失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

見付・戦国史 | 特集ポータル

見付に残る幻の城――徳川家康の築城伝説と城之崎城

磐田城山球場と城山中学校が並ぶ丘陵地には、徳川家康が築こうとしたとされる「城之崎城」の記憶が眠っている。「秀吉に配慮して城を築けなかった」という言い伝えを手がかりに、見付という土地が背負ってきた戦国史を、6本の記事に分けて読み解く。

城山に眠る、未完の城の記憶

磐田市見付、城山球場と城山中学校が並ぶ丘陵の一帯には、戦国期に徳川家康が築こうとしたとされる城郭「城之崎城(きのさきじょう)」の跡が比定されている。球場の外周や土手には、いまも土塁や堀の名残とされる高まりが残ると伝えられ、見付の人々の間では古くから「幻の城」として語られてきた。

この城之崎城について、地域には「家康は見付に立派な城を築きたかったが、豊臣秀吉に遠慮して、あえて本格的な城を完成させなかった」という言い伝えが伝わる。しかし、時代を順に整理していくと、この言い伝えをそのまま史実として受け取るのは難しい。

城之崎城の廃城理由を、時代順に読み直す

城之崎城の築城が進められたとされるのは1569年(永禄12年)ごろ、放棄されたのは1570年(元亀元年)ごろとされる。この時期、のちに天下人となる秀吉は、まだ織田信長配下の一将にすぎず、家康の築城を制限できるような立場にはなかった。城之崎城が未完に終わった直接の理由としては、東方から迫る武田信玄の脅威を前にしたとき、見付に本拠を置くと背後に天竜川を負う「背水の陣」になってしまうという地政学上の弱点、また台地上の丘陵という地形ゆえの水資源の乏しさが、資料からは考えられる。

一方で「秀吉に配慮した」という要素は、城之崎城の放棄から十数年を経て、同じ磐田市内の中泉に築かれた「中泉御殿」の性格に対応すると考えられる。中泉御殿は「御殿」と称されながら、堀・土塁・大池を利用した実質的な防衛拠点であったとされ、これを「城」と呼ばずに秀吉の警戒を解こうとした事情が伝わっている。つまり、見付の城之崎城と中泉の中泉御殿という、時代も仮想敵も異なる二つの史実が、長い年月のなかで一つの物語として重なった可能性がある。

この特集の読み方

この特集は、アップロード資料「家康の磐田築城伝説」をもとに、地名・時代背景・地政学を確認しながら事実関係を整理し直したものである。史実として確認できること、地域に語られてきた伝承、資料からの推定、筆者の考察を書き分けている。断定できない事項は「とされる」「伝わる」「可能性がある」と表現し、公開後も文化財資料・現地確認による裏取りを続けていく。

また、城山球場・城山中学校周辺は現役の学校・公共施設であり、無断の立ち入りを促すものではない。

参考資料

  • アップロード資料「家康の磐田築城伝説」
  • 磐田市観光協会・磐田市文化財だより関連資料
  • 磐田市立図書館所蔵資料(見付編・中泉編、磐田の戦国武将物語)
  • 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)

本文は資料の転載ではなく、上記の公開資料をもとに事実関係を整理し、磐田物語用に再構成したものです。

家・土地・空き家の整理について相談する

完成しなかった城の記憶をたどると、土地の使われ方は、時代の条件によって形を変えてきたことが分かります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。