静岡藩時代の磐田 ──
徳川家とともに来た人々
70万石の大名になった徳川家
戊辰(ぼしん)戦争のさなかの慶応4年(1868年)、新政府は、朝敵とされた徳川宗家に、意外にも寛大な処分を下した。宗家の存続を認め、当主となった幼い徳川家達(とくがわいえさと)に、駿河・遠江など70万石を与えたのである。ここに静岡藩(駿府藩)が成立した。しかし、この「70万石」という数字を、かつての徳川家と比べてみると、その凋落(ちょうらく)ぶりがよくわかる。天下の主として800万石ともいわれた将軍家が、一気に70万石の、一地方大名へと転落したのである。実に十分の一以下への激減だった。
この激変が、大きな人の移動を引き起こした。江戸には、将軍家に仕える旗本・御家人といった旧幕臣が、家族を含めれば数万人規模で暮らしていた。彼らは、三つの道から一つを選ばねばならなくなった。新政府に仕えて役人として生きるか、武士をやめて農業や商売に転じるか、それとも、たとえ禄(ろく、給料)を大きく減らされても、主君である徳川家に従って駿河・遠江へ移り住むか ── である。そして、少なからぬ旧幕臣が、三つめの道を選んだ。主君への忠義から、あるいは他に行き場がなく、多くの家族が、家財を携えて海路や陸路をたどり、この駿遠(すんえん)の地へ移住してきたのである。受け入れる側の駿河・遠江にとって、それは、突然の人口の急増と、「士族(しぞく)」という新しい隣人の大量出現を意味していた。刀を差した江戸の侍たちが、静かな地方の町や村に、どっと流れ込んでくる ── 地元の人々にとっても、これは戸惑いと緊張を伴う、前例のない出来事だったに違いない。
中泉奉行所 ── 磐田に置かれた藩の役所。 広い領地を治めるため、静岡藩は要地に奉行(ぶぎょう)を配した。遠江の磐田では、江戸時代を通じて天領(幕府直轄領)支配の拠点だった中泉代官所の系譜を引く形で、中泉に奉行が置かれた。徳川の直轄地を治めてきた中泉が、こんどは徳川の一大名・静岡藩の役所の町になる ── 何とも皮肉で、そしてどこか運命的な、歴史の巡り合わせである。
この中泉奉行を明治2年(1869年)に務めたのが、のちに日本の郵便制度を創る、あの前島密(まえじまひそか)だった。前島がこの中泉で心血を注いだのは、移住してくる困窮した旧幕臣たちの、授産(じゅさん、仕事を与えること)と救済である。彼は、中泉に「中泉救院(なかいずみきゅういん)」という救済施設を設けるなど、精力的に手を打った。誇り高い武士だったはずの人々が、故郷を捨て、慣れない土地で食うや食わずの暮らしに追い込まれている ── その困窮した士族たちに、いかに仕事と暮らしの糧(かて)を与えるか。それが、この時期の中泉の役所の、最大にして最も切実な仕事だった。中泉代官所が担った江戸時代の統治の記憶は、この静岡藩のわずか数年間を最後の橋渡しとして、近代の役場・役所へと引き継がれていくのである。中泉という町は、江戸の天領時代から、静岡藩の時代、そして明治の郡役所の時代へと、支配の主(あるじ)を替えながらも、一貫して「役所のある町」であり続けた。その連続性の一つの結び目に、前島密という稀有(けう)な人物がいたことは、磐田にとって、静かな誇りである。
静岡藩の成立(慶応4年・70万石)、旧幕臣の大量移住、前島密の中泉奉行在任(明治2年)と中泉救院・授産の取り組み、明治4年の廃藩置県と浜松県の設置は、資料で確認できる。一方、磐田市域へ移住した旧幕臣の具体的な人数・移住先・定着の実態、そして中泉救院の運営の詳細は、今回の調査では確認できておらず、士族の戸籍・授産記録・藩政資料での確認が課題である。本文で述べた磐田原の開発や近代教育・産業への士族の関与は、静岡藩士族授産の全国的な傾向(牧之原の茶園開墾など)からの類推を含んでおり、磐田固有の事例を悉皆的に裏づけたものではない。この点は推測として区別して読まれたい。
刀を鍬に持ちかえて
禄を失った士族たちの多くは、生きるために、慣れない農業や商いに手を染めることになった。刀を鍬(くわ)に持ちかえる ── それは、武士としての誇りを捨て、額に汗して土を耕す暮らしへの、大きな転身だった。静岡藩の士族授産のなかで最も有名なのは、旧幕臣たちが、水も乏しく作物も育ちにくい牧之原(まきのはら)台地を、血のにじむ苦労の末に切り開き、一面の茶園に変えていった事例である。いまや日本有数の茶どころとなった牧之原の茶畑は、じつは失業した武士たちの、必死の開墾から始まったのだった。
同じような構図は、遠江の側にもあったと考えられる。水の乏しい磐田原台地の開発や、新しい産業への挑戦のなかに、刀を捨てた士族たちの姿が混じっていた可能性は高い。また、視点を変えれば、地元の側から新しい時代へ主体的に動いた人々もいた。幕末の動乱期に淡海國玉神社の神官たちが結成した遠州報国隊は、その一例である。よそから来た困窮士族と、地元で新時代を模索した人々 ── その両方のエネルギーが、この地方の近代の出発点で交わった。武士の時代の終わりは、磐田の土地においては、単なる没落の嘆きとしてではなく、むしろ開墾と創業へ向かう、前向きな物語として展開したのである。失うものは大きかったが、人々はそこから、新しい暮らしを立ち上げていった。
廃藩置県 ── 静岡藩、四年で消える。 成立から数年、静岡藩は、あっけなくその歴史を閉じることになる。明治4年(1871年)7月、明治政府は全国の藩を一挙に廃止し、府と県に置きかえる「廃藩置県(はいはんちけん)」を断行した。これによって、全国の大名がその領地を失い、静岡藩もまた廃止された。徳川家最後の領地は、こうして消滅したのである。遠江には、かわって浜松県が置かれ、磐田の村々はその管轄下に入った。さらに明治9年(1876年)、浜松県が静岡県に統合されて、ようやく現在の静岡県の枠組みが固まる。
藩としての静岡藩の存続は、慶応4年から数えて、わずか四年足らずだった。徳川三百年の歴史の締めくくりが、この短命の一藩だったことを思うと、そこには一抹の哀愁も漂う。しかし、繰り返しになるが、この短い時代が磐田に残したものは、けっして小さくない。この四年のあいだに移住してきた旧幕臣とその子孫は、やがて教育者として、実業家として、あるいは地方行政の担い手として、この地方に深く根を下ろしていった。江戸で学問や実務を身につけた彼らの存在は、まだ人材の乏しかった地方の近代化にとって、貴重な原動力となったのである。近代教育の学校づくりや、近代産業の芽生えの背後には、しばしばこうした士族出身者の姿があった。そして、「うちはもともと徳川家のお膝元だ」という、いまも静岡県の人々がどこかに抱いている誇りにも似た自己意識も、その源をたどれば、この慌ただしくも濃密な四年間に行き着くのである。
静岡藩時代の磐田 ── 年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 慶応4年(1868) | 徳川宗家に駿河・遠江70万石。静岡藩成立、旧幕臣の移住始まる |
| 明治2年(1869) | 前島密、遠州中泉奉行に。中泉救院の設置など授産・救済 |
| 明治4年(1871) | 廃藩置県。静岡藩廃止、遠江は浜松県に |
| 明治9年(1876) | 浜松県が静岡県に統合。現在の県域が固まる |
四年間が残したもの。 静岡藩の時代は、わずか四年ほどと短く、しかも藩の中心である藩庁(はんちょう)が磐田に置かれたわけでもない。歴史の表舞台から見れば、ほんの一瞬の、地味な期間にすぎない。しかし、この四年間に起きたことは、磐田の近代の「初期条件」を、静かに、しかし決定的に方向づけた。
その効き目は、「人」を通じてもたらされた。この短い時代に江戸から移住してきた人々と、その子孫たちは、やがて教育・産業・行政のさまざまな分野で、この地方の近代を担う人材として根を下ろしていく。江戸で培った学識や見識を持つ士族の存在は、地方の近代化にとって、大きな財産だった。近代教育の立ち上げや、近代産業の芽生えの現場に、こうした移住者やその子孫の姿があった可能性は高い。そして、「静岡はもともと徳川家のお膝元だった」という、いまも静岡県人がどこかに抱く自己意識も、この四年間の記憶に、その源を持っているといえる。明治初期の行政制度がめまぐるしく変転していくその底流で、この「人の移動」という一回かぎりの出来事は、その後も長く、静かに効き続けたのである。四年は短い。だが、その四年がまいた種は、磐田の百年を育てた。中泉の町を歩き、いまはもう跡形もない奉行所のあたりに立つとき、江戸から遠くこの地へ移り住み、慣れない土地で懸命に生きようとした無数の人々の姿を、束の間、思い浮かべてみたい。彼らの選択と苦労の上に、いまの磐田は続いているのである。表舞台には残らなかった四年間だが、その底に流れていたものを丁寧にたどるとき、磐田の近代がどこから始まったのかが、静かに見えてくる。
主な参考資料
- 静岡藩・旧幕臣移住に関する維新史資料
- 荒川将「静岡時代の前島密」『郵政博物館研究紀要』第11号(2020年)
- 磐田物語「中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち」「磐田の郵便史」「遠州報国隊」「大区小区制と戸長役場」「磐田原の水不足と開発史」
磐田市域への士族移住の人数・実態は未確認であり、本文中で課題として明示している。
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