天保13年(1842年)の見付宿で、書上帳が家作を伝える旅籠屋は39軒であった。同じ章には別の時点・別の集計による31軒、54軒、56軒も現れる。数が揺れるのは誤りとは限らない。開業・廃業、数え方、調査目的が異なるからである。ここでは39軒の間口・奥行・建坪と、街道沿いの分布に絞って読む。
- 天保13年の家作書上では旅籠屋39軒。間口2間から6間、奥行6間から16間ほどに分布する。
- 建坪は20坪台が最も多く、10坪台から90坪級まで差があった。
- 39軒のうち持高を記す家は16軒、借家7軒、借地5軒と同書は集計する。
- 別時点の56軒などとは母集団が違う可能性があり、同じ数字として混ぜない。
39軒という一枚のスナップショット
『東海道遠州見付宿』172頁は、明和6年(1769年)に31軒、天保13年(1842年)に39軒、天保14年(1843年)には56軒と記す。さらに文化2年(1805年)や文久2年(1862年)の資料も引用される。旅籠数は時間とともに単純増加したのではなく、営業中・休業中、平旅籠・飯盛旅籠、宿割に使える家など、帳簿の目的によって数え方が違った可能性がある。
そのため本稿では、同じ天保13年の「旅籠屋渡世者書上帳」にまとまって現れる39軒を基準にする。これはその年の見付宿すべてを永久に固定する数字ではなく、特定の行政目的で把握された営業者の集合である。数値の差を解消して一つに決めるより、各資料が何を数えたかを確かめるほうが史料に忠実である。
間口より奥行が長い町家
| 項目 | 同書の集計から読める範囲 | 注意 |
|---|---|---|
| 間口 | おおむね2〜6間。2〜3間級が多い | 「間」は地域・時代の実寸差があり、現代メートルへ単純換算しない |
| 奥行 | おおむね6〜16間。間口より長い家が多い | 敷地奥行と建物奥行が混在しないか原帳確認が必要 |
| 建坪 | 20坪台が最多。10坪台から90坪級まで | 母屋・裏行・付属屋の算入範囲に留意 |
| 所有 | 持高あり16、借家7、借地5 | 残る軒は記載方法が異なるため、合計を所有分類へ押し込まない |
街道沿いの町家は、正面の間口を狭く取り、奥へ長く伸びる。旅籠でも、表に帳場や客の出入り口を置き、奥に座敷・台所・家族の生活空間・厩などを連ねたと考えられる。ただし個々の平面を同書の一覧だけから復元することはできない。ここで確かに言えるのは、間口と奥行が均質ではなく、収容力に大きな差があったことである。
大旅籠・中旅籠・小旅籠。 同書は建坪を目安に、上之部9軒、中之部24軒、下之部21軒と区分する別資料を掲げる。さらに「大旅籠」「中旅籠」「小旅籠」という語も用いるが、すべての帳簿で同じ基準が使われたわけではない。建坪、部屋数、飯盛女の人数、宿割で受けられる身分など、評価軸が重なっていたとみられる。
39軒の家作表では、江戸屋・内山屋・大塚屋・福田屋など大きな家がある一方、間口2間ほどの小規模な家も並ぶ。見付宿の「旅籠39軒」あるいは「56軒」という一つの数は、同じ規格の宿が横に並んだ姿を意味しない。大名家臣をまとまって受ける家、商人や一人旅を受ける家、借家で営業する家が混在した。
馬場町に集まり、西坂へ伸びる。 天保13年の旅籠屋分布図では、本陣・脇本陣を中心とする馬場町に旅籠が集まり、東坂・西坂にも連なる。文久2年の図では西坂方面の増加が目立つと同書は読む。天保13年の旅籠40軒のうち、西坂町には10軒があり、文久2年にはこの方面で新規開業が増えたとされる。
ただし図は地籍図ではなく、街道沿いの配置を示す模式的な資料である。家と家の距離、敷地境、道幅を現代地図へそのまま移すことはできない。図が強く示すのは、本陣の周囲と馬場町に中核があり、宿の営業が西へ展開したという相対的な分布である。宿全体の範囲は見付宿のすがたと戸口、木戸と高札場は見付宿の東木戸・西木戸・高札場とあわせて読むと位置関係が見えやすい。
開業と廃業を含む数
文化年間から天保期までの開廃業をたどる記述は、旅籠が固定的な身分ではなく商売であったことを示す。古くから続く家、借家から始めた家、荒物・足袋などから転業した家がある。天保から文久に旅籠数が増えたという叙述も、交通需要に応じて新規参入が起きたことを示す。
本稿の立場は、39・54・56という数字のどれか一つを「正しい旅籠数」に選ばないことである。各数字は調査時点と目的の違う史料の値であり、その差こそ宿場経済の動きを伝える。建物規模と営業者数を同時に読むことで、見付宿は均一な町並みではなく、大小の宿が出入りする市場として見えてくる。
何を一軒と数えたのか。 旅籠数を比較するときは、「建物」「営業者」「営業許可」「宿割に使える家」を分けなければならない。一つの建物で営業者が代わる場合、休業中の株を数える場合、旅籠と別商売を兼ねる場合があるからである。天保13年の家作書上は建物規模を知るのに向き、天保14年の別帳は営業者把握に向く可能性がある。帳簿名と作成目的の違いが、39軒と56軒の差を生んだ可能性を残す。
また、同じ年号でも作成月が違えば開廃業が挟まる。帳簿が宿役人の提出用か、幕府の調査用か、宿仲間の内部記録かによっても対象は変わる。原帳未照合の段階では、数字を一列の増減グラフにせず、資料ごとの箱に入れて示すのが安全である。
建坪は収容人数ではない。 建坪が大きい家ほど多くの客を収容できる傾向はある。しかし家族の生活空間、土間、台所、厩、倉、奉公人部屋も建坪に含まれ得る。建坪90坪の旅籠が20坪の旅籠の4倍以上の客を泊められたとは限らない。客間数、畳数、上下の別、厩の規模を別に確認する必要がある。
それでも間口・奥行の分布は有用である。間口の狭い家が多いことは、街道正面という限られた資源を細かく分けた町場の形を示す。奥へ延びる家作は、表の商売と裏の生活・生産を一筆の敷地へ収める工夫だった。見付の町家一般については見付の町家・蔵・商家建築も参照できる。
借家・借地から見える参入。 借家7軒、借地5軒という同書の集計は、旅籠経営が土地持ちの旧家だけに閉じていなかったことを示す。街道交通の需要があれば、建物を借りて営業へ入る道があった。一方、家賃・地代を負担する営業者は、通行量の減少や火災に弱かったと考えられる。ただし収支帳がないため、所有形態と経営成績の関係は推定にとどまる。
持高を持つ16軒についても、農地収入が旅籠を支えたのか、旅籠の利益で土地を得たのかは分からない。所有を富裕度へ直結させず、旅籠が農業・不動産・商売を組み合わせる家業であった可能性として読む。
火災と建替えの影響。 見付宿は大火を経験しており、天保11年(1840年)の類焼は天保13年の家作書上に近い。書上に現れる建物の一部は、焼失後に再建・修復された姿かもしれない。建物規模を「昔から変わらない本来形」とみなすことはできない。火事と復旧は火事・洪水・祭礼、本陣修復の助成は本陣と脇本陣に接続する。
本稿の立場は、家作表を静止した町並み図ではなく、開業、廃業、借家、再建を含む一時点の台帳として読むことである。39軒の差異を残すことが、宿場の変化を捉える入口になる。
部屋数へ進むための課題。 間口・奥行・建坪から一歩進んで収容力を比べるには、客間の畳数、二階の有無、厩の頭数、台所面積、家族・奉公人の居住部分を拾う必要がある。宿割帳に「何人をどの家へ置いたか」が残れば、家作表の面積と実際の収容人数を結べる。今回の資料は建物の外形を示すが、客室構成を一律には示さないため、面積から人数を逆算しなかった。この空白を残すことが、後の原図・普請帳との照合点になる。
更新履歴
- 『東海道遠州見付宿』171〜181頁・186〜187頁を全頁画像照合し、新規公開。