へ 秋山虎繁 隊 美濃方面へ 信玄 本隊(約3万) 遠江を南下 兵数は史料により幅があり概数。本隊が二俣城・浜松方面をうかがった。
図1 西上作戦の全体構図。信玄は軍を三手に分け、山県昌景を三河へ、秋山虎繁を美濃へ向かわせ、自身は本隊を率いて遠江を南下したと伝えられる。兵数はいずれも概数である。

2. 史料と背景 ── 元亀3年の西上作戦

一言坂の戦いを論じる前に、それが置かれた大きな軍事的文脈を確認しておく。元亀3年(1572年)の秋、武田信玄は大軍を率いて甲斐を発ち、徳川領の遠江・三河へと攻め込んだ。世にいう西上作戦である。当時の信玄は、それまで結んでいた織田信長・徳川家康と手を切り、15代将軍・足利義昭が呼びかけたとされる、いわゆる信長包囲網に呼応する形で、上洛をもにらんだ大規模な軍事行動に踏み切ったと考えられている1。中央の政争と、東海の一地方であった遠江とが、こうして一つの戦へ結びついた。

信玄は軍を三手に分けたと伝えられる。一手を山県昌景(やまがたまさかげ)らに委ねて三河へ、一手を秋山虎繁(あきやまとらしげ、信友)に委ねて美濃へ向かわせ、自身は本隊を率いて遠江を南下した。本隊の兵数は3万に及んだとも伝わるが、後述するようにこの種の数値は史料によって幅があり、概数として受け取るべきものである。10月、武田勢は信濃から遠江へなだれ込み、北遠の城々を次々と攻略しながら南進した。そのねらいの一つが、天竜川中流の要害・二俣城(ふたまたじょう)であった。二俣城は天竜川と二俣川にはさまれた断崖の上に築かれ、ここを押さえれば天竜川の渡しと、その先の浜松城とを直接うかがうことができる。家康にとっては、領国の背骨にあたる土地が脅かされる事態であった。

ここで、依拠しうる史料の性格を腑分けしておく必要がある。西上作戦の全体像や信玄の遠江侵攻という骨格は、武田方・徳川方の双方に関わる複数の記録が伝えており、その大枠を史実として扱ってよい。一方、一言坂という個別の局地戦の細部については、事情がやや異なる。この戦いを比較的詳しく伝えるのは、武田家の事跡を記した軍学書『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』や、徳川方の視点に立つ『三河物語』といった、後世に成った記録類である。これらは合戦の記憶を伝える貴重な資料であるが、編纂の時点で成立事情や誇張の問題をはらむ二次的な性格をもつ。局地戦の細部を語るときには、この史料の格差を意識しておく必要がある。

もう一点、年代と暦についても留意を促しておきたい。ここで用いる10月・12月といった月は、いずれも当時の暦によるものであり、現行の太陽暦とは日付が対応しない。また、後続の三方ヶ原合戦を含め、個々の合戦の日付や兵数には、史料ごとに小さくない異同がある。地元の観光案内も、兵数・日付は史料により幅があり概数である旨をわざわざ注記している2。本稿が具体的な数値を挙げる際は、それが確定値ではなく、伝えられた概数であることを、そのつど含意させて読まれたい。この禁欲は、一言坂を含む一連の攻防を、確度を保ったまま記述するための前提である。

背景としてもう一つ、遠江という土地の位置づけを添えておく。遠江は、東の駿河・甲斐の勢力と、西の三河・尾張の勢力とがせめぎ合う境目の国であった。今川氏の勢力が後退したのち、この地は徳川家康が新たに手にした領国であり、家康はまだ独立した大名となって日の浅い若き当主であった。信玄の侵攻は、その新領国の安定を根底から揺るがすものであり、家康は自らの領国と、織田との同盟という自身の立場そのものを守るために、この大軍と対峙せざるをえなかった。一言坂の退き戦は、そうした切迫した状況のなかで起こった、緒戦の一つである。

3. 一言坂の戦いの経過 ── 偵察・遭遇・退却の決断

戦いの経過そのものを、素材記事の叙述に沿って追っておく。家康は、武田の大軍を天竜川より西へやすやすと渡らせまいと、本多忠勝(ほんだただかつ)や内藤信成(ないとうのぶなり)を物見、すなわち偵察に出し、自らも3千ほどの軍勢を率いて天竜川を渡り、出陣したと伝えられる。このとき家康は30歳前後であった。ところが武田軍の進みは家康の予想よりも速く、偵察に出ていた徳川勢が武田の先発隊と鉢合わせてしまう。武田方は数で大きく勝り、当面この一帯を進む武田勢は5千ほど、対する徳川勢は3千ほどであったとも伝わる。兵の数では到底かなわない。家康は、ここは退くと決断した。

この経過のなかで、史実と伝承の境目がどこにあるかを腑分けしておきたい。家康が天竜川方面へ兵を進め、武田勢と遭遇し、劣勢を悟って退却したという大筋は、複数の記録がおおむね一致して伝えるところであり、通説として扱ってよい。一方、偵察に誰を出したか、そのときの正確な兵数がいくつであったかといった具体は、記録により細部が揺れ、確定はしにくい。とりわけ3千対5千という兵数の対比は、退き戦の劣勢を印象づけるために整えられた数値である可能性を排除できず、推定ないし概数の域を出ない。

退却戦において、なぜ殿という役目が決定的な意味をもつのか。ここを押さえておかなければ、忠勝の武勇譚の力点は理解できない。退却でもっとも危ういのは、最後尾である。本隊が無事に退くあいだ、追ってくる敵をその身で引き受けて足止めし、味方を逃がす役、それが殿(しんがり)である。深追いしてくる敵の正面に立ちふさがり、頃合いを見て自らも退く。一歩まちがえば全滅しかねない、撤退戦でもっとも力量と覚悟を問われる務めであった。勝ち戦の先陣が華々しさで語られるのに対し、負け戦の殿は、味方の損害をどれだけ小さく抑えたかという、見えにくい功で評価される。

一言坂という地形も、この戦いの性格を規定した。坂という地の利は、上に立つ側に有利に働く。素材記事によれば、忠勝らは一言坂の下という、坂の上から攻め下ろされる不利な位置に踏みとどまって敵を受け止めたと伝えられる。退却する側が地形の不利を負いながら最後尾を支えるという構図は、殿の困難をいっそう際立たせる。もっとも、戦場のおおよその範囲については、地形が変わったいまとなっては正確に線を引くことがむずかしく、坂とその周辺一帯と考えておくのが穏当である。この点は、後述する古戦場の比定の問題ともつながる。

経過の腑分けを図示すれば、次のようになる。西上作戦という大枠は史実、遭遇して退却したという流れは通説、そこに与えられた兵数や偵察の具体は推定・概数、そして次章で扱う殿の武勇の細部は伝承の層に属する。同じ一つの戦いを語る言葉が、実は異なる確度の層から寄せ集められていることを、あらかじめ見取り図として押さえておきたい。

天竜川 二俣城 要害 浜松城 家康本拠 一言坂 退き戦 武田勢 南下 徳川勢 退却(殿が最後尾) 退き戦の地理 ── 天竜川をはさむ攻防
図2 退き戦の地理(模式図)。武田勢が二俣城方面から南下するのに対し、徳川勢は一言坂で最後尾を支えながら浜松城へ退いた。位置関係を示すもので、実際の距離・方位を正確に表すものではない。

4. 本多忠勝の殿(しんがり)をめぐる伝承

いよいよ本稿の中心である、殿をめぐる伝承の検討に入る。この大役を引き受けたのが、若き本多忠勝であったと伝えられる。このとき忠勝は20代半ばの青年武将であった。以下では、殿の働きとして語られる主要な話柄を取り上げ、それぞれがどの確度層に属するかを弁別する。骨格として確かなことと、彩りとして伝えられてきたこととを、混同せずに並べることを心がける。

論点①・軍記/逸話

「大滝流れの陣」と敵中突破

話柄の骨子。軍記の類いには、このとき忠勝が「大滝(おおたき)流れの陣」と呼ばれる構えをとり、敵の只中を突き破って味方を退かせた、と伝えるものがある。前方に馬場信春(ばばのぶはる)の先鋒が押し寄せ、後方には小杉左近(こすぎさこん)が回り込むという、前後を押さえられかねない局面で、忠勝が奮戦して活路を開いたという筋立てである。

確度の評価。馬場信春が信玄の宿老として知られる老練の将であり、その先鋒が徳川方の備えを押したこと自体は、武田方の記録とも整合する。しかし「大滝流れの陣」という具体的な陣形の名や、敵中突破の場面描写は、軍記・逸話に由来するものであり、一次史料で確かめることはむずかしい。陣形名は、後世の軍学の視点から戦いを再構成する過程で与えられた呼称である可能性がある。したがって本稿はこれを、忠勝の奮戦を印象づける伝承の層に置く。

論点②・口碑/軍記

小杉左近による見逃し

話柄の骨子。坂の下で本多隊の退路を断とうと回り込み、鉄砲を撃ちかけたとも伝えられる小杉左近が、勇戦する忠勝をあえて討たず、道をあけて見逃したとも語り継がれる。敵将が相手の武勇に感じ入って見逃すという筋は、武人の相互の敬意を主題とする逸話として、後述する落首の由来ともつながっていく。

確度の評価。この見逃しの逸話は、心情の機微に立ち入る話柄であり、その性質上、一次史料による裏づけは望みにくい。敵将が相手を惜しんで見逃すという型の話は、他の合戦譚にも見られるものであり、忠勝の武勇を高めるために整えられた伝承と見るのが穏当である。ただし、伝承であることは価値の低さを意味しない。むしろ、この地の人々が忠勝の働きをどのように記憶し、意味づけてきたかを示す資料として読むべきものである。

本稿の立場。これら二つの論点について、本稿は次の一文で立場を示す。すなわち、忠勝が殿として奮戦し、徳川勢を大きく崩さずに退かせたという大筋は通説として受け取ってよいが、大滝流れの陣・敵中突破・小杉左近の見逃しといった細部は、いずれも伝承の層に属し、史実として断定はできない、という立場である。

本稿の評価:殿の武勇譚は、史実性を留保したうえで、負け戦の記憶を組織する核として位置づける。細部を史実と偽らず、また一括して切り捨てもしないことが、この記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途である。

ここで、殿という務めの構造そのものを図によって確認しておきたい。殿の功は、敵をどれだけ討ち取ったかではなく、味方をどれだけ無事に逃がしたかで測られる。本隊が退く時間を稼ぐために、最後尾の小勢がその場に踏みとどまり、追撃の勢いをそこで受け止める。忠勝の武勇譚が語り継がれてきたのは、この見えにくい功が、負け戦のなかで確かに果たされたと信じられてきたからにほかならない。磐田市域が武田の侵攻によって戦場となった経緯の全体は、別稿「磐田が戦場になった時代」に譲るが、一言坂の殿は、その一連の攻防のなかでも、とりわけ人の記憶に残る場面となった。

家康 本隊 浜松城へ退く 殿=本多忠勝 最後尾で足止め 武田 追撃隊 馬場・小杉ら 退却 追撃 殿(しんがり)の役割 ── 味方を逃がす最後尾 殿の功は、敵の撃破ではなく、味方の損害をどれだけ小さく抑えたかで測られる。
図3 殿の役割(模式図)。本隊が退却する時間を稼ぐため、最後尾の殿が追撃を受け止める。忠勝がこの役を果たしたという大筋は通説だが、その奮戦の細部は伝承の層に属する。
一言坂(坂下=不利) 武田先鋒 馬場信春 本多隊(殿) 坂下で受け止め 小杉左近 後方へ回り込む 一言坂の対峙 ── 前に先鋒、後ろに回り込み 前後を押さえられかねない局面を、殿が支えたと伝えられる。陣形名・見逃しは伝承。
図4 一言坂の対峙(模式図)。坂下という不利な位置で、本多隊は前方の武田先鋒と後方へ回り込む小杉左近の双方に対したと伝わる。個々の配置・陣形名は軍記・逸話に基づく再構成である。

5. 「家康に過ぎたるものが二つあり」── 落首をめぐる諸説

この戦いののち、本多忠勝の武勇を称える落首(らくしゅ、世評や風刺を込めて書き留められた狂歌)が広まったと伝わる。いわく、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐(から)の頭(かしら)に本多平八(へいはち)」。家康にはもったいないほど立派なものが二つある、それは「唐の頭」と、本多平八郎忠勝だ、という意味である。武田家の事跡を記した軍学書『甲陽軍鑑』にこの歌が見えることでも知られる3。落首が広く語り継がれてきたこと自体は確かであるが、その細部には、なお留保すべき論点が二つある。

論点③・語釈の対立

「唐の頭」とは何を指すか

甲説(兜説)。通説では、「唐の頭」とは、家康が愛用したという、唐(中国)渡りのヤク(犛牛)の毛で飾った兜のこととされる。日本では珍しい舶来の毛皮を用いた立派な兜という解釈である。この説は、二つの宝物を並べる歌の対句構造に、有形の名物(兜)と傑出した人物(忠勝)とを配するもので、素直に読める強みがある。

乙説(内藤信成説)。一方で、「唐の頭」とは家臣・内藤信成がつけていた兜を指し、忠勝と信成という二人の武功を並べ称えた歌だとする見方もある。この説は、偵察に忠勝とともに内藤信成の名が挙がることと呼応し、歌を二人の武将への讃辞として読む。ただし、この読みは「唐の頭」を人物の換喩とする一段の解釈を要し、甲説に比べて媒介が多い。

本稿の評価:「唐の頭」の中身は、甲説(兜)を通説として尊重しつつも、乙説を排除しきれない。本稿の立場は、これを語釈上の未決とし、いずれか一方に断定しないことである。
論点④・作者の帰属

誰が詠んだのか

従来説。古くは、武田方の小杉左近が、敵ながら忠勝の働きに感じ入って書いたと語り継がれてきた。前章で触れた見逃しの逸話と結びつき、敵将が相手の武勇を惜しむという物語として、落首の由来はよく整っている。

近年の疑問。しかし近年では、この小杉左近作という説には疑問も呈されており、落首は別人の記録に由来するとも指摘される4。作者を敵将に帰することは、物語としては魅力的だが、その帰属自体が後世の脚色でありうる。誰が詠んだのかについて、確たることは分かっていないと見るのが穏当である。

替え歌との関係。後年、石田三成の家臣・島左近(しまさこん)を讃えて「三成に過ぎたるものが二つあり……」と詠まれたのは、この歌の型を借りた替え歌である。落首の型が後代に再利用されたこと自体が、この歌が広く人口に膾炙していたことの傍証となる。

本稿の評価:落首が語り継がれてきたこと自体は確かだが、作者も「唐の頭」の中身も、史実としては諸説ありと留保したうえで味わうべきである。落首は、戦いの記憶が人々にどう受け止められたかを映す資料として読むのがよい。
落首「家康に過ぎたる ものが二つあり」 論点③ 唐の頭とは 甲・兜説 唐渡りの兜(通説) 乙・信成説 内藤信成を指す 論点④ 作者は誰か 従来・小杉説 敵将が詠む 近年・別人説 帰属に疑問 落首の解釈は二つの論点で分岐する 本稿はいずれの分岐も一方に断定せず、語釈上の未決として併記する。
図5 落首をめぐる解釈の分岐。「唐の頭」の中身(兜説・内藤信成説)と作者の帰属(小杉左近説・別人説)の二点で、なお諸説が併存する。本稿はいずれも未決として扱う。

6. 史料批判 ── 兵数・日付・軍記の性格

ここまで見てきた話柄を、確度の層ごとに一覧へ整理しておきたい。以下の比較表は、一言坂に関わる主要な記述を、内容・依拠する資料・確度の層・史料批判上の留意点の四点で並べ、それぞれがどの水準の情報であるかを可視化することを目的とする。特定の話柄を優位に置く書式を避け、各行の粒度をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。

表1 一言坂の戦いをめぐる主要記述の確度分類 ── 内容・資料・層・史料批判上の留意点
記述確度の層主な内容依拠する資料留意点(史料批判)
信玄の遠江侵攻(西上作戦)史実元亀3年、信玄が大軍で遠江へ侵攻した。武田方・徳川方双方の複数の記録。全体像は一致するが、進軍の細部・日程には異同がある。
遭遇と退却の決断通説徳川勢が武田先発隊と遭遇し、劣勢を悟って退いた。『三河物語』ほか徳川方の記録。大筋は一致。偵察の人選・経緯の細部は記録により揺れる。
兵数3千対5千推定・概数徳川3千に対し武田5千とも伝わる。軍記・郷土記録。劣勢を印象づける数値の可能性。観光案内も概数と注記。
忠勝が殿を務め崩れず退いた通説殿として奮戦し、大崩れを防いだ。『甲陽軍鑑』『三河物語』ほか。大筋は伝わるが、個々の戦闘描写は確かめにくい。
大滝流れの陣・敵中突破伝承特定の陣形で敵中を突破したとする。軍記・逸話。陣形名は後世の再構成の可能性。一次史料での確認は困難。
小杉左近の見逃し伝承敵将が忠勝を惜しみ見逃したとする。口碑・軍記。心情譚で裏づけ困難。他の合戦譚にも同型あり。
落首「家康に過ぎたるもの二つ」史実(流布)/諸説(内容)忠勝を称える落首が広まった。『甲陽軍鑑』所載。流布は確か。作者・「唐の頭」の中身は未決。

この一覧から見えてくるのは、一言坂の戦いという一つの出来事が、実は確度の異なる複数の層の記述から編み上げられているという事実である。侵攻という骨格は史実、遭遇と退却という流れは通説、兵数という数値は概数、そして殿の武勇の彩りは伝承である。これらを一続きの物語として滑らかに語ると、読者は全体を等しく史実と受け取ってしまう。史料批判とは、この滑らかさをあえて分節し、どこまでが確かでどこからが不確かかを、読者に返す作業にほかならない。

とりわけ注意を要するのが、局地戦を伝える主要な資料が軍記であるという点である。『甲陽軍鑑』は武田家の事跡と軍法を記した軍学書であり、その成立事情や記述の正確さについては、古くから議論がある。同書は貴重な情報を含む一方、武田方の視点から戦いを意味づける傾向をもち、また兵法の教材としての性格上、個々の場面が理念的に整えられている可能性がある。徳川方の『三河物語』もまた、家の由緒を語る立場からの記録であり、忠勝の武勇を顕彰する動機を内在させている。両者を突き合わせても、それぞれの立場の偏りが相殺されるとは限らない点に、慎重でありたい。

ここで方法上の区別を明示しておく。一言坂の具体的な戦闘経過、とりわけ殿の細部を直接記した、合戦当時の一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。これは、そうした史料が存在しないと断定できる(=記載がない)ことを意味しない。あくまで、管見の限り一次史料に突き当たっていない(=未確認)という状態である。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした記録が作られなかったのかは、それ自体が別個に検証を要する問いである。この「未確認」と「記載なし」の区別を保つことが、伝承を過度に切り捨てず、また史実へ性急に昇格させないための歯止めとなる。

兵数の記述を例にとって、概数の扱い方を具体に述べておく。徳川3千・武田5千という数字は、退き戦の劣勢を読者に印象づける機能をもつ。合戦記のなかで兵数は、しばしば実数の報告というより、勝敗の意味を際立たせるための修辞として置かれる。少ない兵で大軍の追撃を凌いだという物語は、殿の武勇をいっそう高く見せる。だからといって、この数字がまったくの虚構だと断ずる根拠もない。ここで求められるのは、数字を史実として鵜呑みにすることでも、逆に一切信を置かないことでもなく、それが伝えられた概数であるという性格を明示したうえで、劣勢という大枠の傾向だけを慎重に受け取る態度である。この節度は、兵数に限らず、日付や地理の細部にも等しく及ぼされるべきものである。

もっとも、一次史料が乏しいことをもって、一言坂の記憶を無価値と見なすのは行き過ぎである。軍記や逸話は、たとえ細部の史実性が確かめられなくとも、当時から近世にかけての人々が、この戦いをどのように受け止め、何を記憶に値すると考えたかを映し出す。忠勝の殿が繰り返し語られ、落首が替え歌まで生んだという事実は、この前哨戦が単なる小競り合いを超えて、武人の理想像を託される器となったことを物語る。史料批判は、そうした記憶の働きそのものを否定するのではなく、その働きを、確度の層を保ったまま正当に評価するための手続きである。

7. 背景としての地理 ── 一言坂・二俣城・三方ヶ原

一言坂の戦いを、それ単独の挿話としてではなく、一連の攻防の入口として位置づけておきたい。この一言坂での退き戦は、それだけで完結するものではなかった。家康が浜松城へ引き上げたのち、武田軍はそのまま二俣城を取り囲む。二俣城は天竜川の水を頼みとする堅城であったが、水の手を断たれてついに同年12月に開城したと伝わる。そして年の暮れ、城を出て西へ向かう信玄を家康が浜松城の外へ追って出たことから、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いが起こる。家康はここで武田軍に手痛い大敗を喫した。一言坂は、二俣城攻めと三方ヶ原へと続く一連の攻防の、その入口にあたる前哨の一戦であった。

この時系列を押さえると、一言坂の意味がより明確になる。一言坂は、家康が武田の実力を身をもって知る最初の接触であり、続く二俣城の攻防でその圧力の重さを思い知らされ、三方ヶ原で正面からの決戦に敗れる。前哨戦・攻城戦・決戦という三段の流れのなかで、一言坂は、大敗へと至る序章に位置する。しかし序章でありながら、そこで殿がみごとに役目を果たしたという記憶が、後続の敗北とは独立に、この坂に残された。負けの連鎖のなかに、守りぬいた一点があったという構図が、一言坂の記憶を特別なものにしている。

地理的な背景にも触れておく。家康がなぜ見付・中泉といった遠江国府の故地ではなく、浜松に本拠を置いたのかという問いは、この一連の攻防の前提に関わる。その経緯については別稿「家康はなぜ見付に本拠を置かなかったか」で論じたが、浜松を本拠とする家康にとって、天竜川は防衛線であると同時に、東から迫る武田を食い止めるべき最前線でもあった。一言坂での退き戦が天竜川をめぐる攻防のなかで起こったことは、この地理的条件と不可分である。武田を川より西へ渡らせまいとする家康の判断も、渡られたのちに一言坂で最後尾を支えざるをえなかった経緯も、天竜川という一本の川を軸に理解できる。

古戦場の比定についても、一言添えておく。一言坂のあたりには、県道沿いの道路脇に一言坂の戦跡(古戦場)を示す石碑と案内板が建っている。ただし、戦場のおおよその範囲については、地形が変わったいまとなっては正確に線を引くことがむずかしく、坂とその周辺一帯と考えておくのが穏当である。古戦場の伝承は、この一帯だけにとどまるものではない。近隣には、古戦場と伝わる野の名を残す土地もあり、たとえば上万能の「挑燈野(ちょうちんの)」は、一言坂の戦いと結びつけて語られてきた地名の一つである。こうした地名の広がりは、別稿「上万能「挑燈野」」に譲るが、戦いの記憶が特定の一点ではなく、周辺の複数の土地に分散して伝えられてきたことを示している。

もう一つ、暮らしのなかの記憶にも目を向けておきたい。一言坂の近くの智恩斎(ちおんさい)の門前には一言観音(ひとことかんのん)が祀られ、一生に一度、一言だけ願いを聞いてくれるという言い伝えで親しまれている5。家康が殿軍の無事を祈ったとも伝わる。地名の「一言」と、一言だけ願いをかなえる観音とが重なって、この土地に独特の言い伝えを育ててきた。戦の記憶と、暮らしのなかの素朴な祈りとが、同じ坂の上で静かに同居しているのである。この重なり自体が伝承の層に属することは言うまでもないが、戦いの記憶が信仰と結びついて土地に根づいていく過程を示す例として、記録しておく価値がある。

一言坂 前哨戦・殿 二俣城 12月 開城 三方ヶ原 決戦・大敗 一連の攻防 ── 前哨戦から決戦へ 一言坂は、二俣城攻めと三方ヶ原大敗へと連なる流れの入口に位置する。
図6 一連の攻防の時系列。一言坂の前哨戦は、二俣城の開城を経て、年末の三方ヶ原合戦へと連なった。日付はいずれも当時の暦による概数である。

8. 結論 ── 前哨戦の記憶をどう記述するか

本稿は、一言坂の戦いと本多忠勝の殿をめぐる記憶を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。武田信玄の遠江侵攻という骨格は史実であり、徳川勢が遭遇して退却したという流れは通説として受け取ってよい。忠勝が殿を務め、徳川勢を大崩れさせずに退かせたという大筋も、この通説の層に属する。一方、3千対5千という兵数は概数・推定にとどまり、大滝流れの陣・敵中突破・小杉左近の見逃しといった細部は、いずれも伝承の層に属して、史実として断定はできない。落首の流布は確かだが、作者と「唐の頭」の中身は、なお諸説の分かれる未決の論点である。

この腑分けを踏まえて、冒頭の問い、すなわち負け戦がなぜ記憶されるのかへ立ち返りたい。一言坂が記憶されたのは、それが勝ち戦だったからではなく、負けの流れのなかで殿という困難な務めが果たされたと信じられてきたからである。史実として確認できるのは骨格のみであり、記憶の核をなす殿の武勇譚は、その多くが伝承の層にある。だが伝承であることは、この記憶を貶める理由にはならない。軍記や逸話は、当時から近世の人々が、退きながら味方を守りぬく武人の姿に、何を託そうとしたかを映す。落首が替え歌を生むほど流布したことは、その理想像が広く共有されたことの証左である。

したがって本稿の立場は明確である。前哨戦の記憶は、「唯一の史実を掘り当てる作業」としてではなく、「確度の層を分離し、それぞれを正当に評価する作業」として記述されるべきである。史実は史実として、通説は通説として、伝承は伝承として、その位置を保ったまま書き留める。細部を史実と偽らず、また一括して切り捨てもしない。この禁欲的な手続きこそが、一言坂という前哨戦の記憶を、後世の調べものに耐える形で残す方途である。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、一言坂の具体的な戦闘経過を伝える近世の地方文書・軍記の系統を博捜することで、いまは伝承として扱った細部の一部を、その出典と成立年代の面から一歩腑分けし直せる余地がある。第二に、「唐の頭」の語釈と落首の作者の帰属は、『甲陽軍鑑』諸本の異同や関連する記録を突き合わせることで、未決の幅を狭めうる。第三に、挑燈野をはじめとする周辺の古戦場伝承の分布は、一言坂の記憶が土地にどう分散して根づいたかを描く手がかりとなる。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。派手な城も天守も残っていないこの坂に、なお人が戦い、退き、生きのびた記憶が残ることの意味を、確度の層を保ったまま書き継いでいきたい。

本稿の舞台である豊田・一言のような土地には、戦国の記憶を伝える古戦場とともに、代々受け継がれてきた古い家や田畑が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 西上作戦の位置づけ、および信長包囲網との関係については、武田・織田・徳川の関係を扱う諸研究による。将軍・足利義昭の呼びかけに信玄が呼応したとする点は、通説として広く受け入れられているが、上洛の意図の有無には議論がある。
  2. 兵数・日付は史料により幅があり概数である旨は、磐田市観光協会の古戦場案内における注記に基づく。本稿で挙げる数値もすべて概数として扱う。
  3. 落首「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」は、武田家の事跡・軍法を記した軍学書『甲陽軍鑑』に所載される。同書は軍学の教材としての性格をもち、記述の史料的評価には留意を要する。
  4. 落首の作者を武田方・小杉左近とする従来の説には、近年疑問が呈されており、別人の記録に由来するとの指摘がある。小杉左近の事跡については関連事典・研究を参照。
  5. 一言観音・智恩斎の言い伝え、および家康が殿軍の無事を祈ったとする伝承は、地元の郷土記録(磐田お宝見聞帳ほか)による。いずれも伝承の層に属する。

付記:本稿は一般読者向け記事 t003「一言坂の戦いと、本多忠勝の殿(しんがり)」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、信玄の遠江侵攻を史実、遭遇・退却と殿の大筋を通説、兵数を概数・推定、大滝流れの陣・小杉左近の見逃し・一言観音の言い伝えを伝承として扱った。

参考文献・参考資料

  • 『甲陽軍鑑』(落首「家康に過ぎたるものが二つあり」の所載)。
  • 大久保彦左衛門『三河物語』(徳川方の視点による記録)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、戦国期の該当章)。
  • 『日本歴史地名大系 静岡県の地名』(平凡社)遠江・一言関係項。
  • 平山優『武田信玄』『徳川家康と武田氏』ほか、西上作戦・三方ヶ原に関する研究。
  • 二俣城・三方ヶ原の戦いに関する各種概説。
  • 本多忠勝・内藤信成・馬場信春・小杉左近に関する人物事典項。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 磐田市観光協会「一言坂の戦跡(古戦場)」 https://www.iwata-kankou.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田お宝見聞帳「智恩斎・一言観音・一言坂の戦い跡」 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 静岡新聞アットエス「一言坂の戦い」(家康公顕彰連載)ほか https://www.at-s.com/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • コトバンク(『日本大百科全書』『世界大百科事典』ほか所収)「一言坂の戦い」「小杉左近」 https://kotobank.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 t003「一言坂の戦いと、本多忠勝の殿(しんがり)」 https://iwata-monogatari.net/t003.html (最終閲覧:2026年7月25日)。