失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

国分寺ものがたり | 子1

講堂が倒れた日 ── 治安2年の大風と太政官への嘆願

治安2年(1022年)7月5日、遠江国分寺の講堂は大風に倒された。中の仏像も壊れた。この一つの被災記録が、太政官への申請、国司の対応、地方行政の手続きという、古代国家のしくみを今に伝えている。

大風の夜、講堂は倒れた

治安2年(1022年)7月5日、遠江国分寺の講堂が大風によって倒壊した。天平13年(741年)の詔を受けて建立された国分寺は、この時すでに280年余りの歳月を経ていた。伽藍がいつまでも無傷でいられるわけではない。屋根を支える柱や梁は経年で弱り、一度大風に見舞われれば、倒れることは十分にありうる規模の建物だったはずである。倒壊した講堂の下からは、安置されていた仏像も壊れた姿で見つかった。

遠江国分寺がどのような経緯でこの地に建てられ、どのような伽藍配置を持っていたかという古代の詳細は、既存記事「遠江国分寺とは何か」「遠江国分寺跡と古代磐田のはじまり」に譲る。本稿では、建立から280年余りが経った平安中期、国分寺という「国家の寺」が地方でどう扱われていたかという一点に絞って追っていく。

仮屋での供養、そして修造への動き

倒壊の翌年にあたる治安3年(1023年)7月、当時の遠江守・源安道は、壊れた仏像を安置するための仮屋を建て、修造供養を行った。国分寺は朝廷の詔によって全国に置かれた官寺であり、その管理・維持は形式上、国司の職務に属していた。講堂が倒れたまま仏像が野ざらしにされる状態を放置するわけにはいかない。仮屋はあくまで応急の措置だが、被災からわずか1年で仮の安置と供養にまで漕ぎ着けている点に、当時の対応の速さがうかがえる。

もっとも、仮屋はその名の通り仮のものであり、講堂そのものの再建には至っていない。恒久的な修復には、国司の裁量だけでは足りない手続きが必要だった。

太政官への申請 ── 瓦葺から茅葺へ

被災から1年半ほどが経った万寿元年(1024年)正月16日、国司は講堂修復について太政官に申請を行った。国分寺の建物は国家の寺にふさわしい体裁を保つべきものとされ、その改修には中央の許可が要るしくみになっていたことが、この申請の存在から読み取れる。

申請の内容は単なる「元通りに直したい」というものではなかった。屋根の葺き方を瓦葺から茅葺へ変更したいという申し出が含まれていたのである。瓦は重く、資材の調達や施工にも手間とコストがかかる。地方の国分寺を維持していく現実的な負担を考えれば、茅葺への変更は理にかなった選択だったのだろう。あわせて、破損した仏像を銅で作り直し彩色を施すことも申請の中に含まれていた。屋根の仕様変更と仏像の造り替えという、建物と本尊の両面にわたる修復計画が、この時点で国司の手によってまとめられていたことになる。

裁許から修復実施へ

申請から1年余りを経た万寿2年(1025年)2月10日、太政官からの許可が国司宛に下された。中央での審議にどれほどの時間がかかったのか、その間に国分寺側でどのような対応がなされていたのかを示す史料は残っていないが、許可が下りたのちに実際の修復工事が行われたことは間違いない。

この一連の流れ、すなわち国司による申請、太政官による裁許、そして修復の実施という手続きは、以下のように整理できる。

段階年月日内容
1.被災治安2年(1022年)7月5日大風により講堂が倒壊し、内部の仏像も破損する。
2.仮の対応治安3年(1023年)7月遠江守・源安道が仮屋を建て、破損仏を安置して修造供養を行う。
3.国司による申請万寿元年(1024年)正月16日講堂修復(瓦葺から茅葺への変更、仏像の銅造・彩色)を太政官に申請する。
4.太政官の裁許万寿2年(1025年)2月10日修復を許可する旨が国司宛に下される。
5.修復の実施万寿2年(1025年)以降許可に基づき、講堂と仏像の修復が行われる。
6.完了届と勘査(時期不明)修復完了を届け出て、勘査(監査)の手続きを経る。

被災から仮の供養までが1年、申請から裁許までが1年余り。決して迅速とは言えないが、都から遠く離れた遠江国の一寺院の修復であっても、中央への申請と許可という手続きを経ずに済ませることはできなかった、という点にこそ注目したい。

完了届と勘査 ── 先例にならった監査

修復が実施されたのち、国司はその完了を届け出て、勘査と呼ばれる監査の手続きを受けている。この際、前任の遠江守・源忠重が法花寺(尼寺)の修造を行った際の勘査の先例に従い、官使(中央から派遣される監査担当者)による現地での勘査に代える扱いとされた。つまり、わざわざ都から監査役を派遣するのではなく、過去の類似案件で認められた簡略な手続きを踏襲することで、事務を済ませたことになる。

公共の建物を修復する際に補助を申請し、完了後に報告と監査を受ける、という一連の流れは、現代の行政手続きにも通じるところがある。むろん平安中期の太政官と現代の行政組織を単純に重ねることはできないが、国家の資産をどう管理し、その修復にどう説明責任を持たせるかという発想そのものは、千年前からすでに存在していたことになる。

修復された仏像の内訳

この時修復・造立された仏像の内訳は、金色の阿弥陀仏1体、脇侍菩薩2体、四天王像4体、吉祥天1体であったと伝わる。ここで注目したいのは、本尊が阿弥陀如来として扱われている点である。国分寺の本尊は、創建時の詔においては釈迦如来を安置することが原則とされていた。それが平安中期のこの記録では阿弥陀仏が中心に据えられており、本尊がいつの間にか変遷していたことをうかがわせる。

もっとも、この本尊変遷がどのような経緯をたどり、のちに薬師如来へとさらに変わっていくのかという展開については、次の子ページ「鎌倉時代の国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき」で改めて扱う。ここでは、治安・万寿年間の時点ですでに阿弥陀仏が本尊として修復の対象になっていた、という事実だけを押さえておきたい。

摂関政治の全盛期に、地方の国分寺で起きていたこと

治安2年から万寿2年という時期は、藤原道長・頼通による摂関政治がまさに全盛を迎えていた時代にあたる。中央政界では貴族社会の栄華が語られる一方で、地方の一国分寺の講堂が大風で倒れ、その修復のために国司が太政官へ申請書を出し、許可を待ち、監査の手続きを経る、という地道な実務が同時に進んでいた。摂関政治の華やかさとは対照的な、地方行政の日常がここに記録されている。

出典について ── 石上英一氏の解説を『国分寺ものがたり』経由で読む

本稿で紹介した申請・裁許・勘査の経緯は、国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年〈2022年〉11月20日発行、発行所・大進堂)pp.19-21に依拠している。同書はこの記録の典拠として、『特別史跡遠江国分寺跡―本編―』(2016年)p.257に所収された石上英一氏の解説を挙げており、その解説はさらに『朝野群載抄』に収められた万寿五年遠江国司解という史料を扱ったものである。

つまり本稿が紹介している内容は、『朝野群載抄』所引の万寿五年遠江国司解を、石上英一氏が解説し、それを『国分寺ものがたり』が紹介し、本稿がさらにそれを孫引きする、という経由をたどっている。原典に直接あたったものではない点をここに明記しておく。

参考資料

  • 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年〈2022年〉11月20日発行、発行所・大進堂、pp.19-21参照)
  • 『特別史跡遠江国分寺跡―本編―』(2016年)p.257所収、石上英一氏解説(『朝野群載抄』所収 万寿五年遠江国司解を扱ったもの)

本文は資料の転載ではなく、上記の資料をもとに事実関係を整理し、磐田物語用に再構成したものです。石上英一氏の解説部分は『国分寺ものがたり』を経由して知った内容であり、原典(『特別史跡遠江国分寺跡―本編―』)に直接あたったものではありません。

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