見付に残る幻の城 | 子3・廃城の検証
城之崎城はなぜ未完に終わったのか――武田信玄・天竜川・水不足
「秀吉に配慮して城を築けなかった」という言い伝えを、年表に沿って確かめる。城之崎城が造営され、放棄された時期を見ていくと、そこに秀吉が関わる余地はほとんどないことが分かってくる。
1569年から1570年、秀吉はまだ台頭前だった
城之崎城の造営は1569年(永禄12年)ごろに始まり、1570年(元亀元年)ごろに放棄されたとされる。この時期、のちに天下人となる豊臣秀吉は、当時「木下藤吉郎」と名乗る織田信長配下の一将にすぎず、家康の築城を制限できるような政治的な力を持ち合わせていなかった。時代順に見ると、「秀吉に配慮して城之崎城を築けなかった」とする伝承を、そのまま史実とするのは難しい。
東からの武田信玄と、天竜川を背にする陣形
城之崎城が放棄された理由として、資料からまず考えられるのは、東方から迫る武田信玄への備えである。遠江の大半を掌握した家康にとって、次に想定すべき最大の敵は、駿河を併合して西進を図る武田軍であった。もし見付の城之崎城に本拠を置き、東から侵攻する武田軍を迎え撃つことになれば、家康軍は背後(西側)に天竜川という急流を負う陣形を強いられる。
渡河が難しい大河を背にして戦う「背水の陣」は、陣形が崩れた際に退路を断たれる、軍事上避けるべき布陣とされる。同盟する織田信長からの援軍を尾張方面から迎える際にも、天竜川が交通の障害になりかねない。天竜川という自然の防壁を戦術的に生かすには、むしろ自らは川の西岸(浜松側)に構え、東から渡ってくる敵をこの川を盾に迎え撃つ方が理にかなっている。城之崎城の放棄と浜松への本拠移転は、こうした地政学的なリスクを踏まえた判断であった可能性が考えられる。
東から迫る武田軍と、西の天竜川に挟まれる位置関係(模式図)
丘陵地であるがゆえの水不足
もう一つ、廃城の理由として挙げられるのが水資源の問題である。江戸時代中期に国学者・内山真龍が著した『遠江国風土記伝』には、城之崎城の廃城理由として「用水の不足」が記されているとされる。磐田原台地の南端にあたるこの丘陵は、周囲を見渡す物見には適していたが、台地上であるがゆえに、城郭内で十分な井戸水・湧水を安定して確保することは難しかったと考えられる。堅固な土塁や堀を外周に築いたとしても、城内の飲料水が絶えれば、包囲を受けた際に持ちこたえることは難しい。
| 検討項目 | 資料からの整理 |
|---|---|
| 秀吉との時系列 | 城之崎城造営(1569年ごろ)の時点で、秀吉はまだ信長配下の一将であり、家康の築城を左右する立場にない。 |
| 対武田の陣形 | 見付に拠点を置くと、東の武田軍に対し西の天竜川を背にする形となり、退路・援軍連絡の面で不利とされる。 |
| 水資源 | 『遠江国風土記伝』に、用水不足が廃城理由として記されるとされる。 |
| 本稿の整理 | 秀吉配慮説をそのまま城之崎城廃城の理由とするのは難しく、対武田戦を想定した地政学的リスクと水の問題が、より直接の理由として考えられる。 |
「配慮」の相手が、時代とともにずれている
ここまで見てきたように、城之崎城の廃城は、秀吉への配慮ではなく、対武田戦を想定した地政学的なリスクと、丘陵地特有の水不足という、きわめて現実的な要因によるものであった可能性が高い。「秀吉に配慮した城」という言い伝えそのものが誤りというより、配慮の対象となった城が、時代の異なる別の城――中泉御殿――であったと考えるほうが、資料の流れに沿っている。この点については、次の「磐田が戦場になった時代」で対武田戦の実際を、続く「中泉御殿との混同を解く」で詳しく扱う。
参考資料
- アップロード資料「家康の磐田築城伝説」
- 磐田市立図書館所蔵資料(見付編、磐田の戦国武将物語)
- 静岡新聞びぶれ・磐田市観光協会関連資料
- 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)
『遠江国風土記伝』の記述内容や城之崎城の詳細な年代については、原典・文化財資料による確認を今後も続けます。断定できない事項は「とされる」と表現しています。
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