天保13年(1842年)の見付宿では、書上帳に飯盛女59人が記された。年齢は16歳から27歳ほどに分布し、19歳が多い。だがこれは生活実態の全数調査ではない。幕府が人数を制限するなかで宿側が差し出した行政上の数字であり、名を伏せられた女性たちの境遇をそのまま表すものではない。
- 天保13年の書上帳は飯盛女59人を記し、多くの旅籠は1人、少数が2人を置いた。
- 公定上限とみられる「1軒2人」と、実際の人数は一致しない可能性がある。
- 女性は給仕だけでなく売春を伴う場合があり、前借と年季によって移動を拘束された。
- 記録は取締側・雇用側の文書で、本人の声をほとんど残さないという限界がある。
59人という表面値
同書182〜183頁によれば、天保13年の旅籠屋39軒のうち、飯盛女を1人置く家が26軒、2人置く家が5軒で、書上帳の総数は59人となる。表に見える年齢は16歳から27歳ほどで、19歳が最も多いとされる。ただし人数の内訳と総数が単純には一致しない箇所があり、兼業、未記載、別区分を含む可能性がある。
幕府は宿場ごとの飯盛女数を制限し、衣服にも規制を加えた。同書は見付でも1軒2人を上限とする規定を紹介する。一方、板橋宿など他宿の実態を引き、帳簿上の人数と実数が大きく違った例を示す。見付の59人も「少なくとも書上げられた人数」と読むべきで、宿内にいた全員を確定する数字ではない。
給仕と売春のあいだ。 飯盛女という名称は、飯を盛り給仕する役目を表面に置く。実際には旅人への接客に加え、売春を伴う場合があった。同書は元禄期の品川宿や道中奉行の触書を参照し、宿場の収益と統制の両面から飯盛女が置かれた経緯を述べる。見付でも客引きや歓楽が宿場経済の一部になっていたと考えられるが、個々の女性がどの仕事をどの程度担ったかは帳簿だけでは分からない。
ここで「宿場の華」「旅情」といった言葉で美化することは避ける。制度のもとで働いた女性には、選択肢の乏しい出身事情、前借、年季、移動制限があった。賑わいの情景を描くほど、働く側の拘束が見えなくなる危険がある。
前借と年季。 同書184頁は、給仕する女性を飯盛女と呼ばせ、名を変えて店頭へ出す慣行、前借金を伴う契約を紹介する。宿側が年季のあいだ労働を確保し、本人は借金返済と結びつけられた。これは自由な雇用契約としてだけでは捉えられない。
ただし同書の説明には一般の交通史・他宿の事例も含まれ、見付固有の契約書全文が示されるわけではない。見付宿で同じ条件が一律に適用されたと断定せず、書上帳に現れる人数、年齢、旅籠との対応を確かな範囲とする。本人の出身地、家族関係、年季、賃金は、個別史料がなければ復元できない。
取締と客引き
| 記録に現れる側面 | 確認できること | 確認できないこと |
|---|---|---|
| 人数書上 | 行政へ届けた人数・年齢の分布 | 無届を含む実数、日々の在宿 |
| 上限規定 | 1軒2人などの統制理念 | 各旅籠が常に守ったか |
| 触書・取締 | 客引きや風俗を規制した事実 | 取締の頻度と個人への影響 |
| 前借 | 雇用が債務と結びつく構造 | 個々人の契約条件と意思 |
文久3年(1863年)の浪華講定宿をめぐる記述、宿場同士の組合、客引きの競争は、旅籠営業が統制と競争のあいだにあったことを示す。飯盛女の設置は客を呼ぶ営業手段であると同時に、幕府の監督対象であった。旅籠の分布と規模は旅籠屋の間口と奥行、料金と食事は宿泊料と食事を参照されたい。
誰の記録か
書上帳は宿役人・旅籠屋が行政へ提出した記録であり、働いた女性自身が書いた生活史ではない。人数・年齢・雇用先は残しても、本人の言葉、希望、暴力、病、退職後をほとんど記さない。この沈黙は「何もなかった」ことを意味しない。記録を作る権限が誰にあったかを示す。
本稿の立場は、飯盛女を宿場の賑わいを彩る存在として消費せず、宿泊業の収益、幕府統制、ジェンダーと債務の交点に置くことである。59人は重要な史料値だが、それだけで59人の人生を語ったことにはならない。今後、奉公人請状、年季証文、出身村の宗門人別帳などが確認できれば、宿側の帳簿を女性側の履歴で補う必要がある。
年齢表が伝えるもの、隠すもの。 16歳から27歳ほどという分布は、若年女性が集中していたことを示す。しかし年齢の申告が正確だったか、数え年か満年齢か、誕生日をどう扱ったかは原帳を見なければ分からない。19歳が多いという山も、雇用側が好んだ年齢、届け出上の丸め、契約年季の更新など複数の要因で生じ得る。
年齢表は統計として魅力的だが、出生地や家族、前借額、在宿期間を欠く。若い女性が多いという事実から、自発性や生活の安定まで推測してはならない。人数の表は、宿場が女性労働を制度的に把握しようとしたことを示す記録でもある。
規制は保護だったのか。 人数・衣服・客引きを制限する触書には、風紀維持、治安、宿場間競争の抑制という行政側の目的があった。上限を設けることが過剰雇用を防ぐ面を持った可能性はあるが、それだけで女性を保護したとは言えない。前借債務、暴力、病気、退職の自由を保障する規定が同じ強さで示されるわけではないからである。
取締記録は違反を可視化する一方、規定の範囲内で起きた搾取を記録しないことがある。規制が存在したことと、労働環境が安全だったことを同一視しない。制度全体の位置づけは見付宿の機能構造の宿泊機能とあわせて考える必要がある。
旅籠側の経営事情。 飯盛女を置く旅籠は、食事・宿泊だけで競争する家とは別の収益源を持った。幕府が人数を抑えようとしたのは、宿場が過度に遊興へ傾くことへの警戒と、旅籠同士の競争調整の双方に関わったと考えられる。見付で59人が書き上げられたことは、宿泊業の一部にこの収益構造が組み込まれていたことを示す。
一方、すべての旅籠が飯盛女を置いたわけではない。平旅籠、木賃宿、商人宿など客層と営業方針が違った。飯盛女の有無だけで旅籠の格や収益を決めることはできず、建坪、立地、講宿指定、兼業を併せて見る必要がある。
本人の履歴へ近づく史料。 女性側の生活史へ近づくには、旅籠屋渡世者書上帳だけでなく、奉公人請状、年季証文、宗門人別帳、出身村の送籍、病気・死亡・逃亡に関する届書が要る。旅日記や文学は客の視点を残すが、働く側の声を代弁しない。裁判・訴願史料が残れば、雇用側との争いを通して本人の言葉が現れることもある。
本稿は、得られた数字を人の輪郭へ戻すための最初の整理である。59を賑わいの指標にせず、誰が数え、何のために提出し、誰の声が欠けたかを問う。そうすることで、宿場史のなかに女性の労働を置きながら、再び匿名の景物へ戻すことを避けたい。
用語を現在へ引き寄せすぎない。 「飯盛女」は近世史料に現れる呼称であり、現代の接客業や性労働の分類と完全には重ならない。給仕、客引き、売春、奉公という役割が宿・時期・本人によって違い得るため、一語から仕事内容を固定しない。他方、曖昧さを理由に搾取の可能性をぼかしてもならない。史料語を示しつつ、前借と年季、移動制限、取締という具体的な関係を記す。呼称の歴史性と、働いた人の尊厳を同時に守る書き方が必要である。
更新履歴
- 『東海道遠州見付宿』173〜186頁を全頁画像照合し、新規公開。