家康が見付から浜松へ移った理由 ──
信長の助言と「引馬」の改名
もともとは見付に築く予定だった
複数の記録によれば、家康は当初、見付(現在の磐田市)に新しい城を築く予定だったとされる。しかし、見付で武田方の攻撃を受けた場合、天竜川を西へ越えて撤退することになり、織田信長方からの援軍を受けるのに不便だという指摘を信長自身から受けたと伝えられる。既稿で扱った「城之崎城が未完に終わった理由」の背景には、この信長の助言があったと考えられる。天竜川という川一本が、見付を拠点とするか、その西岸を拠点とするかを分けた決定的な要因だったことになる。
「引馬」から「浜松」へ。 見付での築城を見送った家康は、代わりに引馬城(ひくまじょう、現在の浜松市)を西へ拡張し、新たな本拠を築いた。ここで家康は城の名を改めている。「引馬」は「馬を引く」、すなわち「退却する」という意味に通じてしまう。武運を占う上で好ましくない名であったため、家康はこの地の旧称「浜松荘」にちなみ、城の名を「浜松城」と改めたと伝えられる。地名の縁起を担ぐという判断からも、家康がこの本拠移転をどれほど重要視していたかがうかがえる。
浜松という土地の地政学的優位性。 浜松は、西に浜名湖、東に天竜川、北に赤石山脈の山々が控える、天然の要害に開けた土地である。海運・陸運の両方に恵まれ、東海道を押さえる位置にありながら、北へ向かう姫街道を使えば、武田方に対する出陣にも動きやすい配置だったとされる。見付が国府以来の内陸の中心地であったのに対し、浜松は軍事・交通の結節点としての性格がより強い土地だった。既稿で扱った「なぜ家康は見付を選んだのか」という問いと、この浜松への移転は、一見矛盾するようでいて、実は同じ論理――地政学的な最適地を求め続けた家康の判断――の両面と見ることができる。
家康が見付で築城を進めながら中止したこと自体は、『当代記』の「見付普請相止也、是信長異見給如此(見付の普請を止めた。これは信長の異見によるものである)」という記述で確認できる。引馬城を拡張して浜松城とし「引馬」の名を避けて改名したこと、元亀元年(1570年)に岡崎城を子・信康に譲り浜松城へ本拠を移したことも、複数の資料で確認できる。ただし後述のとおり、見付の城の性格や中止の理由づけについては、史料間に相違がある。
史料は何と言っているか ── 当代記・三河物語・浜松御在城記。 この移転をめぐる主な史料の記述は、次のように分かれている。江戸初期成立の『当代記』は「見付普請相止也、是信長異見給如此」と記し、見付の普請中止が信長の異見によるものだったと明言する。その理由として、天竜川が増水すれば三河や尾張との往来が妨げられる、という趣旨が説かれてきた。大久保彦左衛門の『三河物語』は、見付は「不可然(しかるべからず)」として浜松へ移り、城を構えて住所を定めた、と簡潔に記す。一方、浜松藩側の編纂物である『浜松御在城記』は、見付の城はそもそも掛川城攻めのための陣城(じんじろ、攻城戦用の臨時の城)だったとし、「川を隔てていると加勢が難しいから中止した」という通説的な説明を「非なるべし」と退けている。同じ出来事について、史料の立場によって説明がまるで違うのである。
学説の整理 ── 信長異見説と陣城説
説A:信長異見説(通説)。 『当代記』の明文を根拠に、家康は見付を本拠とするべく普請を進めたが、天竜川で織田方との連絡が断たれる危険を信長に指摘され、中止して浜松(引馬)へ移った、とする。本記事の冒頭で述べた経緯はこの立場に沿う。弱点は、『当代記』も同時代の一次史料そのものではなく、後年の編纂を経ている点である。
説B:陣城説。 『浜松御在城記』に基づき、見付の城(城之崎城)は掛川城攻囲のための臨時の陣城であって、本拠として築かれたものではない、とする。この立場では「本拠を見付から浜松へ変えた」という枠組み自体が成り立たず、信長助言説も後づけの説明ということになる。弱点は、『浜松御在城記』が浜松側の由緒を語る後世の編纂物であり、浜松の正統性を強調する動機を持ち得る点である。
本稿の立場。 『当代記』の「信長の異見で普請を止めた」という記述は具体的で捨てがたい一方、城の当初の性格(本拠か陣城か)までは確定できない。本稿は、普請中止と信長の関与は史料上確認できる事実、中止の理由づけと城の性格は諸説併存、として両説を併記する。
移転を後押しした時代背景。 元亀元年(1570年)という時期そのものも、この移転の背景として見逃せない。前年の永禄12年(1569年)には今川氏真の遠江支配が事実上終わりを迎え、家康は三河・遠江の二カ国を実質的に統べる立場になっていた。三河一国の大名から二カ国の太守へと立場が変わったことで、より広い遠江・三河の全体を見渡せる、軍事的に柔軟な拠点が必要になったと考えられる。見付という一地点よりも、東海道・姫街道という複数の街道を押さえられる浜松の方が、拡大した領国を統治するうえで理にかなっていたといえる。
17年間の浜松在城。 家康は元亀元年(1570年)、29歳のときに浜松城へ入り、45歳になるまでの17年間、この地を本拠とした。この間には、三方ヶ原の戦い、そして既稿で扱った一言坂の戦いをはじめとする対武田戦の数々があった。見付・城之崎城を選ばず浜松を選んだという一つの判断が、その後17年間にわたる遠江支配の枠組みを規定したことになる。
今も残る「浜松」という地名の由来。 「浜松」という名そのものも、この地に古くからあった地名「浜松荘」に由来する。家康が新たに考え出した名ではなく、既存の荘園名・地域名を再び前面に押し出す形で採用されたことになる。「引馬」という不吉な字面を避けつつ、まったく新しい名を作るのではなく、土地に根ざした古い呼び名を選び直したという点に、家康の実利的な判断がうかがえる。見付が「見付」という地名を保ち続けたのとは対照的に、浜松は城の移転を機に、地名の主役が「引馬」から「浜松」へと切り替わったことになる。
| 当初の計画 | 見付(城之崎城)に築城予定だったとされる。 |
|---|---|
| 見送りの理由 | 天竜川を挟んでの退却時、信長方からの援軍が受けにくいとの指摘。 |
| 代替地 | 引馬城を拡張。「引馬」の不吉な語感を避け「浜松城」と改名。 |
| 移転年 | 元亀元年(1570年)。岡崎城は子・信康に譲る。 |
| 浜松の優位性 | 西に浜名湖・東に天竜川・北に赤石山脈という天然の要害。海運・陸運の要衝。姫街道で北方展開も可能。 |
| 在城期間 | 29歳〜45歳の17年間。 |
主な参考資料
- 『当代記』(「見付普請相止也、是信長異見給如此」)
- 大久保忠教『三河物語』、『浜松御在城記』(浜松藩側の編纂物。陣城説)
- Yahoo!ニュース エキスパート(渡邊大門)「徳川家康が浜松城を築き、引馬城から改名した経緯とは」
- Wikipedia「浜松城」「浜松御在城記」
- 浜松市公式「浜松城の変遷」
- 磐田物語「なぜ家康は見付を選んだのか」「城之崎城はなぜ未完に終わったのか」「磐田が戦場になった時代」
更新履歴
- 「史料は何と言っているか」「学説の整理(信長異見説と陣城説)」の2節を追加。『当代記』の文言を明記し、『浜松御在城記』の異説を対置。
- 初版公開。
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