国分寺ものがたり | 子5
中泉代官と薬師堂の再興 ── 中野七蔵・高室昌重と憲能和尚
元和5年(1619年)、中泉代官・中野七蔵は「本堂御造営奉行」として薬師堂の再建に着手した。城を持たない天領の地で、代官が2代にわたって寺を建て直したのはなぜか。
元亀3年、薬師堂は焼けたのか ── 2つの伝え方
戦国時代、見付端城主・堀越氏延が薬師堂に鰐口を寄進したのは大永2年(1522年)のことだった。それから半世紀ほどのち、遠江は徳川と武田が争う最前線となる。元亀3年(1572年)、武田信玄の軍が遠江に侵攻し、見付一帯は大きな被害を受けたとされる。国分寺の薬師堂も、この戦乱のなかで焼けたと伝えられている年である。
ただし、この元亀3年の焼失については、資料によって伝え方が異なっており、どちらか一方だけを史実として決めつけることはできない。『磐田市誌』上巻では、武田軍の侵攻にともなう兵火によって薬師堂が焼失したという趣旨で記述されている。一方、地元に伝わる『参慶山国分寺由来』という由来書では、焼失の経緯や状況について、市誌とは異なる内容が語り継がれている。同じ「元亀3年に焼けた」という結論は共有していても、そこに至る経緯の描き方が食い違っているのである。
どちらが正しいかを本記事で断定することはしない。むしろ、公的な編纂史料である『磐田市誌』と、寺に伝わる由来書『参慶山国分寺由来』という、性格の異なる2つの記録が、同じ出来事について異なる語りを残しているという事実そのものが興味深い。焼失という一点の史実の周りに、複数の記憶が重なりながら伝わってきた、その厚みを持つ場所として国分寺薬師堂を見ていきたい。
天領の地に城はなく、代官所があった
焼失から半世紀近くを経て、世は徳川の天下となる。磐田・中泉一帯は幕府の直轄領、いわゆる天領として位置づけられ、大名の城ではなく代官所が地域を治めることになった。中泉代官所そのものの成り立ちや、そこに置かれた中泉御殿との関係については、既存記事「中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち」に譲り、本記事では代官所の詳しい説明は繰り返さない。
ここで注目したいのは、城を持たない天領という土地の性格である。城主が寺社を保護するのではなく、幕府から派遣された代官が、年貢の徴収や治水と並んで、地域の信仰の中心である寺社の再興にも関わっていく。中泉代官が2代にわたって薬師堂の造営に携わった経緯は、天領という統治のかたちが、民心の安定という宗教政策の一面を帯びていたことをよく示している。
中野七蔵、「本堂御造営奉行」となる
元和5年(1619年)、中泉代官として着任したのが中野七蔵である。中野七蔵は着任にあたり「本堂御造営奉行」という役目を帯び、焼失以来手つかずになっていた薬師堂本堂の再建に着手した。代官という行政官が、同時に寺の造営を差配する奉行の任も負っていたという点に、天領における代官の役割の広さがうかがえる。
中野七蔵は寛永元年(1624年)に没するまでの5年間、造営の指揮にあたったと伝わる。本堂という大きな建物の再建には相応の年月がかかるものであり、七蔵が在任中にすべてを完成させたわけではない。それでも、焼失した薬師堂を再び建て直すという事業の土台を築いたのは、まぎれもなく中野七蔵の在任期であった。
高室昌重、日光・月光と十二神将を寄進する
中野七蔵の没後、代官の役目を引き継いだのが高室昌重(四郎左衛門)である。高室昌重は寛永元年(1624年)から寛永11年(1634年)まで中泉代官の任にあり、前任者が進めた本堂再建の事業を受け継ぐとともに、堂内を荘厳する仏像の造立・寄進にも力を注いだ。
薬師堂の本尊は薬師如来であるが、その脇には日光菩薩・月光菩薩の両脇侍が控え、周囲を十二神将像が守る構成が仏教の作法として整えられている。高室昌重は、この日光菩薩・月光菩薩と十二神将像を新たに造立し、薬師堂に寄進したと伝わる。中野七蔵が本堂という「器」を再建し、高室昌重がそこに祀られるべき諸尊という「中身」を整えた、と見ることができる。城下町ではなく天領の一角で、2代の代官が5年、10年という単位の年月をかけて一つの堂を再興していった歩みは、決して急ごしらえの事業ではなかった。
初代住職・憲能和尚、森町から迎えられる
本堂の再建と諸尊の荘厳が進むなか、寺として堂を守り、法灯を継ぐ住職も必要とされた。そこで森町(現・周智郡森町)の天台宗蓮華寺から迎えられたのが、憲能和尚である。憲能和尚は初代住職として薬師堂の再興に尽力し、その働きによって幕府から朱印高12石2斗余を与えられたと伝わる。朱印地を得るということは、寺として幕府から公式に存立を認められ、一定の収入基盤を持つことを意味しており、薬師堂が単なる村の堂から、寺院としての体裁を整えていく過程がここに見て取れる。
憲能和尚は天和2年(1682年)に没した。中野七蔵の着任から数えれば60年以上、高室昌重による諸尊寄進からも半世紀近くを経ての遷化である。焼失した堂を再興し、寺としての基盤を築いた功績から、憲能和尚は今日、国分寺の「中興開山」と位置づけられている。境内には憲能和尚の宝塔が現存しており、江戸初期の再興の歩みを今に伝える数少ない物証のひとつとなっている。
読み解きのポイント ── 代官所と寺、2つの再興
元亀3年(1572年)の焼失から元和5年(1619年)の再建着手まで、半世紀近い空白がある。この間、薬師堂がどのような状態にあったのかを直接語る史料は乏しいが、中野七蔵・高室昌重という2代の代官が続けて造営に関わり、憲能和尚という住職を迎えて寺としての体裁を整え直したという流れそのものが、天領における宗教政策の実例として読むことができる。城主による寺社保護とは異なる、代官所を介した幕府の統治のかたちが、この薬師堂の再興史には刻まれている。
参考資料
- 『磐田市誌』上巻(元亀3年の薬師堂焼失に関する記述)
- 地元伝承『参慶山国分寺由来』(同焼失について異なる経緯を伝える由来書)
- 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年発行、pp.28-29参照)
元亀3年の焼失の経緯については、『磐田市誌』上巻と地元伝承『参慶山国分寺由来』とで内容が異なるため、本文では両論を併記し、いずれか一方を史実として断定することを避けています。本文は上記資料の転載ではなく、事実関係を整理したうえで磐田物語用に再構成したものです。
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