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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(30)

見付宿の本陣と脇本陣 ── 三郎右衛門・孫兵衛・新左衛門

二つの本陣と一つの脇本陣を、宿泊の格式、宿割、建物、経営の四面から読み直す。

見付宿には本陣2軒と脇本陣1軒があった。南側の本陣を三郎右衛門、北側の本陣を孫兵衛、脇本陣を大三河屋新左衛門が担ったと『東海道遠州見付宿』は記す。本陣は大名のための大きな旅籠というだけではない。宿泊者の格式を守り、先約を調整し、町内の家々まで動員する宿割の中枢であった。

本稿の要点
  • 本陣2軒は三郎右衛門家・孫兵衛家、脇本陣1軒は大三河屋新左衛門家と同書に記される。
  • 参勤交代期の本陣は大名・公家・幕府役人らの指定宿で、一般旅客の宿ではなかった。
  • 先約が重なれば領主休泊の日を交渉し、収容できなければ家臣を旅籠や町内へ割り振った。
  • 同書は宿方文書から復元するが、引用された原史料を本稿は直接確認していない。

旅籠とは別の宿泊装置

江戸初期、旅人が自ら米や薪を携える木賃宿から、食事を供する旅籠へ宿泊の形が移った。だが本陣はこの流れの延長にだけ置けない。大名・公家・門跡・幕府役人など、格式ある通行者の休泊を受ける指定宿であり、宿場の公的機構に組み込まれていたからである。『東海道遠州見付宿』162〜163頁は、伝馬が荷物を継ぎ、旅籠が一般旅客を泊めるのに対し、本陣が諸侯公家の休泊所であったと整理する。

本陣の成立年代は見付宿では明らかでない。同書は、東海道の交通が頻繁になるにつれ、本陣・脇本陣が各宿に整えられたと説明する。したがって「慶長6年(1601年)の宿駅成立と同時に現在知られる3家が本陣・脇本陣になった」とまでは言えない。本稿は、制度の成立過程と見付の3家の具体像を分けて扱う。

区分同書に見える家位置・性格
南本陣三郎右衛門家宿の中央、馬場町付近。幕末まで宿の名主も担ったとされる
北本陣孫兵衛家南本陣の向かい側に近い位置。両本陣はやや東寄りに向かい合った
脇本陣大三河屋新左衛門家本陣を補完する予備の宿。平時の営業形態は本文だけでは確定しない

この比定は同書が参照した天保13年(1842年)の書上帳・分布図などによる。現在の土地へ一点で落とし込むには、図の縮尺、町名境、後年の道路改変を照合する必要がある。本陣家の墓所は見付本陣(神谷家・鈴木家)墓所が扱うが、墓所情報と宿方文書の家名を機械的に同一視せず、系譜の確認を別課題として残す。

先約と宿割 ── 一軒では泊めきれない。 本陣の仕事は客室を用意するだけではなかった。先触れを受け、相手の格式と人数を把握し、先約があれば日程や宿を交渉する。文化4年(1807年)の調査では、ある期間に本陣へ入った大名が多数にのぼったと同書は記す。大名行列全体を本陣一棟に収めることはできないため、当主ら上級者を本陣へ、家臣を旅籠や町内の家へ振り分ける「宿割」が必要になった。

文政8年(1825年)の長州毛利家の宿割では、三郎右衛門本陣を中心に、近隣の旅籠だけでなく裏町の民家まで割り当てた例が掲げられる。文久2年(1862年)の大部隊往復時にも、本陣旅籠屋以外の民家を宿にした。華やかな玄関や上段の間の背後で、宿場全体を臨時宿舎へ組み替える実務が動いていたのである。継立側の手順は先触れから出発まで、大通行時の動員は大通行が見付宿に来た日に詳しい。

建物の格式と、数字の扱い。 同書は家作間口・奥行・建坪、家族・奉公人、書院・上段の間・玄関などの構成を掲げる。一般旅籠に禁じられた門・玄関・上段の間を備えたことは、本陣が格式を建築で表す施設だったことを示す。ただし掲載値には図面、書上帳、先行研究からの転載が混在する。複写画像では一部の数字が読み取りにくいため、本稿は判読の確かな構成要素を示し、細かな坪数の再転記は避けた。

本陣が休泊を断念する場合には三家で補い、それでも不足すれば他宿へ振り替えた。建物が大きいから本陣なのではない。公的な宿泊予約を受け、格式を守り、宿場中の収容力を組み直せることが本陣の機能であった。

助成・特権と経営

本陣には通行者からの宿泊料だけでなく、幕府の助成や拝借金、修復料が関係した。安永年間には宿助成の配分が記され、天保11年(1840年)の類焼後には建物修復のための金が貸与されたと同書は述べる。他方、名門豪家が問屋業や農業を兼ねて収入を補った例も多い。本陣は格式の高い施設である一方、維持費の重い家業でもあった。

本稿の立場は、本陣を「大名が泊まった名所」ではなく、予約・格式・収容・会計を束ねる宿駅の実務装置として捉えることである。家名と施設数は同書所引史料で確認できるが、個々の建物の全容と家の系譜は原史料未照合であり、今後の課題として残す。

「休」と「泊」を分けて読む。 宿方文書では、昼に立ち寄る休息と、一夜を過ごす宿泊とが区別される。休息だけでも玄関、座敷、湯茶、警固、荷物置場を整える必要があり、到着から出立まで本陣側の人手を拘束した。宿泊なら夕朝食、寝具、夜間の警固、馬の扱いまで加わる。同じ大名一行でも「休」か「泊」かで本陣と宿場の負担は違う。

同書に引用された宿割関係史料は、客の名だけでなく先触れ、人数、配宿を記す。これは名所案内ではなく業務記録である。記載の中心が当主や役職者に偏り、炊事・掃除・給仕・警固に従事した人の名をほとんど残さない点にも注意したい。本陣の運営は家族だけで完結せず、奉公人、町役人、近隣旅籠、臨時に宿を提供する民家の労働に支えられた。

二本陣が必要だった理由。 本陣が2軒あることは、単に規模の大きな宿が二つあったという意味ではない。先約の重なり、上り下りの同時通行、格式の異なる複数の一行、火災や修復による休業に対応する余地を宿へ与えた。脇本陣はその予備をさらに厚くする。三家が相互に補う仕組みは、天竜川の渡河を控え、大通行の滞留も起こり得る見付の立地に適していたと考えられる。

ただし「二本陣だから通行量が多かった」という因果を、この資料だけで証明することはできない。本陣数は宿の歴史、家の継承、幕府・領主との関係にも左右される。施設数を交通量の代理値として使う場合は、同時期の休泊件数や他宿の同種史料との比較が要る。既存の総論見付宿の機能構造が残した未確認点を、今回の家名と宿割記録で一段前へ進めるのが本稿の範囲である。

復元図を現地へ重ねる前に。 同書の分布図は、街道の北側・南側、馬場町・東坂・西坂、本陣・脇本陣・旅籠の相対位置を読むには強い。しかし方位、縮尺、敷地境界を現代測量図と同じ精度で備える図ではない。現在地を案内するには、地籍図、旧土地台帳、道路改修前後の地図、家系資料を重ねる必要がある。

この留保は、遺構が少ない見付宿ではとくに重要である。建物が残らないからといって図上の一点を史跡化するのではなく、確実な町区・街道線・寺社・水路から段階的に位置を絞る。墓所や伝承は有力な手がかりだが、宿方文書と結びつける照合を経て初めて確度が上がる。

次に照合すべき史料。 本陣像をさらに確かにするには、休泊帳・御宿割下帳・修復願・拝借金返納帳・家相続の記録を年代順に並べる必要がある。休泊帳は誰がいつ利用したか、宿割帳は町内の収容分担、修復願は建物の変化、返納帳は経営負担を伝える。四種を結べば、三家の名だけでなく、本陣が宿場全体を動かした日を復元できる。現段階では同書の引用を通した確認なので、各帳簿の所蔵・原題・丁数の確定を次の課題とする。

  • 『東海道遠州見付宿』162〜171頁を全頁画像照合し、新規公開。

参考資料

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