失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 遠州織物・工場・女性労働
磐田共通 | 産業・労働

遠州織物・工場・女性労働 ──
中泉・見付・豊田が担った分業と、女工たちの記憶

遠州織物は、福田の別珍・コールテンだけで語れるものではない。中泉は最終加工の拠点として、豊田は製造業へと姿を変えながら、それぞれの役割を担ってきた。この織物産業を現場で支えたのは、無数の女性労働者たちだった。その分業の構造と、女工たちの記憶をたどる。

大和国から伝わった、雲斉織という技術

遠州地方が全国有数の織物産地へと成長する背景には、天保年間(1830〜1844年)ごろ、大和国(現在の奈良県)から伝わったとされる「雲斉織(うんさいおり)」という綾織の厚地綿布の技術があったと伝わる。この技術がのちに磐田物語の別稿で扱った福田の帆布・別珍・コールテン産業へとつながっていく。天竜川がもたらす豊かな伏流水と温暖な気候という条件も、繊維文化が古くからこの地に根づいてきた土台となった。

豊田佐吉と鈴木道雄 ── 織機を生んだ発明家たち

遠州織物を語るうえで欠かせないのが、織機そのものの技術革新である。明治29年(1896年)、豊田佐吉は木鉄混製の「豊田式汽力織機(小幅力織機)」を完成させた。手織り機で苦労する母の姿を見て開発に取り組んだと伝わるこの発明は、のちの自動車産業(トヨタ)へとつながる技術の原点でもある。同じ遠州出身で、のちにスズキを興す鈴木道雄も、縞柄が織れる「杼箱上下器付き2挺杼足踏織機」を開発し、特許・実用新案を取得した。遠州は織物を生産するだけでなく、織機そのものを製造する機械工業の集積地としても発展していったのである。

中泉・豊田が担った、分業のかたち

磐田地域の織物産業は、単に工場が集まっていただけではなく、地区ごとに異なる役割を担う分業構造を持っていた。中泉には、製品の最終仕上げを行う工程が集積した。磐田市二之宮にある「磐田産業」は、コーデュロイ(コール天)のよこパイルを切り開く「カッチング」という特殊工程を担う、遠州で唯一の最終加工会社として現在も操業を続けている。同じく中泉を拠点とする「有限会社菊屋」は、遠州の伝統技法であるカラミ織を用いて、ヘンプ(麻)100%の蚊帳を製造しており、2004年のアースデイや2005年の愛知万博を機に開発が進められたと伝わる。

一方、豊田地区は製造業の系譜を受け継ぎながら、産業の姿を変えてきた。磐田市富岡にある「シンズ工業株式会社豊田工場」は、二輪車部品のホーニング加工などを手がける精密機械加工の会社であり、かつての繊維産業の集積地が、時代とともに機械・金属加工へとすそ野を広げていったことを物語っている。

確認できること・できないこと
磐田産業・有限会社菊屋・シンズ工業株式会社豊田工場が実在し、それぞれの事業内容を持つことは複数の情報源で確認できる。一方、雲斉織を伝えたとされる人物名等、伝承の細部については確度の高い一次資料での確認ができておらず、本文中で区別して記している。

女工たちの労働、その過酷さ

織物産業の華やかな成長の裏には、工場の現場を支えた女性労働者(女工)たちの過酷な労働実態があった。大正14年(1925年)に細井和喜蔵が著した『女工哀史』は、前借金による事実上の身柄拘束、不平等な雇用契約、長時間労働という搾取の構造を告発した記念碑的な著作である。遠州地域の中小・零細な機屋でも、雇用主と職工が同一敷地に住む「家庭的」な労務管理の名のもとに、長時間労働が温存されていたと伝えられる。早朝から夜遅くまで働き、食事休憩を合わせても実質労働時間が15時間前後に及ぶことも珍しくなかったという。

戦後、労働基準法が制定(1947年)された後も、遠州地方の一部の機屋では非近代的な労働環境が根強く残っていたとされる。浜松市域の資料には、労働環境の悪さから女工たちが工場を集団で離れようとした事例が記録されており、繊維産業労働組合が違反の摘発に乗り出したことも伝わっている。こうした記録は主に浜松市域のものであり、磐田市内の個別事例そのものではないが、遠州地方全体に共通する労働環境の厳しさを示す文脈として、あわせて記憶しておきたい。

それでも、たくましく生きた女性たち

工場での女性労働を、単なる抑圧の対象としてのみ描くことは公平ではない。ガチャマン景気(朝鮮戦争特需による好景気)の時代、東北・九州地方などから集団就職や住み込みでやってきた女性たちの多くは、故郷への仕送りを続けながらも、やがて磐田の地で伴侶を見つけ、定住していったと伝えられる。家事と賃労働の二重の負担を負いながらも、限られた範囲であれ経済的な自立と自己裁量を手にしていった女性たちの歩みは、磐田の現代の地域社会を形づくった土台の一つだったといえる。

プラザ合意後の構造転換と、高付加価値化への挑戦

昭和60年(1985年)のプラザ合意による急激な円高は、遠州織物産業に大きな打撃を与えた。安価な海外製品の流入により、多くの中小機屋が転業・廃業へと追い込まれた。しかし近年は、生産効率で劣る旧式の「シャトル織機」が、独特の柔らかな風合いを生む技術としてかえって再評価され、高級アパレルブランドからの特注も増えている。地域の職人が連携したブランド開発や、遠州織物を用いた製品を通じた福祉との連携(農福連携)など、規模の縮小のなかでも新たな価値を模索する動きが、磐田・遠州地域には今も息づいている。

記憶を刻む、磐田市歴史文書館

磐田物語の別稿でも触れた磐田市歴史文書館は、平成20年(2008年)4月に磐田市竜洋支所内に開館した、全国で52番目・静岡県内で初めての公文書館法に基づく公文書館である。旧市町村の行政文書に加え、地域の古文書・写真・出版物など多数の資料を所蔵し、戦時下に焼却を免れた地域記録なども収集している。産業の隆盛と、そこで働いた人々の労苦という光と影の両面を含む織物産業の記憶を、次の世代へつなぐ土台として機能している。

雲斉織の伝来天保年間(1830年代)ごろ、大和国から伝わったと伝わる綾織の厚地綿布
織機の発明豊田佐吉(1896年・小幅力織機)、鈴木道雄(2挺杼足踏織機)
中泉の役割磐田産業(コーデュロイ最終加工)、菊屋(ヘンプ蚊帳)
豊田の役割シンズ工業豊田工場等、精密機械加工業への転換
磐田市歴史文書館2008年開館。全国52番目・県内初の公文書館法に基づく文書館

主な参考資料

本記事は、地域史調査資料および上記の各種情報源を参考に、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。調査過程で、資料内の出典表記に事実との不一致(架空または誤帰属の企業名)が見つかったため、当該箇所は本記事に採用していない。個別の労働争議事例等、磐田市固有の一次資料での確認ができていない点は、本文中で区別して記している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。