国分寺ものがたり | 子3
記録が消えた理由 ── 東海道と国分寺の前を通らなくなった道
鎌倉・室町期の国分寺には、まとまった記録がほとんど残っていない。だがそれは、国分寺が失われたことを意味しない。中世の旅人が、国分寺の前を通らなくなっただけだった。
「記録がない」は「無かった」ではない
前のページでは、建久2年(1191年)に源頼朝が国司へ国分二寺の修造を命じ、承元3年(1209年)の記録では本尊が「国分寺」ではなく「薬師堂」の名で現れることを見た。本尊は釈迦から薬師へと変わったが、信仰そのものは途切れずに続いていた、というのが前ページの核心だった。
ところが、それ以降の鎌倉・室町期の国分寺については、まとまった記録がほとんど見つからない。これだけを見れば、「国分寺は中世のどこかで廃れてしまったのではないか」と考えたくなる。だが、記録が乏しいことと、実体が失われたことは、同じではない。このページでは、なぜ記録がここまで少ないのか、その理由として『国分寺ものがたり』が挙げる説を追ってみる。
紀行文に出てこない国分寺
鎌倉・室町期には、都と鎌倉を結ぶ東海道を旅した貴族や武士、僧侶が、道中の見聞を書き残す例が少なくなかった。『国分寺ものがたり』は、こうした紀行文・軍記物のいくつかを挙げ、そのどれにも遠江国分寺が登場しないことを指摘している。
具体的に名前が挙がるのは、『吾妻鏡』『平家物語』『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』『太平記』『覧富士記』といった作品である。いずれも東海道の様子や宿々の風景を記した、当時としては貴重な旅の記録だ。国府があった見付や、その近くの中泉を通過したはずの旅人たちの筆に、国分寺の名がまったく残っていない。
一つの資料に出てこないだけなら偶然で片づけられる。しかし複数の紀行文に共通して名が現れないとなると、単なる書き漏らしとは考えにくい。『国分寺ものがたり』は、ここに東海道そのもののルート変更という理由を見ている。
中世の東海道は、中泉の前を通らなかった
『国分寺ものがたり』が示す説はこうである。中世の東海道は、浜松側の引間(曳馬)から池田宿へ抜け、そこから渡船で天竜川を渡り、一言のあたりを経て見付に出るルートが使われていた。このルートでは、川を渡ったあとの道筋が国分寺のある中泉の前を素通りする形になる。
つまり、旅人たちが国分寺について書き残さなかったのは、国分寺が荒れ果てて語るに値しなかったからではなく、そもそも旅人の通り道から外れていたからだ、という読み方になる。渡船の着き場や宿の位置が変われば、人の流れも変わる。人の流れが変われば、紀行文に何が書き留められるかも変わる。国分寺の記録が薄いのは、信仰の衰えの証拠というより、街道と旅人の動線の問題として説明できる、というのがこの説の骨子である。
池田の渡し、一言、見付という地名は、いずれも現在の磐田市内に実在する土地である。天竜川を挟んで西と東、それぞれの岸辺の集落が、東海道の付け替えによってどちらに人を集めるかが変わっていった、その痕跡として国分寺の記録の空白を見ることができる。
瓦が出土しなくなる時期
『国分寺ものがたり』は、発掘調査の成果からも、この時期の国分寺の変化に触れている。平安時代後期になると、遺跡から瓦の出土が少なくなるという。これは、建物の屋根が瓦葺きから茅葺きへと変わっていったこと、また建物そのものの規模が縮小していったことを示すと考えられている。
瓦葺きの大伽藍を維持するには相応の費用と人手がかかる。国府の機能や地域の中心性が移り変わるなかで、国分寺の建物も、創建当初の威容をそのまま保ち続けることは難しくなっていったのだろう。屋根が茅葺きに変わり、建物が小さくなったとしても、そこで営まれる信仰や行事までが消えたとは限らない。むしろ前ページで見た「薬師堂」という呼び名の変化と重ね合わせると、規模を縮小しながらも祈りの場としては存続していた、という筋道の方が資料の示す事実に近い。
170回を超える発掘調査が示すもの
記録の空白を埋めているのは、文献ではなく発掘調査である。国分寺周辺ではこれまでに170回を超える発掘調査が行われており、その積み重ねのなかで、鎌倉期から江戸期にかけての建物の痕跡が確認されている。紀行文の中には国分寺の名がなくても、地面の下には、その時代その時代の建物が存在した跡が残っていたことになる。
文献史料と発掘調査は、同じ過去を別々の角度から映す。旅人が書き残さなかった時代でも、そこで暮らし、祈っていた人たちの痕跡は土の中に積もっていく。国分寺の千年を考えるとき、「書かれなかったこと」を「無かったこと」と読み替えないようにする姿勢が、資料と向き合う上でのひとつの基本になる。
読み方のポイント
史料に何かが登場しないとき、その理由には「存在しなかったから」以外にも、「旅人の道筋から外れていたから」「別の呼び名で呼ばれていたから」「記録者の関心の外にあったから」など、いくつもの可能性がある。国分寺の中世史は、記録の空白そのものが、東海道の付け替えという別の歴史的事実を映し出している例といえる。古代の国分寺創建の経緯については、n001およびn016で扱っている。
参考資料
- 『国分寺ものがたり』(国分寺奉賛会、小杉達 著、令和4年発行)p.24 ── 同書が言及する紀行文・軍記物として、『吾妻鏡』『平家物語』『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』『太平記』『覧富士記』を紹介
- 磐田市教育委員会等による国分寺跡周辺の発掘調査資料(170回を超える調査の蓄積)
紀行文・軍記物の原典は未確認であり、『国分寺ものがたり』の記述をもとに紹介している。
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