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見付に残る幻の城 | 子1・概要

城之崎城とは何か――城山球場・城山中学校に眠る未完の城

磐田市見付、城山球場と城山中学校が並ぶ丘陵一帯に比定される城之崎城。徳川家康が縄張りを命じたとされるこの城は、本曲輪・二の曲輪・東曲輪を備えた平山城として計画されながら、未完のまま姿を消した。まずは城そのものの姿を整理する。

城山球場・城山中学校に比定される城域

城之崎城(きのさきじょう)は、現在の磐田城山球場・城山中学校周辺の丘陵に築かれたとされる城である。1569年(永禄12年)ごろ、徳川家康が家臣の山本帯刀成氏に命じて縄張り(設計)を行わせ、以前からあったとされる旧塁を修築・拡張する形で工事が進められたと伝わる。城の守備には福釜松平親俊や大久保党といった家臣が配置されたとされ、単なる仮の陣ではなく、本格的な拠点として計画されていたことがうかがえる。

本曲輪・二の曲輪・東曲輪の構成

城之崎城は、本曲輪を中心に、二の曲輪、東曲輪などを備えた平山城であったとされる。中世城館の資料に基づく比定では、現在の磐田城山球場周辺が本丸(本曲輪)にあたり、その北側に位置する城山中学校の敷地や山住神社周辺が、東曲輪を含む外郭を形成していたと考えられている。城の南側には、平安時代の陰陽師・安倍晴明の伝説が伝わる福王寺が鎮座しており、軍事拠点が見付の宗教・生活空間とごく近い位置に築かれようとしていたことが分かる。

本曲輪 (磐田城山球場 周辺) 東曲輪ほか外郭 (城山中学校・山住神社 周辺) 福王寺 (城域南に近接) ※ 位置関係を理解するための概念図。正確な測量地図ではない。

城之崎城の想定範囲と現在地の位置関係(概念図)

いまも残るとされる土塁・横堀

現在も、城山球場のスタンドや外周通路の付近には、当時の遺構とされる土塁や横堀の一部がL字型に残ると伝えられる。ただし、これらの高まりのすべてが城之崎城の時代までさかのぼるかどうかは、現時点で断定できる材料が十分ではない。「残っている」「眠っている」という表現は、あくまで地域で語られてきた比定・伝承として扱い、正確な範囲や年代の確認は、今後の文化財資料・発掘調査の成果にゆだねたい。

見付の暮らしと隣り合っていた軍事拠点

城之崎城の南に隣接する福王寺、周辺の山住神社など、城之崎城は見付の宗教・生活空間と地続きの場所に計画された。見付は古代以来の中心地であり、そこに新たな城郭を築くという判断は、家康にとって遠江支配の拠点をこの地に定めようとする、並々ならぬ意図の表れであったと考えられる。城が置かれようとした理由については、次のページ「なぜ家康は見付を選んだのか」で、地政学の面から詳しく読む。

参考資料

  • アップロード資料「家康の磐田築城伝説」
  • 磐田市観光協会「城之崎城跡」関連資料
  • 磐田市立図書館所蔵資料(見付編、磐田の戦国武将物語)
  • 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)

本文は資料の転載ではなく、複数資料をもとに事実関係を整理し、磐田物語用に再構成したものです。断定できない事項は、今後の現地確認・文化財資料確認で補強します。

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