磐田原の水不足と開発史 ──
水に恵まれなかった台地の記憶
なぜ磐田原は水に恵まれなかったのか ── 台地の地質という原因
磐田原台地は、天竜川のすぐ東岸にありながら、地下水位が深く、水はけの良い土地だった。Wikipediaの解説によれば、磐田原は標高10メートルから120メートル、東西約4キロ、南北約13キロにわたって広がる洪積台地(更新世に形成された台地)で、対岸の三方原台地とともに、天竜川の扇状地が隆起してできたとされる。台地の表層は磐田原礫層とその上を覆う赤土(関東ローム層に類する赤色土)からなり、この赤土層が雨水を地表付近で吸収してしまう一方、下の礫層は水はけがきわめてよい。つまり、いくら雨が降っても、水は台地の内部を素通りして深く沈み込み、地表や浅い井戸には残りにくい。これが「地下水面が深いことから、開発・開拓が遅れた地域」と説明される所以である。
川がすぐそばを流れていることと、その水を農地へ安定して届けられることは、まったく別の問題である。天竜川の水位は台地の平坦面よりずっと低く、自然にあふれ出て田を潤すような地形ではない。水を汲み上げる、あるいは遠く上流から水路を引いて高低差を利用するといった、人の手による工夫がなければ、台地の上に水田をひらくことはできなかった。江戸時代には中規模の用水事業がいくつか試みられたが、耕地の分散や河川水量の制約、そして何より台地の地形そのものの制約もあって、大規模な用水網はなかなか実現しなかったとされる。同じ天竜川を挟んで西岸に広がる三方原台地も、地質・地下水位の条件は磐田原とよく似ており、遠州の東西両岸で「水に恵まれない台地」という共通の課題を抱えていたことになる。
限られた水をめぐって、水争いはほぼ毎年のように起きていたと伝わる。浅羽地区では夜間に竹槍を持った農民数百人が衝突した記録があるとされ、明治期にも上流の村が襲撃され警察が介入する事態があったという。これらは検索エンジン経由で見つかった地域史サイトの記述にとどまり、磐田市史等の一次資料での確認ができていない。史実として断定はせず、今後の裏取りを要する記憶として紹介する。台地の地質的な水不足の深刻さを考えれば、水をめぐる緊張が繰り返し生じたこと自体は十分ありうることだが、竹槍・数百人・警察介入といった具体的な描写は、伝承の域を出ないものとして扱いたい。
水田をあきらめ、畑作へ ── 台地の使い方を変えるという発想。 用水路を引いて水田をつくるという方向とは別に、磐田原には、もう一つの対応があった。水はけの良さを弱点ではなく前提として受け入れ、水田ではなく畑作に台地を使うという発想である。水を大量に必要とする稲作に対し、茶・桑・葉タバコ・甘藷(サツマイモ)といった畑作物は、水はけの良い台地土壌でもむしろ育ちやすい。磐田原が現在、茶やみかんの産地として知られているのも、この「台地には台地に合った作物を」という、水不足を逆手にとった土地利用の積み重ねの上に成り立っている。
この畑作路線を象徴する出来事が、江戸中期から明治にかけて、天竜川右岸の旧豊田郡大藤村(現在の磐田市藤上原・大久保、豊岡地区に隣接する一帯)で起きている。まず安永3年(1766年)ごろ、大澤権右衛門という人物が、この地域に甘藷(サツマイモ)の栽培を広めたと伝わる。水田がひらきにくい台地でも、甘藷なら乾燥に強く、荒れた畑地でも収穫が見込めた。やがてこの甘藷を保存食に加工する工夫が生まれる。栗林庄蔵は、蒸切り干しに先立って、茹でた芋を薄く切って干す「煮切り干し」の製法を考案したとされ、その評判の良さから、近隣の農民たちがこぞって同様の加工に取り組むようになったという。
大藤村の「蒸切り干し」── 台地の農産物が全国に広がった日。 そして明治25年(1892年)ごろ、同じ大藤村の大庭林蔵と稲垣甚七が、それぞれ独自に、芋を茹でるのではなく蒸してから厚く切って乾かすという新しい加工法――「蒸切り干し」を考え出した。これが、今日全国で食べられている干し芋(ほしいも)の原型であるとされる。煮る工程を蒸す工程に置き換えたことで、芋の風味と甘みが損なわれにくくなり、量産にも向いた。この製法はまたたく間に評判となり、大正期には静岡県全域へ生産が広がっていく。大正9年(1920年)には、県全体の生産量が約1万トンに達したという記録も残る。
さらに、この磐田生まれの保存食は、思わぬかたちで全国区の存在になる。日露戦争(1904〜1905年)に際して野戦食として重宝され、「軍人いも」と呼ばれるほどになったのである。日持ちがよく、栄養価も高い干し芋は、冬場の保存食として、また子どものおやつとして親しまれる一方、気候の関係でサツマイモそのものが育ちにくい北海道や東北地方にまで出荷され、全国に広まっていった。のちに茨城県が干し芋の一大産地として知られるようになるが、その源流の一つに、水に恵まれなかった磐田原台地の縁、大藤村での加工技術の発明があったことは、地域の記憶としてもっと知られてよい。
ここで重要なのは、この物語が単なる「特産品自慢」ではないという点である。磐田原台地が水田に向かない土地であったからこそ、人々は乾燥に強い甘藷という作物を選び、さらにその保存性を高める加工技術にまで工夫を重ねた。水不足という制約が、結果として一つの食文化・産業を生み出す原動力になった。これは、寺谷用水や磐田用水のように水を「引き込む」方向の対応とは対照的な、水を「必要としない」方向からの対応であり、赤松則良の茶園開拓と並んで、台地の性格を逆手にとった土地利用の代表例といえる。
水を引く努力 ── 寺谷用水・磐田用水という別の道
もちろん、畑作への転換だけが答えではなかった。水田耕作そのものをあきらめず、水を台地へ引き込もうとする努力も、並行して積み重ねられてきた。向陽の寺谷用水は、天竜川の激流に挑んで開削された、遠州最古とされる用水路である。詳しくは寺谷用水の開削で扱っている。
より広域の解決策が、磐田用水である。天保2年(1831年)ごろの社山疏水構想にはじまり、昭和4年(1929年)の幹線改良事業採択、昭和19年(1944年)の通水、昭和25年(1950年)の東部土地改良区認可を経て、現在の磐田用水へとつながっていく。この長い制度と工事の歴史は磐田用水の歩みのシリーズで詳しくたどっている。社山疏水の構想からおよそ100年をかけて通水にこぎつけたという事実そのものが、台地の地形・地質の制約がいかに大きかったかを物語っている。
また、水利事業だけが答えではなかった。明治期、日本造船の父と呼ばれた海軍軍人・赤松則良は、予備役となったのち見付に居を構え、磐田原台地に茶園を開拓したと伝わる。水田耕作が難しい台地の性格を逆手にとり、畑作・茶栽培という道を選んだ例である。詳しくは旧赤松家と、海をわたった見付の人で扱っている。大藤村の甘藷加工と赤松則良の茶園は、時期こそ近いものの互いに独立した動きであり、台地のあちこちで、同じ「水に頼らない農業」という発想がそれぞれに芽生えていたことがうかがえる。
| 地形・地質的な原因 | 洪積台地。表層の赤土層と下層の磐田原礫層により地下水面が深く、水はけが良い(=保水力が乏しい)。三方原台地と同様の成因・条件。 |
|---|---|
| 水争い(要裏取り) | 浅羽地区での夜間の衝突、明治期の警察介入と伝わる。一次資料未確認。 |
| 甘藷栽培の導入(1766年ごろ) | 大澤権右衛門により大藤村へ導入。乾燥に強い畑作物として台地に定着。 |
| 煮切り干しの考案 | 栗林庄蔵。茹でた芋を薄切りにして乾燥させる保存食加工の先駆。 |
| 蒸切り干しの発明(1892年ごろ) | 大庭林蔵・稲垣甚七(大藤村)。今日の干し芋の原型。日露戦争で「軍人いも」に。 |
| 寺谷用水(向陽) | 天竜川の激流に挑んだ遠州最古級の用水路。 |
| 磐田用水(1831年構想〜) | 社山疏水から幹線改良、東部土地改良区へ。構想から通水までおよそ100年。 |
| 茶園開拓(明治期) | 赤松則良による、水田に頼らない台地利用の試み。 |
水不足の記憶を今に伝えるもの。 いまの磐田原には、豊かな茶畑や整備された農地がひろがり、かつての水不足を思わせる風景は少ない。しかし、寺谷用水の水路、磐田用水の幹線、赤松則良が拓いた茶園、そして大藤村で生まれ全国に広がった干し芋の加工技術は、いずれも「水に恵まれない台地でどう生きるか」という、同じ問いへの異なる答えである。水を引き込む方向と、水を必要としない方向――一つの解決策だけでなく、性格の異なる複数の方法が積み重なって、いまの磐田原の農地と産業がある。その積み重ねの記憶を、これからも書き残していきたい。
主な参考資料
- Wikipedia「磐田原」(洪積台地の成因、標高、地下水面の深さについて)
- Wikipedia「干しいも」(大藤村・大庭林蔵・稲垣甚七による蒸切り干しの発明、日露戦争での利用について)
- Wikipedia「赤松則良」「大藤村 (静岡県)」「大久保 (磐田市)」
- 磐田用水東部土地改良区「用水の歴史」(検索エンジン経由で参照、一次資料での裏取りが望ましい)
- 磐田物語「磐田用水の歩み」「寺谷用水の開削」「旧赤松家と、海をわたった見付の人」
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