見付に残る幻の城 | 子6・伝承の考察
伝承はなぜ生まれるのか――城之崎城と中泉御殿が一つの物語になるまで
城之崎城と中泉御殿は、時代も、場所も、仮想敵も異なる。それでも見付・中泉の記憶のなかでは、一つのドラマチックな物語として重なってきた。伝承を誤りとして切り捨てるのではなく、地域が何を覚えてきたかを示す資料として読み直す。
二つの「不可解な事実」が残した記憶
見付・中泉の人々の記憶には、戦国期から近世にかけて、二つの強い記憶が刻まれてきたと考えられる。一つは、城之崎城に土塁や堀を築きながら、工事が途中で止められ、未完のまま浜松へ本拠が移されたという「未完の城」の物理的な記憶。もう一つは、のちに中泉に堀・土塁を備えた広大な施設が築かれながら、それが決して「城」とは呼ばれず、「御殿」と呼び続けられたという「城と呼べなかった御殿」の記憶である。
時系列のずれと、敵対者の違いが薄れていく
城之崎城の放棄(1570年ごろ)と中泉御殿の造営(1580年代半ば)の間には、十数年のずれがある。仮想敵も、前者は武田信玄、後者は豊臣秀吉と異なる。しかし、江戸時代を通じて口伝として語り継がれるうちに、この時系列のずれや敵対者の違いは薄れ、「城之崎に立派な城の跡があるが、あれが完成しなかったのは、後に家康公が秀吉公に配慮して城(中泉御殿)を公に築けなかったのと同じ理由に違いない」という形で、二つの史実が一つの因果関係として結びついていったと考えられる。
二つの史実が一つの伝承になる流れ
- 城之崎城が、対武田戦を想定した地政学上の弱点や水不足から、未完のまま放棄される。
- 十数年後、中泉に堀・土塁を備えた施設が築かれるが、秀吉への配慮から「城」ではなく「御殿」と呼ばれる。
- どちらの出来事にも、同じ徳川家康が関わっている。
- 江戸時代を通じて、見付・中泉で二つの出来事が口伝として語り継がれる。
- 時代や敵対者の違いが薄れ、「秀吉に配慮して城を築けなかった」という一つの伝承にまとまる。
伝承は、地域が何を覚えてきたかを示す資料である
本稿で整理してきたように、史実として見れば、城之崎城の廃城と中泉御殿の性格は、別々の時代・別々の相手を想定した出来事である。しかし、それを「誤り」として切り捨ててしまうのは惜しい。見付と中泉は、家康の戦略のなかでそれぞれ異なる意味を持ちながら、磐田の記憶のなかではひとつにつながっている。史実を整理することと、地域が語り継いできた記憶を尊重することは、両立できるはずである。城之崎城の記憶に関する情報をお持ちの方は、磐田物語の掲示板からお寄せいただきたい。
参考資料
- アップロード資料「家康の磐田築城伝説」
- 磐田市立図書館所蔵資料(見付編、中泉編)
- 磐田市観光協会・磐田市文化財だより関連資料
- 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)
伝承の成立過程は、口伝の性質上、正確な経路をたどることが難しい。本文は資料から導ける蓋然性の高い流れとして提示するものであり、断定するものではない。
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