磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第10号(見付・戦国期本拠論 一)
家康はなぜ見付に本拠を置かなかったか ── 城之崎築城の中止と浜松移転
見付・引馬・浜松をめぐる本拠選定と「引馬」改名の論理
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
徳川家康は、いったん見付(現・磐田市)に城之崎城を築こうとしながら、これを途中で取りやめ、引馬城を拡張した浜松を本拠に選んだと伝えられる。本稿は、この本拠選定を「見付から浜松へ移った」という完結した物語としてではなく、なぜ見付が本拠として完成しなかったのかという問いに置き直して検討する。中止の事実と信長の関与は『当代記』の明文で確認できる史実であるが、見付の城が本拠だったのか掛川攻めの陣城だったのかは、『浜松御在城記』の陣城説と対立し、確定できない。本稿は信長異見説と陣城説を対等に併記し、いずれの説にも「城の性格を直接記す一次史料は未確認」という同じ限界が課されることを示す。あわせて「引馬」を「浜松」へ改めた縁起上の論理と、元亀元年という移転時期の政治的背景を、史実・通説・推定・伝承の四層を区別しながら記述する。
キーワード:徳川家康/城之崎城/見付/引馬・浜松城/織田信長/当代記/浜松御在城記
1. 問題設定 ── 「移った」という語りをいったん解く
家康の本拠移転は、しばしば「見付から浜松へ移った」と一文で語られる。だが、この言い方には一つの前提が滑り込んでいる。すなわち、見付がいったん本拠として成立していた、という前提である。もし見付の城が最初から本拠として築かれ、機能していたのなら「移った」という語は正しい。しかし、見付の城がそもそも本拠として築かれたものかどうかは、後述するとおり史料の間で説が分かれる。本稿はまず、この「移った」という完結した語りを解きほぐし、家康がなぜ見付を本拠として完成させなかったのか、という問いの形に立て直すことから始める。
問いをこの形に置き直すのには理由がある。「見付から浜松へ移った」と述べた瞬間、見付が本拠だったことが暗黙の前提となり、そこから「なぜ移ったのか」だけが問われる。すると答えは自然に「移転の理由」──信長の助言、天竜川の地形──へと収束していく。ところが、見付の城がそもそも本拠ではなく、掛川城を攻めるための臨時の陣であったとする見方に立てば、「本拠を移した」という枠組みそのものが崩れる。したがって、移転の理由を論じる前に、見付の城が何であったのかという性格の問題を、別個に立てておく必要がある。
本稿の姿勢を先に述べておく。歴史記述において大切なのは、複数の伝えのなかから一つの正解を性急に選び取ることよりも、いま伝わっている説が、どのような史料に支えられ、どこまでを語りうるのかを腑分けし、読者が自分で確からしさを測れる材料として提示することにある。断定を急げば、確度の低い伝えを史実のように語り、あるいは有力な異説を根拠薄弱として切り捨てる誤りに陥りやすい。本稿は、そのいずれの過ちも避けるために、各説の史料的基盤を一つずつ点検していく。
そこで本稿では、扱う情報を四つの確度層に腑分けする。第一に史実、すなわち編纂物や文書など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されているが史料的に一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。あわせて「未確認」と「記載なし」を区別することも重ねて確認しておきたい。ある事柄について一次史料に突き当たっていないこと(未確認)と、そのような史料が存在しないと断定できること(記載なし)とは、まったく別の状態である。
本稿が依拠する一般向けの整理は、磐田物語の記事「家康が見付から浜松へ移った理由」である。同記事は『当代記』『三河物語』『浜松御在城記』の三史料を対置し、信長異見説と陣城説を併記する枠組みを示した。本稿はこの枠組みを引き取り、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成する。以下ではまず史料で確認できる範囲を確定し(第2節)、地理と地政学を押さえたうえで(第3節)、移転理由の諸説を対等に検討し(第4節)、改名の論理と時代背景を経て(第5節・第6節)、見付に本拠が置かれなかったことの帰結(第7節)から結論(第8節)へ至る。
2. 見付と城之崎城 ── 史料で確認できる範囲
諸説の検討に入る前に、史料によって確認できる範囲を確定しておく。まず、家康が見付で城の普請を進め、それを途中で取りやめたこと自体は、江戸初期に成立した編纂物『当代記』が「見付普請相止也、是信長異見給如此」と記しており、史料に基づく史実として扱ってよい1。この一句は、見付での普請が行われていたこと、そしてそれが信長の異見(意見)によって中止されたことの二点を、簡潔だが明確に伝えている。見付の城は、後世「城之崎城」の名で語られる。
次に、家康が引馬城を拡張して浜松城とし、元亀元年(1570年)に岡崎城を子・信康に譲って浜松へ本拠を移したことも、複数の資料で確認できる範囲に入る2。ここまでは、史料の記述として比較的安定している。問題は、この二つの確実な事実のあいだにある「見付の城とは何であったのか」「なぜ中止されたのか」という部分が、史料によって説明を異にする点にある。
見付という土地の性格も、あらかじめ押さえておきたい。見付は遠江国府が置かれたとされる内陸の要地であり、中世には守護の拠点も営まれた地である。家康がこの地に着目した背景には、国府以来の交通と支配の中心という蓄積があった。なぜ家康が見付を選ぼうとしたのかという地政学的な事情については、既稿「なぜ家康は見付を選んだのか」で国府・東海道・今之浦の観点から論じられており、また見付が守護支配の拠点であった経緯は本論考シリーズの「見付守護所」に詳しい。見付は、本拠の候補地となるだけの歴史的厚みをもった土地だったのである。
城之崎城そのものについては、未完に終わったと伝えられ、その痕跡や規模をめぐっては後世の記録と現地比定に頼る部分が大きい。築城が中止された事情や、水利をめぐる困難については既稿「城之崎城はなぜ未完に終わったのか」で武田信玄・天竜川・水不足の観点から検討されており、見付に残る築城伝説の全体像は「見付に残る幻の城」にまとめられている。ここで確認しておきたいのは、城之崎城が「未完」であるという伝えと、その中止が信長の異見によるという『当代記』の記述とが、別々の資料層に属するという点である。前者は現地比定と伝承を含み、後者は編纂物の明文に基づく。両者を安易に接ぎ木すると、たとえば「未完だから中止された」「中止されたから未完に終わった」という循環した説明に陥りやすい。未完という状態と、中止という出来事と、その中止の理由とは、本来それぞれ別の史料水準で確かめられるべき事柄であり、一つの物語へまとめる前に、まず切り分けておく必要がある。
加えて、城之崎城という呼称そのものにも留保が要る。この名は後世の記録や地域の伝えを通じて定着したものであり、家康が普請していた当時の見付の城が、同時代にどう呼ばれていたかを直接に伝える一次史料には、本稿は突き当たっていない。したがって「城之崎城=家康の未完の本拠」という等式は、複数の層の情報を束ねた便宜的な呼び名として用いているのであって、その内実は本節で述べたとおり、なお解きほぐしを要する。名称の便宜と史実の確度とを混同しないことも、この主題を扱う際の基本的な作法である。
ここで一つ、方法上の区別を明示しておく。見付の城が本拠として構想されたのか、それとも一時的な陣城として築かれたのかを直接記述した、当事者による一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しないと断定できる」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、城の性格を裏づける一次記録に突き当たっていない」という未確認の状態である。以下の第4節で対置する二つの説は、いずれもこの空白を、それぞれ別の後世編纂物によって埋めようとする試みなのである。
3. 引馬・浜松という選択 ── 地理と地政学
見付を本拠として完成させなかった家康が代わりに選んだのが、天竜川の西岸に位置する引馬城であった。家康はこの引馬城を西へ拡張し、新たな本拠へと整えていく。まずは、この選択がもった地理的な意味を確認しておきたい。城の性格や中止の理由づけが史料上で争われるのに対し、浜松という土地がもつ地政学的な位置そのものは、比較的争いの少ない事実として押さえることができる。
浜松は、西に浜名湖、東に天竜川、北に赤石山脈の山々が控える、天然の要害に開けた土地である。海運と陸運の両方に恵まれ、東海道を押さえる位置にありながら、北へ向かう姫街道を使えば、武田方に対する出陣にも動きやすい配置であったとされる。二つの大河・湖沼と山地に囲まれた地形は、防御の縦深を与えると同時に、街道の結節点としての機能を備えていた。これが、家康にとって浜松が本拠たりうると判断された地理的な根拠である。
ここで見付と浜松の性格を対比しておくと、選択の論理が見えやすい。見付は遠江国府以来の内陸の中心地であり、支配と交通の蓄積をもった土地であった。これに対し浜松は、軍事・交通の結節点としての性格がより前面に出た土地である。見付が「国という枠組みの中心」であったのに対し、浜松は「動くための拠点」であったと言い換えてもよい。今川氏の遠江支配が崩れ、対武田の緊張が高まっていく局面では、統治の中心性よりも、機動と補給の便が優先される事情があった。
この対比は、見付を選ぶ論理と浜松を選ぶ論理が、必ずしも矛盾しないことを示す。既稿「なぜ家康は見付を選んだのか」が扱った国府・東海道の要という見付の優位と、本稿が扱う浜松の軍事・交通上の優位とは、一見すると逆方向を向くようでいて、実は同じ論理の両面である。すなわち、そのときどきの局面で地政学的な最適地を求め続けた、という一貫した判断の現れとして読むことができる。見付が本拠にならなかったことは、見付の価値が低かったことを意味するのではなく、局面が求める拠点の性格が変わったことを意味する。
もっとも、地理的な優位が「なぜ見付を中止したのか」という問いにそのまま答えるわけではない。浜松が本拠に適した土地であったことと、見付での普請がなぜ止められたのかとは、論理的に別の事柄である。浜松の優位を語ることは、移転先の合理性を説明するが、移転そのものの引き金を説明するものではない。その引き金をめぐって史料がどう分かれるかは、次節で正面から扱う。
4. 移転理由の諸説 ── 信長異見説と陣城説
移転の引き金、あるいは見付中止の理由をめぐっては、依拠する史料の異なる二つの説が対立してきた。ここでは両説を対等の粒度で並べ、それぞれの説明力と限界を検討する。特定の説を優位に置く書式を避け、情報量をそろえることで、読者が自ら確からしさを判断できる状態をつくることを心がける。なお、大久保忠教『三河物語』も、見付を「不可然(しかるべからず)」として浜松へ移り城を構えたと簡潔に記しており、中止の理由づけには立ち入らないものの、移転という枠組みそのものは説Aと親和的である3。
説A:信長異見説
説の骨子。『当代記』の「見付普請相止也、是信長異見給如此」を根拠に、家康は見付を拠点とすべく普請を進めたが、これを信長の異見によって中止し、引馬=浜松へ向かった、とする。中止の具体的な理由としては、見付で武田方の攻撃を受けた場合に天竜川を西へ越えて撤退することになり、織田方からの援軍を受けるのに不便である、あるいは天竜川が増水すれば三河・尾張との往来が妨げられる、という趣旨が説かれてきた。
説明力。この説の強みは、中止が信長の異見によるという一点を、編纂物の明文が直接に支えている点にある。天竜川という自然の障壁を、防壁として活かすには自らその西岸に構えるほうが合理的だ、という地形の論理とも整合する。冒頭に述べた本拠選定の経緯は、この立場に沿って語られてきた。
限界。ただし『当代記』もまた、事件と同時代の一次史料そのものではなく、後年の編纂を経た記録である。したがって、そこに記された理由づけが当事者の判断をそのまま伝えているのか、後世の解釈が織り込まれているのかは、慎重に見なければならない。信長の異見という枠組みが、結果としての浜松本拠を説明するために遡って整えられた可能性を、完全には排除できない。
説B:陣城説
説の骨子。浜松藩側の編纂物『浜松御在城記』に基づき、見付の城(城之崎城)はそもそも掛川城を攻めるための陣城(じんじろ、攻城戦用の臨時の城)であって、本拠として築かれたものではない、とする4。同書は、「川を隔てていると加勢が難しいから中止した」という通説的な説明を、むしろ「非なるべし」として退けている。
説明力。この説に立てば、「本拠を見付から浜松へ変えた」という枠組み自体が成り立たない。見付の城が最初から臨時の陣であったなら、掛川攻めの目的が果たされ、あるいは局面が変われば役目を終えるのは当然であり、そこに信長の助言を持ち出す必要はない。信長異見説は後づけの説明ということになる。城之崎城が「未完」に終わったという伝えとも、臨時の城であれば恒久的な完成を要しなかった、という形で無理なく接続する。
限界。他方で『浜松御在城記』は、浜松側の由緒を語る後世の編纂物であり、浜松の正統性を強調する動機を持ちうる。見付の城を格下の陣城とみなし、浜松こそ家康の本拠にふさわしい地であったと位置づける筆致には、そうした立場が反映している可能性がある。したがって、陣城説の明快さをそのまま史実と見なすこともまた、慎重を要する。
本稿の立場
『当代記』の「信長の異見で普請を止めた」という記述は具体的で捨てがたく、普請中止と信長の関与そのものは史料上確認できる事実として扱ってよい。他方、城の当初の性格が本拠であったのか陣城であったのかは、二つの後世編纂物が正面から対立しており、一次史料によって決着させることは本稿の範囲ではできない。したがって本稿は、普請中止と信長の関与を史実、中止の理由づけと城の性格を諸説併存として、両説を対等に併記する。いずれの説にも「城の性格を直接記す当事者の一次史料は未確認」という同じ限界が課されるのであり、この限界を理由に一方だけを退けることはできない。
この二説の対立は、次の比較表に整理される。三つの史料が同じ出来事をどう記述し、どのような立場に立ち、史料批判上どこに留意すべきかを、対等の粒度で並べた。
| 史料 | 成立・性格 | 見付の城についての記述 | 立場 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 当代記 | 江戸初期成立の編纂物 | 「見付普請相止也、是信長異見給如此」。普請中止を信長の異見によるとする。 | 信長異見説(説A) | 同時代の一次史料ではなく後年の編纂。理由づけに後世の解釈が入る余地。 |
| 三河物語 | 大久保忠教による家譜的記録 | 見付は「不可然(しかるべからず)」として浜松へ移り、城を構え住所を定めたと簡潔に記す。 | 移転の事実を支持(説Aと親和) | 大久保家の視点による叙述。中止理由の詳細は語らない。 |
| 浜松御在城記 | 浜松藩側の後世編纂物 | 見付の城は掛川攻めの陣城とし、「加勢が難しいから中止」という説を「非なるべし」と退ける。 | 陣城説(説B) | 浜松の正統性を強調する動機を持ちうる。城の格を低く扱う可能性。 |
表から読み取れるのは、三史料が単に細部で食い違っているのではなく、見付の城の性格という根幹で対立している、という事実である。『当代記』と『三河物語』は移転という枠組みを共有し、中止を信長の異見あるいは見付の不適格に帰す。これに対し『浜松御在城記』は、見付の城を本拠とはみなさず、通説的な理由づけそのものを否定する。同じ出来事について、史料の立場によって説明がまるで違うのである。この対立を前にして、どちらか一方を史実として選び取るのではなく、対立の構造そのものを記述することが、本稿の採る方法である。
両説を対等に扱うことは、判断の放棄ではない。むしろ、それぞれの説がどの資料層に立ち、その資料が何を証しうるのかを見定める作業である。信長異見説は、編纂物の明文という比較的たしかな足場をもつが、その明文が伝える理由づけの当否までは保証しない。陣城説は、見付の城の性格について踏み込んだ像を与えるが、その像は浜松側の立場を反映した後世の叙述に依っている。前者は「中止に信長が関与した」という一点で強く、後者は「城の性格」という争点で明快である。両説の強みが対象を異にする以上、片方の強みをもって他方を退けることはできない。二つの説が同じ空白──城の性格を記す一次史料の不在──を、別の後世編纂物で埋めている、という構図を見失わないことが肝要である。
5. 「引馬」改名の論理 ── 縁起と地名の選び直し
見付での築城を見送った家康は、引馬城を西へ拡張して本拠とするにあたり、城の名を改めている。旧称の「引馬」は「馬を引く」、すなわち「退却する」という意味に通じてしまう。武運を占ううえで好ましくない名であったため、家康はこの地の旧称「浜松荘」にちなみ、城の名を「浜松城」と改めたと伝えられる5。縁起を担ぐというこの判断は、一見些細に見えて、本拠移転を家康がどれほど重く受け止めていたかをうかがわせる。
ここで注目したいのは、改名の手つきである。家康は、不吉な字面を避けるにあたって、まったく新しい名を創り出したのではなく、土地に古くから根ざした地名「浜松荘」を再び前面に押し出す形を採った。荘園名・地域名としての「浜松」は既に存在しており、家康はそれを城の名として選び直したのである。新造ではなく選び直しであるという点に、地に根ざした名を尊ぶ実利的な判断が読み取れる。名は、土地の記憶を引き継ぎながら、退却を連想させる旧称を静かに退けた。
この改名を、対象地区である見付の側から眺めると、対照が際立つ。見付は、家康の本拠にならなかったのちも「見付」という地名を保ち続けた。国府以来の呼び名は、城の帰趨とは独立に土地に残った。これに対し浜松では、城の移転を機に、地名の主役が「引馬」から「浜松」へと切り替わっていった。城が土地の呼び名を書き換えた浜松と、城の去就に左右されず名を保った見付──この対照は、両地が戦国末期の政治変動をどう受け止めたかの違いを、地名という水準で映している。
もっとも、改名の縁起譚をどの層に置くかには注意が要る。「引馬」が退却に通じるゆえに改めた、という説明は、動機として理解しやすく、また広く伝えられてきた。ただし、家康自身がその理由を明言した当事者の記録に本稿が直接に突き当たっているわけではなく、この縁起の論理は、伝えられてきた説明として伝承の色合いを帯びる。改名という事実そのもの(引馬城を浜松城と呼ぶようになったこと)は史料に現れるが、その動機を「縁起」に帰す部分は、確度の層としてはやや後退させて扱うのが穏当である。事実と、その事実に与えられた意味づけとを、ここでも切り分けておきたい。
6. 時代背景 ── 元亀元年という画期
本拠移転を、家康個人の判断や地形の条件だけに帰すのは一面的である。移転の時期そのもの、すなわち元亀元年(1570年)という年が、この選択の背景として見逃せない。前年の永禄12年(1569年)には、今川氏真の遠江支配が事実上終わりを迎えていた。桶狭間以来の今川の勢力後退を受け、家康は三河・遠江の二か国を実質的に統べる立場へと移りつつあった。移転は、この立場の変化と同じ時期に起きているのである。
三河一国の大名から、遠江を加えた二か国の太守へ──この変化は、拠点に求められる性格を変えた。一国を治める段階であれば、国府以来の中心である見付は、支配の座として十分な重みをもつ。しかし二か国にまたがる広い領域を見渡し、なお対武田の緊張に備えねばならない段階では、統治の中心性よりも、複数の街道を押さえて機動的に動ける拠点が求められる。東海道を東西に押さえ、姫街道で北へも展開できる浜松は、拡大した領国を統べるうえで、見付という一地点よりも理にかなっていたと考えられる。
この背景を踏まえると、見付を本拠として完成させなかったことは、単発の中止事件ではなく、家康の立場の変化に対応した拠点の再編として理解できる。見付が候補に挙がったのは一国大名としての段階であり、浜松が選ばれたのは二か国太守としての段階である。拠点の選定は、支配の規模と局面に応じて更新されるものであって、見付から浜松への移動は、その更新の一つの現れであったと読むことができる。この読みは、第3節で述べた「地政学的な最適地を求め続けた」という一貫性の指摘とも重なる。
ただし、時代背景と個別の中止判断とを短絡させないことも必要である。二か国太守化という大きな趨勢が浜松本拠を要請したことと、見付の普請が具体的にどの時点でなぜ止められたのかとは、なお別の水準の問題である。趨勢は選択の方向を説明するが、個々の決定の引き金までは決めない。趨勢と決定を切り分けたうえで、両者がどう噛み合ったのかを見ることが、背景論を史実の水準に近づける手続きとなる。この点で、元亀元年という年紀は、移転の政治的文脈を確度高く指し示す史実の目印として有用である。
7. 見付に本拠が置かれなかったことの帰結
浜松を本拠とした家康は、元亀元年(1570年)、29歳のときに浜松城へ入り、45歳になるまでの17年間、この地を本拠とした。この間には、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いや、既稿「磐田が戦場になった時代」で扱った一言坂の戦いをはじめとする、対武田戦の数々があった。見付・城之崎城を選ばず浜松を選んだという一つの判断が、その後17年にわたる遠江支配の枠組みを規定したことになる。本拠選定は、単発の出来事にとどまらず、以後の軍事と統治の舞台を長く枠づけたのである。
見付の側から見れば、本拠が置かれなかったことは、この地の歴史を別の方向へ導いた。城之崎城は未完に終わり、見付は戦国期の政治的中枢としての道を進まなかった。しかし見付は、国府以来の交通と支配の蓄積を失ったわけではない。近世に入ると、見付は東海道の宿場町として新たな性格を得ていく。政治的中枢の座を浜松に譲ったことと引き換えに、街道の要衝としての機能が前面に出たのである。本拠にならなかったことは衰退を意味せず、土地の役割の転換を意味した。
この転換を、確度の層を保って言い直しておく。見付が近世に宿場町として整えられていったこと自体は、後の伝馬・宿駅の制度に関わる史料で確認できる史実である。他方、城之崎城が完成しなかったことと、見付が政治的中枢の道を進まなかったことを因果でつなぐ叙述は、確定した史実というより、事後から眺めた推定の色を帯びる。本拠が置かれなかったから宿場町になった、と単線でつなぐのではなく、本拠を得なかった見付が、近世の街道整備という別の条件のもとで宿場町としての性格を得ていった、と二段に分けて述べるのが穏当である。土地の歩みを一本の因果で束ねず、条件の重なりとして記すことが、ここでも求められる。
もし城之崎城が完成し、家康が見付を本拠として保ち続けていたらどうであったか──この問いは、確定した史実からは答えの出ない思考実験だが、本拠選定がもった重みを裏側から照らす。既稿「城之崎城が完成していた場合の歴史IF」は、この仮定を手がかりに、磐田のもう一つの歴史をたどっている。本稿の関心からいえば、そうした反実仮想が成り立つこと自体が、見付を本拠としなかった判断が、単なる地点の選択を超えて、遠江の政治地理を左右する分岐であったことを示している。
もっとも、こうした帰結を語るときにも、確度の区別は保たれねばならない。17年在城という年数や、その間の合戦の存在は史料に現れる史実である。これに対し、「見付に本拠が置かれていたら遠江の歴史はこう変わった」という筋立ては、あくまで反実仮想であり、史実として語ることはできない。帰結を論じることの意義は、確定した事実を土台に、選ばれなかった道を思考の実験として並べ、選ばれた道の重みを測ることにある。実験を史実と取り違えないかぎり、この作業は本拠選定の意味を深めこそすれ、記述の確度を損なうものではない。
8. 結論 ── 本拠選定を諸説併存のまま記述する
本稿は、家康がなぜ見付に本拠を置かなかったのかという問いを、「見付から浜松へ移った」という完結した語りから解きほぐすことから始めた。得られた見取り図は次のとおりである。見付での普請とその中止、そして中止に信長が関与したことは、『当代記』の明文に支えられた史実である。元亀元年(1570年)の浜松移転と、岡崎城を信康へ譲ったことも、複数の資料で確認できる。他方、見付の城が本拠として構想されたのか、掛川攻めの陣城であったのかは、『当代記』系の信長異見説と『浜松御在城記』の陣城説とが正面から対立し、当事者の一次史料によって決着させることは、本稿の範囲ではできない。
ここから導かれる本稿の立場は明確である。普請中止と信長の関与は史実として、中止の理由づけと城の性格は諸説併存として、両説を対等に併記する。いずれの説にも「城の性格を直接記す一次史料は未確認」という同じ限界が課される以上、この限界を理由に一方だけを退けることはできない。史料の立場によって説明がまるで違うという事実そのものを、対立の構造として書き留めることが、この主題に対して採りうる最も誠実な記述だと考える。「未確認」を「記載なし」と言い換えず、伝承を史実の劣位に置かず、後世編纂物の明快さを一次史料の確実さと偽らない──この禁欲的な手続きこそが、断定の誘惑を退ける方途である。
改名と時代背景についても、同じ区別を保った。引馬城を浜松城と呼ぶようになった事実は史料に現れるが、それを「引馬=退却」の縁起に帰す動機づけは、伝えられてきた説明として伝承の層で扱う。元亀元年という年紀は移転の政治的文脈を確度高く指し示すが、二か国太守化という趨勢と個別の中止判断とは水準を分けて論じた。地名の選び直しも、地政学的優位も、それぞれ史実・推定・伝承のどの層に属するかを明示しながら記述することで、本拠選定の全体像が確度の色分けとともに立ち上がる。
最後に、本稿が扱いきれなかった課題を記しておく。第一に、城之崎城の性格をめぐる信長異見説と陣城説の対立は、掛川城攻めの経過や、見付での普請の規模を伝える近世文書を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、見付が国府・守護所以来もっていた支配の中心性が、戦国末期にどのように相対化されていったのかは、「見付守護所」で論じた守護支配の系譜と接続して検討されるべき主題である。第三に、浜松への本拠移転が遠江の在地勢力の再編に及ぼした影響は、本稿の範囲を超える。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。本拠選定を一つの答えに決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま史料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、家康がなぜ見付に本拠を置かなかったのかという問いの、確度に裏打ちされた輪郭が結ばれていくはずである。
注
- 『当代記』の「見付普請相止也、是信長異見給如此」による。見付での普請中止が信長の異見によることを伝える。『当代記』は江戸初期に成立した編纂物であり、事件と同時代の一次史料そのものではない点に留意を要する。↩
- 元亀元年(1570年)に家康が岡崎城を子・信康に譲り、引馬城を拡張した浜松城へ本拠を移したことは、複数の資料で確認できる範囲に属する。↩
- 大久保忠教『三河物語』は、見付を「不可然(しかるべからず)」として浜松へ移り、城を構えて住所を定めたと簡潔に記す。移転の事実を伝えるが、中止理由の詳細には立ち入らない。↩
- 『浜松御在城記』は、見付の城を掛川城攻めのための陣城とし、「川を隔てていると加勢が難しいから中止した」という説を「非なるべし」と退ける。浜松藩側の後世編纂物であり、浜松の正統性を強調する動機を持ちうる。↩
- 「引馬」が「馬を引く(退却する)」に通じるのを避け、旧称「浜松荘」にちなんで「浜松城」と改めたと伝えられる。改名の事実は史料に現れるが、動機を縁起に帰す部分は伝承として扱う。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 m116「家康が見付から浜松へ移った理由」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、『当代記』の普請中止記事および元亀元年の移転を史実、見付の城の性格を諸説併存、改名の縁起譚を伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 『当代記』(「見付普請相止也、是信長異見給如此」)。
- 大久保忠教『三河物語』。
- 『浜松御在城記』(浜松藩側の編纂物。陣城説)。
- 太田牛一『信長公記』(織田・徳川関係の背景史料)。
- 『徳川実紀』(家康の事績に関する後世の編纂)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、戦国期の該当章)。
- 浜松市『浜松市史』(浜松城・引馬城の該当章)。
- 渡邊大門「徳川家康が浜松城を築き、引馬城から改名した経緯とは」Yahoo!ニュース エキスパート https://news.yahoo.co.jp/expert/creators/watanabedaimon (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 浜松市公式「浜松城の変遷」 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- Wikipedia「浜松城」 https://ja.wikipedia.org/wiki/浜松城 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- Wikipedia「浜松御在城記」 https://ja.wikipedia.org/wiki/浜松御在城記 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m116「家康が見付から浜松へ移った理由 ── 信長の助言と『引馬』の改名」 https://iwata-monogatari.net/m116 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 佐口行正氏所蔵史料。