東海道を西へ下る旅人は、見付宿を出ると、ほどなく大きな川に行き当たる。天竜川である。橋のない時代、この川を越えるには舟に乗るほかなかった。その渡し場が、磐田市池田にあった「池田の渡し」である。
あばれ天竜と、池田の宿
天竜川は、ときに「あばれ天竜」と呼ばれるほど、流れが速く、洪水も多い川であった。源を信州の諏訪湖に発し、長い山あいを抜けて遠州平野へ流れ下るこの川は、ひとたび雨が続けば一気に水かさを増し、しばしば流路そのものを変えた。東海道の数ある渡しのなかでも、ここは大井川とならぶ指折りの難所として知られた。その東岸に開けたのが池田で、古くは天竜川の渡船場であり、宿場でもあった。
もっとも、池田はもともと川の西岸にあったと伝えられる。平安のころには渡船の利用が広まり、西岸の池田は東海道でも有数のにぎわいをみせる宿に育った。ところがたび重なる洪水で天竜川の流路が東へ移り、宿は東岸へと再び形づくられていった。一本の川の気まぐれが、まちの位置までも動かしていたのである。
中世には、京の松尾大社の領地「池田荘(いけだのしょう)」の中心としてにぎわった。『平家物語』や紀行文にも名が見え、ここを舞台にした熊野御前(ゆやごぜん)と平宗盛の物語は、のちに能『熊野』として広く知られていく。川のほとりの小さな宿に、都の文化と地方の暮らしが行き交っていた。鎌倉のころには、大通行に備えて舟をつなぐ「船橋」を架ける試みもあったと伝えられ、渡しを越えるための工夫は古くから重ねられていた。
家康が守った「池田渡船」
渡しのしくみが大きく固まるのは、江戸時代である。天正元年(一五七三年)、浜松城主となっていた徳川家康は、池田の船方に天竜川の渡しの運営をゆだねた、と伝わる。武田との戦いのなかで池田の人々が徳川方に協力したことへの計らいだったという。元亀三年(一五七二年)、武田信玄が遠江に攻め入ったいわゆる三方ヶ原の戦いの前後、家康と本多忠勝らがこの池田の渡し場で天竜川を渡ったとも語り継がれている。家康が渡船衆に与えたとされる文書は、いまも朱印状の写しとして地元に伝わる。これにより池田は、江戸時代を通じて渡しを担うことになる。
渡し場は、川の流れの具合によって上・中・下の三か所を使い分けた。ふだんは最も下流の乗船場を使い、水が増して流れが速くなれば中、さらに急流になれば上の乗船場へと移し、川を斜めに横切るようにして渡った。川会所(かわかいしょ)は東岸の池田村と西岸の中野町村の双方に置かれ、渡船の差配と川留めの指図にあたった。増水して危険なときには「川留(かわど)め」となり、旅人は水が引くまで足止めされた。水が減って渡れるようになると、まず幕府の御用の荷を渡し、それから一般の旅人を渡したと伝えられる。
渡しを支えたのは、おびただしい舟と人手であった。江戸中期以降、池田村の渡船方には大天竜を渡るための大番船が六艘、小番船が二十二艘、地元の人が持つ高瀬舟が十艘前後あったという。それを運ぶために、池田村には川庄屋を務める名主一軒、川年寄にあたる居番十一軒、船頭十六軒、さらに数十軒の渡船にたずさわる家が住んでいたと伝えられる。下の乗船場には正徳元年(一七一一年)に渡船の高札が建てられ、旅人一人あたりおよそ十二文という賃銭が公けに掲げられていたという。武士や、朱印状をもつ社寺などは無賃とされる定めもあった。なお慶安二年(一六四九年)に下流の馬込川へ橋が架かると、池田村はそれまで馬込川の渡しを担っていた船越村に、小天竜側の渡しの運営の一部をゆずったとも伝わる。大名行列や朝鮮通信使などの大通行のときには、周辺の村々から舟を集め、舟をつないだ「船橋(ふなばし)」を架けることもあった。一本の川を渡るために、これだけのしくみと人手が動いていたのである。
川留めの宿、待つ旅人
渡しがあるということは、待つ場所があるということでもあった。川留めになれば、旅人は水が引くまで池田や見付の宿に何日も留め置かれる。先を急ぐ者にとっては難儀であったが、その分だけ宿はにぎわい、茶屋や旅籠が軒を連ねた。川を越えるしくみは、そのまま池田というまちの生業を生み出していたのである。
渡し賃にも身分や立場による区分があり、武士や朱印状をもつ社寺は無賃、一般の旅人は高札に掲げられた賃銭を払って舟に乗った。増水のときに上流側から斜めに渡る舟の上では、目の前を濁流が音を立てて流れ下る。橋のない大河を越えるとは、こうした緊張をともなう一日仕事であった。見付宿を出て天竜川を渡り終えるまでが、東海道の旅人にとってひとつの山場だったのである。
橋のない川は、人を待たせ、人を結びつけた。渡しを生業とした村があり、川留めに足どめされた旅人がいた。川は、ただの障害ではなく、ひとつのまちを生んでいた。
橋がかかった日
長く続いた渡しにも、終わりが来る。明治に入って天竜川に橋が架けられると、舟で渡る必要はなくなった。明治七年(一八七四年)に「東海道天竜橋」と呼ばれる橋が通じたと伝えられ、のちに明治十六年(一八八三年)には「池田橋」が架けられたという。架橋の年や橋の名については資料によって記述に幅があるが、こうして明治の橋が川の両岸を結び、千年に及ぶ池田の渡しは、その役目を終えた。なお池田橋は昭和八年(一九三三年)に取り払われ、いまは下流の天竜川橋や新天竜川橋が旅人の流れを受け継いでいる。
いま、堤防のそばには「天竜川渡船場跡」の碑が立ち、近くの「池田の渡し歴史風景館」で、その歴史をたどることができる。家康が渡船衆に与えたと伝わる文書の写しなどが展示されている。水音のほかに何もないように見える河原に、かつて確かに、舟を待つ人々の列があった。そのことを思い出させてくれる場所である。
池田の渡しをたどる手がかり
- 池田の渡し歴史風景館
- 磐田市池田300-3。入館無料、9:00〜17:00。月曜・最終火曜ほか休館。渡しの歴史をパネル等で展示。
- 天竜川渡船場跡
- 堤防沿いに碑が立つ。近くに「渡しの公園」駐車場。
- 位置づけ
- 東海道の見付宿〜浜松宿の間、天竜川を渡る渡船場。中世は池田荘の中心。
- 留意
- 明治の架橋の年次・橋名は資料により記述に差がある。
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。